文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:北村 浩子 / ライター、日本語教師)
『ジャパン・トリップ』の「トリップ」は、旅か、旅行か。タイトルを見たとき、そんなことを考えた。
「長旅」とは言うけれど「長旅行」とは言わない。『男はつらいよ』のフーテンの
わたしは日本語学校で働いている。仕事柄でもあるが、言葉を拾ってこんなふうにあれこれ考えるのが好きだ。「旅」と「旅行」のような類義語は、「大事」と「大切」とか「役に立つ」と「便利」など、挙げ出すとどんどん湧いてくる。無意識のうちに使い分けて(しまって)いるから、違いを分かりやすく説明するのは難しい。学生に質問されてもすぐには答えられなかったりする。日本人だから日本語が分かる、使いこなせるから理解しているとは言えないよなあと、そのたびに思う。
言葉を分かっているって、どういうことなんだろう。毎日使っている、自分から出てくる言葉は、自分そのものなのか。
メルボルンは、オーストラリアにおける日本語教育発祥の地と言われている。オーストラリアの日本語学習者は、日本人が想像するよりもたぶんずっと多い。国際交流基金のウェブサイトに掲載されている二〇一八年度の調査によると、その数なんと四十万人以上。学習者は初等、中等教育(日本の小学校から高校に当たる)段階に集中している。日本語は主に「学校の授業」で学ばれているのだ。
第一章の「My トリップ」はいわゆる地の文がなく、校内の会場に集まった人たちの声だけで構成されている。その場で誰かが回しているビデオカメラの映像を見ているかのようだ。姉妹校協定を結んでいる大阪の
違う言語を学ぶことで、母語の成り立ちや文法をより深く理解したり、母国の文化を客観的にとらえることができるようになります
他の文化や言語に親しく触れることで他文化に対する寛容性を養うことになるでしょう
寛容という言葉に照らされて浮かび上がるのは〈この人の英語もスゴイわね?〉〈理解できるからいいんじゃない?〉と、光太朗の英語をうっすら
旅程の前半の
ナンへの感謝の気持ちから、ショーンは日本へ来たかった一番の理由を口にはしない。しかしナンは気付いている。気付いていることをショーンは知っている。この、祖母と孫の関係がいとおしくせつない。日本に慣れてきた滞在三日目、「理由」をめぐる
ショーンの一人称パートと、雅明と茉莉に焦点を当てた三人称のパートがあることで、彼らが生きてきたこれまでの時間をも読者は見渡すことができる。だからこそショーンが得た思い出がとても個人的な、かけがえのないものに思える。初日の「アリガトウ」は、大阪を離れる日に「アリガトウ、ゴザイマス」になる。ゴザイマス、には三日間分のショーンの気持ちがこめられている。相手の言葉で伝えると渡せる気持ちが何倍にもなることを、彼はこの「トリップ」で知ったに違いない。
ショーンが泣き笑いの濃密な時間を過ごしていた一方で、もどかしさと
ハイリーは自分に困惑する。仲間が示してくれる優しさ、
彼女は、しかしほどなくして気付かされる。自分だってユイカと同じことをしていた。通りすがりの日本人にインタビューをするというアクティビティで、自分はキーラの〈出番〉を知らず知らずのうちに奪っていた。話す喜び、外国語が通じた、使えたという誇らしさを自分だけのものにしたいという気持ちがどこかにあったんだ──と。
ユイカ、別の言葉喋るのってすっごく楽しいよね、なんでユイカがあんなに英語で喋りたがったのか、わたし、わかったよ
キーラとの仲直りを経て、ハイリーは心でユイカにそう語りかける。「すっごく楽しい」のは、話したいという想いと言葉を受け止めてくれる相手がいるから、そして自分も受け止める側になれるから。「トリップ」で九人は、ハイリーが得たようにそれぞれの実感と喜びを手にしたことだろう。帰国時の大きな笑顔がその証拠だ。
「主役」の子どもたちを支える「主人公」、光太朗のことを最後に書きたい。
米屋の三男坊として生まれ、一流食品会社に就職したものの、虚無感に耐え切れず渡豪。異国の地で人一倍の努力をしてきた自負を持つ、熱心な教師だ。
彼は、言葉がコミュニケーションにおいて果たせる領域とそうでない領域があることを知っている。言葉を尽くせば分かり合えるわけではないということも知っている。将来を思い描いた恋人との別れも、言葉の限界を思い知らされた経験のひとつだったかもしれない。〈言葉なんかおそろしく頼りないね、たかがしれている〉と、キーラとのけんかを打ち明けるハイリーに光太朗が言う場面があるが、心を込めて日本語を教えつつ、言葉は万能ではないと認識している人物であることがこの小説に厚みを与えている。
「トリップ」の二年後のある時間を切り取ったラストの掌編「ひとりごと」に、光太朗の母は国語の教師だったという記述がある。最後に置かれた
日本から海を渡り、オーストラリアにやって来て十年。過去の恋を上書きできそうな気配もある。光太朗の「
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