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レビュー

妻は夫を、夫は妻を、永遠に知らずに終わる 『さしすせその女たち』

 夫婦の見る景色がいかに違うかを、こうまで鮮やかに描いた作品があっただろうか。妻の多香実(たかみ)の視点で夫・秀介(しゅうすけ)への苛立ちを極限まで描いた後に待っているのは、気の毒なほど妻に誤解されている秀介の物語だ。だからと言って、彼が被害者だとも思えない。そんなに簡単なものではないのだ、夫婦というやつは。
 同じ日常の風景でも、妻の眼に映るそれは細部までくっきりと描きこまれ、見えない感情の揺らぎや、辺りに漂う不穏な空気までもがありありとわかる。間違い探しよろしく、最も違和感のあるポイントに視点はズームし、耳はどんな言葉も決して聞き漏らさない。
 一方、夫に見えているのは漠とした水彩画のような景色だ。相手が何を見ているかに関心はなく、自分が見たいものを見ている。いい匂いだなあとか今日はあったかいなあとか、これといった筋道のない感覚に身を委ねて、目の前の日常を眺めているのだ。それはその場限りの光景で、妻が見ている景色のように、昨日からの繋がりの上にはない。男はいつも読み切り小説をのんきに生きており、女は連載大河小説を渾身の力で生きるのだ。
 と、いうのが妻の側から見た世界だ。夫諸氏にも言い分があろう。でも私は妻の側の世界しか体験したことがないから、この作品の多香実の視点に、大いに共感してしまった。 
 たかがバスタブに張り付いた髪の毛ぐらいのことが積もり積もって恨みとなり、やがて一筋の縄のようにきつく()われて、怒りの導火線となる。些細な苛立ちがきっかけで、妻の思いは「夫の介護は無理」まで一瀉(いっしゃ)千里に駆けて行く。
 我が子の熱性痙攣(けいれん)に驚いて秀介がふと口にした言葉が、当人としてはありふれた比喩だったにもかかわらず、多香実にとっては夫の本性を示す決定的な言質となった。白目をむいた我が子を前に夫が放った言葉は、到底受け入れがたかった。その瞬間を死ぬまで忘れない、と多香実は思うのだ。
 おそらく男にとってはこじつけとしか思えない理由で、女の気持ちは夫から離れていく。多香実の眼差しはいつも冷静だ。秀介はそんなこととは露知らず、妻へのギフト計画に心躍らせている。他人事ながら胸が痛んでならない。
 あるいは多香実は真面目すぎるのかもしれない。離婚したママ友の美帆(みほ)のような夫への執着はないし、要領のいい友人の千恵(ちえ)ほどの割り切りもない。秀介と対等でありたいと願う気持ちは、夫に認められたい、向き合いたいという思いの表れだ。
 そんな多香実に、男なんて転がせばいいという千恵が伝授する「さしすせそ」。さすが、知らなかった、すごいわね、センスある、そうなのね。巷でキャバクラ嬢が客あしらいに使うと言われる魔法のフレーズだ。実際に使ってみたらよく効くことがわかったのに、多香実は常用することができない。代わりに思いつくのは、決して男に聞かせてはいけない呪いのさしすせそばかり。多香実と友人の真美子(まみこ)が愚痴り合う場面では私も思わず自作のさしすせそを考えてしまった。胸にためた思いを打ち明けて、女たちは絆を深めていく。
 やがて、人のいい夫を気持ちよく転がして円満な家庭を築いていた千恵が、実は最も悪い女であったことが判明する。いや、最も正直というべきか。多香実には決してできない生き方だろう。
 登場する女たちは、秀介の部下の若い女性、くるみも含めて、どの人物も極めて今日的だ。女はひとくくりにできないし、男もいろいろだ。家族に見せる顔と職場での顔は違う。胸に渦巻く思いと実際の言動も同じではない。
 どれほど親しく体を交わして、子を()すほどの仲になっても、夫婦は悲しいほどに互いを知らない。はたから見れば喜劇のようなすれ違いも、当人にとっては深い絶望になり得る。ユーモラスな視点で人物たちに寄り添いながらも、陳腐な結末に終わらなかったところにこの作品の凄みがある。


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