生活反応の有無を判定するには、その切断面を調べるのだ。――死体の指を切断した場合、出血はほとんどなく、滲み出た血液は凝固しない
本文16頁より
何者かによって惨殺された遺体は耳朶が切り取られ、その耳穴には切断された小指が差し込まれていた。それは死後切断された別人の小指だった。物語の冒頭わずか数頁で、読者は猟奇的で謎に塗れた殺人事件に遭遇する。そして〝その切断面を調べるのだ〟という一文に導かれて、『切断』という小説に否応なく飲み込まれていく。
黒川さん本人が「それまでの警察小説からハードボイルドに移行しはじめた最初の作品が『切断』だった」(創元推理文庫版あとがき)と述べるように、本作は初期の黒川作品の系譜を切断し、新たな水脈に繋がった作品である。大阪府警シリーズのひとつでありながら、ハードボイルドであり、ノワールであり、サイコサスペンスでもある。タイトルも『二度のお別れ』や『キャッツアイころがった』のようなセンテンスではなく、すっぱりと『切断』。ディック・フランシスばりに、その後に生まれる疫病神シリーズも漢字二文字のタイトルが並ぶ。まさに転機となった作品なのだ。
冒頭の緊張感と容赦ない凄惨な描写からして、これはただならぬ小説であることが痛いほど伝わってくる。何者かが大阪阿波座の交差点を往き、病院に入っていく。冷徹で非人称的なカメラアイのように、その何者かの視点を借りて、淡々と状況を見せていく。ほどなくその何者かは「彼」という三人称にスイッチされるが、一人称の視点はゆるがない。だが、彼の内面には決して踏み込まず、彼が見たものだけが描写される。「俺」という人称は使わず、内面ではなく「彼」の行動の断面だけを見せるのだ。そして、彼はベッドに横たわる被害者の首を庖丁で刺し貫き、ナイフで耳朶を切り取り、切断された小指を耳穴に詰める。映画的で、ハードボイルドな語り口によって、読者は常軌を逸した異様な殺人事件の現場に立ち会うことになる。そして、切断された小指の謎によって始まる事件から、目を逸らせられなくなるだろう。かつて『切断』を読み始めて、その世界から逃れられなくなった私のように。
新刊が出るたびに、いち早く買い求めている黒川ファンの一人ではあるが、実は私とその繋がりには二度の〝切断〟がある。
最初に出会ったのは、1990年代の初頭、私が神戸で暮らしていた頃だ。当時は『海の稜線』『雨に殺せば』『てとろどときしん』などの大阪府警シリーズはもちろん、『暗闇のセレナーデ』などのノンシリーズほか、目につく作品を手あたり次第に読んでいった。その頃の自分の生活圏である関西が舞台になっていることはもちろんだが、黒川さんの作品に息づいているポジティブな生命力に魅せられていたのだ。刑事も犯人も被害者も、暗躍するヤクザな稼業の男たちも、黒川さんの筆によって切り取られた彼らの行動や人生の〝切断面〟からは、ヴィヴィッドな〝生活反応〟がある。それが心地よくてむさぼり読んでいた。しかし、どういうわけか、この頃すでに出版されていたはずの『切断』の単行本には出会えなかった。
そして、黒川作品との蜜月時代は一時切断される。作品がつまらなくなったとか、質が落ちたわけでは決してない。私の生活が大きく変わったせいだ。1995年の阪神淡路大震災を経て、私の生活圏は東京に移転したのだ。その環境の変化が大きな要因だった。しばらくして、東京でのゲーム創作と生活が少し落ち着くと、禁断症状が出始めた。その時、手にしたのが疫病神シリーズだった。ヤクザの桑原と、建設コンサルタントの二宮による虚実混じりの駆け引き、目の前で繰り広げられているかのようなテンポのいい会話劇。緊張と緩和の絶妙なバランス。切断されていた黒川ワールドと再び、たちまち繋がったのだ。登場人物たちのネイティブな関西弁も、東京暮らしの私には嬉しかった。関西から切断され、標準語に囲まれて自分の話す関西弁を意識する毎日がいささか窮屈だったからでもある。黒川さんの小説を読めば、当たり前に関西流のコミュニケーションをする彼らが、まさにそこで生きているという〝生活反応〟が感じられたのだ。
黒川作品によく出てくる食事のシーンもそうだ。刑事たちが捜査の合間にかき込む飯は、高級でも特別でもない。そこらの定食屋や食堂のメニューにある肉じゃがやカレーライスだ。そんなシーンから伝わる猥雑でエネルギッシュな大衆感が、なんとも言えない哀愁を醸し出す。
それだけではない。黒川さんの小説からは、大阪という土地を舞台にしていながら、一級の海外ミステリを読んでいるのと同じ感覚を得られるのだ。それが、私が黒川作品に填まった要因かもしれない。
たとえば『切断』で「彼」が犯行のための道具を買い揃えていく場面。
〝歩いて天神橋筋商店街へ行き、ショルダーバッグ、ワイヤーカッター、電工ペンチ、電気コード、絶縁テープ、プラスとマイナスのドライバー、太さ十二ミリ、長さ五メートルのナイロンロープ、グレーの即乾性ペイント、刷毛、黒の革手袋、スペアリブ用骨つき豚肉の塊二百グラムを買い揃えた〟
と記述されている。
これだけで「彼」の計画の用意周到さがわかる。これはルシアン・ネイハムの傑作『シャドー81』で、ハイジャック犯が犯行の痕跡を海に投棄していく描写を彷彿とさせる。余計な描写を排し、物品をリストアップするだけで、犯人と犯行の緻密さが了解できるのだ。
さらに『切断』が出版されたのは1989年で、これは『羊たちの沈黙』の翻訳出版と同年である(オリジナルの出版は1988年)。サイコサスペンスのブームのさきがけと言っていい。
ジェフリー・ディーヴァーがリンカーン・ライムシリーズの一作目『ボーン・コレクター』でサイコサスペンスと警察小説を融合させたのが1997年(翻訳は1999年)だから、それよりも遙かに早い。ちなみに『ボーン・コレクター』は、女物の指輪を指にした男の埋められた遺体が発見されるところから事件が始まる。さらにライムシリーズでおなじみの、捜査の過程を箇条書きにして整理していく描き方も『切断』にはすでに登場している(本文52頁)。これらのことからも、黒川さんの小説が世界レベルだということがわかるだろう。
そんな黒川ワールドとの第二の蜜月時代に出会ったのが文庫版の『切断』だったのだ。
これは最高傑作だ! 興奮したまま本を閉じたのを覚えている。
*ここから次の「*****」までの部分は、小説の展開と事件の真相を示唆しています。未読の方はご注意を。
『切断』を読み始めるや、その世界に引きずり込まれたことはすでに述べた。正体が見えない殺人者の「彼」と、猟奇的な殺人。切断された死者の指。
この解説を書くために再読していても、冒頭で提示される〝謎〟と、それを見せる見事な手腕から逃れることはできなかった。犯人も事件の真相もトリックもわかっているはずなのに、ページをめくる手を止められなかった。
猟奇殺人は連鎖する。第一の被害者は小指を切り取られ、その指は耳朶を切り取られた第二の被害者の耳穴に詰められていた。第三の被害者は舌を切り取られ、かわりに第二の被害者の耳朶を咥えさせられていた。それでは次の被害者は何を切断され、第三の被害者の舌はどこに詰められるのか?
切断された他人の部位を無理矢理にくっつけられるあらたな被害者の登場。切断と接続の連鎖は、大阪府警の刑事たちと読者をミスリードし、幻惑させる。その行為から犯人の意図を読み取ろうと必死になる。しかし、展開は読者と捜査陣の予想を裏切る。第四の殺害は、犯人の計画通りにいかず、誘拐事件に転換するのだ。大胆不敵で、用意周到、完璧なプランをもって殺人を実行していると思われた犯人の素顔は果たしていかなるものなのか。また、時間軸を異にして語られる第一の被害者の過去は、現在進行中の事件とどう関連してくるのか。「彼」とは誰なのか、その犯行の動機は何なのか。それら現在と過去の切断面が巧みにシャッフルされて語られる構成によって、私たちはこの異形の事件に、「彼」に、翻弄されることになる。
連続猟奇殺人が誘拐事件に切り替わったように、本作は単なる警察ものではなく、サイコサスペンスでもなく、本格ミステリでもなく、ハードボイルドでもない、ジャンルが融合した特異な作品になっている。それは、犯人による切断という行為のみならず、黒川さんが綿密な計算によって読者に提示する物語の切断面故なのだ。〝切断〟というタイトルは、作品の佇まいだけでなく、黒川作品の系譜を切断し、繋ぎ直している、ある意味でメタ的なメッセージにすら思える。
そもそも、本作は「第二の殺人」から開幕する。最初のきっかけであるはずの「第一の殺人」から〝切断〟されて始まるのだ。なぜその〝切断〟が起きたのか、実行犯を「彼」という三人称を用いながら、カメラアイのような一人称で、なおかつ内面を描かなかったのはなぜか。
久松(ひさまつ)の脳裡で何かが弾けた。 切る、切り離す、切断する――
物語の終盤近く、お好み焼き屋でのデカ長の久松の描写である。犯人は(そして作者は)何を切り、どうやって切り離し、なぜ切断したのか。この久松のひらめきと、読者の驚きは、ほぼシンクロする。
すべての謎が解明したのち、冒頭に立ち戻ると、黒川さんがその切断面に仕掛けた企みが見事に浮かび上がってくる。そしてその語り(騙り)の仕掛けは、トリックのためだけでなく、世界の理不尽さによって人生を切断された男の苦悩や哀切を描くためだったことがわかる。これを傑作と言わずして、何をそう呼べばいいのだろうか。
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『切断』によって、ふたたび黒川作品と繋がり、未読の作品をあらかた読み尽くしたが〝二度のお別れ〟をしてしまう。今度も黒川作品に非はない。本業のゲーム創作が多忙を極め、新刊を追いかけるのがおろそかになってしまったせいだ。黒川節ともいえるあの関西弁の掛け合いを懐かしく思い出すことはあったのだが。
三度目に繋がったのは『破門』の直木賞受賞がきっかけだった。桑原と二宮の疫病神がお祝いされたような気がして書店に走った。
『切断』のある場面で、ある人物が「死なへんぞ、死なへんぞ」とつぶやきながら小道を歩く場面がある。ころんでは立ち上がり歩いていく。黒川さんの作品を読まなかった間も、どこかでこうつぶやいていた気がする。独り言で、誰にも聞こえないかもしれないが、どこかで繋がっている気がしていた。そのことを思い出して、受賞作を噛み締めるようにして読んだ。それからは新作が出るたびに書店に走る。それもこれも、〝二度の切断〟があったからかもしれない。
二度の切断を経て、この『切断』で黒川さんと繋がることができた。
黒川さん、もう切れまへんよ。三度目のお別れはないです。