茹であがったばかりの枝豆と二本の発泡酒、そして二個のおむすび。野球中継を観ながら、ささやかながらも充実した夕食を尾津がとろうとしたとき、食卓の上の電話が鳴る。水川と名乗る男が、会って話したいことがあるという。名前に心当たりはないが、大事なことらしいので、尾津は了解した。
やってきたのは三十そこそこくらいに見える、色の白い男だった。その水川がなんだか意味不明のことを口走る。アダムとイブがいるんです。「クリエイター」というプログラマーの集団がとんでもないソフトを開発し、それを隠したんです。その隠し場所を解く鍵をアダムとイブに託したんです……。そのアダムが尾津だというのだが?
産経新聞に連載されたのち(二〇〇三・五・一~二〇〇四・六・三十)、二〇〇五年一月に文藝春秋より刊行されたこの『ニッポン泥棒』は、まさに野心作以外のなにものでもない。まずは主人公の年齢設定だ。大沢作品のなかでは珍しく六十代半ばである。
かつて敏腕商社マンだった尾津は六十四歳、老眼で、眼鏡なしには細かな書類を読むのもままならない。商社に勤めていたときには、東南アジアを中心に、世界のあらゆる国を飛び回った。〝エスキモーにすら冷蔵庫を売りつける〟と、日本人商社マンが揶揄された時代である。だが、バブル経済がはじけ、五十五歳で子会社に出向となり、もうすぐ二度目の退職金というとき、親会社が倒産してしまう。
ほぼ軌を一にして妻から離婚を切り出される。財産をすべて折半して受け入れた。今は賃貸マンションに独り暮らしで、ハローワークに通う身だ。かつて何かしらの武術を鍛錬したこともないし、秘密組織に属して暗躍したこともない。ハードボイルドや冒険小説のメインに位置するには、いささか地味で迫力もない人物である。
その尾津の前に突然現れたのが、「ヒミコ」だ。それは「クリエイター」があちこちから盗み出した、厖大な情報から作り出したシミュレーションソフトである。大学や政府機関、アメリカのNSAや国家安全保障局などのコンピュータをハッキングしたという。もちろんそれはイリーガルな情報の集積だ。そして完成した「ヒミコ」は、歴史を変えてしまうかもしれない能力を持ってしまった。その利用価値を知った組織が暗躍しはじめる。そこで「クリエイター」はアダムとイブ、男女のペアを解除の鍵として「ヒミコ」をどこかに隠したというのだが……。
コンピュータのネットワークであるインターネットを利用してのサービスが、日本で本格的に展開されだしたのは一九八〇年代後半だが、一般的になったのは一九九〇年代半ばだろうか。電子メールがやりとりされるようになり、Webサイトで情報の発信が行われるようになる。とはいえ、まだ電話回線を利用してのもので、じつにまだるっこしいものだった。二〇〇〇年代に入ると光ファイバーによる接続サービスが始まり、通信速度は格段に速くなった。いわゆるSNSが広く利用されだしたのも二〇〇〇年代初頭だ。
いまだに原稿は手書きという大沢氏だが、こうした社会の新しい動きにはじつに敏感だった。二〇〇一年二月に「大沢オフィス」の公式ホームページとして「大極宮」を開設、リアルタイムに情報を発信しはじめる。携帯電話に配信というかたちで連載した『未来形J』(二〇〇一)では、インターネットで終章を公募したりもした。ネット社会の先進性にいちはやく注目していた一方で、そこに潜む危険にも気付いていたに違いない。
『死角形の遺産』(一九八二)の凶弾に倒れた世界的ミュージシャンの曲が録音されていたカセットテープ、『シャドウゲーム』(一九八七)の恋人の遺品から見つかった楽譜、あるいは『夢の島』(一九九九)の無限の富を生み出すという父の〈遺産〉などがそれまで物語のメインの謎になっていたが、この『ニッポン泥棒』の「ヒミコ」はとりわけスケールの大きいものだ。デジタルの処理から逸脱した機能を持ってしまったのだ。AI(人工知能)という用語は出てこないけれど、いわゆる二〇四五年問題として取りざたされる、人工知能が知識・知能の点で人間を超越する技術的特異点(シンギュラリティ)の萌芽をここに見ることもできるのではないだろうか。
ところが主人公である尾津はパソコンを持っていないし、インターネット社会にも疎い。突然やってきた水川の説明はまったく意味不明で理解しがたいのだ。「ヒミコ」がすごいソフトだと説明されてもピンとこない。それを製作した「クリエイター」のうち三人が命を失ったと聞いても、そして「ヒミコ」の争奪戦が起こっていると聞かされても、それは所詮、他人事なのだ。アダムだかなんだか知らないが、勝手に役目を押しつけられては不愉快なだけである。しかし、突然、好条件のヘッドハンティングの話があり、水川が自殺したことを知らされると、尾津は自身が「ヒミコ」をめぐる権謀術数の世界に巻き込まれてしまったことを実感していくのだ。
『流れ星の冬』(一九九四)は六十五歳で短大教授の葉山が主人公だった。主人公の年齢という意味では『ニッポン泥棒』と対をなす作品と言えるが、葉山には闇の仕事をしていたという過去があった。その過去が迫ってくることで、隠されていた牙を剥きはじめる。だが尾津には、迫り来る危機に対処する葉山ほどの過去はない。それに代わるモチベーションが必要だった。それが自身同様に勝手に鍵にされてしまったイブの存在である。
佐藤かおる、三十歳。尾津は最初、そこまでしか知らされていなかったが、水川がその死と引き替えに詳しい情報を尾津に伝えてくれた。彼女もまたこの理不尽な運命に翻弄されているとしたら、どれほど恐く、心細いだろうか……。
だが、アダムとイブの関係は単純なものではない。世代的にはずいぶん離れている。アダムは終戦直後の混乱のなかで、イブはバブル経済のなかで、ともに社会とそこに蠢く人々への不信の思いを育んできたとはいえ、やはりそこには世代的な乖離があった。そんな年の離れた男女の意識の違いが、この物語ならではの緊張感となっていくのだ。
大沢氏は連載を開始するにあたってのインタビューで、
六十代でも三十代でも団塊でもない僕は、属してない分、世代を書くのが難しい。でも、価値観の衝突というものを今一番書きたい。未来の〝鍵〟を握る事件に、昔のやり方を知っているタフおやじと、全く新しい考え方の若い女がどうアプローチするか。ぶつかり合いで生まれる未来を見てみたい。
「産経新聞」二〇〇三・四・二十九
と語っていた。執筆当時、大沢氏は四十代後半だった。ここに『ニッポン泥棒』におけるひとつの野心が端的に示されている。それは世代の違いによる日本社会の見方であり、その日本社会の未来の姿の予測だ。
一九六〇年代後半から一九八〇年代にかけての、優秀な商社マンとしての実績を尾津は自負していた。
富の収奪が、発展する国家を作りだし、やがてその国家の力で、奪われるばかりだった貧しい国家も豊かになっていく。私はそれを信じていた。だからこそ日本を富ませ、やがてはその日本が、別の国を豊かにする力をつけることを願っていた。日本は自分の国で、豊かにするのは自分の義務だと信じていたからだ
これはまさに新自由主義における「トリクルダウン」であり、二〇一〇年代の日本の経済政策の背後にあった幻影だ。結局は富はますます集中し、低所得者層が増えるばかりである。富や権力を、そして「ヒミコ」のようなとてつもないソフトを手に入れたものは、けっして手放しはしない。
一方、イブの佐藤かおるは、当時としてはじつに個性的なキャラクターだ。六本木のクラブに勤めながらある目標をもって学んでいる彼女は、尾津に自身の思いを遠慮なくぶつける。「でもつくづくわたしが感じるのは、この国も、この国の男の人たちも、駄目なんだということ」とか、「結婚はしません。したいとも思わない。そこまで自分の幸福を他人任せにする気にはなれないんです」とか、「この国の男は、そういう意味では、ほとんどの人間が最低です。男尊女卑とか、そんなレベルじゃありません。/そんな男が支配しているこの国に、未来なんかある筈がない」とか……。
尾津はまったく否定できない。セクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントがいっこうになくならない今の日本社会からすれば、イブの指摘はまだ生ぬるいだろう。
しかし、そんな世代間ギャップのあるアダムとイブが、迫り来る危険のなかで共通の価値観を見出していく。そして、政治家や官僚たちをいらだたせた過去を持つコンピュータに詳しい細田や、尾津とかつて関係のあった料亭の元女将、かつてかおると恋人関係にあった闇の世界に生きる冬木たちとの、人間的な関係が、次々と化学反応して物語をサスペンスフルなものにしていく。
それはまさに、『小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない』(二〇一二)で、〝面白い小説というのは、ミステリーであれ、恋愛小説であれ、どんなジャンルの小説でも、主人公に対して残酷です〟と述べていたことのお手本だ。目的のためには手段を選ばない非情な組織が、尾津を肉体的に痛めつけていく。ただの元商社マンの老人なのに! だが、尾津もまたある意味でタフな男なのだ。それなりに修羅場はくぐってきた。ネゴシエーションのテクニックなど、商社マン時代の経験がしだいに発揮される。尾津を中心にしての虚々実々の駆け引きが、最後まで緊張感を保っていく。
『ニッポン泥棒』の未来を見据えたストーリーでひとつ誤算だったのは、高齢化社会だったかもしれない。六十歳の定年後はのんびりと、などというのはもはや幻想である。公的年金の受給には不安が高まり、七十歳まで働かされそうな日本社会である。そして大沢在昌氏の作品群には、老エージェントが大活躍する『俺はエージェント』(二〇一七)のような長編も加わっている。だからといって、『ニッポン泥棒』という二十一世紀の日本の姿を予見した物語が色あせることはないに違いない。