文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:鳥越 皓之 / 大手前大学学長)
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倭人や倭国について、実証的に論じようとする場合、ふたつの方法が使われている。ひとつは残されている文献という文字資料に
本書は倭人や倭国が記述されているすべての中国正史の当該箇所を翻訳し、それに解釈を加えたものである。
中国正史の種々の文献をこの一書にまとめていること自体、読者にとってとても便利なことである。しかしながら、さらに貴重なことは詳細な訳注と解釈であろう。訳注を加え解釈をするためには、既存の文字資料に依存して述べるだけではあきらかに限界がある。もちろん、相互の文献を比較検討することは不可欠である。だが、この中国正史の多くは、前の時代に記述された文献に大きく依拠しながら新しく書き直すという方法をとっているために、文献相互の比較によってあきらかにできることが限られている。
日本の文字資料である『古事記』や『日本書紀』も貴重である。けれども、それらのすべてが史的事実かどうかについて、常に疑義が投げかけられてきた。それと同じように『漢書』などいわゆる中国正史が事実通りかというと、これも信頼性に限度のあることが研究者によって指摘されていることに注意をしておく必要がある。
たとえば東洋史家の
文献資料には事実が含まれている一方で、このような虚偽が入っていることに注意をする必要がある。本書で鳥越がしばしば注釈として「これは粉飾である」、「虚構である」とか「伝承の影響をうけて作為的につくったものである」というような文言を挟んでいるのはそのためである。注釈には真偽を見極める知能が問われているのである。
また、文献に出てくる倭人や倭国についての記述は、短くて限られている。そのため、訳注・解釈をするにあたって、物質・伝承資料が大きな助けとなる。
本書の著者、鳥越憲三郎は古代史家として文献操作に慣れているだけではなく、物質・伝承資料の分析や収集においても豊かな経験をもっている。その理由を理解するためには、彼自身の研究者としての経歴を紹介しておく必要があるだろう。
鳥越はミッションスクールである関西学院大学法文学部を昭和一三(1938)年に卒業している。彼の師はS・M・ヒルバーン教授である。このヒルバーン教授は宣教師でもあったが、シカゴ大学でPh.D. を取得した宗教学の研究者でもあった。当時、日本の宗教学は、社会学や心理学もそうであったように、哲学科のなかに置かれた哲学的な宗教学であった。日本の宗教学が哲学を離れ、現場に出向いて実証研究をはじめるのは、
ところが鳥越はすでに実証的宗教学・宗教史の研究を深めていたシカゴ大学仕込みの教育を受けて、昭和一三年以降、同大学の助手として沖縄の民間信仰の研究をつづけた。とくに昭和一七(1942)年から現地の沖縄県学務部社寺兵事課に嘱託として勤務し、
つまり、現場を歩き、現場で伝承を聞き取りつつ、
一方、鳥越は戦後になって、沖縄の歌謡集『おもろさうし』の全釈に十数年をかけて取り組み、それは昭和四三(1968)年に五巻本として出版された。解説者の私、皓之は鳥越の息子であるが、朝から夜遅くまで毎日机に向かい、この『おもろさうし』の翻訳に取り組んでいた後姿を、一度も遊んでもらえなかった不満とともに記憶している。難解な『おもろさうし』の全釈は画期的なものだったので、沖縄の新聞で大きく取り上げられた(この経緯は山口栄鉄『琉球おもろ学者 鳥越憲三郎』琉球新報社、二〇〇七、に詳しい)。
鳥越が沖縄をフィールドとしたことと、難解であった琉球国の中心的な文献を全釈したことが、ともに本書の下敷きとなっている。沖縄のフィールドは日本の古代を想起させるものであった。民俗学者の柳田国男や
歴史家が考える〝時代としての〟古代ではなくて、民俗学者などが考えるこの〝想起させる〟古代ということは、本書の解釈にとって貴重である。想起とはそこからヒントを得ることを意味するからである。そのため、鳥越は倭人や倭国を考えるにあたっても、ヒントを得るために現地である中国を歩きまわる必要を痛感したのである。
現地を歩くといえば、鳥越の最初の日本の古代史についての著作『出雲神話の成立』(創元社、一九六六、のち『出雲神話の誕生』二〇〇六と改名されて講談社学術文庫に収録)も、たんなる文献の渉猟にとどまることなく、島根県の現地を詳しく歩いていることがこの書の特色となっている。
鳥越は60歳代の中頃から70歳代にかけての十数年間、韓国や中国、東南アジアの
一九八〇年二月におこなわれたタイ国の山地に住む少数民族アカ族の調査は、テレビのドキュメンタリーの収録のためであったので、十人弱というやや規模の大きな人数での調査とドキュメンタリーの記録となった(同年、四月二九日放映「生きていた倭人」、毎日放送)。この調査には私も参加したので、調査の内容を記憶している。一同が驚いたのは、タイの人たちが山地民族と呼んでいるアカ族の集落にたどり着いたとき、日本人ならば誰でも鳥居とイメージする鳥居の形をした木製の入り口があり、驚いたことに、その鳥居に複数の木製の鳥がとりつけられていたことである。文字通り、本物の〝鳥居〟だったのである。さらに
このアカ族の高床式の家屋の写真は本書の「序説 倭人について」に掲載されている。日本においては、高床式は神社の本殿にその姿をとどめているだけである。本書でも説明があるように(「序説 倭人について」)、高床式になると履物をぬいで部屋に入る習俗ができあがる。
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本書の解釈と注釈を貫いている基本的な考えはどのようなものであろうか。それは鳥越が「倭族」という新しい命名をしたところの特定の文化要素のセットをもった民族の存在の指摘である。この「倭族」は、中国の
この考え方は倭を日本とほぼイコールで結びつける日本古代史の研究者たちの考え方と大きく異なる。もっとも古代を研究対象とする日本史家にとっては、倭である
それは日本史家の場合、主要には文献に基づくので、文献のある「漢委奴国王」印で有名な奴国あたりから研究をはじめればよいということで、日本人の起源論にはかかわらないという立場であるといえよう。文献だけに依存する場合はそうせざるを得ない。
そういうなかで、考古学者の
この漢書に「登場した倭人は、漁撈活動や商業活動で中国人と接触をもったというのではなく、すでに整然とした外交活動によって記録された国際人としての倭人である」(森浩一編『倭人の登場』中央公論社、一九八五、三七頁)。また彼はいう。朝鮮半島の固城の貝塚や土器などの遺物から、倭人は「領土的な侵略者としてではなく、固城を代表とするような沿岸の港を倭人が早くから商業と航海の拠点として利用していたことは十分に考えられる。……固城の東外洞貝塚では、日本の対馬に集中する、巨大化した
また朝鮮古代史・古代日朝関係史を専門とする
では人類学・民族学者たちはどのような説を展開しているのであろうか。
この大林の指摘は、大林自身がこれらの地域の現地調査をほとんどしておらず、どのような資料にもとづいているのか不明なところもあるが(一般向きの書物であるため、細かな引用を避けたためと思われる)、ともあれ、中国南部と東南アジアに倭と類似の習俗があるという指摘は、鳥越の指摘と重なってくる。
ただ、大林はあくまでも倭を日本ととらえている。そして大林はこの類似は倭の文化が「何百年にもわたる、大小の集団や個人が、さまざまのルートで」「中国東南部、つまり
ところで、日本文化のルーツ論として、よく知られている「照葉樹林文化論」がある。そこでは倭については討議されていないが、これまで紹介した倭についての見解と深く重なるところがある。ここでいう照葉樹林とは東アジアの温暖帯にひろがるカシやシイ、ツバキなどの常緑の広葉樹林帯をさす。そこでは、モチや納豆、ナレズシなどの発酵食品、高床式住居、山の神信仰などの現在の日本でもみられる文化的特色がみられる。またプレ農耕段階から、雑穀栽培を主とした焼畑段階、そして中国の長江中・下流域からはじまる稲作が卓越する段階へと三段階の移行をしてきたとするという考え方にたっている。
この「照葉樹林文化論」は栽培植物学者の
それは本書の鳥越が言う地域とかなりの重なりを示す。というよりも、鳥越は、そのようなことは一言も述べてはいないが、「照葉樹林文化論」の影響を受けていた可能性がある。あるいは鳥越の立場にたった言い方をすれば、鳥越はこの文化論が当時の文化人類学会で市民権を得ていたことが、自分の倭族論という考え方を押し進める気持ちの支えとなったと言えるかもしれない。口頭では自分の論拠を強化するために、照葉樹林文化論でも同じことを言っているというような発言を耳にしたことがある。
以上のことから、鳥越の解釈はとりわけ目立って際立ったものではなく、既存の事実とさまざまな解釈のうちのひとつと位置づけられよう。倭をほぼ日本列島とする従来の主要な考え方以外の可能性がデータから成立すること。雲南や長江あたりを中心にした東アジアの山岳地帯を含めた地域に日本の基層文化と類似する文化が存在することも理解されよう。ただ、鳥越の解釈としての、王国も作ったことのある倭族が敗退して四散亡命し、そのうちの一部が日本に至ったというその説明はたしかにおもしろい。だが、それを否定するデータはないけれども、またそれを肯定するデータも多くの研究者をして納得させるほどには十分でないことに注意をする必要がある。
なお不十分ながらも、『梁書』1「倭は、自ら太伯の後」という表現があり、それについて鳥越は「日本列島に渡来した倭人が自ら太伯の後裔であると伝えていたことは重要なことである」といったのち、この
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本書の解釈・注釈の特徴は、大きくは二つあると思われる。すなわち、鳥越以外の解釈者であったならば必ずしもそうは言わなかったかもしれない際立った特色、あるいは立場がある。もちろんそれらを鳥越自身は自分の実証的研究と研究的ひらめきに基づく
ひとつは「日本列島の倭国の地理的位置」の解釈である。もうひとつは姉と弟などの兄弟姉妹による「祭政二重主権」の解釈である。
前者の「日本列島の倭国の地理的位置」から説明をはじめよう。それは本書の『後漢書』2の解説で詳しく書かれている。すなわち地理的位置を鳥越は以下のように解釈する。『後漢書』において「日本列島が会稽・東冶の東で、朱崖・儋耳に近い所、すなわち中国の浙江省・福建省の東方海上で、広東省の海南島に近」い「故にその法俗は多く同じ」と後漢書の著者は記述した。
鳥越は解釈する。
「それにしても、日本列島の方位を狂わした[場所が異なったことによる方位の狂い]ことで、後世の学者たちを大きく悩まし、邪馬台国九州説の論拠ともなった。しかし、〝南〟を〝東〟として訂正して読むことで事足りるのである」。この方位の90度のズレで鳥越は他の個所でも解釈をしていく。
たとえば『三国志』23の解説において、鳥越はいう。「まず訂正しておかなければならないのは、方位として北部九州を〝女王国の以北〟と記していることである。再三述べるように、これは中国の地理観の間違いにもとづくもので、正しくは〝以西〟とすべきである」。たしかに
この鳥越の解釈を受け入れれば、邪馬台国畿内説になるが、そうでなければ、九州説も説得力をもつ。そして、学会ではまだ決着がついていない事柄である。
二番目の「祭政二重主権」の解釈をとりあげよう。すでに述べたように、鳥越は長年におよぶ琉球(沖縄)研究の経歴をもっていた。そしてそこ琉球国においては、祭政二重主権が行われている国であった。聞得[美称、万能の]大君がいて、大君を姉妹にもつ王がいた。
その事実と「鬼道の道に事え」(神に仕え)る
したがって鳥越の解釈では、卑弥呼や
この男女による二重主権が時代を経て、「祭事権者としての長男と、政事権・軍事権者としての次男との組み合わせに移行する」(『三国志』11の解説)。そのため、『三国志』11で「狗奴国あり、男子、王となり、その官に狗古智卑狗あり」という文章の狗古智卑狗は政事・軍事権者であったろうと解釈をする。
時代が少しくだって、『随書』の
鳥越は解釈して、兄の天も弟の日もともに、わが国では王にあたる者を意味するが、天は現人神的であり、弟は実際の政務をつかさどる者であり、使者は大和朝廷の祭政二重主権を説明しているのだという。
そしてその傍証として鳥越は「和歌山県橋本市の隅田八幡宮に伝わる人物画像鏡で、その銘文に〝大王〟と〝男弟王〟の字が見える」(『隋書』9の解説)と指摘する。
さてここまではこの二重主権論に納得できるとしても、さらにその延長線上にかなり思い切った解釈を生み出すことになる。
この解釈として、わが国で戦前から流布されていたのは、大国である中国に対する日本の堂々たる態度を示した聖徳太子の偉大さの表れであるというものであり、それは現在でも
それに対して、現在、歴史に詳しい人たちによって解釈されているのは、日本と中国とが東にある国、西にある国という同等であることを示した意味にすぎないという理解である。たとえば古代史学者の
その証拠にその次の国書では「東天皇、敬みて、西皇帝に白す」となっている。吉村はおそらく、その次の国書からヒントを得てこの解釈をしたのであろう。
では、なぜはじめからこのような表現をしなかったのであろうか。荒っぽい暴君でもなかった聖徳太子があきらかに相手の皇帝を怒らせるような文を書くであろうか。怒らせることは倭国にとってなんらの利益もないはずである。
これに対する鳥越の説明は日本の二重主権論の考え方がこの国書に反映しているというものである。日出ずる処の天子が男弟王を意味し、日没するところの天子が大王を意味するのであって、自分を弟と卑下し、中国の皇帝を兄としたものであるという解釈である。このような二重主権のことを知らない隋の煬帝は不快感を示した。ただ、翌年になって「怒ったはずの煬帝が小国の倭国に使者まで派遣することになった。それは(使者であった小野)妹子が皇帝に倭国の王の特異なあり方を説明し、また鴻臚卿も開皇二十年の遣使の言葉[前々頁に引用したもの]を引いて助言し、煬帝の心を和ませたからであろう」(『隋書』23の解説)と解釈した。
この「日出ずる処の天子……」の解釈をどこまで二重主権論で押し通せるかは、読者の判断にまかされようが、ともあれ、二重主権論が本書の著者鳥越の強い主張であり、それが「日出ずる処の天子……」の解釈に新説を生み出したのである。
本書の元の本が出版されたとき、鳥越は九十歳、ひと月前に私の母である老妻が大病で緊急入院し、治療を受けている時期であった。その後、母の回復は思わしくなく、始まった一人暮らしの中で、日々学問を続けることが父にとって生きがいであり、慰めであったと思う。父は日本神話についての執筆にとりかかったが、それは完成せず、平成一九(2007)年九十三歳で没した。本書が最後の著作となったのである。
▼鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002000140/