以前、国内の日本語学校で教えていたとき、面白いというか、興味深く感じていたことがある。学生の顔だ。約四時間の授業が終わり、日本語から解放されると、表情がすうっと大人っぽく変化する子が、どのクラスにもいた。せんせいさよならーと言いながら、彼らは緊張を解いて本来の自分に戻る。身体ごとリラックスして、使いこなせる言葉で友人と喋り、笑う。人は言葉を司っているとばかり思っていたが、実は言葉が人を司っているのではないか。母語を話す学生たちを見ていると(そして自分自身にも当てはめて考えてみると)そう思わずにはいられなかった。
「言葉とアイデンティティ」は、岩城作品を貫くテーマだ。異郷で出会った女性たちの生き直しと友情を「言葉を獲得する」姿を通して描いた鮮烈なデビュー作『さようなら、オレンジ』、父親の転勤でオーストラリアで暮らすことになった少年が、英語と格闘しながら新しい自分を見いだしていく『Masato』。どちらもオーストラリアが舞台だったが、最新作『ジャパン・トリップ』は、外国の子どもたちが日本を体験する物語だ。
旅をするのは、オーストラリアの小中一貫校で日本語を学ぶ小学五、六年生の九人。姉妹校のある大阪で三日間、ホームステイをして特別授業を受け、そのあとは京都観光を楽しむという一週間のプログラム。日本が英語を話す国ではないこと、日本の子どもはバスや電車に乗って学校に通うこと……旅立つ前に、日本語コーディネーターのコータ・ヤマナカこと山中光太朗によって説明される事実に彼らは驚く。驚きながら感嘆しているようでもある。どんなトリップが彼らを待っているのだろうと、読者もわくわくする。
物語の前半では、祖母に育てられた十二歳のショーンに焦点が当てられる。九歳の双子の男の子がいる宮本家にホームステイすることになった彼は、普通の日本の家族の暮らしと自分の日常との差異を、少年らしい正直な感覚でとらえながら存分に楽しむ。仏壇を墓だと勘違いしたり、豪華な給食が出るのに掃除のおじさんがいない学校のシステムを不思議に思ったり、漢字ばかりの駅の路線図を見て、双子がこの難しい文字を読めることに「マジ感動」したり、発見のひとつひとつを心の中に貯めていく。そして、おいしい、心地いいなどの「快さ」を感じるたび、ここにナン(おばあちゃん)がいたらいいのになあ、と祖母の顔を思い浮かべる。
ショーンの一人称で語られるパートと、宮本家の夫婦、雅明と茉莉の視点で綴られる三人称のパートを交互に配し、お互いを見るまなざしの中に存在するものを、著者は丁寧に描いていく。三日目の昼間にある事件を起こしたショーンが、その夜「もっと日本語喋ってみたい」と思う場面には胸がいっぱいになった。「相手の言葉」で「自分の気持ち」を表したいと切望するだけの大きななにかを、ショーンは日本の家族からたしかに受け取ったのだ。
後半、語り手は女子のハイリーに替わる。一生懸命日本語を勉強してきたのに、ホームステイ先で「英語練習マシーン」のように扱われたと感じていたハイリーは、京都観光の最中にいらだちを爆発させ、仲の良い友だちと大ゲンカをしてしまう。彼女の複雑な思いを受け止め、光太朗は言う。「日本語には、ケンカ両成敗って言葉があるんだ」。そして、コミュニケーションにおいて、言葉が役割を果たせる領域と果たせない領域があることを、優しく語る。
一週間の旅行で子どもたちは、言葉と人は不可分なのだと知る。ハイリーは「思い出が張り付いている言葉は、絶対に忘れない」と思い、ショーンは「アリガトウ」に「ゴザイマス」をつけると、丁寧になるだけではなく温かいものが加わることを実感する。外国語を喋りたいと思うのは──別の言葉に憧れるのは──なぜなのか。異文化交流の物語というだけにとどまらない、シンプルなその問いの中に含まれるたくさんの答えが、この小説には詰まっている。
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