新聞社にいた頃のある時期、週刊誌の記者をしたことがあった。その際に、新聞と雑誌編集の違いに驚かされた。一言でいえば、ニュース・バリューの違いだ。
新聞は、「社会的な広がり」と「重要度」の積算で、ニュースとして報じる価値があるかどうかを判断する。雑誌の場合は、「社会的広がり」と、「読者の切実さ」の積算である。全体から見れば数は限られていても、特定の読者が「どうしてもこの記事を読みたい」と思えば、雑誌を買っていただける。
当事者になるかどうかで「切実さ」に最も大きな差がある分野は、子育て・教育と、健康だろう。自分の子が学齢期になれば、学校や教育の情報は必須だ。しかしその時期を過ぎれば、たちまち関心は薄れる。同様に、病に罹った人やその家族にとって、薬や治療法の情報は最も切実なものだ。とりわけ、それが生と死を分かつほど深刻なものであれば。
その典型は、「がん」だろう。長寿社会にあって日本人の二人に一人が罹患し、三人に一人がそのために亡くなる。しかも病因や機構は十分解明されておらず、治療法の決定打もない。ふだんは「自分に関係ない」と遣り過ごす人も、いざ当事者になれば、「なぜ私が?」と自問し、切実に情報を求め始める。
本書は、最先端の知見を織り込みながら、多彩な医師群像を通して、その「がん」社会の本質に迫る壮大な医療ドラマである。しかも、病としての「がん」だけでなく、この社会にはびこる病理を抉る点で、社会派ミステリーの嫡流を汲む力作といえる。
物語は、著名人が次々に悪性のがんで倒れ、社会を震撼させる逸話で幕を開ける。
総理の泉水新太郎は、凶悪化するがんに対処すべく、国の威信を賭けて緊急のプロジェクト「G4」を立ち上げる。「G4」とは、がんに対する主要な治療法、つまり外科手術、抗がん剤、放射線治療、免疫療法の四つのグループを指す。各分野を代表する四大学を選び、一致協力して最適の「集学的治療」を見出すというオール・ジャパンの取り組みだ。
多くの国家プロジェクトと同じく、「G4」も「その意気や壮」である。五年間で八千億円という予算は、最良の治療法に重点配分される。権威を誇る外科、内科を始め、新興の放射線科、免疫療法科の代表校は、面子と生き残りを賭けて、熾烈な覇権争いに突入する。「互いの短所を補って総力を結集する」はずのプロジェクトは、いかに他のチームを出し抜き、欺くかという権謀術数の舞台となる。
物語は代表校それぞれの教授、准教授、筆頭講師の動静を克明に追い、野心と深謀、策略、葛藤が渦巻く様を活写する。
とりわけ伝統ある二つのグループの動きが物語を駆動する。論理的かつ優雅なオペで知られ、「神の手」と呼ばれる阪都大学消化器外科教授の玄田壮一郎。そのもとで如才なく振る舞う陰謀家の准教授・黒木潤。その二人に翻弄されながらも、医師の本願を捨てず、患者に寄り添おうとする筆頭講師の雪野光一。
玄田と火花を散らすのは、抗がん剤の権威で各界に顔のきく東帝大学腫瘍内科教授の朱川泰司。彼が率いる内科グループでは、小心で影の薄い小南忠之准教授を差し置いて朱川に取り入り、権力への野心に駆られる筆頭講師の赤崎守が異彩を放つ。
雪野と赤崎は、都内でも有数の進学校で同級生だった。成績はいつも赤崎が上で、現役で東帝大医学部に合格し、雪野は都落ちする形で大阪の阪都大医学部に入った。しかし雪野は高校でスポーツや演劇に打ち込み、いつも余裕と信望があった。赤崎はエリート特有の屈折した劣等感と孤独を抱える人物なのだ。
物語は、光と影にあたるこの二人のライバルの生き方を対比しながら進むが、それでいて、勧善懲悪の安易なパターンには陥らない。赤崎はパスツールの伝記を読んで医師を目指し、多くの患者を救いたいという志を持っていた。患者に対して誠実な雪野も、医局制度の掟に縛られ、家族を守るために身過ぎ世過ぎを意識せざるをえない。つまり二人は善玉悪玉のライバルではなく、生身の肉体と弱みを備えた人間なのである。
リアルな医師の群像を鮮やかに描き分けられたのは、筆者が医師という単純な理由からではない。警察や官僚の出身者が、必ずしも斯界に鋭く切り込む内幕小説を描ける訳ではないのと同じだ。物語のリアリティを保証するのは、主人公に対する距離感と、その世界を相対化して見る鋭利な観察眼だろう。
この点を深めるために、著者はもう一つの仕掛けを用意した。それは患者の立場から医療を眺めるメディアの視点だ。「G4」の取材にあたる報栄新聞医療科学部キャップの矢島塔子は、父親を始め、自ら「がん家系」と呼ぶほど縁者にがんの罹患者が多い。上司の松崎豊部長も、六年前に胃の全摘手術をした「がんサバイバー」だ。塔子が患者の視点で関係者を訪ね歩き、専門用語をわかりやすく噛み砕くことで、最先端の治療法や専門用語も、スッと頭に入る仕掛けだ。この小説を読むことで読者は、がん医学最前線の全体像を俯瞰することになるだろう。
本書のタイトルになった「虚栄」について、主人公の雪野が終幕、塔子に語る場面がある。
「今は医学が進んでいるから、何でもわかるはずだと考えている人が多いようですが、決してそんなことはない。実際はわからないことだらけです。何でもわかるように見せかけているのは、医学の虚栄ですよ」
その虚栄を支えているのは、大学に高額の医療機器、新薬を売り込む企業や、その企業から献金を受ける政治家にとどまらない。メディアもまた、読者に夢や希望を与えるという大義を掲げ、未解明の部分を切り捨て、研究の萌芽やアイデアを誇大に持ち上げることで、「虚栄」に加担しているのである。
本書には、「STAP細胞騒動」を彷彿させる論文ねつ造疑惑事件も登場する。ここでも筆者は、研究者の野心だけでなく、医療報道の功罪にまで目を向け、鋭く問題を提起している。
多彩な登場人物を配したこの小説の真のテーマは、「何でもわかる」という科学の驕
「最終的な治療は手術しかない」と豪語する外科医にも、「見えないがんや、全身に広がったがんは切れない」弱みがある。全身がんに効き目のある内科の抗がん剤には副作用がある。切らずにピンポイントで治療できる放射線科にも、放射線に感受性のあるがんにしか効かないという限界がある。副作用がほとんどなく、全身に広がるがんにも効果がある免疫療法も、まだ科学的に有効性が十分証明されておらず、治療に時間がかかる。
それだけではない。手術ひとつを取っても、医師は、切除範囲を小さくすれば再発の恐れを残し、範囲を広げ過ぎれば、手術そのもので命を落とすというジレンマに直面する。
塔子が言うように、患者の本音は「たとえ0・1%でも治る可能性があれば、それはゼロに比べて無限大なんです。勇気が湧くんです」というものだろう。だが雪野がいうように、医師が直面するのは、「同じようにベストを尽くし、同じように手術しているのに、助かる患者と、助からない患者がいる」という冷厳な現実だ。
このジレンマを鋭く照射するために、著者は物語の副主人公として、「真がん・偽がん説」を唱える異端の医師、岸上律
がんの放置は、治療の放棄であり、医療の敗北を認めることだ。しかし、日々の治療でジレンマに直面する雪野には、メディアや学界を賑わす「新療法開発」とか「がんメカニズムの新発見」といった科学進歩への見果てぬ夢よりも、「がんには、まだわからないことが多い」という岸上の科学観に、密かに共鳴するところがある。
がん細胞は、もともとは自分の細胞だ。それが最終的に自分を殺すように凶悪化する変異を遂げたのは、「施設での老人の飼い殺し、チューブと機器に生かされる尊厳のない命」といった「悲惨な長生き」を避けるため、人間自らが作り出した「緊急脱出装置」のようなものではないか。自らがんに罹患した岸上は、雪野らにそんな生命観まで述べて、泰然と死を受け入れようとする。
善し悪しや好みは別として、岸上の生き方は、「医療技術の進歩」や「科学による自然制覇」といった、誰もが疑わない進歩的な世界観に対する捨身の反証として、圧倒的な存在感を放っている。
この小説の後半で、多くの登場人物ががんに罹るか、その恐れに捕らわれる。その構成を、「作りすぎ」と感じる読者もいるかもしれない。しかし、そうではないと思う。がんは、当事者にならなければ、患者の本当の立場を理解できない。裏を返せば、ひとたびがんに罹ったとき、その人の本性や生きる姿勢は、あぶりだしのようにくっきりと浮かび上がる。岸上に「がんは私たちの一部」と言わせた著者の意図は、「どう戦うにせよ、あなたらしくあってほしい」という、患者と医療関係者への熱いメッセージではないだろうか。
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