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第23回司馬遼太郎賞受賞作!――『狼の義 新 犬養木堂伝』 文庫巻末解説【解説:橋本五郎】

政界を駆けた孤狼の生涯を壮大に描く新評伝
『狼の義 新 犬養木堂伝』

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。



『狼の義 新 犬養木堂伝』文庫巻末解説

解説 「清貧」で駆け抜けた立憲主義への道 ──夫婦で綴った日本近代史

解説
はしもと ろう(読売新聞特別編集委員)

 歴史を描き切るのは至難のことである。とりわけ評価が定まらない近現代史の叙述には多くの困難が伴う。イギリスの歴史学者、E・H・カーは名著『歴史とは何か』(岩波書店)で、「歴史とは解釈である」として、次のように語っている。

「事実とは、広大な、ときにアクセスも難しい大海原を自由に泳いでいる魚のようなものです。歴史家が何をつかまえるかは(中略)たいていは大海原のどこで漁をするか、どんな漁具を用いるかにかかっています」

 本書『狼の義』の作者、はやしあらたほりかわけいは、日本の立憲主義の歩みという「漁」を、その死が政党政治のしゆうえんとなったぼくどういぬかいつよしと、その犬養の終世の伴走者だったじまかず、明治国家のデザイナーだったいのうえこわし、そして俳人まさおかという「漁具」を頼りに辿たどろうとした。漁具とはいささか不穏当な表現だが、彼らは単なる漁具ではない。それぞれが壮烈な人生を送っている。読み進むにつれて、生きるとは何かを考えるため立憲主義を漁具に使ったとさえ思われてくる。
 犬養については、東大教授だったおかよしたけに「挫折の政治家・犬養毅」(『近代日本の政治家』岩波書店)という名品がある。「敵に対しては烈しい憎悪を端的に表明してかくすことがなかったが、味方、知友、身辺のものなどに対してはふかい温情をもって接した」などと、犬養の性格を活写している。岡の政治家論は「エピソード主義」と評された。一見細部のように見える多様なエピソードをバランスよく拾い出し、あとは読む人の理解に任せた。『狼の義』もまた、「エピソード主義」的手法を駆使しながら壮大な物語をつづっている。

『狼の義』をひもとけば、くっきり浮かんでくるものがある。それはまた作者がもっとも訴えたかったものと言っていいだろう。その第一は、「清貧」であることの大切さだ。犬養は何度か転居した後、ようやく落ち着いたのが、広大なおおくましげのぶ邸近くのうしごめしたの借家だった。七年も空き家だったぼろ屋で、家賃は月々二十三円だった。しかも、年がら年中、高利貸しに追いかけられ、家具にベタベタと差し押さえの赤札が貼られていた。古島一雄がまゆをひそめても、犬養は胸を張って答えるのだった。

「権力者に金を借りたら進退の節に必ず困ることが起きるが、高利貸しにその心配はない。それも向こうから頭を下げてやってくる。こんな気安いものはないぞ」

 かつて新聞『日本』の編集長として活躍し、「犬養の懐刀」と呼ばれた古島の家は、たがきようどう駅から数分のところにあった。「財閥王」という異名とはまったく裏腹に、彼の家の屋根は朽ちかけて端々がめくれていた。門柱にぶらさがる木戸は風に揺れ、家全体が西側に傾きかけていた。
「軍人勅諭」の起草や「戒厳令」の制定、「集会条例」「新聞紙条例」の改正など明治法制の礎を作った井上毅の自宅は、いちがやくおうまえまちの細い路地の先にあった。小さな家のどの部屋も山積みの本や書類で埋まり、障子やふすまは破れたまま。まるで貧乏学生の住まいのようだった。「清貧」それ自体価値あるかどうかは、さまざまな意見があろう。しかし、己を律してこそはじめて他者への説得が可能になることだけは疑いようがない。

『狼の義』で浮かび上がる第二は、揺るぎのない「覚悟」である。登場人物それぞれが自らに秘めているのである。古島の『日本』は、新聞社で数少ない輪転機を導入した。パリから買ってきた輪転機に銅板を取り付け、紙面に写真を掲載したのも『日本』が最初だった。こうした先見性があった一方で、新聞社の台所は火の車だった。経営を圧迫した最大のものは、政府による発行停止だった。条約改正反対運動をきっかけに政府に目を付けられ、停止期間は長いときには二週間に及んだ。
 月末の業者への支払いも滞り、いよいよ新聞の発行が止まりかねない状況になって、古島はかねて金主だったたにたて(初代農商務大臣)に頼みに行った。しかし、その権力を利用しながら巨万の富を築いたやまがたありともに比べ、武人の谷は蓄財に疎かった。谷家を訪ねると、夫人が出てきた。古島は社の窮状を説明し、平身低頭で追加の援助を頼んだ。夫人は一瞬、顔を曇らせたが、しばらくして家の奥から無記名公債証書を出してきて、震えるような声で言った。

「この金は娘の嫁入り支度金として取っておいたものです。ですが、新聞のためならば仕方ありません。わが家にはもうこれ以上、何もありません」

 昭和六年十二月十二日夜、政友会総裁犬養毅に内閣総理大臣の大命が下った。参内した犬養に昭和天皇はこうおつしやった。「犬養、軍部の横暴を抑えてくれ」。この時勢で簡単ではないことはわかったが、思いは同じだった。自宅に帰って、深夜まで電話で組閣作業を続け、新しい閣僚が客間に勢揃いしたのは翌日の午前三時だった。犬養の側近くにいて、入閣に漏れた不満組の対応に当たった古島は、犬養の次男たけるとの酒に酔いながら眠ってしまった。
 徐々に近付くわだちの響きに目が覚め、毛布をけ、起き上がったら、真っ暗な廊下に、ぼんやり小さなあかりが漏れている。たとう紙の擦れあうカサカサという乾いた音が聞こえてくる。夫人の部屋だ。夫人は畳に座り込んで、山のような着物を整理していた。親任式の準備ではなかった。夫人が手にしていたのは、喪服だった。部屋の隅にある総桐の長持には、白い紙が貼り付けてあった。墨字で【喪服(家族全員用)】と書いてあった。夫人にとって、夫の総理大臣就任は、「死出の旅路」の始まりを覚悟することにほかならなかった。「覚悟」は何も男に限らなかったのである。

『狼の義』では、命をすり減らして己が信じる道を進む人たちの使命感あふれる「壮絶な生」を描いている。犬養については古島の言葉がすべてを言い尽くしている。

「木堂はファッショの濁流の中に踏ん張って、裏切りに次ぐ裏切りの果てに殺された。それも多勢に無勢でな」

 結核に侵された井上毅の身体は日に日に悪化、ついに日清戦争のなかの一八九五年三月、五十一歳で永遠の眠りに就いた。前年十二月末、井上は病床で無念の思いを次の一文に込めた。

「国家多事の日に際してとんの上に死す かかるらち者には、黒葬礼こそ相当なれ」

 後日、井上の遺体を医師が検視した。皮下注射で採血をしようとして驚いた。身体はひとかけらの肉もなく、血が全く採れない。全身が衰弱し、一滴の血も残らないほどだった。

「井上は、国家の為に汗血を絞り尽くした。未だ荒れ野のような日本を、日清戦争後の日本の行く末をただただ憂い、逝った」

 壮絶な生と死は政治の世界にあっただけでない。正岡子規は結核菌がせきついに入り込む脊椎カリエスで椅子に座ることもできず、東京・ぎしの六畳間で床に伏せながら、新聞『日本』に死の直前まで百二十七回にわたって『病牀六尺』を書き続けた。古島は『病牀六尺』の連載を一度は中止した。いくら人気があるとはいえ、病人に病気を売り物にさせるのは人間の道に外れていると思ったからだ。
 子規からすぐ手紙があった。

「僕の今日の生命は『病牀六尺』にあるのです。毎朝、寝起きに死ぬる程、苦しいのです。その中で新聞をあけて病牀六尺を見ると、わずかに蘇るのです。(中略)もし出来るなら、少しでも(半分でも)載せて頂いたら、命が助かります」

 古島は直ちに駆けつけた。畳に頭をこすりつけ、「すまん! 俺が悪かった」と子規に謝った。子規は起きようとして、万年床から身体をよじりながら、天井から垂れた縄に手を伸ばした。床の周りの畳の縁にも、輪っか状に編んだ麻縄が幾つも縫い付けられていた。子規はそれらを上に横にと引っ張って、寝返りを打ったり、痛む身体を起こしたりしていた。

『狼の義』は二〇一九年度の「りようろう賞」に輝いた。しかし、林新はもうこの世にいなかった。難病との壮絶な闘いの末、二〇一七年に亡くなった。受賞スピーチで妻堀川惠子が明かしている。夫は心底犬養木堂にれ込み、NHKを退職してから本格的な執筆活動に入った。しかし、明治が終わったところで力尽き、逝ってしまった。夫の書きかけの原稿を前に泣きそうになった。夫が残した関連文献は約二百五十冊、妻が必要だと思ったのは百五十何冊。それらをひたすら読むだけの生活を一年間送り、執筆に取りかかった。
 彼女の背中を押したのは、最後の最後まで自分の仕事を全うしようと命をした人たちの姿だった。犬養であり、古島であり、子規であり、西さいごうたかもりであり、夫林新だった。慶應義塾大学剣道部で、常に「上段の構え」で真っ向勝負した夫の遺志を継ぎ、上段の気迫をもって、登場する男たちの骨を拾っていこうと心に決めたという。その意味で、林新も堀川惠子も登場人物同様、揺るがぬ「覚悟」と強い「使命感」を持って、この一書を成したのである。「政治の極致」を思わせる井上毅や犬養毅の政治手法については本書を読んで頂くことにして、あえて「生き方」に絞って解説した。

二〇二三年十一月

作品紹介・あらすじ



狼の義 新 犬養木堂伝
著 者:林 新、堀川惠子
発売日:2024年01月23日

第23回司馬遼太郎賞受賞作! 政界を駆けた孤狼の生涯を壮大に描く新評伝

「極右と極左は毛髪の差」(犬養毅)
日本に芽吹いた政党政治を守らんと、強権的な藩閥政治に抗し、腐敗した利権政治を指弾し、
増大する軍部と対峙し続け、5・15事件で凶弾に倒れた男・犬養木堂。
文字通り立憲政治に命を賭けた男を失い、政党政治は滅び、この国は焦土と果てた……。
戦前は「犬養の懐刀」、戦後は「吉田茂の指南役」として知られた古島一雄をもう一人の主人公とし、
政界の荒野を駆け抜けた孤狼の生涯を圧倒的な筆力で描く。
最期の言葉は「話せばわかる」ではなかった!? 5・15事件の実態をはじめ、驚愕の事実に基づく新評伝。
「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい」
(1932年5月1日、犬養首相の日本放送協会ラジオ演説より)
真の保守とは、リベラルとは!? 明治、大正、昭和の課題を、果たして私たちは乗り越えられたのか?? 

※本書は2019年3月に小社より刊行された単行本を文庫化したものであり、2017年に逝去された林新氏が厳格なノンフィクションでなく、敢えて小説的な形式で構想し、着手したものを、堀川惠子氏がその意志を受け継ぎ、書き上げたものです。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322302001459/
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