『バー極楽』の舞台は、東京の都心に程近い住宅街にある安穏寺。本堂、集会所、僧侶の住居である庫裏を有するだけの小さな寺だが、四百年近く法灯を護ってきた伝統がある。いまその寺をまかされているのは、何者かになりたくて家を飛び出し、職業の〈カタカナ迷路〉をさまよった果てに出戻った、跡取り息子の照月だ。
厳しい修行を終えて帰ってきた照月と入れ替わるように、住職たる父は、荒行のために山に入ってしまった。代わりに照月を迎えたのが、三十代半ばと二十代後半の謎の美女ふたり。
照月が女豹と呼ぶ、露出度高めのセクシー系・テイ子と、菩薩と呼ぶ、ボディもハートも柔らかそうな癒やし系・フミヨ。このふたりから、寺の茶室を利用して信徒や地域の人々の憩いの場としてバーを設けよという、父の落款付きの書状を差し出され、父の命ならと、照月はしぶしぶ承諾することに。名前は「バー極楽」とした。
さまざまな俗世の夢に破れて副住職となった反動か、寺に戻ったばかりの照月は、仏の道でいう〈睡眠欲〉だけを求めていた。人の欲は財欲や食欲など全部で五つあるが、何も望まずしたがらず、ラクして平穏無事に過ごしたいというのが睡眠欲だ。そんな内向きな照月の思いとは裏腹に、安穏寺の運営状況は問題山積。そもそも僧侶の仕事の煩雑さたるや。坊主なんて、法事でお経を読むだけでラクそうだねと思っていたら大間違いだ。
おまけに、ひっきりなしにご近所の厄介ごとが持ち込まれる。檀家の娘から交際してもいないのに婚約者にさせられたり、ゴミ屋敷になりかかっている老女の家の相談を持ちかけられたり、あるいは分裂しかかっている檀家会の名簿作りに気を揉んだり……。
僧侶の端くれとして、寺の守護者として、照月は解決に向き合わざるを得ない。だが、巻き込まれてしかたなく降りかかる火の粉を払っていた照月が、自ら提案し、主体的に動くようになっていく変化には、胸を熱くさせるものがある。
五つある章はどれも、「ビネガーと煩悩」「フルーツと正見」など、食べ物と仏教用語が組み合わさったタイトルになっている。加えて、物語の中でも〈諸法無我〉〈色即是空〉〈無一物中無尽蔵〉など、仏教の教えが解決の糸口になる。悩める人たちの俗世の欲を削ぎ落とした照月が、遠山の金さんがいう決めぜりふ「これにて一件落着」の代わりに、「解脱」と独りごちるのはなんとも痛快。
コンクールで優勝するような腕自慢の料理人が給食調理員にやりがいを見出す、累計発行部数三十万部の「給食のおにいさん」シリーズや、食をめぐるコンプレックスを克服して一歩を踏み出す人たちの物語『キッチン・ブルー』など、遠藤彩見が描く世界には、「食べることは生きること」というスローガンがよく似合う。
『バー極楽』でも、「食」と「生」は分かちがたいものだと感じる場面は出てくるが、なにせ、主役たる照月は、食の煩悩を消し去った絶食系男子。登場する美味しそうな食べ物にも最初は見向きもしない。それでも無気力だった彼が前向きに生きる力を得るにつれ、食べるひとときを大切に思うようになっていく変化が好もしい。照月だけでなく、登場人物が右往左往しながらも自分の使命を見出し輝き始める〝成長小説〟の魅力が全開だ。
しかし、本を閉じても、いくつかの謎は放り投げられたままだ。テイ子とフミヨは姉妹と言っているがあやしいものだし、住職の妹で天眼自慢の叔母・明江が心配する、姉妹に寺の土地を乗っ取られるのではないかという疑惑も払拭できない。荒行に出かけた住職はどうしているのだろう。色欲は消したはずの照月だが、ときどき胸に灯るフミヨへの淡い気持ちはどうなっていくのだろう。
登場人物がみな、本当のご近所さんのように身近に感じられるからこそ、気になってしかたがない。著者はぜひ続編を書いて、読者を安心させて(喜ばせて)ください。
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