“清水の次郎長”と呼ばれる伝説の博徒の生き様を描き切った渾身作。
『背負い富士』山本一力
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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『背負い富士』文庫巻末解説
解説
こうした中、明治という新しい時代の中で余生を無事に過ごし、七四歳で天寿を全うした清水次郎長は同時代の博徒と比較しても、特異な存在であった。さらに、当時の博徒の生涯はほとんどが不明であるのに対し、伝記的事実がある程度、判明しているのも
清水次郎長を巡っては、これまでにも数多くの小説・芝居・映画等が創作され、現在でもされ続けている。これが可能となったのは明治一七年(一八八四)に刊行された『東海
『東海遊俠伝』の表題に掲げられている「遊俠」という語句はその歴史が深い。古代中国の歴史書である、
遊俠とは、その行為が世の正義と一致しないことはあるが、しかし言ったことはぜったいに守り、なそうとしたことはぜったいにやりとげ、いったんひきうけたことはぜったいに実行し、自分の身を投げうって、他人の苦難のために奔走し、存と亡、死と生の境目をわたったあとでも、おのれの能力におごらず、おのれの徳行を自慢することを恥とする、そういった重んずべきところを有しているものである。
本書の次郎長はまさに「遊俠」と呼ばれるに
儒教の重要な経典の一つである『
本書の主要人物はまさに「知・仁・勇」の要素をそれぞれ分有した関係にある。次郎長の軍師・知恵袋的存在である
他にも本書で描かれる次郎長像は古くからの儒教的な考えを想起させる部分がある。その始祖
先生が言われた。「一日じゅう腹一ぱいに食べるだけで、何事にも心を働かせない、困ったことだね。博奕 があるではないか。何もしないより博奕をした方がましだ」
孔子が弟子達に博奕を奨励している訳だが、これは現代的感覚からすれば違和感を覚えるかもしれない。しかし、当時、博奕とは神意を占う神聖性を帯びる行為に準じたものであった。古代社会の政治の在り様は「まつりごと」と呼ぶとおり、祭政一致であり、超自然的な存在の意向を
本書に登場する「
かかる視点からすれば、本書の語り部である「音吉」の名前も象徴的である。時を正確に刻む機械音を連想させ、晩年の彼の日課は時計の管理であったからである。古来、日本では、天候の具合を読み、そこから暦を定める者が王であり、いわば時間を管理する重要な役割を担っていた(宮田登『日和見』平凡社、一九九二年)。音吉が毎日、時計のぜんまいを巻くのは、清水港の平穏な日常が繰り返され続けることを無意識の中に司っていたとも
一方、本書で描写される博徒間の
以上、勢いに任せて堅苦しい事柄を
※引用にあたっては次の書籍を基にしながら、一部、改変を加えた。
小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳『史記列伝』五(岩波文庫、一九七五年)
金谷治訳註『大学・中庸』(岩波文庫、一九九八年)
金谷治訳註『論語』(岩波文庫、一九六三年)
作品紹介・あらすじ
背負い富士
著 者:山本一力
発売日:2024年02月22日
手に汗握る任侠時代活劇!
船頭の息子に産まれた長五郎は、米穀商である養家が没落したことで、腕一本でのし上がっていくことを決意する。“清水の次郎長”と呼ばれる伝説の博徒の生き様を描き切った、山本一力の渾身作。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322307001280/
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