巨匠・松本清張が描く、徳川家康伝の決定版!
松本清張『徳川家康 新装版』
角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
※この解説は昭和三十九年の文庫刊行時に執筆されたものです。
松本清張『徳川家康 新装版』
解説
小和田哲男
徳川家康の伝記に関しては、江戸時代、徳川幕府が編纂した『徳川実紀』をはじめ、中村孝也氏の大著『徳川家康公伝』などによって、通説あるいは定説といった形で語られ、それが、小説・映画・テレビドラマでも取りあげられることによって、通説・定説という以上に、「国民的常識」といったものが形作られてきた。
『徳川実紀』にしても『徳川家康公伝』にしても、どちらも大部なもので、誰もが簡単に読めるものではない。そこで、松本清張氏が小学生・中学生向けに家康の伝記としてまとめたものが本書である。家康の子ども時代から天下を取るまでの道筋が、エピソードを交えながら、ポイントを押さえ語られている。青少年向けに書かれたものではあるが、家康のやったこと、やろうとしたことは細大漏らさず取り上げられているので、大人が読んでも勉強になる。「二五〇ページで家康のすべてがわかる本」といってもよいのではないかと考えている。
とはいえ、本書の出版は一九六四年一月である。松本清張氏も一九六〇年代までの研究に依拠しているわけで、現在の研究の到達段階からすると見直すべき点もいくつかある。そのいくつかを具体的に取り上げたい。
優遇されていた今川義元「人質」時代の松平竹千代
本書でも触れられているように、家康は六歳のときの天文十六年(一五四七)、今川義元の「人質」として駿府に送られることになったが、田原の戸田康光が尾張の織田信秀と通じていて、駿府ではなく、尾張の熱田へ連れていかれてしまった。
この一件については、史料としての信憑性が高い『駿府政事録』『駿府記』『松平記』などに、家康が近臣たちに「わしは若いころ売られたことがある」と語っていたという記述があることから信用されてきた。家康がいくらで売られたかは諸書まちまちで、一千貫文とする史料もあれば、五百貫文とする史料もある。
竹千代を手に入れた織田信秀は、父で当主の松平広忠に対し、味方になるよう誘っている。広忠も子どもの命惜しさになびいてくると考えたのである。
ところが、広忠はそれを拒否してきた。「今川義元に出した人質である。竹千代が織田方にあるとはいえ、わが子への愛につられて今川家の多年の厚誼に背いては末代までの恥辱である。人質を殺すも生かすも存分になされよ」との返答であった。
最後の、「殺すも生かすも……」というのは本当のことかどうかはわからないが、広忠としては、仮に竹千代が殺されるような目にあっても、今川義元の援助なしには松平家が立ちゆかないことを百も承知していたのであろう。
この竹千代が騙されて尾張に拉致されたというのが通説となっていたが、最近、通説とは異なる説が浮上している。それは、松平広忠が織田信秀と戦って敗れ、広忠から竹千代を人質として差し出したというものである。
それは、新潟県三条市の「本成寺文書」の中にある天文十六年と推定される日覚書状に、松平広忠と織田信秀が戦い、広忠が敗れ「からからの命にて候」という記述に注目した村岡幹生氏が「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学会論叢』第一号、二〇一五年)で述べられたものである。
日覚書状が、自分の耳に入ってきた噂などの伝聞をアトランダムに書き綴ったという性格のものなので、その伝聞が正しいのかどうかといった問題は残るものの、従来説の、騙されて拉致されたというのとは異なる情報もあったことは注目されることがらである。
このあと、竹千代は、二年後、改めて今川義元の人質として、八歳から十九歳までを駿府で過ごすことになるが、単なる人質とは異なるので、私は「人質」とかぎカッコ付きで表現している。ふつうの人質とはちがって、竹千代は相当優遇されていたのである。
優遇されていたことがわかる一つは、今川義元の軍師といわれる臨済寺の雪斎の教えを受けていた点である。本書でも、臨済寺の竹千代手習の間のことがでてきたが、『武辺咄聞書』という史料に、竹千代が雪斎から兵法書などを習っていたことがみえる。
さらに、これも本書にみえることであるが、今川義元の姪にあたる女性と結婚していることである。本書では「今川の部将関口親永のむすめ」となっている。関口親永は、関口義広など、いろいろに書かれているが、関口氏純というのが主流となっている。ただし、本当の義元の姪というわけではなかった。
というのは、実際は遠江の国衆井伊直平の娘が人質として今川義元のところに出され、そのあと側室とされたが、さらに義元の妹という名目で関口氏純に嫁ぎ、そこで生まれた娘というわけなので、系譜上は姪ということになる。はじめ瀬名姫、のち、築山殿となる女性である。
今川義元の尾張侵攻のねらい
さて、本書では、永禄三年(一五六〇)五月十九日の桶狭間の戦いが大きく取り上げられている。以前は、今川義元の尾張侵攻理由として、上洛のためというのが通説だった。「あわよくば京都まで上らんとした。京にはいって旗を立てることは義元の年来の宿望である」といった文章にそのことが表れている。
ところが、現在では、上洛説は否定され、(1)三河確保説、(2)織田方封鎖解除説、(3)尾張奪取説などいくつかの説が提起されており、私は、義元自らが出陣していること、今川軍の最大動員兵力二万五〇〇〇で進軍していることから、この際、信長を打ち破り、尾張まで版図に組み込みたいと考えていたのではないかとみている。
江戸を選んだのは家康ではなかった
なお、文章の端々に豆知識的な記述が鏤められていて注目される。たとえば、多くの人は、江戸を居城地として選んだのは家康だと思っているのではないだろうか。今日の大東京の発展を見込んだ家康の先見の明とされることが多い。ところが、実際は、江戸を勧めたのは秀吉だったのである。
もちろん、秀吉としては、家康を遠いところにやってしまいたいという思いもあったであろうし、「まだひらけない土地の関東地方へ家康を追いやったわけでもあろう」といった魂胆もあったと思われるが、家康の選地ではなく、秀吉の選地だったことは松本清張氏の指摘の通りである。
また、その江戸城築城とのからみで、伊奈忠次に光をあてている点も注目に値する。家康の家臣というと、どうしても「徳川四天王」などといわれた酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら武功派家臣が取り沙汰されることが多いが、伊奈忠次ら代官、すなわち吏僚派の果たした役割が正当に評価されているのである。
最後に、最近の関ヶ原合戦研究について触れておきたい。たとえば、本書でも取り上げられている慶長五年(一六〇〇)七月二十五日の有名な小山評定であるが、「小山評定はなかった」とする説が出されて議論になっている。また、九月十五日の合戦当日、通説では寝返りを逡巡する松尾山の小早川秀秋に向けて家康が鉄砲を撃ったという「問い鉄砲」について、それはなかったとする説も出されているのである。
家康にかかわる研究は、これからもさらに深化していくであろう。そのためには、通説あるいは定説といわれるものをきちんと受けとめておくことが必要である。家康の偉大さ、すごさを二五〇ページにまとめた本書がその出発点となっていくように思われる。
作品紹介・あらすじ
徳川家康 新装版
著者 松本 清張
定価: 726円(本体660円+税)
発売日:2022年10月24日
巨匠・松本清張が描く、徳川家康伝の決定版!
天文11年、三河国岡崎。周囲を強敵に囲まれた小さな大名家に、ひとりの男の子が誕生した。竹千代と名付けられた少年は、家を守るために幼い頃から人質生活を余儀なくされる。元服を機に故郷への帰還を果たした竹千代だったが、すぐに強敵・織田信長との決戦に巻き込まれて……。天下を併呑し、歴史にその名を刻んだ傑物・徳川家康の波乱と超克に満ちた、獅子のごとき生涯。大作家・松本清張が描く、最も分かりやすい家康伝。
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