文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説:中島河太郎)
金田一耕助の名が、その伝記作者である横溝氏によって紹介されてから、ちょうど三十年になる。著者がこの書生っぽのような探偵を生んだとき、これほどの寿命を予想し得たかどうかしらない。
金田一の初手柄が物語られている一方では、由利先生の手がけた最後の事件、「蝶々殺人事件」が並行して進行していたのだから、著者は必ずしも探偵役の交替を考えていたのではなさそうである。
東京を舞台にしたものでは由利先生、ローカル・カラーをバックにした作品では金田一をといった使い分けが可能だったと思えるのだが、金田一は事務所を東京に開設し、東奔西走するようになってしまった。昭和八年来、三津木俊助とのコンビで親しまれた由利先生は、二十二年の「蝶々」の完結とともに消息を絶えて聞かなくなった。
金田一耕助の活躍する本格推理はむろん、読みごたえがあるが、私にとっては昭和十年前後から、耽美的作風に移られた作品が、少年期の読書の思い出とダブって懐かしい。
「面影双紙」「鬼火」以下の一連の物語に夢中になっただけに、それらに源を発して草双紙趣味をまじえながら、由利先生を探偵役とするシリーズに読み耽った印象の消え難いものがある。
「白蠟変化」は昭和十一年四月から十二月まで、「講談雑誌」に連載された。上諏訪での療養の甲斐があって、再起した第一作が「鬼火」であった。「蔵の中」「かいやぐら物語」「蠟人」と続いて発表された作品は、どれも彫心鏤骨の光彩を放って、読者を眩惑するに充分だった。
そのうちの「蠟人」と同じ月から、娯楽雑誌の連載が開始されたのだから、著者は探偵小説的趣向を凝らし、探偵役を起用しなければならなかった。
由利先生と三津木とのコンビは、前にも述べたように、八年の「憑かれた女」に登場しているが、先生の名前は記されていないし、かつて警視庁に奉職したことがあるという程度で、名捜査課長とうたわれたとは触れてない。
十年の「獣人」には、由利燐太郎という「学生上がりのまだ生若い青年」が登場する。後年私立探偵として身を立てるようになったとあるから、由利先生の若き日の挿話のように思われる。それが「白蠟変化」になると、燐太郎が麟太郎に改まり、麴町三番町に寓居がある。往年の名捜査課長で、野にあって警察方面とは一切関係をたっていると、わざわざ注釈がついている。
そのことについては、本篇と並行して書かれた「妖魂」で、由利捜査課長が輝かしいその地位から失脚した理由を、庁内にわだかまる政治的軋轢の犠牲になったのだろうと推測している。彼はそれから三年間、消息を絶っていたとあるが、本篇からは新日報社の三津木と組んで、縦横に活躍する。長篇だけでも本篇をはじめ、「まぼろしの女」「双仮面」「仮面劇場」「蝶々殺人事件」がある。
江戸時代からの小間物商で老舗のべに屋は、昔ながらの家憲に従って、婿養子を迎える場合でも、一族の血統の者から選ばねばならない。現在の主人は相思相愛の声楽家がいたにもかかわらず、血縁を楯にとって婿にさせられたのだが、とかく夫婦の仲が円満を欠いていた。折りも折り、主人が妻の死体の一部を処理している場面を発見された。彼は殺害を否認し続けたにもかかわらず、死刑が確定したというショッキングなニュースから物語は始まるのである。
急遽パリから帰国した声楽家は、愛する男の死刑を救うために、あらゆる方法を試みた。すべてが駄目だと分ったとき、彼女は刑務所から愛人を盗み出そうという前代未聞の計画までたてたのだ。この大胆不敵な陰謀が見事に成功を収めたかと思われたのに、まったく予期しない悪い籤を引き当ててしまった。
皮膚が白蠟のように白く、世の中の悪事という悪事をやってのけた凶悪犯までが、この物語に重要な役割を演ずるきっかけとなってしまった。著者は自己の作品に、幼時読み耽った読み本が影を落としていると書かれたことがあったが、読み本ひいては草双紙の結構に示唆されたと思われるのは、この年代の作品にもっとも顕著であった。
美男の死刑囚、それを救うために破獄をも辞さぬ稀代の美女。かれらをめぐって狐のような面相と狡猾さを具えている医学博士、悪の塊りの白蠟怪、エロを売り物のレビューの女優、鉄格子の中に監禁されている美少年ら、つぎつぎに登場する人物が、一癖も二癖もあって、かれらの行動が予断を許さないのだ。それだけにストーリーの展開がスピーディーで、複雑怪奇を極めて目まぐるしい。
「薄暗い、陰気な土蔵の中に鞭を振る妖女と、そしてその鞭の下に呻きながらも、一言も発しようとはしない美少年と、これ等の対照には、草双紙風な一種異様なもの凄さ」があると描かれているが、そのなまめかしい残虐さが作品全体の主潮となっている。
野望と欲情を遂げるためには、どんな奸譎な方法手段も厭わぬ策略が披露されるが、その反面に激しい思慕の念に駆られての献身が潤いとなっている。それらの愛欲の相剋の裏面では狡智な犯罪の陥穽が仕組まれているので、由利先生と三津木記者の推理を俟たねばならない。
卍巴と複雑なからみあいを演じているかれらの、いわば外側にいながら、二人の叡智はからくりを看破して真相に迫る。血で血を洗う惨劇の結末はあわれだが、旧家の掟のおぞましさや愛欲の執念を、仮借なく抉って弛みがなかった。
「焙烙の刑」は昭和十二年一月、「サンデー毎日」に発表された。
日東映画のスター俳優が、また従妹に援助を求められる。彼女の夫が殺人の罪をきせられて、監禁されているのを助けたのだが、その夫はある女性の魅力に捉えられて、こんな羽目に追いこまれてしまったというのである。
俳優がようやく謎を解く手がかりを得たときには、死の脅威にがんじがらめになっていた。可憐な女性と驕慢な女性とを対比させながら、殺人劇の背後にある黒い嫉妬の炎に、三津木俊助までがきりきり舞いをさせられるのだ。
「花髑髏」は「富士」の昭和十二年六月増刊号と七月号に分載された。
名探偵の評判が高くなると、手紙が舞いこむのは仕方がないが、由利先生は救助を求めるような、また挑戦状ともとれるような奇妙な手紙を受け取った。厭な予感がするといいながら、指定の場所に時間通り、出向いてみるのは因果な職業の嗅覚ゆえであろう。
果して血の滴る長持に出あった。中には負傷した女性が横たわっている。事件を予告した先生宛ての手紙には、血染めの髑髏が署名代りに描かれていたが、どうやら二十年前に秘密が介在しているようだ。
凶悪犯で殺された者の遺児が、復讐を企んでいるにしても、その正体が皆目つかめない。美貌と醜貌と、善と悪と、対照をくっきりさせたり、場面転換の速さなど、草双紙に学んだ手法が存分に活用されている。
おそらく世界中の犯罪者を選りすぐっても、この犯人に匹敵する頭脳を持っているのはいないだろうと、由利先生が述懐したほどの強敵であった。
波瀾曲折に富みながら、妖艶と残虐味をないまぜ、しかに意外な真相を秘めた由利・三津木のシリーズが、戦時下屛息するまでの数年間を楽しませてくれたのである。
▼横溝正史『花髑髏』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322002001025/