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レビュー

日本初演から110年。私達は「本当のサロメ」に出会う――『新訳 サロメ』オスカー・ワイルド 文庫巻末訳者あとがき【訳者:河合祥一郎】

画期的新訳×最新研究に基づく新解釈で、物語の真の意味が明らかに!
『新訳 サロメ』オスカー・ワイルド

角川文庫の巻末に収録されている「訳者あとがき」より一部を抜粋編集して特別公開!
本選びにお役立てください。



訳者あとがき
河合祥一郎


 オスカー・ワイルド(一八五四~一九〇〇)の『サロメ』と言えば、退廃的でたん的な幻想性に富んだ世紀末文学の傑作として知られてきた。血のしたたるヨカナーンの生首を手にして「おまえの口にキスしたよ」と語るようえんなサロメは、究極のファム・ファタールとして受容されてきた。しかし、である。
『サロメ』は何度も訳されてきたが、これまでの翻訳は、ファム・ファタールとしてのサロメに目を奪われすぎて、この劇の中で何が起こっているのかに気づいてこなかったのではないだろうか。あるいは、ワイルドの愛人のダグラス卿による英語訳があるせいで、オリジナルのフランス語版がそれとは全然違うことがわかりづらくなっているのかもしれない。
 今回フランス語から丁寧に慎重に訳してみて、ワイルドがフランス語を用いて仕掛けたドラマがこれまで完全にスルーされてきた事実に気づいて驚いた。
 まずヨカナーンのドラマである。これまでの翻訳ではヨカナーンは一貫して強い言葉でサロメに対して?るように命令する人物としてえがかれてきたが、ワイルドはそんなヨカナーンなど描いていない。ワイルドが描くヨカナーンは、「人の子を捜しに砂漠へ行きなさい」などと聖者として振る舞いながら、サロメが彼を求めて近づいてくると、彼女の官能性を感じて動揺する男なのだ。
 ヨカナーンはサロメを感じてしまうのである。男としてサロメを感じてしまうことは、聖者たるヨカナーンのアイデンティティの崩壊につながる。だから、彼はあわててサロメを遠ざけようとし、そして逃げ去る。サロメもそうとわかるから、自分を感じてくれたヨカナーンを追い求める。
 感性──それこそがワイルドが求め、描きたかったものであることは、彼の『ドリアン・グレイの肖像』やその他の著作を見ても明らかなはずだ。しかも、そこにはホモ・エロティシズムへの目配せもある。ヨカナーンだけでなく、エロド王の感情の乱れもこの作品のドラマの重要な要素となっているが、それもこれまでの翻訳では気づかれてこなかった。ポイントはフランス語、それもワイルド独特のフランス語の使い方にある。以下、詳細に説明していこう。

『サロメ』のフランス語
 本題に入る前に、ワイルドがフランス語をどう捉えていたか確認しておこう。彼はフランス語でこの作品を執筆した理由を、一八九二年『パル・マル・ガゼット』紙六月二十九日付のインタビューにこう答えている。

私には思いどおりに使いこなせる楽器が一つあって、それは英語です。もう一つ、生涯ずっと耳にしてきた楽器があり、この新しい楽器にさわってみたかったんです。なにか美しいものができるんじゃないかと思ってね。

 ここでフランス語を「楽器」という言葉を用いて表現したのは、単なる気まぐれではない。同じ表現を、ワイルドは、ブラム・ストーカー(ダブリンのトリニティ・カレッジ時代の先輩)の奥方フローレンスへ宛てた手紙(一八九三年二月二十二日付)でも用いているのである。なお、ワイルドは学生時代に、フローレンスにれて求愛していたのだが、ワイルドがオックスフォード大学を卒業した一八七八年、彼女はストーカーと結婚してしまい、ワイルドを驚かせた経緯いきさつがある。ストーカーが『ドラキュラ』(一八九七)で有名になるのはこの手紙(The Complete Letters of Oscar Wilde, ed. Merlin Holland and Rupert Hart-Davis(London: 4th Estate, 2000), 552)の四年後である。

 親愛なるフローレンスへ
『サロメ』をお受け取りいただけますでしょうか。母語でない言葉での、わが不思議なる試みです──ですが、まだ弾いたことのない楽器を愛するように私が愛する言語なのです。明日にはおもとに届くでしょう。お気に召していただけるとうれしいです。

 同時期に、ワイルドは英国の批評家エドマンド・ゴスにも同内容の手紙を書き送り、そこでも「あの繊細なる楽器、フランス語を使った最初の試み」という表現をしている(Letters, 553)ので、ワイルドが『サロメ』を音楽作品として意識していたことがうかがわれる。
 ワイルドは『サロメ』のフランス語の監修をフランスの詩人ピエール・ルイス(一八七〇~一九二五)に依頼し、初版を彼にささげているが、明らかな文法ミスの指摘は受け入れて訂正したものの、ルイスが提案してきた「フランス語らしくない表現」の変更案を採用しなかった。また、草稿では enfin という語を多用しすぎており、ワイルドの友人でフランス語にたんのうなスチュアート・メリルがかなり削除したが、それでもまだかなり残っている。これらのことから、ワイルドには、フランス人のようにりゆうちようなフランス語で書こうという意思がなかったことが窺える。むしろ、外国人がフランス語を用いるときのある種の違和感を武器に変えて、そこから音にこだわる新たな作品を生み出そうという思いがあったようだ。先ほど言及した新聞のインタビューにこたえて、ワイルドはこうも語っている。

もちろんフランスの文学者なら用いないような表現がここにはあるでしょう。でも、それが戯曲にある種の陰影をつけ、色をつけるんです。メーテルリンクが生み出した不思議な効果の多くは、人種としてはフラマン人の彼が外国語で書いたことに由来しています。英語で書いたけれど気質としてはラテンであるロセッテイについても同じことが言えます。

 パリ第十大学のエミリー・イールズ教授はワイルドのフランス語の草稿と最終原稿の違いについて詳細な研究を行い、ヨカナーンと話をしてみたいというサロメに対して「それは無理かと存じます」と答える第一の兵士の台詞せりふが、草稿では J'ai peur que c'est impossible となっていて接続法が使えていなかった(最終原稿では J'ai peur que ce soit impossible と正されている)という逸話を紹介し、ワイルドのフランス語のレベルが決して高いものではなく、フランス人が書くフランス語とは違う、ある種の新しい表現を創り出しているとして次のように論じている。

ワイルドにとってフランス語で書くことは、禁忌タブーを描き、かつ音楽に匹敵する審美的な言葉を作り出すという、ワイルドの二重の課題を満たすものであった。それゆえワイルドは、ペイターの「すべての芸術は常に音楽の状態にあこがれる」(Pater,〔Selected Writings of Walter Pater, ed. Harold Bloom(New York: Columbia University Press, 1974),〕55)という審美論の主眼に同意して、のである。フランス語を用いることで、ワイルドはのであり、それは彼が「芸術家としての批評家」で述べている審美論──「〔音楽こそ〕芸術の完全な種類だ。音楽は決してその究極の秘密を明らかにすることはない」(〔The Complete〕Works〔of Oscar Wilde(New York: Harper and Row, 1989)〕, 1031)──に合致する。ワイルドは、その達成を「リフレインが何度も同じモチーフを繰り返すことによって『サロメ』を一つの音楽作品のようにし、バラッドとしてまとめている」点にあると自ら評価している(Letters, 740)。まるで自分の作品からシュトラウスのオペラが生まれるのを予測するかのように、ワイルドは『サロメ』を一編の交響詩、月に照らされた、異端と近親そうかん的欲望の悪夢のような夜想曲に仕立てたのである(Emily Eells,‘Wilde's French Salomé', Studies in the Theatre of Oscar Wilde, Cahiers victoriens et édouardiens, N。72(octobre 2010): 115–30. 傍点は引用者)。

「意味より先に音」が重要になるのは、詩の言葉で劇を書いたシェイクスピアも同じであるが、ワイルドはシェイクスピアをりようしたいという野望を果たすために、あえてフランス語を用いたのかもしれない。彼は、フランスの作家・美術評論家のエドモン・ド・ゴンクールに宛てた一八九一年十二月十七日付の手紙(Letters, 505)で、次のように書いている。

ある言語を、じょうずに話せなくても愛することはできます。よく知らない女性を愛するように。心情はフランス人である私は、民族としてはアイルランド人です。イギリス人によってシェイクスピアの言葉を話すように強いられていますが。

 そして、ワイルドは、『サロメ』をフランス語で書くことによって、シェイクスピアの言葉では成しえない、以下のような詩的効果を生み出すことに成功したのである。

揺れるヨカナーン
 フランス人だったらそうは書かないが、ワイルドだからそう書いたという特徴的なフランス語の用法がある。
 フランス語には二人称が二種類あり、懇意でない相手には改まった vous(あなた)を用いて動詞もそれに伴う活用をし(ヴーヴォワイエ)、親しい間柄になったら tu(君、おまえ、なんじ)を用いてそれに伴う動詞の活用(チュトワイエ)に切り替え、同じ相手に対してこの二つの語法を交ぜて使ったりしないのが通常の語法なのだが、ワイルドはあえてこの二つの語法を状況に応じて使い分けているのである。
「改まった/親しい」という単純な区分けではなく、ヴーヴォワイエは相手に対して距離を置く語法であり、チュトワイエはその距離感を失う語法なので、後者は時にぞんざいな口調だったり、時に相手と心理的に近い口調だったりする。
『サロメ』にけるヴーヴォワイエとチュトワイエの使い分けを読み解くにはかなり繊細な判断力が必要となるので、ピーター・ブルックとともに活躍したフランス人女優クリスティアン・コルテさんにフランス語のテクストを一緒に読んでいただいて、彼女から教わりながら原文の意味を確認する作業を行った。以下の解釈は、コルテさんの判断を仰ぎながら得たものであることをお断りしておきたい。
 まずはヨカナーンの変化である。
 自分を見つめるサロメの存在に気付いたヨカナーンは、「私が話したいのは、この者ではない」とサロメを相手にするつもりがないことを言うが、サロメが「私はサロメ、エロディアの娘、ユダヤの王女」と言いつつ近づいてくると、エロディアを嫌悪するヨカナーンは思わず「下がれ! バビロンの娘よ!」と叫び、「しゆに選ばれし者に近づいてはなりません」と言う。
 この「近づいてはなりません」の原語は N'approchez pas(近づかないでください)というヴーヴォワイエなのだが、すぐ次の台詞は「汝の母は」(Ta mère)とチュトワイエに変わっている。コルテさんはこの箇所だけを読んだとき「ミスだろう」と感じたが、このあともヴーヴォワイエからチュトワイエへの変化が重要なポイントポイントで繰り返されるのを確認すると、この変化が意図的になされているのはまちがいないと言う。ヨカナーンが聖者としての自分を維持しているときはヴーヴォワイエを用いているが、ろうばいしたり心が乱れていたりするときにチュトワイエに変わっているのではないかというのが彼女の意見である。
 今言及した「汝の母」とは、ヨカナーンが「しよう」としてけいべつする王妃エロディアのことであるが、彼女への軽蔑の思いが「あなたの母」という丁寧な言葉づかいを妨げたと考えられる。そのあとサロメが「もっと話して」と求めると、ヨカナーンは聖書の中で聖者が教えを垂れる際の「~しなさい」という言葉遣い(たとえば「立って、平野へ出て行きなさい」「エゼキエル書」3章22節、「求めなさい。そうすれば、与えられる」「マタイによる福音書」7章7節など)と同じ言葉遣いで次のように命じる。

近づいてはなりません、ソドムの娘よ。その顔をヴェールで隠し、頭から灰をかぶって、人の子を捜しに砂漠へ行きなさい。

 ヨカナーンはサロメが近づいてくると思わず「下がれ!(Arrière!)」という語を発するが、その一方で冷静な自分を保って、丁寧な言葉遣いで彼女を自分の意識から遠ざけているのである。サロメに「人の子(イエス)を捜しに砂漠へ行きなさい」と忠告するとき、ヨカナーンにとってサロメはイエスに救われるべき人間であって、選ばれた者である自分に近づかないかぎり、彼が気にすべき相手ではないのだ。こうしてヨカナーンの意識はサロメから離れ、その心は天使へと向かい、彼は天に向かって問いかける。銀のころもまとって死すべきエロドの死ぬ日は今日ではないとわかっているのに、いったいこの宮殿で神のつるぎの犠牲となるのは誰なのか、と。そのときあたかも、自らの問いへの答えのように「ヨカナーン!」という声が聞こえ、彼は驚く。

サロメ ヨカナーン!
ヨカナーン 誰の声だ?(Qui parle?)

 これまで何度もサロメが「ヨカナーン」と呼びかけてきたにもかかわらず、ここでヨカナーンにその声のぬしがわからないのは、この時点まではサロメの存在は彼の心に入り込まなかったからだと解釈するよりほかない。
 ところが、ここからドラマは新たな展開に入る。これまで彼が遠ざけていた娘が愛の告白をしながら近づいてきて、しかもヨカナーンはそれをさえぎることなく、しばらく聴いてしまうのだ。これまでとちがって、ヨカナーンがサロメの女としての官能性を意識し始めたことは、「この世に悪が入り込んだは、女ゆえ」と言い出すことからもわかるだろう。自分の中に誘惑に屈しかねない弱さがあることを自覚するからこそ、自らの弱さを隠すため、女を「悪」と決めつけて遠ざけようとする宗教者のじようとうである(仏教の女人禁制も同じ)。そして、「私に話しかけてはなりません」と丁寧な言葉遣い(ヴーヴォワイエ)で言いながらも、同時に「聞きたくない、おまえの声など」と、サロメをぞんざいな「おまえ」(te)で呼び始め、乱れた心をさらし始めてしまう。
 サロメが彼の体に触れようと近づくとき、ヨカナーンは「私に触れてはなりません」と距離を置いた言い方をするが、「私が聞くのは主なる神の言葉のみ」と言う舌の根も乾かぬうち、前の一・五倍のサロメのなが台詞ぜりふに耳を傾けてしまう。
 サロメが彼の髪に触れようと近づくと、ヨカナーンは、今度は自分を神殿にたとえて身を守ろうとするものの、前のさらに一・六倍の長さの長台詞に耳を傾けてしまう。その挙句、サロメが「キスさせて、おまえの口に」と近づいてくるとき、ヨカナーンはもはや、「だめだ」と繰り返すことしかできなくなっている。
 ヨカナーンは懸命にサロメを拒絶するが、それは、そうしないと自分を失う危険を感じたからではないだろうか。サロメは「おまえの口にキスするわ、ヨカナーン。おまえの口にキスするわ」と言って、さらにヨカナーンに近づこうとする。このとき必死になって止めに入った若いシリア人ナラボが自害してしまうのは、聖者であるはずのヨカナーンが一人の男になり下がり、サロメの誘惑に屈してしまうかもしれないと、少なくともナラボには感じられたからではないだろうか。
 ナラボが死んだにもかかわらず、「キスさせて、おまえの口に」と迫ってくるサロメに、ヨカナーンは再び丁寧な言葉遣いでイエスのもとに行くよう教え諭すが、サロメがしつように「おまえの口にキスするわ」と言うとき、彼はサロメと同じチュトワイエを使いだす。そして、貯水槽へ逃げ込みながら(これまでは「バビロンの娘」や「ソドムの娘」と呼んでいたのに)初めて「サロメ」と呼びかけてしまう。

見たくはない、おまえなど。見るものか、おまえなど。おまえは呪われている、サロメ。おまえは呪われている。(ヨカナーンは貯水槽の中へ下りていく。)
Je ne veux pas te regarder. Je ne te regarderai pas. Tu es maudite, Salomé, tu es maudite.[Il descend dans la citerne.]

 このチュトワイエは、ヨカナーンの心がすっかり乱れてしまったことを示している。のちにサロメが語るように、このときヨカナーンは手で顔を覆い隠して彼女を見ないようにしているはずであり、サロメを見てしまったら、彼女にかれる危険を感じたからそうしたのだろう。サロメにしてみても、ヨカナーンが一貫して聖者としてのぜんたる態度を崩すことがなければ彼の首を求めはしなかったのではないか。自分を女として意識し、その官能性に危険を感じ、激しく動揺しながらも、あえて彼女を否定した美しい男だからこそ、彼女は彼を求めたのではないだろうか。

(つづきは本書でお楽しみください)

作品紹介・あらすじ



◆書誌情報
『新訳 サロメ』(角川文庫)
著:オスカー・ワイルド 
訳:河合祥一郎
発売:2024年5月24日(金) 
定価:968円 (本体880円+税)
ISBN:9784041141960
発行:KADOKAWA
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322306000247/

◆著者プロフィール
オスカー・ワイルド
アイルランド出身の小説家・劇作家・詩人・批評家(1854-1900)。代表作に戯曲『サロメ』『まじめが肝心』『レイディ・ウィンダミアの扇』、小説『ドリアン・グレイの肖像』、童話『幸福な王子』。フランス象徴主義の影響を受け、耽美的・頽廃的な19世紀末文学の旗手となった。警句や軽妙な会話を得意とし、社交界の寵児となったが、当時犯罪とされた同性愛で有罪となり、投獄され破産。出獄3年後にパリに死す。その唯美主義の影響は大きく、谷崎潤一郎も影響を受けた。

河合祥一郎(かわい・しょういちろう)
1960年生まれ。東京大学およびケンブリッジ大学より博士号を取得。現在、東京大学教授。著書に第23回サントリー学芸賞受賞の『ハムレットは太っていた!』(白水社)、『シェイクスピア 人生劇場の達人』(中公新書)、『NHK「100分de名著」ブックス シェイクスピア ハムレット』(NHK出版)など。角川文庫よりシェイクスピアの新訳、『不思議の国のアリス』、「新訳 ドリトル先生」「ポー傑作選」シリーズなどを刊行。


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