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レビュー

【解説:仁木英之】隠れた鬼才、唯一の著作! 奈良が舞台の、ロマンと奇想に満ちた短篇集。『満月と近鉄』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

解説 在野の遺賢

 世に名は出ていないが、とてつもない才能を秘めた人物が野には隠れている。何事につけ技能を仕事にしているならば、決して忘れてはならない戒めである。世間という大きな枠では隠れていても、目を近付ければきらめくこうぼうに気付かずにはいられないし、鼻を近付ければかんばしく香るのである。

 私はあの時のことを、今でも忘れられないでいる。数年前の梅雨時の、蒸し暑い夕方のことだった。奈良の北東部の山中で小説を書いて暮らしている私は、珍しく下界に下りていた。今はもう閉店してしまったが、近鉄奈良駅前に小さな書店があり、時折新刊などを求めに通っていたのだ。

 書店はちょうど休業日だった。行き場を失った気がして、そのまま近鉄の鈍行に乗って大和やまと西さいだいで下りた。ただ本を買いに出ただけなのに、何故わざわざ大和西大寺に向かってしまったのか、今でも不思議に思うことがある。だが、これも彼と「えん」であったからであろう。

 大和西大寺の駅前と近鉄百貨店の間に、飲食店の集まる一角がある。全国チェーンの居酒屋や新しくできた洋食店や古い中華屋、蕎麦そばなどもあるが、そういった店にはこころかれなかった。

 スナックに行こう、とふと思った。

 昔は全国各地へ取材に行くたびに、その地の場末をふらつくのが好きであったが、ここしばらくそういう機会はなかった。私が目指すのは暗がりにひっそりと店を開いているような酒場である。それはあか提灯ちようちんのこともあればバーのこともある。だが、何より落ち着くのはカウンターに自家製の梅酒、それも安しようちゆうにどどめ色になった梅が詰め込まれた瓶が置かれているような安スナックである。

 大抵のことはあがってしまった女が一人で、もしくは薄幸そうな若い女と二人で切り盛りしている店ならなお良い。

 三階建ての小さな雑居ビルの前で、私は足を止めた。テナント募集の掲示が目立つが営業している店もあり、その重そうな扉に手をかける。

 白い看板に電気が入っているから営業はしているのだろうが、文字ははげていて店名さえ明らかでない。黒くすすけた扉を開くと、カウンターの奥に一人の女が座っているのが見えた。何か書類に目を通しながらくすくす笑っている。

 私に気付いた彼女は慌てて顔を上げた。

「いらっしゃい」

 声は酒焼けしていない。顔を上げた時のぐさと声から、若い娘のいる店ではないかという期待が高まる。だがカウンター越しに見ると、それなりに立派な甲羅を背負っているようであった。

 座りつつ、カウンターの向こうに目をやる。読んでいたのは書類の束のようであった。それを逆さまにして置くと、女はおしぼりを出して私の前に置いた。

「初めていらっしゃるのね」

「近くで仕事があって、ふと気になって入ってみたんですわ」

 高い椅子に腰掛けてハイボールを頼む。

「お食事は?」

 まだだと答えると、コマーシャルでやっていたからとかしわの唐揚げを出してくれた。氷をごちごちに詰めた薄いハイボールは安スナックの定番だったが、蒸し暑い駅前を歩いてきた身にはありがたいし、唐揚げによく合う。

 揚げてしばらく経っているはずの唐揚げはさっくりと衣が軽く、歯を入れると肉汁が濃厚に流れ出して来た。

「中々でしょ?」

 褒める前に女は自分で言った。

「お姉さん、名前はなんて言うの?」

えき

 珍しいことに、姓を名乗った。源氏名で姓を名乗らせる色ごとの店もないではないが、こうして一人で切り盛りしている店では珍しい。私も名乗ると、

しゆうの人?」

 と旧国名で言った。

「和歌山にしんせきはおるよ。佐伯さんはもとはえつちゆうかいな」

たてやまふもとから来たっておじいちゃんには聞いたけどね」

 かつて書こうとしていた小説の題材が、立山の行者であった。富山側のさんろくにあるあしくらという集落には佐伯姓の人が多く、今でいう山岳ガイドの仕事をしていた。

 名前のことをきっかけにして、佐伯さんは小気味よく会話を刻んでくれた。こういう店には珍しく、カラオケセットが置いていない。しかも壁には『ろんじやくめつ』と書かれた色紙が飾ってある。意味はよくわからないが、仏教の言葉であろう。『にんげんだもの』的な色紙が飾られることの多い昨今、珍しいことである。

「ほんで佐伯さん、さっき何読んでたん」

「小説。めっちゃ面白いわ」

「佐伯さんが書いたの?」

「まさか。お客さんが書きはったのを持ってきてくれはったのよ」

 A4のコピー用紙の束を指した。面白いわと言われると読みたくなる。

「俺も小説家やねんで」

 筆名と代表作をいくつか口にしたが、佐伯さんは首を傾げるばかりだ。

「聞いたことないなあ。売れてへんのちゃう」

 ときついことを言う。だが、不思議と不快にならない。何とも品が良い人だ。

「あかんねん」

 読ませてくれるよう頼むと、佐伯さんは気の毒そうに言った。

「この人、今は別に小説家になりたいわけちゃうねん」

 物語を書くことが純粋に好きで、書籍として店頭に並べることにこだわりを持たない人間は少数ながらいる。だが、多くは自分が書いたものを多くの人に読んでもらいたいと思っているものだ。

「佐伯さんに読ませてるのも、誰かに読んで欲しいからちゃうの」

「そうかもしれんけど……。これ、書いた人が特別に読ませてくれてるねん」

 私がカウンターの向こうをのぞき込もうとすると、佐伯さんは慌てて紙の束を持ち上げた。一篇ごとに丁寧にひもじられているようで、彼女の性格がうかがい知れるようであった。そのうちの一束が、するりと滑って私の前に落ちた。

 一枚目にはタイトルだけが記されている。

『ランボー怒りの改新』

 とある。何だそれは。

 首を傾げつつ一枚目をめくった瞬間から、私の周囲の景色は一変した。帰還兵となかのおおえのおう、現代ベトナムと古代日本が剛力で一つにされ、物語がぐわらぐわらと音を立てて転がされていく。それでいてたんもない。いや、最初から十二分に破綻しているのだが、何度読んでも全ての要素が必然としてそこにある。

 しばし放心した後、私はうめいた。

「お代りする?」

「次の話読ませて」

「酒のお代りがいるか聞いてるんです」

「ハイボール、もうちょっと濃うしてんか」

 佐伯さんは先ほどよりも随分と濃いハイボールを作ってくれた。酒精は衝撃を和らげてくれるどころか、さらに興奮を高めていく。もう一度読む。そして私は確信した。

「これ、プロやわ……」

「ちゃうって」

 この人に似ている作家を、私は知っているような気がした。だが、誰かに似ていると表現することすらはばかられる、オリジナルの強さがみなぎっていた。私は額と首筋に汗をかいていた。冷たいハイボールと空調の風で、とっくに汗は引いていたはずなのに。

 何度も、このまえひろみちという男が職業作家でないことを確かめた。

「連絡先を知りたい」

 と言うと佐伯さんは険しい表情になった。

「それは無作法やで」

「わかってる。でも、こんな才能を西大寺に置いとくのはあまりに惜しいんや」

「そんなにすごいの? それに前野さんは西大寺ちゃうし」

 ふと佐伯さんがため息をついた。

「私はただ面白いと思っただけやけど、小説書いてる人が見たらそんなすごいんや」

「野生の天才や。間違いない」

「それがわかるんやね」

「他人のことはな」

 人の原稿の良し悪しは割と正確に読み取れるが、自分の原稿の良し悪しがわからない、厄介な病に長年かかっている。ともかく、この原稿を書いた者が恐ろしい書き手であることはわかった。

「よっしゃ、連絡先はええよ。でも、ちょっとだけでええから彼のこと教えて」

 私は前野ひろみちという男について、少しでも知ろうと試みた。

「文学青年のまま年をとったいうか、あんな人が今時おるんや、と思ったわ。なんやろね。れるいうのとは違うけど、気になる」

「母性本能をくすぐられる、いうやつ?」

「付き合ったら面倒くさいような気もするけど」

 カウンターでうだうだと管を巻いている私に、カウンターにいる女はニッと笑って煙を吹きかけてきた。メンソールの副流煙が鼻の中に流れ込んでくる。私は杯を重ねつつ、煙の中にまだ見ぬ在野の作家の姿を思い描き続けた。

    ※

 その日はおとなしく店を後にしたが「ランボー怒りの改新」が頭から消えることはなかった。他の作品も読んでおけばよかった、と悔やむことしきりであった。前野ひろみちはもっと読まれるべき作家だ、と気炎を上げる私に、

「そんなにええんやったら、まず『NR』で一緒にやりましょって誘ってみたらどうですか。同人誌やったら頼みやすいでしょ」

 本格ミステリ作家のまどばんが、丸腸を焼きつつ私に言った。

『NR』は私を含む奈良にゆかりのある書き手が集まって編まれた小説同人誌である。二〇一一年夏のコミケットに第一号を出したばかりであった。なるほど、世捨て人のようになっていても同人誌なら、と再び私は佐伯さんの店へと急いだ。

 彼女に間に入ってもらった結果、前野氏のメールアドレスを手に入れることができた。何度かやりとりした結果、これまで書いた作品も『NR』に掲載させてもらえることになった。ただ、打ち上げなどは行きたくないし、電話も勘弁してもらいたい、と丁重な断りがあった。

「佐伯さんと男子たち1993」
(『NR2』 二〇一二年)
「ランボー怒りの改新」
(『NR4』 二〇一四年)
「ナラビアン・ナイト 奈良漬商人と鬼との物語」
(『NR5』 二〇一五年)

 前野氏が提供してくれたのは以上の三作である。いずれも一部ですさまじく高い評価を得たが、結局本人には会えずじまいであった。

「あの作家なのか? 夜は短いのか?」

 という問い合わせが何件か来たが、それは明確に否定しておいた。ただ、不一亦いつならずしてま不異たいならずの心もまた忘れてはならぬ。

 やがて同人のそれぞれが忙しくなり、『NR』は五号をもつて休止することになっていた。そんな折、星海社の平林氏から連絡があったのだ。

「あの前野ひろみちというのは何者ですか。仁木さんの知り合いですか」

 電話の向こうの編集者は、探るように言った。私はあいさつもそこそこに、前野ひろみちについて知る限りの話をした。無論、知っていることはほとんどない。

「そんな天才が奈良におるんですね……」

 声が急にあらたまった。

「すぐ奈良行きますわ」

「行きますわ、て仕事は」

「新たな作家にうて原稿を取るのが僕の仕事です」

 そう言って電話を切った平林氏は、本当にその日のうちに奈良へとやってきた。そして佐伯さんの店で盛大に飲んだ後、前野氏を紹介してもらう算段をつけていた。鮮やかな手並みというべきだ。

 それから彼がどのように前野ひろみちという在野の遺賢を口説き落としたのかはわからない。ただ、前野氏は初めのうちなかなか首を縦に振らなかったらしい。

 だが、平林氏はとてつもない助平であり、口説きの名手である。腕のいい編集者は時に気難しい作家の心をかし、とらえなければならないのだから、人一倍助平でなければならない。彼の口説きは野に隠れていた作家の心を、ついに動かしたようであった。

「一冊だけなら」

 前野氏は何度目かの会見でついに折れたという。

「一冊だけで済ます気、ないやろ」

 私が言うと、平林氏はにやりと笑った。

「仁木さん、とんでもない人見つけましたね」

 平林氏は既に、彼の中にある構想も聞き出したという。

「めっちゃ汗かきましたわ」

「梅雨時やもんな」

「違いますよ。ものすごい物語を聞いた時は、頭のてっぺんの穴が開くんです。そこから見えへん汗が噴き出る。僕はこれ、知の愛液と呼んでます。心が感じてしもて、ぬらぬらになるんです」

 独特な助平表現で平林氏は激賞した。

「僕は前野さんで、世間を絶頂に導きますよ。せやから、仁木さんは絶頂に至った皆さんの後始末をお願いします」

 そういうわけで、私は前野ひろみち初作品集の解説を引き受けたのである。

    ※

 前の三作は同人誌『NR』に掲載されたものに前野氏が改稿をほどこし、「満月と近鉄」はこの短編集が初出となる。

 作品の解説というのは物語を補足する知識であったり、作者の人となりを開陳して読者に一興を供するものであるが、前野作品はせいに構築された独自の世界観に立脚しているため、第三者が何かを付け足すのに向く作風ではない。よって、ごく短く紹介するにとどめることをご承知いただきたい。

「佐伯さんと男子たち」では不思議な味わいの、まさに前野式青春を描いて見せる。こんな青春はどこにもないはずだ。そんな硬い頭を鹿のひづめが砕いてくれるであろう。

「ランボー怒りの改新」は私に衝撃を与えたとんでもない作品だ。二十世紀ベトナムと七世紀日本を軽やかに、しかし力強くつないでしまう。混ぜて危険なものなど、この作家にはないのだ。

「ナラビアン・ナイト」であまりにも有名な説話集を奈良に引き込んで新たな物語世界を繰り広げるさまは、まさに物語の一人シルクロードといっても差し支えなかろう。そして「満月と近鉄」では、前野ひろみちの姿そのものを現実と虚構の間に置いて読者を惑わせ、読書の喜びの中へ沈めてしまう……。

 では作者の人となりはどうかというと、私は彼のことを作品と佐伯さんを通じてしか知らないから、これまた書きようがないのである。「満月と近鉄」においては畳屋の跡取りと自らのことを述べているが、小説家の自己紹介ほどあてにならないものはないのであって、軽々にお信じになってはならない。

 ともあれ、そんな霧の向こうで揺らめく幻のような作家、前野ひろみちはこれで霧消するというわけではないらしい。平林氏によると、やはり己の作品を世に問うてみたいという思いはき火のように残っているという。

 家業もあるとのことなので、明日明後日の話ではないかもしれない。だが、ここまでお読みの諸子の心に前野ひろみちという作家の名はしかと刻み込まれたはずだ。来るべきその日を楽しみにお待ちいただきたい。

二〇一六年六月吉日 奈良の山中にて



前野ひろみち『満月と近鉄』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321912000284/


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