3月1日に刊行された川瀬七緒さんの書き下ろし長編小説『四日間家族』。帯の「徹夜必至」という言葉どおり、圧倒的一気読み小説だと評判になっています。
好評御礼企画として、第一章「最悪への扉」を全文公開!
『四日間家族』第一章公開#02
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「こんな時間でも車が通るんだな……。もう夜中だってのに」
一同は息を潜め、光のほうを凝視した。車のヘッドライトのほかに、蛇行する山道を走ってくるエンジン音が微かに聞こえてくる。
「この山を越えて飯能へ抜ける車だろう。ここの脇は国道が走ってるからな」
「飯能? ここは山ん中だけど東京だったよな?」
千代子が小声で問うと、長谷部は頷いた。
「ああ、青梅の岩國山だ。ここはちょうど埼玉との境で、高速を使わない連中が通る道でもある。黙ってりゃ通り過ぎるだろうよ」
わたしは頭を低くし、ハイビームで山道を上ってくる車を目で追った。外灯もない暗い道にもかかわらず、危険なほどスピードを出しているのがわかる。運転は見るからに荒く、カーブのたびに急ブレーキを踏むけたたましい音を山に響かせていた。やがて真っ赤な車体が見えるところまで上ってきたが、予測していなかったことが起きてわたしは目を剝いた。赤いミニバンが、急にステアリングを切って自分たちのいる空き地に荒々しく突っ込んでくるではないか。
「ちょ、ちょっと……なんでこっちにくんの……」
わたしは一層頭を低くしてうろたえた。赤いミニバンはがくんと車体が揺れるほどブレーキを強く踏み込み、二十メートルほど先に停止した。ヘッドライトも消さず、アイドリングしている排気口からは白い煙が立ち昇っている。
長谷部は背中を丸めて外を窺った。
「この車は道から見えねえようにデカい桜の木の陰に駐めた。あのミニバンのライトは山側に向いてるし、こっちは見えてないはずだ」
もし気づいたら? わたしの体が固く強張るのがわかった。こんな夜更けに山深い場所を訪れているのだから、自分たちと同じく普通ではないのは明らかだ。
「まさか追手……」
思わず声に出してしまい、わたしは慌てて口を手で覆った。三人を素早く窺ったが、みな聞こえていなかったらしい。運転席で背中を丸めている長谷部は、前方に目を据えながらくぐもった声を出した。
「土地勘がなけりゃこんなとこには入ってこない。俺は子どものころ、親父にキノコ狩りにつれてきてもらったことがあるんだよ。親父は切り出しの仕事をしててな。この辺りの木の伐採を請け負ってたんだが、マツタケやらヤマブシタケやら、ここは知る人ぞ知る高値のつくキノコの宝庫なんだ。だが、まだ時期じゃない」
「そうかい。そんならただの休憩じゃないねえ」
千代子が都合のいい解釈で締めくくったとき、赤いミニバンのドアが急に開いて四人ははっと息を吞み込んだ。車から降りてきたのはおそらく女だ。暗くてはっきりとは見えないけれども、長い髪が風で舞い上がっているのがわかる。暗がりに浮かぶシルエットは小太りで、厚みのある小柄な体格だった。
ひとりだろうか……。できるだけ頭を下げて様子を窺っているとき、いきなり大声が空気を震わせ四人は再びびくりとした。
「つうか、真っ暗なのに入ってけるわけねえじゃんよ! 頭おかしすぎ! ちょっと! 聞いてんのかよ! なんで今日じゃなきゃなんねえんだって!」
耳に障るほどがさがさに荒れた声色だ。女はスマートフォンを耳に当て、髪を振り乱しながら怒鳴り散らしている。
「聞こえねえって! 電波が悪いんだよ! くそっ!」
女は何度も舌打ちし、スマートフォンを操作して電話をかけ直そうとしているようだった。画面の明かりでぼうっと浮かび上がった顔は醜く歪み、頭をがりがりと搔きむしって汚い言葉を連発している。
「なんなんだろうねえ、若い女がみっともない……」
千代子は顔をしかめた。
女は足許の砂利を蹴散らしながら車に乗り込み、ルームライトを点けた。スマートフォンでなんとか連絡を取ろうと試みていたようだったけれども、結局は通信状況の悪さに電話を助手席に放り投げた。八つ当たりでハンドルを何度も叩いてから煙草を取り上げ、火を点けたライターもフロントガラスに向け無造作に放っている。血の気が多く怒ると手がつけられないタイプだ。そして物であふれた車内や埃だらけの汚い車体を見ただけでも、彼女の住む部屋が思い浮かぶというものだった。年齢は四十の前半ぐらいに見えるが、実際はもう少し若いかもしれない。
そのとき、赤いミニバンが山へ向かって進みはじめた。ジャリジャリと小石を踏みながらゆっくりと前進し、木々の繁る山際ぎりぎりのところで停止する。そしてヘッドライトを点けたまま再びドアが開き、煙草を投げ捨てている女が姿を現した。不機嫌を極めたようにむっつりと口角が下がり、しきりにぶつぶつと何事かをつぶやいている。大ぶりの黒いリュックサックを肩にかけ、スマートフォンを懐中電灯代わりにしておもむろに木立の間に入っていった。森の中はハイビームのヘッドライトに照らされ、少し先まで見通せるようになっている。女は前屈みになりながら緩やかな傾斜を上り、さらに奥へと歩を進めていた。
するとその様子をじっと窺っていた長谷部が、顔をこすり上げて息を吐き出した。
「どうやらあの女も死ぬつもりらしいな。この際だから仲間に入れてやるか」
馬鹿もたいがいにしてほしい。わたしは女が歩いていった先を見つめながらため息をついた。あの女は自殺志願者ではないどころか、ただの休憩でここへ来たわけでもない。そんなことは明らかだろう。一メートル先も見えないほど漆黒の山に、ひとりで足を踏み入れているのだ。普通の神経であるはずがない。
わたしは面倒の予感を察知し、急く気持ちを口に出した。
「ねえ、みんなここへ死にに来たんでしょ? だったらもうさっさと七輪に火を点けようよ。あんな女はどうでもいいし、もう全部を終わりにしたいんだよ」
「マジでそれ」
陸斗も小声で同意し、足許にある二つの七輪を前に引き出した。そして長谷部に目をくれる。
「前にも一個あんでしょ? ぐだぐだやってないで出してよ」
「おまえらさっきから態度悪すぎんだろ。目上の者に対する礼儀がなさすぎる。そうやって人をないがしろにしてっから、ろくな死に方にならねえんだ。見てみろ、その結果が今だろうが」
「お互いにね」
陸斗が感情のない声で切り返した。そんな陸斗を威嚇するように睨みつけた長谷部は、おもむろに運転席のドアを目張りしているテープを剝がしはじめた。
「とりあえず話ぐらいは聞いてやるべきだ」
「やめときなって! かかわんないほうがいい! あたしは客商売を長くやってたから、面倒を起こす人間は見ればすぐにわかるんだよ!」
千代子が止めに入ったけれども、ひとり異様に盛り上がっている長谷部は「最後の人助けだ」などと言って聞く耳をもたなかった。が、そのとき、車のライトに照らされた森からさっきの女がふいに現れ、わたしはひゅっと息を吸い込んだ。
「も、戻ってきたよ! みんな頭下げて」
一同は慌てて背中を丸め、じっと動きを止めて息を潜めた。女はくわえ煙草で眉根を寄せ、腹のあたりをぼりぼりと搔きながら大股で歩いてくる。そしてけたたましくミニバンに乗り込むと、エンジンを何度かふかしてから急激な方向転換をした。車体の後部が左右に揺れるほどの急加速で去っていくさまを、四人はあっけにとられて見守った。
「いったいなんだったんだよ……」
長谷部は国道のほうへ目を向けてつぶやいた。すると千代子が化粧崩れした顔を上げ、胸に手を当ててふうっとひと息ついた。
「いや、去ってくれてよかったんだよ。かかわったら最後だった」
「大げさだな」
長谷部は潰れた煙草の箱から一本を抜き出した。そして再びルームライトを点ける。
「で、ねえちゃんは坂崎夏美って言ったっけか? 続けていいぞ。まだ自己紹介の途中だったろ」
「もう紹介することなんてないですよ」
「そんなわけあるか。死のうと決めた人間はみんな訳ありよ。耐え難い苦しみから逃げるためにこの道を選ぶんだからな。あんたはなんでここへ来た?」
「彼と同じくネットで見かけたから」とわたしは陸斗に目を向けた。「死にたい理由は、もういろいろと面倒になったからです」
ある意味これは真実だ。しかし、できる限り死への時間稼ぎをしたいらしい長谷部は、煙草の煙を鼻から勢いよく吐き出した。
「これから死のうってやつが妙な隠し立てすんなや。気分わりいな」
「なんとでも言えばいい。ここで告白を無理強いされる意味がわからない。というか、あなたにだけは何も話したくない」
「人が親切心で聞いてりゃ調子に乗りやがって。小理屈ばっかこねるかわいげのねえ女だな。あんたは顔は並みだが性根が曲がってっから男が逃げ出すだろ。もしかして、死にてえ理由は男に捨てられたのか?」
長谷部はせせら笑いながら煙草を吸い込んだ。わたしはばかばかしくなって反論をやめた。今すぐこの車を降りたいのはやまやまだが、闇夜の山中でひとり自死を決行できるかといえばそこまでの度胸はない。
電波の通じる場所までは徒歩でどれぐらいかかるだろうかと真剣に考えているとき、隣で気配を消している陸斗がぽつりと言った。
「なんかおかしい」
少年は真っ暗な国道のほうへ目を向けており、何事かを考え込んでいるのか眉間にうっすらとシワを寄せている。長谷部は短くなった煙草を灰皿にねじ込んだ。
「何がおかしい? このねえちゃんが男に捨てられたって説が納得いかねえのか? まさかここにきて惚れはじめてんじゃねえだろうな」
陸斗は気の抜けた調子で反論した。
「ビッチのくせにヤラせてくれないおばさんには興味ない」
「あんた、さっきからいい加減にしなよ」
わたしは勢いよく隣に向き直ったが、陸斗は意にも介さず国道のほうへ目を向けたまま先を続けた。
「さっきの女。山に入るときに持ってたはずのリュックが帰りにはなくなってた」
私は陸斗の言葉に引きずられるように、今さっき見た場面を思い返した。ガラの悪い女が黒いリュックサックを肩にかけていたことは覚えている。が、戻ってきたときには手ぶらだったろうか。よく覚えてはいないが、言われてみればなかったようにも思う。
わたしは急に薄気味悪くなり、顔をしかめて少年を見た。
「何かの犯罪っぽいね……」
「リュックの中身はバラバラ死体だったのかもしれない」
陸斗が一点を見つめてそう推理すると、千代子はどぎつい色の唇を歪めてぶるっと体を震わせた。
「おおやだ! 女がひとりで死体なんか埋められるわけないだろ!」
「死体ぐらいだれにでも埋められる。死体を小分けにしていろんなとこに捨てる小説を、前に読んだことがある」
千代子は嫌悪感をあらわにしたが、陸斗は抑揚なく先を続けた。
「そもそも国有林は死体遺棄に適してる。基本、入山は禁止だし、木を伐採する頻度も低いから発見されづらい」
「ずいぶん知ったようなことをぬかすじゃねえか」
長谷部が、急に喋りはじめた陸斗を見やった。
「まさか、おまえは経験者じゃねえだろうな? 人を殺して逃げ切れなくなったから死ぬしかないと思ったんじゃねえのか。凶悪少年犯罪ってやつだ」
陸斗は長谷部に顔を向けて無言のまま見つめた。最初からこの少年の雰囲気は静かすぎた。顔立ちは幼いが摑みどころがなく、暮らしぶりや性格がまるで見えてこない。
視線を逸らさない陸斗に舌打ちし、長谷部はがらがら声を一層低くした。
「おまえが何をやってようと、ここでは好きにさせねえぞ。ひょろひょろのガキなんざ返り討ちにして終わりだからな」
あいかわらず長谷部を見つめている陸斗から、わたしはわずかに距離を取った。そしてワンピースのポケットに手を入れて、再び小さなナイフを握り締める。この少年の圧倒的な違和感は、死への恐怖心がたいして感じられないことだ。覚悟を決めていると言えばそれまでだが、十六歳の佇まいとは思えない。
疑念が急激に膨らんで心拍数が上がるのを感じた。そのとき、長谷部が吐き捨てるように言った。
「とにかく、さっきのイカれた女が人を埋めようが殺そうが知ったこっちゃねえ」
長谷部は助手席の足許から真新しい七輪を引き出した。
「俺はここにいる連中の生き様が知りてえんだよ。一緒に逝くからには、少しでも人となりを知っておきてえんだ。これは理屈じゃねえ」
「それはもっともだ。お互いに気持ちを預け合うべきなんだよ。こんなときこそ信じ合わなきゃ一歩を踏み出せないだろ」
千代子は、何も語らないわたしと陸斗に非難するような目を向けてきた。
「ひとまず若いもんはあとにして、あんたから話したらいいんじゃないかい? これでは埒があかないから」
「それもそうだな」
長谷部はまた煙草に火を点け、天井に向けて煙を吐き出した。
「俺は蒲田で鉄工所を経営してた」と言うなり、作業着の胸をつまんで社名の刺繡をみなに見せつけた。「小さい町工場だったが、三十年以上も続けてきたんだ。パンチプレスっていってな。アルミや鉄、ステンレスなんかに穴を開ける加工が主な仕事だったよ」
男は目を細め、剃り残した白髪混じりの顎髭を親指で触った。
「十代のころは荒れててな。極道に片足突っ込んでたような無鉄砲な暮らしをしてた。そのときに出会ったのが先代の社長でよ。俺を立ち直らせてくれたんだ。で、工場を任された。見込まれた俺はがむしゃらに働いてきたが、このウィルス騒ぎには勝てなかった。借金まみれで身動きが取れなくなったよ」
「あんたも苦労したんだねえ。気持ちはよくわかるよ」
眉尻を下げた千代子は何度も頷いた。
「俺の工場はパートも入れて四人の人間を使ってた。とにかくそいつらを守るのがいちばん大事なことだ。俺は離婚してひとり身だが、ほかの連中は違う。だから工場を潰してできる限りのことをしたのさ。国の補助金なんざなんの足しにもならん」
「それでなんとか切り抜けたんなら、あんたは死ぬ必要なんてないじゃないか。まだまだこれからの人間だ。きっとやり直せるよ」
千代子の励ましに、長谷部は煙草をくゆらせながらどこか恍惚とした表情を浮かべた。
「妹が借金の連帯保証人なんだよ。俺だけならまだしも、このままでは妹まで破産する。母子家庭の妹にはひきこもりのひとり息子がいてよ。苦労のし通しなんだ。だが俺が死ねば、生命保険が下りて妹はなんとかなる。だから決めたのさ。これでいいんだ」
「あ、あんた……」
千代子は鼻の頭を赤くしながら長谷部の腕を摑んだ。
「あたしはあんたを誤解してたよ。命を懸けて妹を守るなんてのは、だれでもできることじゃない。たいしたもんだ、あんたみたいな男には会ったことがないよ」
長谷部は涙を堪えながら顎を上げ、煙草の煙でごまかすように目許をこすった。
家族を守るために死を決断したらしい。しかしなんだろう、この完成された美談にはまったく心が動かない。それどころか白々しく感じて真面目な顔を取り繕うのに苦労するほどだった。千代子も千代子でほとんど営業トークにしか聞こえない。長谷部が喜ぶ言葉が途切れなく出てくるあたり、スナックで老人の客をつなぎ止めていた手くだが垣間見えるというものだ。
長谷部はそれからも昔話に興じ、安っぽい義俠心や人情味あふれるエピソードを惜しみなく披露した。いい加減、飽き飽きだ。鞄の中でスマートフォンを起動して時刻を確認すると、もうすでに夜の十一時をまわっている。あまりのじれったさに身じろぎを繰り返していたとき、か細い声が聞こえたような気がしてわたしは窓の外へ顔を向けた。
(つづく)
作品紹介
四日間家族
著者 川瀬 七緒
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2023年03月01日
誘拐犯に仕立て上げられた自殺志願者たちの運命は。ノンストップ犯罪小説!
自殺を決意した夏美は、ネットで繋がった同じ望みを持つ三人と車で山へ向かう。夜更け、車中で練炭に着火しようとした時、森の奥から赤ん坊の泣き声が。「最後の人助け」として一時的に赤ん坊を保護した四人。しかし赤ん坊の母親を名乗る女性がSNSに投稿した動画によって、連れ去り犯の汚名を着せられ、炎上騒動に発展、追われることに――。暴走する正義から逃れ、四人が辿り着く真相とは。
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