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(評者:釈 徹宗 / 如来寺住職・相愛大学教授)
やたらと科学理論を駆使して自教説の正しさを喧伝する宗教者もいれば、宗教の教えを自分勝手に援用する科学者もいる。そういう系統の本には、しばしばうんざりさせられる。かといって、宗教と科学を対極に位置づけ、相反するものだと捉えるのは、あまりに平板な宗教観・科学観である。
そんなこんなで、どうも「宗教と科学」という項目立てが好きではない。本書のタイトルを見た時も、実はあまり気乗りがしなかった。
しかし、そんな先入観は大きくひっくり返された。とても魅力的な論考である。近現代の知性が、どのように「宗教」というやっかいな体系を活用しようとしてきたのか、順を追って読んでいくことができる。「呪術・科学・宗教」の構図を見据えながら、明治期から現代に至るまでの仏教と科学との対立・融和・相補といったダイナミズムが綴られており、浄土教系・密教系・禅仏教系のそれぞれの動きが網羅されている。
章立てに沿って紹介すると、まず明治前期から始まる「心理学と仏教」においては、元良勇次郎への論及が興味深い。また、明治後期に大流行した「催眠術と仏教」では、福来友吉にスポットがあたる。筆者は「催眠術の大流行は、科学と宗教が交差する、日本史上の興味深い現象の一つであった」と述べている。本書でも取り上げているように、宗教社会学者の西山茂はこの時期に起こった非合理の復権を「第2の近代化」と評しているのだが、ここは日本近代史で見落としてはいけない側面なのである。近代初期における啓蒙の世相は、それまでの宗教的伝統や信仰を軽視する傾向をもっていた。まさに「科学万能」を謳歌した時期だったのだろう。ただ、「科学では解明できないものがある」という立場はいつの世にも存在する。同時にオカルト科学や擬似科学も常に繰り返し登場するのだ。
その後、昭和初期まで続く密教と科学との交渉では、青柳栄司や藤田霊斎を取り上げ、さらに内観の吉本伊信や、森田療法の森田正馬も言及されている。
そして、「禅の科学」へと論考は進む。ここでは原坦山や鈴木大拙など広く知られた人物も取り上げられているが、特にドラッグによるサイケデリック体験と禅とを結びつけた佐藤幸治が異色の存在として目を引く。
読み進めると、ひとつの章が終わって次章へと移行する際、スムーズな話の運び方が意識されていることに気づく。そのため、学術的な内容でありながら、とても平易に読み進めることができる。
第五章では、1970年代以降の「ニューサイエンス(ニューエイジ・サイエンス)と仏教」となる。ここで語られる湯浅泰雄への評価は、筆者のオリジナリティが発揮されている。
終章では、近年のマインドフルネス・ブームまで述べられており、とにかく全編通じて実に多種多様な人物が取り上げられているのである。
やはり個人的には(ニューエイジ・ムーブメント興隆期に学生だったため)第五章の「ニューサイエンスと仏教」がリアルに読める。この章に出てくるケン・ウィルバーの言葉、「一九七〇年代にいたり、突然といっていいくらいに、きわめて高名で、謹厳かつ練達の研究者たち――物理学者、生物学者、生理学者、神経外科学の学者たち――の一群があらわれ、宗教と対話するのではなく、直接、宗教を語りだしたのである。しかもさらに驚くべきことに、科学自体のかたいデータを説明する試みとして宗教を語りだしたのである」は、まさに当時の状況を表している。
他にも、「仏教には『心の科学』とも評せるような性格が、確実にある」と指摘しながら、「とはいえ、仏教は近代科学としての心理学とは、根本的に異なる」(どう異なるのかは本文で述べられている)とする著者の立ち位置なども注目ポイントとして挙げられよう。
宗教と科学のフィールドを股に掛けた「僧侶や科学者による知的格闘の系譜」を楽しんでもらいたい。
▼碧海寿広『科学化する仏教 瞑想と心身の近現代』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321810000912/