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レビュー

他に類を見ない、未来をむいた青春小説――『東京の子』藤井太洋 文庫巻末解説【解説:朱野帰子】

新時代の働き方を問う、社会派エンターテインメント!
『東京の子』藤井太洋

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

東京の子』藤井太洋



『東京の子』藤井太洋 文庫巻末解説

解説 
あけ かえる(作家)  

 本作『東京の子』は二十二世紀をめざして働く若者たちの青春小説である。
 働く、ということをテーマに描いた小説は「お仕事小説」あるいは「仕事小説」と呼ばれることが多い。「仕事小説」は多くの場合、主人公が特殊な職業に従事している。その仕事において「大切なことは何か?」を描くことが「仕事小説」の王道だ。SF作家として人気を博すふじたいよう氏は、この「仕事小説」の王道を書くことにも卓越している。
 私が初めて読んだ藤井作品は、二〇一八年に刊行され、よしかわえい文学新人賞を受賞した『ハロー・ワールド』である。わずか数年後の未来を描いたこの小説を、私はSF作家の手によるものだと知らず、ITエンジニアの「仕事小説」として読んだ。藤井氏がこの小説を自身の経験をもとに執筆し「私小説」と呼んでいることを知ったのは最近のことだが、この小説には本業でやっていた者にしか書けないリアリティがあふれている。主人公が出向している上場企業にいる人たちの、こんな描写がそうだ。

どんな会社でもソフトウェアを開発しているプログラマーは、ほとんどの時間、画面をにらんで過ごしている。キーボードに触れるのはわずかな時間だけで、人差し指だけでけんするプログラマーもいるほどだ。

「仕事小説」を書くとき、日常的な肉体描写を書くのが一番難しい。当人たちにとっては無意識のレベルに落としこまれている動作は取材しただけで書けるものではないからだ。なのに藤井氏は自身が経験した職業だけでなく、経験できるはずのない未来の職業描写をもみつに描きだす。
 藤井氏がソフトウェア会社に勤める合間を縫って執筆し、二〇一二年に電子書籍で個人出版した『Gene Mapper』では、遺伝子を設計するフリーランスのデザイナーの仕事風景が圧倒的ディテールで描かれている。二〇一四年に刊行され『SFが読みたい! 2015年版』の「ベストSF2014[国内篇]」1位、第35回日本SF大賞、第46回星雲賞(日本長編部門)の三冠を達成した作品の『オービタル・クラウド』では、流れ星の発生を予測するウェブサイトの開発と運用を行う主人公をはじめ、宇宙開発に関わる人たちの仕事が描かれる。『Gene Mapper』は二〇三七年、『オービタル・クラウド』は二〇二〇年という、刊行された年の読者にとっては近未来が舞台であるが、そこで働く人たちのプロフェッショナリズムと職業倫理を藤井氏は細やかに丹念に書く。だからこそ、彼らが世界の危機に立ち向かうためになす決断や行動はきわめて現実的な感動を与えてくれる。自分が今やっている仕事にも、プロフェッショナルにやり遂げることができたなら、未来を改変する可能性があるのではないか。そう思わせてくれる力が藤井太洋作品には満ち満ちている。
 しかし「仕事小説」には制約もある。主人公は原則的に転職できない。それゆえ「人はなぜ働くのか」とか「働き方はどう変わっていくのか」など、多様な職業を貫く大きな問いを提示することが難しい。しかし「仕事」から「労働」へと範囲スコープを〈拡大〉すれば、それは可能になる。
『東京の子』を読んだとき、感じたのはこの〈拡大〉だった。藤井氏が「仕事」から「労働」へと描く対象をひろげたと感じたのだ。
 前書きが長くなった。本作『東京の子』の物語のあらすじをここで振り返ってみる。
 舞台は、二〇二〇年から二〇二一年に延期されたオリンピック・パラリンピックが終わって数年後の東京である。コロナ禍は終わっているようだ。外国人労働者の新たな受け入れが再開され、オリンピック前に千三百万人だった東京都の人口は千六百万人に増えている。人口増による好景気に包まれた東京で、主人公・かりいさしんおおのベトナム料理屋で働いている。他人の戸籍を買って名前を変えて生きる彼には、もう一つ仕事がある。ベトナム料理店のフランチャイズ店に出勤しなくなった外国人たちから事情を聞き、職場に戻すことだ。その一人、ファム・チ=リンというベトナム国籍の女性の行方を追ううちに、彼はオリパラの会場跡地に作られた巨大な学校の存在を知る。
 その名は「東京デュアル」。働きながら学ぶ学校である。
 正式名称は「東京人材開発大学校」。正式な大学ではなく専門学校に近い。その敷地内には五百社ものサポーター企業が名を連ねている。学費や寮費などを提供してもらうのと引き換えに、学生たちは在学中サポーター企業で働き、未来の仕事の技能を習得していく。
 この学校に入学するのは二十一世紀生まれの学生たち。出身国の事情や、経済的な困難や、さまざまな背景を抱え、正式な大学の卒業資格を得て高度プロフェッショナル人材になることができない若者たちである。彼らにとってこの学校はまるでユートピアだ。学内での転職は容易だし、時給は決して安くなく、残業代も出る。そのまま就職すれば奨学金の約半額を企業が負担してくれる制度もある。
 しかし、主人公の仮部が探し当てたファムは、この学校のシステムを「人身売買」だと指摘する。日本で働く外国人を苦しめてきた人身売買と同じ問題をはらんでいると訴えるのである。
 ファムがいう人身売買制度とは、この物語の外──私たちの現実社会にも存在する外国人技能実習制度を指す。「人材育成を通じた開発途上地域等への技能、技術又は知識の移転による国際協力を推進すること」を目的として始まったこの制度は、安価な労働力を補充するためのシステムとして企業に利用されている実態があるのではないかと指摘されている。「東京デュアル」は、その対象を日本の若者に拡大しようとする試みではないかという疑問をファムは提示する。
 ここまで読んで背筋がぞわりとした。この物語はすでに近未来の物語ではない。
 この解説を書いている二〇二二年現在、日本の労働人口の減少は待ったなしである。就活生の有効求人倍率は高く、正社員になれないという不安は消えたと言われている。企業は学生の囲い込みに必死で、就活の主戦場は大学三年生の夏のインターンシップになっているほどだ。入社後は手厚い研修を受けられるし、転職のハードルも低い。だから今の若者は一見、自由に見える。しかし独立行政法人日本学生支援機構の調査によれば、大学昼間部の奨学金受給状況は、一九九六年度には二十一・二%だったのが二〇二〇年度には四十九・六%へと増加している。二十一世紀の日本で生きる彼らの若者時代は、長期化する就職活動と奨学金の返済とで終わってしまうことも少なくない。かつては社会や企業が負っていたはずの教育コストを払わされている彼らの人生の選択は、彼ら自身が選んだものだと言えるのだろうか。
 私たちが住むこの国はとうに「東京デュアル」化しているのではないだろうか。
『東京の子』は日本の若者が直面している労働問題をシビアに描いている。物語中に登場する若者たちが身につけつつある技能は、これまでの藤井作品の登場人物たちが持つ技能と比べれば、とてもぜいじやくだ。彼らは素直で優しく、自分たちの学校のシステムに疑問を持つこともない。彼らが連帯して行うストライキでさえも、若者を効率よく労働力化しようとする大人たちにコントロールされている。
 だが、そこは藤井太洋作品である。ゆるぎなきプロフェッショナリズムと職業倫理とを持つ者が一人、この物語に登場している。
 主人公の仮部かりべ諌牟いさむだ。
 過酷な少年時代を生き延びるため、パルクールのパフォーマー〈ナッツ・ゼロ〉としてトレーニングを積み上げてきた仮部の肉体は街中の壁を走り、橋のアーチを走り、既存システムを超えて、東京を疾走できる。そのパフォーマンスで世界中の視聴者を魅了した実績は「東京デュアル」のシステムを作る大人たちと、そのシステムに従うしかない若者たちという、越えられぬボーダーをも越えていく。
「東京デュアル」の学生であり、奨学金に人生を縛られているみずたにに、パルクールのコツを教えてくれと仮部が頼まれるシーンが私は好きだ。仮部は水谷の身体に筋肉が足りないことを案じるが、それを当人に告げることを躊躇ためらう。

たかが遊びのパルクールだ。怪我をしなければ人それぞれで構わない。手脚が短ければコンパクトに折りたたんでしまえばいいし、身体が硬いなら姿勢の安定を追求すればいい。水谷のように恵まれた手脚の長さがあるのなら、高さと速さをあきらめて見栄えを追求するのも悪くない。「いいね」と答えろ。仮部の理性はそう叫んでいたが、まっすぐに見つめてきた水谷に、その言葉を出すことができなかった。

 自分とさほど年齢の変わらない水谷に、仮部は自らが深く傷つきながら身につけてきた技能を無償で教える。それはシステムの外でも高く速く走ることを可能にする技能だ。物語のクライマックス、「東京デュアル」のシステムに一石を投じるため、東京を疾走する仮部の後をついていく水谷の姿は、この物語の希望だ。
 大丈夫、君も練習すればそうなれるさ。その気になればシステムを改変することだって可能だ。そんな明るいビジョンがすでに大人である私にも見えた気がした。
 将来が予測困難で不確実性に満ちているいま、これほど未来をむいた青春小説を私は他に知らない。

作品紹介・あらすじ
『東京の子』



東京の子
著者 藤井 太洋
定価: 858円(本体780円+税)
発売日:2022年07月21日

新時代の働き方を問う、社会派エンターテインメント!
働きながら学べる新しい大学「東京デュアル」。エリートでなくてもチャンスが得られる未来の働き方をうたい、4万人の学生を集めていた。500社ものサポーター企業が学内で仕事を提供し、奨学金制度も充実。しかし、いつものように人捜しを頼まれた仮部諌牟がデュアルに潜入すると、その実態は人身売買だった!? 賃金格差、過労、失業……現代日本の労働問題をめぐる一大プロジェクトに、自らの過去を捨てた青年が迫る。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322106000325/
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