レビュー

文庫解説文庫解説より

2020年07月28日

コロナ禍の今こそ読むべき一冊！　感染症大流行の危機を描いた『鹿の王』、その後の物語『鹿の王水底の橋』

東えりか
書評家

ＳＦ・ファンタジー

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開！
本選びにお役立てください。
（解説：東あづまえりか / 書評家）

今は２０２０年４月８日。ちょうど日付が変わったところだ。先ほど安あ倍べ晋しん三ぞう内閣総理大臣から緊きん急きゆう事態宣言が発出された。周りはシーンと静まり返っている。

新型コロナウイルスによる感染症しようの増加が止まらず医い療りよう崩ほう壊かいに陥おちいりかねない事態であるため、東京、神奈川、千葉、埼玉、大阪、兵庫、福岡の７都府県を対象に５月６日のゴールデンウィーク終しゆう了りようまでを条件に発出された。

２０１９年12月「原因不明のウイルス性肺はい炎えん」として最初の症例が武ぶ漢かん市内で確かく認にんされてから、あっという間に中国全土に感染が拡ひろがった。わずか数か月で世界中に伝でん播ぱしたこの疫えき病びようは、３月にはパンデミックであるとＷＨＯが認め、２０２０年４月１日現在、１８０の国と地域に渡わたり感染が報告されている。

最初は普ふ通つうの風か邪ぜの症状だ。だから油断していた。見くびっていた。それゆえ対応が遅おくれた。罹り患かん者の８割の症状は軽い。しかし重症になったとたん死亡率が跳はね上がる。他人とは会うな、マスクをしろ、人込みには行くなと指示され、混乱した民衆は買いだめに走る。感染した人は差別され、情報を求めた末にデマに踊おどらされる。最前線の医師が命がけで治療を続けても医療崩壊は起こってしまう。これが地球上すべてで同時進行している。

今までにＳＦ小説やファンタジー、あるいは過去の事例を基もとにした時代小説などでパンデミック小説はいくつも読んできた。まさか実際に起こり小説では到とう底てい考えつかないほどの冷れい酷こくな現実を知るとは思わなかった。

上うえ橋はし菜な穂ほ子この『鹿の王』（角川文庫）は２０１４年に上じよう梓しされたハイ・ファンタジー小説である。発売当初より大反はん響きようを呼び、翌年の本屋大賞と医療小説大賞を同時受賞。子供から大人まで夢中にさせた。

この物語を構築しているベースのひとつに医療がある。謎なぞの感染症「黒狼熱ミツツアル」が持つ秘密を解くミステリーは、医療関係者や研究者たちも舌を巻くほど感染の様子や経路、治療法まで緻ち密みつに組み上げられている。

『鹿の王　水底の橋』の解説依い頼らいを受け、改めて『鹿の王』を読み始めたのは２０２０年３月初しよ旬じゆん。最初に読んだ時から５年余りが経たっており、正直にいえば主人公であるヴァンと拾い子であるユナの印象が強く残っていたのは否いなめない。

しかし読み進めるうちに私は震ふるえ上がった。現実社会はパンデミックの真っ最中で、いつ自分が罹かかるかと世界中が恐おそれ戦おののいている。治療薬もワクチンもなく、対症療法で様子を見る以外にない。中国での医療崩壊を他人ひと事ごとのように見ていたヨーロッパもアメリカも、あっという間に感染は爆ばく発はつした。

手のなかにある『鹿の王』の世界もまた、謎の病気に怯おびえ、治療法を探している。だが、この物語にはヒーローがいる。彼が何とかしてくれるだろうという希望が見える。悲しいことに、現実にはヒーローどころか後手後手にまわる為い政せい者たちの姿しか見えない。ファンタジー小説の『鹿の王』はまるで疫病の参考書のようにリアルに迫せまってきたのだ。

『鹿の王　水底の橋』は「黒狼熱大流行」の危機が去った後、黒狼熱の謎を解き明かしたオタワルの天才医師ホッサルの施せ療りよう院いん〈小さき者チミヤ・たちの巣トロス〉から始まる。助手で恋人のミラルと従者マコウカンと有能な医術師五人とともにこの施療院を運営している。

以前、黒狼熱患かん者じやの治療を行った際、手伝いに来ていた清心教医術の祭司医、真ま那なから幼い姪めいの亜あ々あ弥やの病気治療を助けてほしいという懇こん願がんを受け、ホッサル一行は彼の故郷であり清心教医術の発はつ祥しようの地、安あ房わ那なに同道することとなる。真那の父、羽は羅ら那なは安房那領主でありながら清心教祭司医の上師でもある。可愛かわいい孫まご娘むすめのため、清心教医術とは相いれないオタワル医術の意見を求めていた。

ちょうどその時、アカファや安房那を治める強大な帝てい国こく「東ツ乎オ瑠ル」では、二人の候補の間で次期皇こう帝てい争いが始まっていた。その結果いかんではオタワル医術は禁止、国を追放されてしまうかもしれない瀬せ戸と際ぎわにあった。

東乎瑠の大貴族たちが年に一度、集まる一大行事「ミンナルの鳴き合わせ、詩うた合あわせ」が今年は安房那で行われる。この時期にホッサルを呼んだ安房那侯こうの意図はどこにあるのか。権けん謀ぼう術数、様々な思おも惑わくが密ひそかに蠢うごめきはじめるなか、人を治療するとはどういうことなのか、とホッサルは悩なやみ始める。命を助けるためには手段を択えらばないオタワル医術と、心の安あん寧ねいに力を注ぐ清心教医術とは相いれないものなのか。

亜々弥の関節痛は女性には稀まれな病気だったため清心教医術でも発見が遅れ、科学的な解かい析せきを行うオタワル医術でも処方を間ま違ちがったが、そのことが医学の進歩を促うながしたともいえる。

興味深いのは清心教の原点である「花か部べ」の医術だ。古来、どこの国でも病気を治すために行われてきた呪じゆ術じゆつのひとつとして医療は存在していた。何万回、何億回と延々と繰くり返されてきた植物や動物から知りえた薬効は、現代医学でも活用されている。

20年以上前のことだ。インフルエンザの特効薬を試験中だという話を聞いた。原料の一つに漢方薬の八角を使うという。中国奥地に生える非常に特とく殊しゆなダイウイキョウの一種で、風土病などに特異的に効く植物などを探すある種のプラントハンターを擁ようするアメリカのベンチャー企業が見つけてきたらしい。

それが数年後、インフルエンザ治療薬、タミフルとなって発売された。漢方と西洋医学が見事に融ゆう合ごうした結果である。

私自身も若い頃ころ、インドネシアの小さな島で食あたりになり苦しんでいたところ、その地の医師兼けん呪術師に治療してもらったことがある。飲み薬を断ったらマッサージを施ほどこしてくれた。何かの草で腰こしのあたりをたたき、全身で下腹部の反対側を揉もみ上げてもらうと、下半身が火ほ照てり、吐はき気も便意も徐じよ々じよに消えていった。多分、日本の鍼はり治療に近いものではなかったか、と今ではそう思っている。

作家であると同時に文化人類学者でもある上橋菜穂子は、異世界のファンタジー小説の中で科学と精神のつり合いを説いた。身体が頑がん健けんであっても心の病は忍しのび込むし、終末を迎むかえる日々であっても、安らかに暮らすことができる人もいる。

『鹿の王』が世に出てから文庫化されるまでの３年の間に上橋は母を肺癌がんで亡なくした。発覚から亡くなるまでの２年間は母の看病と介かい護ごに没ぼつ頭とうしたという。その折、聖せい路る加か国際病院リウマチ膠こう原げん病びようセンターで西洋医学と東洋医学の両刀を使って治療する津つ田だ篤とく太た郎ろう医師に出で逢あいその治療によって母親のＱＯＬ（クオリティオブライフ）は格段に上がったようだ。

この二人の書簡集『ほの暗い永久から出でて』（文藝春秋）は刺し激げき的な本だった。人間だけでなく生命を宿す者すべてに対し、何のために生きるのかという永遠の課題を解き明かそうとしている。この中で上橋が医療の根源を語っている部分に胸を突つかれた。

──病んだ他者をたすけられる技術は、結局、自分自身をもたすけるのだ、という思いがあって、人は熱心に医学を生み、洗練されていっているのかもしれませんが、そこにあるのは、自分の子でなくても、群れ全体を守ることが、やがては、自分の遺伝子の生き残りにつながるというような実利的な意識だけでなく、やはり、他者の生病老死を目の当たりにして、放ってはおけない、そして、他者の生病老死に、自らの生について思わざるを得ない、人の心のうごきも関わっているように思うのです──

新型コロナウイルスによるパンデミックもいつかは必ず終息を迎える。喫きつ緊きんの問題はいかに患わずらわないかだが、遠くない将来、人類すべての問題として、その世界をどう生きるかを模も索さくしはじめなくてはならないだろう。

「鹿の王」シリーズはきっと何十年先も読み継つがれていく。そのとき、この文庫解説を読んで「こんな時代もあった」と思い出してほしい。物語のなかに永遠の真理が隠かくされているのだから。