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レビュー

これぞ馳星周! 絶望と悔恨のメロディが奏でる究極のクライムノベル。『暗手』

文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

(評者:いけがみ ふゆ / 文芸評論家)

 ときどき馳星周には驚かされる。
 作家が新たな世界に挑戦することはわかっていても、こちらの予想を超えることはあまりない。だから『比ぶ者なき』を読んだときには驚いた。これは何と馳星周初の歴史小説である。歴史・時代小説に挑戦するなら、自由度の高い時代小説、それも活劇に富む悪漢小説が相応ふさわしいと思っていた。それなら現代小説の延長線上でも可能と思ったからだが、まさか七世紀末のふじわらのの活躍を描く歴史小説とは思わなかった。飛鳥あすか時代末期から時代初期にかけての三十年間、藤原不比等が六十一歳で亡くなるまでをとらえているのだ。しかも、歴史小説にありがちな作者による時代解説など一切なく、現在進行形の物語として、読者をぐいぐい引っ張っていく。複数の人物の視点から権力の争奪・闘争の激しいドラマが熱く語られる。
 藤原不比等といえばたいほうりつりようへんさん者の一人であり、藤原氏の家祖という程度にしか認識はなかったけれど、この小説を読むとイメージは一変する。もん天皇から〝等しく比ぶ者なき〟という意味の不比等という名前をもらったが、それほど彼は権謀術数にたけ、誰とも比較できないほど未来を見すえていた。かきのもとのひとという歌人を使っての神話の演出、天孫降臨や万世一系などの概念の創出、さらにはしようとくたいという存在の創造まで、どこまで本当なのだといいたくなるほど従来の歴史観を根底から覆している。歴史小説家馳星周の誕生といっていいだろう。

『比ぶ者なき』の前には、『ちゆら海、血の海』でも驚かされた。ノワール作家がいずれ戦争小説を選択することは考えられるが、物語はまるで違っていた。太平洋戦争の末期の沖縄を舞台にした戦争小説で、その切々たる筆致に、思わず落涙してしまったのだ。馳星周の小説を読んで泣くとは思わなかった。いや、これは僕だけではなく、おそらく誰もが目頭を熱くして本を閉じるのではないか。
 この小説は、アメリカ軍が上陸し、本島南部への撤退を余儀なくされた日本軍の道案内をする十四歳の少年(鉄血勤皇隊として強制的に徴用された中学生)の地獄めぐりである。戦争というシステムの絶望的な愚かさと過ちを、少年と少女たちにとことん目撃させる。人が次々と無惨にも死んでいくなかで二人は次第に心を通わせ、愛を育むようになる。銃弾と砲撃と飢餓と無数の死のなかで展開する青春恋愛小説でもあるのだ。生きるか死ぬかの緊迫した情況のなかで心をさらけだし、互いのために生きようとする姿が比類ないほど美しく、どこまでも悲しい。

 そして、近年もっとも驚いたのが、本書『暗手』だろう。これは馳星周がもっとも得意とするノワールである。だから驚くことはないのだが、一九九八年に発表された第三作『夜光虫』の十九年ぶりの続篇なのだ。続篇ではあるが、いきなり『暗手』を読んでも差し支えない。物語は独立しているし、『夜光虫』の出来事は過去の幻影のように忍び込んでくる程度。ただ長年のファンが手にとると、懐かしさに身を震わせることになる。初期のいちだんと狂おしくて熱い文章のリズムが脈打っているからで、絶望と悔恨のメロディがひりひりする形で奏でられている。長年のファンなら、誰もが、これだこれだこれだ、これこそ馳星周だ! と狂喜することだろう。
 いったいどういうことなのか? まずは簡単に『夜光虫』と書かれた時期を振り返ろう。

 馳星周は一九九六年、『不夜城』でデビューし、各ミステリーランキングのベスト1に輝き、いきなりなお賞候補になる。さすがにデビュー作での受賞は難しかったものの、よしかわえい文学新人賞を受賞する。第二作『鎮魂歌 不夜城Ⅱ』では早々と日本推理作家協会賞を受賞し、馳星周はたった二作で文壇のちようとなった。その文壇の寵児の待望の第三作が『夜光虫』で、これも直木賞にノミネートされた。
 東京六大学野球から鳴り物入りでプロ球団に入ったくらあきひこは、二年目にノーヒットノーランを達成し、オールスターゲームにも出場したが、肩の故障で引退。事業を起こすも失敗し、多額の借金を作ってしまう。借金返済のために台湾に渡り、プロ野球で活躍するものの、台湾では八百やおちよう試合が常態化していた。彼も手を染め、やがてやくざの抗争に巻き込まれ、保身のために次々と殺人を犯していく羽目になる。
『不夜城』『鎮魂歌』はともにしん宿じゆくを舞台にした故買屋りゆうけんいちもので、中国人社会の権力闘争を中心におき、人物たちのかつとうを凝縮していたが、『夜光虫』は単発の物語。ドラマよりも、主人公のへんぼう、すわなち狂気と絶望のふちにたたされ、殺人を重ね、どこまでもちていき、やがて破滅するまでが描かれる。
 その加倉が顔を変え、名前を変え、イタリアに逃れた。『暗手』はそこから始まる。

 台湾で行き詰まった加倉は、いまではヨーロッパの黒社会ヘイシエアフウイ暗手アンシヨウとよばれ、殺し以外の仕事なら何でも請け負っていた。そんな暗手のところにサッカーばく組織の末端に連なるチンピラから、日本人のゴールキーパーおおもりを抱き込んでくれないかという依頼がくる。
 大森が在籍しているセリエAのロッコはチームの成績が芳しくなく、セリエBへの降格もありうる状況だった。守備力強化のためにベルギーのチームから移ってきた大森は高く評価されていた。その大森に八百長させろというのだ。
 暗手は、「たかなかまさ」という名前を使い、大森に近づく。大森が好みそうな女性タイプのしようミカを雇い、色仕掛けでろうらくするのだが、大森の姉であるあやが登場して、歯車が狂いだす。綾は、暗手こと加倉が台湾で愛し、愛したがゆえに殺人を繰り返す羽目になった運命の女と似ていたからだ。暗手は綾と関係を深め、台湾時代とつながりがある殺し屋馬兵マービンの裏をかいて事を運ぼうとするのだが……。
 殺し以外の仕事をしていた男が、噓に噓を重ねて、再び殺人を繰り返す羽目になる。〝あの女をものにしろ〟〝殺せ〟といった内なる声にそそのかされて、どこまでも堕ちていくのだ。小説はそんな男の行動と内面に焦点をあてていく。
 ここには、激情を抑え込む男の焦燥と、孤独と、絶望が脈打っている。言葉が何度もリフレインされ、語尾がリズムをきざみ、読者は激しく感情をかきたてられ、物語へと深く入り込むのだ。ひりひりするような感覚を至るところで覚え、物語のドライヴ感にうち震えることになる。
 そう、ここには久しく忘れていた初期の馳星周節がある。冒頭で紹介した『比ぶ者なき』がいい例だが、できるだけ初期の文体から遠いところにいこうとしている。つまりうたいあげることをできるだけ避けて、淡々と叙述を重ねているのだ。それはそれでいいけれど、ふれれば火傷やけどしそうな煮えたぎる感情の奔流はどこにいったのだ、それこそ馳星周ではないかと僕はずっと思っていた。しかも馳星周だけでなく世界の作家に影響を与えたドクター・ノワールこと、『ホワイト・ジャズ』のジェイムズ・エルロイもまた、いささか狂熱のさめた文体になっていて物足りなさを覚えていた(余談だが、『夜光虫』のエピグラフは『ホワイト・ジャズ』からとられている)。
 そんなときに馳節の復活である。絶望と悔恨のメロディが鳴り響くプロローグから、ファンはうれしくなる。これこそ馳星周だ! と誰もが思うのではないか。しかもより語りが滑らかさを増しているのがいい。初期作品には、エルロイのむこうをはり、日本のノワールを書こうという強い意志があり、スタイルを作り上げることにこだわりがあったけれど、本書を読むともうそんなよろいは消えて、自然な躍動感に満ちている。
 細かいことをいうなら、もっとドラマティックにという思いがなくはないけれど、無駄なものをそぎ落とした文体がいいし(わなにはめていく過程が何とも迫力に富む)、クールなアクションは魅力的だし(激しい銃撃戦の数々、とくに馬兵との戦いが圧巻だ)、ほとばしるエモーションは実にたまらない(失われた愛のどうこく、新たな愛の歓喜と地獄など節々で胸をうつ)。ここには『夜光虫』にはない、うつろな愛の響きもにじんでいるが、これは殺し屋がアメリカ裏社会を血に染めながら一人の女を探し求める、アンドリュー・ヴァクスの『凶手』を想起させる。馳星周のファンにはおみだが、この『凶手』は、馳星周が作家になる前に影響を受けた一冊であり、『暗手』というタイトルもそこからつけられたとみるべきだろう。

 繰り返しになるが、本書『暗手』は『夜光虫』の続篇である。だが、本書から読み始めても何ら問題はない。『夜光虫』の出来事は過去の幻影のように挟み込まれ、次第にそれが恐怖と悲しみの象徴にまで高められて、おのずと愁いが際立ち、男の肖像はより深まることになる。また、すさまじいまでの内なる暴力性の顕示と、ひたすら加速される狂おしさに読者は肌があわだつようなおぞましさを覚えながらも、同時に妙に官能を刺激され、こうふんに震えることになるだろう。謳いあげられる血まみれの絶望と孤独が、何とも甘美なのである。この倫理と道徳を挑発するアナーキーな力こそ、まさに馳星周だ。僕らの馳星周だ。昔からのファンはもちろん、馳星周を知らない若い人をもきつけてやまない、まごうかたなき傑作である。必読!



馳星周『暗手』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321910000665/


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