文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
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(解説:
脳を人体から取り出し、別の体に移し替えることは可能か。
脳移植については、検討段階には入っており、2018年にはイタリア人医師セルジオ・カナベーロが遺体を対象として頭部移植手術を行ったと宣言している。彼は、遺体ではなく、生きている脳でも移植はもうまもなく可能になると主張して話題になったが、技術的にはいまだ実現は難しいだろうという研究者間のコンセンサスがある。ノースウエスタン大学で
ただし、脳移植が理論的に実現不可能である、とは考えられていないようでもある。つまり、解決されるであろうことに異を唱える人ばかりかといえばそうではなく、脳移植の成功は時間の問題で、いつかそういう日が来るだろうということを否定的に見る人が全てではないということだ。近年では、脳実質ではなく、蓄積された情報や活動パターンを取り出して、シリコンの
本作は、サイエンスとしてはやや近未来的な世界の内容をスペキュラティブに表現している。女刑事・
脳を取り替える、というのは、科学技術の発達した現代ならではの命題のように思われるが、脳という臓器に着目するのでなく、自分と違った肉体への渇望、という意味でなら少なくとも『とりかへばや物語』が成立した平安時代後期にはこうした願望が存在した。
肉体を取り替えるとまではいかなくても、気に入らない部分をなんとか理想の形に近づけようと、現実に対して抵抗したことのない人はごくまれなのではないか。カツラで薄毛を隠し、たるんだ肉体をすこしでも引き締めようとトレーニングをする。シミだらけの皮膚にメイクをし、血色の悪い唇に紅をさす。糸を入れて皮膚を伸ばし、整形をし、なんとか今の自分とは違った「自分」になろうと
本作で描かれる、脳移植によって実現される世界の抱えるテーマの中にはもう一つ重要な、肉体と精神の独立性を巡る議論がある。多くの人は、肉体は単なる器であって、頭脳がこれを支配していると考えているだろう。つまり、意識の座が脳に存在する以上、脳を保持している者がその人格を保持している者となる、という考え方だ。
しかし、近年の研究はかならずしもそういう見方を支持しているとはいえない。
肉体のありようが脳を支配し、認知を変容させていく、といった仮説を支持するデータも少なからず蓄積されてきている。有名なものでは、ハーバード・ビジネス・スクールの心理学者、エイミー・カディの研究が挙げられるだろう。強いポーズを取ったとき、弱いポーズを取らされたときの自己イメージの変化は対照的で、強いポーズのときには実際に人を攻撃的にさせるホルモンの分泌が盛んになり、弱いポーズのときにはストレスホルモンの値が上昇する。人に屈辱を与え、行動を制限しようと思うのなら、外見からまず傷つけ、
やや古い研究だが、1960年代のアメリカにおける調査で、収監されていた囚人に対して整形手術を施した群とそうしなかった群とを比較すると、再犯率に有意に差があったという報告がされている。整形手術をした方が、再犯率が低かったというのだ。要因が複数あり、単純な問題でないためここで変数を一つに絞り切ることはできないが、少なくとも容姿の変化によって認知の変容が起き、実際の行動に違いが生じていったということは間違いなくいえるだろう。
ヒロインである河野明日香は、頑健で戦闘に向いた
肉体が徐々に影響を与え、意識の座と思われていた脳は、意外にも意識の入れ物の座であるだけという事実があらわになるという考え方は、魅力的だ。当人の人格は、容器としての体のありようによって大きく影響を受ける……。
本作の中ではさらに高度な問題も示されている。レシピエント(ドナーというべきか、作中でも問われているが)の小脳を残したまま脳を移植したあと、妹の姿があり得ない形で再構築され、認知と行動とに混乱をもたらしていくというエピソードが描かれている。このキャラクターは攻撃能力の極めて高い登場人物であるから、その混乱の与える印象はすさまじい。脳移植というアクロバティックな手術をにわかに敢行すべきではないという抑制的な思考を、本書を手にした医学界の人は無意識に持つのではないか。それほど作家・
我々の社会にはいまだにこの技術は存在しないが、それでも、きっかけが訪れるごとに人間は意識と肉体とのギャップに目を向けさせられる。そうした経験のない人はほとんどいないだろう。これは人間の業とも呼べるものだ。肉体の
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