一瞬にして戦場と化したブチャの町で、琉唯は戦争の実態を目の当たりにする。
『ウクライナにいたら戦争が始まった』松岡圭祐
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
『ウクライナにいたら戦争が始まった』 文庫巻末解説
解説
二〇二二年二月二十四日に大国ロシアが隣国ウクライナへの全面的な侵攻を開始してから二年という歳月が流れた。「ウクライナは歴史的にロシアの一部」。プーチン大統領はその主張を繰り返すばかりで、妄想的な歴史観を根拠に自らの蛮行を正当化し、ウクライナという民族そのものを浄化しようともくろんでいるようだ。どこまでも暴力と恐怖で相手を征服しようとするロシア。それに対し、ウクライナは祖国と民族の存亡をかけて、抵抗闘争を続けている。
ロシア側には、直ちにウクライナ人を殺すのをやめて、ウクライナ領土から撤兵せよ、と強く求めたいが、ロシアに軍事攻撃をやめる気配はない。国連も国際法も残念ながら役に立たない。そもそも、国際社会の枠組み自体が一人の権力者の暴走を止めるために機能していれば、この戦争は起きていない。戦況は
そんな逆境に立たされてもなお、ウクライナの人々は、自分たちの故郷や家族、自由やアイデンティティーを守り抜くという信念を貫こうとしている。戦地ウクライナで前線から銃後、国境まで取材して得た実感だ。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、米国に滞在中の演説で、「この戦争は私たちの子どもたちがどんな世界に住めるかを決める戦いだ」と訴えていた。私も同様の危機感をウクライナから持ち帰った。この戦争はウクライナで起きている惨事だが、その影響はウクライナだけにとどまらない。ロシアが重ねる戦争犯罪や虐殺行為がこのまま止められず、だれも裁かれずに見過ごされれば、専横で権威的な人間がまた地球のどこかで、だれかの権利や生命を
心の底から願う。無意味でも祈る。「私たちの子どもたち」が戦争なんてものを体験しなくてすむようになってほしい、と。本作の主人公である
本作は、タイトルの通り、17歳の「わたし」こと
小説の後半、事態の緊迫度が増すにつれ、描写はどんどん残虐性を帯びていく。飛んでくる
戦争では罪のない人たちが無慈悲に殺される。その実相がいかにおぞましいものかを暴き出すように、一人の女子高生が極限状況で目の当たりにした光景が視覚的に再現されていく。次にその恐怖を味わうのは自分かもしれない。そう感じてみろ、と読み手に迫らんばかりに衝撃的な描写が
琉唯は果たしてどうなるのか──。小説として、物語には物語の結末がつく。しかし現実世界で、ウクライナ人の戦争は事実として続いていく。今後も長く続く可能性が大きい。厳しい前途だ。それでも、ミサイルが降ってくる側に自らの意志でとどまり、大切な何かを守ろうとあらがう行為に、私たちはどんな意味を考えるべきだろうか。
現場でとりわけ心を動かされたのは、自分の「自由」や「人生」を取り戻そうと、それぞれの持ち場で実直に戦う若者の姿だ。ここからはそんな若者たちの生きる姿と声を、紙幅の許す範囲で紹介させてもらうことで、本作と現実の橋渡しをしたい。
ブチャに住み、隣のイルピン市の役所で働くアナスタシア・フライバーグさん(24)は、ロシア軍の占領下で起きた虐殺を生き延びた。
「二月二十四日の朝、爆音で目が覚めた。まもなく友人が電話で「戦争が始まった」と伝えてきた。二十一世紀になってまさか戦争なんてと思ったが、二十七日には砲撃の音は地面を震わすほど激しくなって、三月三日には町は完全に占領された」
彼女は両親と妹、祖父母の六人で地下室に身を潜めた。四日以降は電気やガス、水道や通信も止まる。逃げるべきか、とどまるべきか。どちらに生き延びる可能性があるのか。判断に迷い、「ここで死ぬかもしれないと思い、心の中で人生にお別れをした」。
生死を分けたのは、祖父が持っていた古いラジオだった。それで市民を避難させる「人道回廊」が設置されると知り、三月十日、決死の覚悟で自宅を出て、キーウへ脱出した。
ブチャ解放後、自宅にとどまった祖父母から、聞かされる。「十日に五人のロシア兵が家に来て、家族写真を見て、「孫の女はどこだ? 楽しませろ」と銃を突きつけられ尋問された」。あと半日避難が遅かったら、彼女は生存できたかどうか。
「なぜ攻撃されるのか、なぜ殺されるのか、私にはわからない。わかっているのは、戦わなければ私たちには悲しい未来が待っているということ。ファシストと戦う人を支えて、ウクライナの未来を変える。それが私の目標」と語り、アナスタシアさんは変わり果てたブチャを見晴らした。
「これまではなんでもロシアが上、ウクライナが下とされてきた。ウクライナ人は田舎者、ウクライナ語はカッコ悪い方言。そんな考えは私の中にもあった。でも、それはこの戦争で一変した」
大学生のナディア・チュベンコさん(21)は、ヨーロッパに避難する選択肢があったが、自らの意志でキーウに残り、前線に救援物資を送るボランティア活動をした。資金集めのイベントを開き、ウクライナの歌を歌ったり、国民的詩人タラス・シェフチェンコの詩を読んだりした。「ウクライナ的なもの」への関心が若者のあいだで一気に高まったという。
「見下されてきた言語も文化も、元々は私たちの奥底で眠っていたもの。ロシアの「非ウクライナ化」政策でも失われなかったもの。それらを私たちの世代であるべき形に戻して、再生していけばいい」
ナディアさんの双子の姉妹アナスタシア・チュベンコさんは、若者の中で民族的な意識以上に変わったのは、自由についての認識ではないかという。
「戦争が起きたことで、自由について考えるようになった。私たちはロシア人の奴隷でも弟でもなく、別の家を持った独立した個人。自分が何者かを決める自由は私たちにある。私が私であることをあきらめないことが、私たちの抵抗」
「私が私であることをあきらめない」という私たちも持っている自尊心からも、この戦争の暴力性を想像することはできるはずだ。
「ウクライナ人はある意味でずっと自由を求めて戦ってきた」
そう主張するのは、東部のドネツク州出身でキーウの住宅メーカーで働くマクシム・ツーカンさん(23)。10代でロシアによる占領を経験したマクシムさんにとって、この戦争は「まさか」ではなく、「またか」の悪夢だった。
この戦争は二〇二二年に急に始まったのではない。ロシアがウクライナ領土であるクリミア半島を併合し、東部二州に軍事介入した二〇一四年から続いている。さらに歴史をさかのぼれば、ウクライナは多様な民族や文化が交わり合う地域にある。王やツァーリ(皇帝)を持たず、国としてのまとまりが弱かったため、大国に何度も踏みにじられ、土地や言葉を奪われてきた。だからこそ、「ウクライナ人は専制や束縛を好まず、自由であることを自分たちのアイデンティティーの軸にしてきた」と、マクシムさんは熱く語った。
では、ゼレンスキー大統領のカリスマ性をどう評価するかと聞くと、「尊敬はするが崇拝はしない。独裁的になったら、また(親ロシア派の政権を退陣させた)「マイダン革命」で追い出すだけだ」と笑い飛ばした。
ウクライナにあるのは「空爆」や「死」ばかりではない。若者たちの必死に生きる姿がある。自分たちの生き方を決定するのは、ロシアではなく、私たちなんだ、という反骨精神がある。ウクライナの来るべき未来は、彼ら一人ひとりの内なるキャンバスに描かれていると思う。まさにそれこそが、この戦争でロシアが破壊したいと思っているものなのかもしれない。
それにしても琉唯はいま、どうしているのだろうか。悪夢のような体験から何を学んだのか。あのような過酷な体験が若者をどのような場所に追い込むのか。なんて考えてしまう。フィクションとノンフィクションのあいだを行ったりきたり。これも小説の作用の仕方なんだなあと、あらためて思っている。
作品紹介・あらすじ
ウクライナにいたら戦争が始まった
著 者:松岡圭祐
発売日:2024年05月24日
戦争が、突然始まった
単身赴任中の父と3か月を過ごすため、高校生の瀬里琉唯は母・妹とともにウクライナに来た。初日の夜から両親は口論を始め、琉唯は見知らぬ国で不安を抱えていた。キエフ郊外の町にある外国人学校にも慣れてきたころロシアによる侵攻が近いとのニュースが流れ、一家は慌ただしく帰国の準備を始める。しかし新型コロナウイルスの影響で一家は自宅から出ることができない。帰国の方法を探るものの情報が足りず、遠くから響く爆撃の音に不安と緊張が高まる。一瞬にして戦場と化したブチャの町で、琉唯は戦争の実態を目の当たりにする。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322402000646/
amazonページはこちら
電子書籍ストアBOOK☆WALKERページはこちら