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 曽祖父から続く、この初音鮨。
 勝は幼少期から祖父、父が握る鮨を、(お客さんにそうすることを求めるのと同じように)手に乗せてもらって食べてきた。醤油もつけず、手に渡された鮨を食べていると、子どもながらに素材の味、素材を活かすことの大切さ、温度の違いによる味わいの違い――いろいろなものを感じることができた。
 この手乗り鮨。実は、明治26年から続く初音鮨の伝統である。
 江戸時代からある日本を代表するファーストフード「鮨」。初音の歴史も、立ち食いから始まっている。みんなで立って食べていると、「ちょいと俺にも食わせな」と隙間に人が横入りしてくるような中では、一貫ずつ握ってカウンターに置いてもいられない。舗装もされていない砂利道で、ひとつひとつの鮨を昔はみな手渡しで食べさせていた。
 勝が大人になって幼少の頃の記憶を引っ張り出してみると、あの手渡しが一番うまかった。何も言わずとも、温度、握りの具合、様々な要素がそのまま手から手へと伝わり、口の中で“ほどける”感覚も正確に思い出せる。
 温度と食感を通じて鮨の味を高めたい。そんな想いをお客さんにダイレクトに伝えたい。初音鮨の伝統を受け継ぐだけでなく、客たちにもっと“鮨のおいしさ、奥深さを味わってほしい”――そう願う中で行き着いたのが、「自分が幼い頃から受け継いだやり方を踏襲し、お客さんに伝えていこう」という考え方だった。
 面白おかしく、とめどなく喋り続ける勝のトーク――気をつけていなければ気付かないだろうが、よくよく気をつけて聞いてみると、(時折のぞかせる女将さんへの愛情表現を除く)時間のほとんどを、お客さんに食べてもらう鮨のネタ、握り方、調理方法などの解説に費やしているのがわかる。
 世界一と自信を持って言える素材を届けてくれた漁師たちへの敬意、そして、その素材をいかにして最高の状態で届けようとしているのか――勝は、自分が握る鮨に込めたそうした想いをお客に伝えるだけなく、鮨という料理の「伝統」「独自にあみ出した工夫」を客たちに伝えることで、何度も足を運ぶ客たちを“もっと口うるさい客にしよう”としているのだ。
 そうすることで、曽祖父の時代から続いたこの蒲田 初音鮨の“伝統”と“わざ”を、余すことなく伝えられる――一聴すると冗談ばかりの面白オヤジだが、しかし、その心は、その計算された完璧な鮨の“伝統”と“業”、それに女将とふたりで作り上げてきた自分たちが持つすべてをお客たちに伝えることにある。
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 蒲田 初音鮨があるのは、東京23区の中で最南に位置する大田区。その区内にある「蒲田」は、羽田空港にほど近い、湾岸にある街だ。
 蒲田駅には大きな商業施設が一体化され、その駅前地区を中心に、賑やかな繁華街が広がっている。
 多くの人が集まり、自然に様々な娯楽・風俗が生まれた街――ここ蒲田は、大田区の心臓部である。
 いっぽうで蒲田には、“場末”という言葉がしっくりと来る。独特の、他の東京の街にはあまり感じられない空気を感じさせる街でもある。
 やや暗い街灯の中に居酒屋や風俗店の看板が並ぶ様子。さらに奥に進んでいくと少しばかり寂れた商店街――脳裏に浮かぶ蒲田にはまた、そんな裏ぶれた表情がある。
 その蒲田も、かつては華やかさに包まれた活気のある街であった(今はその名残しかとどめていないが)。
 蒲田と言えば、有名なのは『蒲田行進曲』だろう。
 JR蒲田駅で列車が発車する際に流れるそのメロディー。深作欣二きんじ監督が1982年に大ヒットさせた同名映画における、松坂慶子、風間杜夫もりお、平田満の三人の歌声を脳裏に甦らせ、思わず口ずさみそうになる人もいるはずだ。
 しかし、そのオリジナルは、1929年の松竹映画『親父とその子』で使われた川崎豊と曽我そが直子のデュエット曲である。それは、欧州で上演されていたオペレッタの曲に、堀内敬三が日本語の歌詞を付けたものだった。
 この楽曲『蒲田行進曲』を元に作られたのが、天才的な劇作家“つかこうへい”の戯曲『蒲田行進曲』であり、その脚本を映画向けにアレンジし、深作が監督したのが1982年の映画『蒲田行進曲』だった。
 この地、蒲田をテーマにした楽曲が、戯曲、映画としてリメイクされ、全国的な大ヒットとなっていった理由のひとつは、ここ蒲田が、かつては日本のハリウッドとも言える“映画の街”だったからでもある。
 無声映画時代、歌舞伎興行から派生して映像作品を作って発展した「松竹キネマ」(現・松竹)。その松竹キネマが、現代劇を撮影するスタジオとして1920年(大正9年)に開所したのが、現在の蒲田五丁目にあった「松竹蒲田撮影所」。
 松竹キネマは、ハリウッドから映画技師を招き、専属の男優・女優によるスター・システムを構築し、黎明期だった日本の映画産業を牽引する。蒲田は、比喩などではなく、まさに日本のハリウッドという表現がぴったり当てはまる土地だったのだ。
 大スターの男優と女優、そこに大部屋の貧乏役者が絡む『蒲田行進曲』の脚本は、“つか”が見て、感じていた蒲田という街の日常でもあったのである。
 その松竹蒲田撮影所は、1936年(昭和11年)に閉鎖されることになる。太平洋戦争が終結する9年前のことだ。
 それまでの日本は、欧米列強からの圧力を感じつつも、まだ平和を楽しんでいたが、1936年の1月に日本はロンドン海軍軍縮会議から離脱、さらに翌月には2・26事件が勃発している。そうしてその後、1937年の盧溝橋事件から日中戦争、太平洋戦争へと向かっていくのだが、松竹蒲田撮影所が閉鎖されたのは、そうした時代背景を受けて、蒲田が工業地帯へと変貌していった影響でもあった。
 1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災前のこの街は、(芝、高輪、田町周辺の埋め立てから始まった)東京臨海部に広がった工業地帯に対して、部品などを供給する町工場の拠点としての役割も担っていたが、大震災を契機に、多くの工場が川崎、横浜方面に規模を拡大し始めると、東京湾の工業地帯は、中心地域が西へ西へと移動していく。だが、蒲田の役割は変わっていかなかった。
 そして迎えた太平洋戦争で、この京浜工業地帯はアメリカの空爆により壊滅的な打撃を受け、蒲田も例に漏れず焼け野原となるが、蒲田を救ったのもまたアメリカだった。
 朝鮮戦争の勃発とともに、町工場は再びその稼働率を上げていき、間もなく戦前と同じように栄え始め、またたく間に発展していく。
 そのうち、高度成長期における京浜工業地帯の急激な発展に、用水供給などのインフラが追いつかなくなり、渋滞や地価高騰、人件費高騰といった問題を抱えるようになると、昭和30年代後半からは大きな工場が地方へと移転し始め、工場の街としての蒲田は寂しさを感じさせるようになっていった。
 こうして中小企業の経営者と町工場の労働者を中心に発展してきた蒲田の街は、今や、小さな商店と居酒屋、それに風俗店が入り組んで併存へいぞんする街となり、雑多な空気感を生む場所へと変わったのだ。
 この街が放つ「東京の中心部とは異質」だと強く感じさせる匂いの背景には、こんな歴史があった。
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 さて、そんな蒲田の街。JR蒲田駅西口から続く細い道沿いは、ほんの少し前まで、(駅の真反対にある、再開発が進んだ)京急蒲田駅側よりもずっと古い、昭和の風情を残すエリアだった。
 良い意味でも悪い意味でも“蒲田らしい雰囲気”を色濃く残してきたのが、この「西蒲田」であり、現在も、そこにはその面影がうっすらと残っている。
 西蒲田の雑多なエリア――計画的な街づくりは駅前だけで、あとは身勝手に発展してきたようにしか見えない地域に、それまでの風景が嘘だったかのように、急に広々と見通しが良くなる場所がある。
 それはちょうど、日本工学院専門学校・蒲田キャンパス3号館のあたり。そして、その校舎とは道路を挟んだ反対側に、つたつるが美しく絡みつき、壁におしゃれな「HATSUNE」の文字が施された鉄筋の建物がある。
 その外観には、見事に和を感じさせる風情が盛り込まれ、玄関口とは別の方向には店舗への入り口が配置されている。
「再開発の進行は、街の空気を大きく変えていくものだ」と思いながら通りすぎることなかれ。実はこの建物、周辺の開発とはまったく関係なく、ずっと以前から蒲田という街を見続けてきた店なのである。
 周囲の雰囲気とは異なる外観を持つこの店の存在を、周辺の住民はどう思っているのか?
 夏祭りに集まった蒲田の住人たちをつかまえてみると、「ああ、あのお店ね。そう、私なんか行ったことがないんだけど、なんだか“ものすごく高い、、お寿司屋さん”らしいわよ」とのこと。
 およそ蒲田にあるとは思えない、なぜか和洋折衷の、しかし、破綻することのない雰囲気を放つその建物は、蒲田に住む者も噂にしか知らないという、超人気で予約が取れない謎の鮨屋。
 この鮨屋こそが、冒頭でご紹介したこの本の舞台、「蒲田 初音鮨」なのである。
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「いくら人気の高級鮨店と言ったって、所詮は蒲田だろ?」
 口に出さなくても……いやいや、実際に言葉にして「品川の関所を越えた先に、うまい鮨なんかあるはずがない」と真顔で話す自称グルメは少なくない。
 東海道五十三次。日本橋を出て品川までは“お江戸”だが、同じ武蔵の国とは言え、品川の関所を越えるとその先の宿場は川崎。その間の中途半端なところで、“江戸前”を気取っただけなんてところの鮨なんかロクなもんじゃない。“江戸前”の土地で勝負できない職人が、うまい鮨なんか食わせるわけがないからねぇと、食通のなかには言葉がすぎる者だって出てくる。
 東京には多くの鮨屋がひしめいているが、その多くは銀座、あるいはJR山手線の内側、南部のどこかの駅に近い、、、、場所に店舗を構えている。銀座以外の土地にもおいしい鮨屋は山ほどあるが、隠れ処と言ったところで、本当に隠れているわけではない。大多数は山手線を中心とした大都会・東京のイメージそのままの場所に位置している。やや中心から離れた名店も、決まって、豊かな人たちが集まる地域にあるものだ。
 “伝統”が業の伝承であるとともに、より良い業・味に出会うための確率を高めるものだと考えるならば、たしかに蒲田にうまい鮨、それもグローバルに認められた、海を越えてお客がやってくる鮨屋が生まれる確率なんてほとんど無い、と考えるのも無理からぬことだろう。
 いっぽうで、「銀座だろうと地方だろうと、新鮮で質の高い材料と腕のいい職人がいれば、どんな場所だってうまい鮨はできる。鮨の味が場所で変わるはずもないだろう?」という者もいる。「それが証拠に、全国津々浦々、魚のあるところ、人が集まるところには、食通を惹きつける鮨の名店があるではないか」と。
 しかし、それは海に囲まれた日本という国のいたるところに、良い魚が水揚げされる港や、そうした港から質のいい魚が集まる魚市場が数多く点在するからにほかならない。
 東京ならば築地つきじ(移転した現在ならば豊洲とよす)、横浜ならば本庄。人が集まる都市の近くには大きな魚市場があるが、蒲田という場所は、その間に挟まれた工業地帯で、鮨の名店を成立させるにはやはり困難が伴う。
 すなわち東京から横浜を結ぶ地域において蒲田に店を構えるということは、良い鮨を作り出すために不可欠な素材調達面での不利を“受け入れる”ことにほかならない。
 だからこそ、ここ蒲田において“高級鮨屋”を成立させているところに、まずは蒲田 初音鮨のひとつめの凄さがある。
 そして、蒲田で高級店を成立させるにあたっての困難は、もうひとつある。「うまい店は、どこの土地にあっても、うまいものだろう」と外野は簡単に言いがちだが、多くの人は物事を判断する時、ブランドをよすがとしている。それは、自分が感じる価値観に絶対的な自信が無いから、というのも理由のひとつだろう。また、あらゆるものに対して、(ブランドに基づかず)絶対的な価値を見極めようとすると時間も手間もかなり要する、という理由もあるかもしれない。
 だからこそ多くの人々が、様々な部分でブランドを追い求め、ブランドを選ぶことで手軽に安心感を得ているのだ。話を料理店に置き換えるならば、その料理店のある“土地のブランド力”に価値を感じる者は多い。良い悪いではなく、“そういうもの”なのだ。
 では、なぜ、“場末の街”とすら呼ぶ者もいる蒲田の、さらに駅からも離れた小さな鮨屋に、一人あたり4万、5万という大金を支払う大勢の食通たちが集まり、さらにはそんな客が、どんどん増え続けているのだろうか?
 ひとりの弟子も持たず、仲居も置かず、夫婦ふたりだけで洗濯・掃除・仕入れに仕込みをこなす市井の鮨屋。
 そんな蒲田 初音鮨は、鮨には一切の隙を感じさせないにもかかわらず、客にはゆったりとした心の余裕を感じさせ、緊張する客がいれば解きほぐし、笑顔を引き出してから、味の絶頂感へと導いていく。
 客はにこにこ、ほっこり、温かみを感じるのに、鮨のほうは、ゆるぎなく完璧――名人と讃えられる職人の店は数あれど、ここまで“ゆるい”、リラックスできる空間と、研ぎ澄まされた鮨のコントラストを楽しませる店が、他のどこにあるというのだろうか?

書籍

『蒲田 初音鮨物語』

本田 雅一

定価 1620円(本体1500円+税)

発売日:2019年01月25日

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