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レビュー

時はついに動いた――稀代の名探偵、34歳の誕生日に起こる最大の事件とは?『遺譜 淺見光彦最後の事件』

 本書のタイトルにはかなり驚かされるだろう。浅見光彦(あさみみつひこ)最後の事件!? 浅見光彦はこれまで百以上もの事件を解決し、テレビドラマでも大人気の、日本ミステリー史に特筆される名探偵である。その名探偵がなんと最後の事件を迎える……。信じられないという読者は多いはずだ。この上下巻の長編は二〇一四年七月にKADOKAWAから書き下ろし刊行されたものだが、最後の事件という構想自体は二〇一〇年秋、全十五巻の『内田康夫ベストセレクション』がスタートしたときに明らかにされている。それは出版界に大きな衝撃をもたらした。
 たしかに何事も、〈最初〉があれば〈最後〉は避けられないかもしれない。浅見光彦の事件簿にしても、『後鳥羽伝説殺人事件』という〈最初〉の事件がある。それは厳然とした歴史上の事実だ(ちょっとオーバーではあるけれど)。だから浅見光彦の事件簿に〈最後〉があっても不思議ではないだろう。ただ、そんなことは分かっていても、最後の事件が書かれるなんて信じられなかったのである。
 いや、ショッキングなことはこれだけではないのだ。なんと、東京都北区西ヶ原(にしがはら)に住む浅見光彦の母、雪江(ゆきえ)のもとに、浅見光彦の三十四歳の誕生日を祝う会の招待状が届いているではないか。それは二月十日、軽井沢のホテルで催されるという。そんなことがあるはずがない! 彼の事件簿の愛読者ならば即座にこう断言するだろう。
 ミステリーの名探偵が暦通りに歳を重ねていく例はほとんどない。もしそんな律儀なことをしていたら、デビュー時に颯爽としていた青年探偵も、作品を重ねたすえには杖をついた老年探偵になりかねない。たとえば横溝正史(よこみぞせいし)作品に登場する金田一耕助(きんだいちこうすけ)である。暦通りではなかったけれど歳を重ねていたので、最後の事件と銘うたれた『病院坂の首縊りの家』(一九七八)では、一九四六年に雑誌連載された最初の事件である『本陣殺人事件』と外見的にはあまり変わっていなかったけれど、老いたというイメージは拭えなかった。
 もちろんこうした変貌もまた、ファンにとってはひとつの楽しみとなるかもしれない。けれど、読者は必ずしも最初の事件から読んでいくわけではない。人気キャラクターになればなるほど、年齢に関しては曖昧になっていく。西村京太郎(にしむらきょうたろう)作品に登場する警視庁捜査一課の十津川(とつがわ)警部も、最初の頃は歳を重ねていた。だが、途中から四十歳でストップしてしまった。人気の名探偵の宿命と言えるだろう。
 浅見光彦の誕生日は二月十日とはっきりしている。しかしこれまで、作中で誕生日を迎え、バースデーケーキなどで祝され、歳を重ねたことはなかった(ヒロインの誕生日を祝したことはあるけれど)。永遠の三十三歳、それが読者のあいだでは暗黙の、いや、明々白々の了解事項だったのである。だから名探偵は、三十三歳のたった一年間に、日本各地を、そして時には海外へと足を延ばして、(おびただ)しい数の事件を解決してきた。分身の術? そんな野暮な指摘をしないのがミステリーの読者だが。
 ところがこの長編では冒頭、三十四歳のお誕生日会が催されるとあるのだから、驚かないほうがおかしいだろう。招待状に記されている発起人は、稲田佐和(いなださわ)小松美保子(こまつみほこ)野沢光子(のざわみつこ)藤田克夫(ふじたかつお)水上秀美(みずかみひでみ)、そして代表の本沢千恵子(ほんざわちえこ)である。いつも安い原稿料で浅見光彦をこき使っている『旅と歴史』の藤田編集長はさておき、ほかの五人の女性は浅見光彦シリーズの読者ならば忘れがたいヒロインたちだ。ちなみに誕生パーティには軽井沢のセンセも遅れて顔を出しているのだが……特段触れる必要はないだろう。
 稲田佐和は高知の山奥に住む神秘的な美少女で、『平家伝説殺人事件』に登場したシリーズ初のヒロインである。いや、それどころか、浅見家の応接間で浅見光彦とキスを交わし、事件解決後に帰郷する佐和を見送ったときには、彼女との結婚を予感していた浅見光彦である。にもかかわらず、その後はほとんど思い出しもしないのだから、男性読者からしても薄情としか思えなかった。
『赤い雲伝説殺人事件』と『隅田川殺人事件』に登場した小松美保子は、雪江未亡人と絵画教室の仲間である。『赤い雲伝説殺人事件』では彼女の描いた絵が事件の発端となっていた。その時は旅先で浅見光彦といいムードになっていたのだが、『隅田川殺人事件』でもまったく進展していないのはいつもの如くである。
 野沢光子は小中学校の同級生だから、一番長い付き合いの異性だろう。久しぶりに再会した『「首の(ひと)」殺人事件』では光子の姉が事件に巻き込まれていた。『終幕(フィナーレ)のない殺人』ではなんと、浅見光彦とともに箱根の別荘に泊まっている。もっともそれは恐怖の一夜となったのだが。能楽師の水上秀美は『天河伝説殺人事件』の一作にしか登場していないが、浅見家と水上家の浅からぬ因縁を考えれば、発起人に名を連ねているのも納得である。
 そして発起人代表の本沢千恵子は著名なヴァイオリニスト……というか、浅見光彦とお見合いらしきことをした最初で最後の女性だ。それは『高千穂伝説殺人事件』でのことで、二十三歳には見えないほど幼さの残る美少女だった。ウィーンの音楽祭で銀賞を受賞したくらいの実力者だから、恋愛なんて考えられないかもしれない。とはいえ、岡山県で事件に巻き込まれた『歌わない笛』で浅見光彦と再会すると、心ときめくのだった。
 その本沢千恵子が誕生日会の直前、ヴァイオリン仲間のドイツ人女性を浅見光彦に紹介する。その女性、アリシア・ライヘンバッハがなんと浅見にボディガードを依頼した。丹波篠山(たんばささやま)に行って、七十年前、ある日本人に託したフルトヴェングラーの楽譜を返してもらってきてほしい。かつて日本にいたことがあるという祖母が、彼女にそう頼んだという。ついては、危険があるかもしれないからと……。
 事件の予感を抱きつつ浅見光彦は誕生日会へと赴く。『横浜殺人事件』の藤本紅子(ふじもとべにこ)、『長崎殺人事件』の松波春香(まつなみはるか)、『漂泊の楽人』の漆原肇子(うるしばらはつこ)ら、数々のヒロインの姿があって会場は華やかだ。また、長野県警の竹村岩男(たけむらいわお)警部、警視庁の岡部和雄(おかべかずお)警視、そして広島の野上(のがみ)刑事の顔を見れば、あの事件この事件と浅見光彦の胸には謎解きの思い出が甦る。
 そんな列席者のひとりに、『平城山(ならやま)を越えた女』のヒロインの阿部美果(あべみか)がいた。お寺巡りが好きな編集者で、弥勒菩薩(みろくぼさつ)にそっくりというのが衆目の一致するところである。その美果が浅見光彦に、太平洋戦争中の贋札(がんさつ)作りのことを話す。なんでも神戸に住む関係者に会いに行くとか。そして高知の山奥に住んでいた佐和が、神戸で働きはじめることも知った。かくして浅見光彦は西へと……。
 とにかくスケールの大きな謎解きである。現在に起こるさまざまな事件が、過去の出来事と絡み合っていく。いくつもの秘密と複雑な人間関係が名探偵を悩ませる。そしてついには、飛行機嫌いの浅見光彦がドイツまで空の旅をしているのだ。これまでの事件関係者との思わぬ関係があったりと、たしかに〈最後〉の事件に相応しく、読み応えたっぷりである。
 ミステリー界にはこれまで数多くの名探偵が活躍してきたが、その事件簿において〈最後〉と題されたものがなかったわけではない。たとえばシャーロック・ホームズの六十の事件のなかには、第二短編集『シャーロック・ホームズの思い出』収録の「最後の事件」(The Final Problem)と題された短編がある。宿敵のモリアーティ教授とスイスのライヘンバッハの滝で格闘したあと、ホームズは消息不明に……。などという結末は許されるはずもなく、作者はさらにホームズの探偵(たん)を書きつづけることになる。
 だから簡単に名探偵の最後の事件は発表できないのだが、E・C・ベントリー『トレント最後の事件』(Trent’s Last Case)や麻耶雄嵩(まやゆたか)『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』のように、名探偵の初登場が最後の事件となっていた場合もある。また、北村薫(きたむらかおる)『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』では、パスティーシュとして、著名な名探偵の最後の事件が描かれていた。
 もちろん、エラリー・クイーン『レーン最後の事件』(Drury Lane’s Last Case)や太田忠司(おおたただし)『男爵最後の事件』のように、シリーズ物の最後を意識した作品もあるけれど、日本で刊行された多くの最後の事件は、もうこれから書かれることがないという現実を反映したものだ。
 アガサ・クリスティ『カーテン―ポアロ最後の事件』、モーリス・ルブラン『ルパン最後の事件』、レイモンド・チャンドラー『マーロウ最後の事件』、E・D・ビガーズ『チャーリー・チャン最後の事件』、ジョン・ディクスン・カー『月明かりの闇―フェル博士最後の事件』、レックス・スタウト『ネロ・ウルフ最後の事件』など、独自の邦題で名探偵の〈最後〉を強調していた。
 ところがこの『遺譜 浅見光彦最後の事件』の〈最後〉には、さまざまな意味が込められている。これまで積み重ねられてきた浅見光彦のキャラクターを十二分に生かして、〈最後〉が演出されているのだ。浅見光彦シリーズのファンならちょっと安心する〈最後〉もある。そしてさらに、三十四歳の誕生日に重大な意味が込められていることも、しだいに分かってくる。こんな名探偵の最後の事件、ミステリー史上かつてなかったのではないだろうか。


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