11月6日に発売された、第43回 横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉受賞作にして、北沢 陶のデビュー作『をんごく』。本作は大正末期の大阪・船場の商家を舞台にした謎×ホラーで、選考委員大絶賛での「大賞」、さらに「読者賞」「カクヨム賞」も受賞し、三冠でのデビューとなりました。大注目小説、まずは試し読みからお楽しみください。
横溝正史ミステリ&ホラー大賞〈大賞〉受賞作!
北沢陶『をんごく』試し読み#7
夕方ごろ、描きためた素描をあれこれ眺めて、新しい油絵をどんな構図にしようか悩んでいるうち、頭がふらついてきた。熱を測ってみると、三十八度近い。
「せやから言うたやないでっか、この寒い中歩き回りはったら風邪ひきまっせって」
女中にたしなめられて早めに床に入り、浅い眠りと目覚めを繰り返しているうちに日が暮れた。何回目かに目覚めたときにはすでに真夜中を過ぎていたらしく、女中の立ち働く音も聞こえてこない。今ごろは二階の寝室でもう休んでいるのだろう。
額に手を当てると測ったときより熱が上がっているようで、起き上がろうにも身体が重い。とはいえ、しばらく眠っていたから寝付けもしない。寝返りを打ち、左肩を下にする。
暗闇に目が慣れ、床の間の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきたとき、客間か、その向こうの廊下のほうから物音がかすかに聞こえてきた。
やはりまだ女中が起きて仕事をしているのだろうか。私の世話のせいで手間を取ったとしても、どうも時間が遅すぎるように思えるが──。
とん、と床に手をつくような音がした。
中庭に面した廊下の床だ、と直感した。倭子が生きていたとき、たまに転んで廊下に手をついていた。片足が悪いのに、
ゆっくりと、近づいてきている。板張りの床を踏む音がする。左足はそっと、右足は体重がかかって大きく、
おいて……ろ……こちゃ……うたん……
歌が聞こえてきた。
歌、だろうか。音程は曖昧で、聞こえたかと思うと消え、また耳に入る。声は倭子のもののようであり、しかしどこか違う。倭子の声より高いときも、かすれて低いときもある。
おいて
起き上がってもいないのに、目が回るようだった。身体が動かない。床の間を見ている瞼すら、閉じることができない。
足音が客間の畳を踏む。歌声が近づいてくる。
私がいる寝室の襖の、すぐ向こう側にいる。
八おいて廻ろ こちゃ鉢割らん ……こそ鉢割りまする……
八。この歌は知らないが、それまでの歌詞が一から七までを歌っていたことは推し測れた。
歌いながら、ずっとこの家を歩いてきたのだ。
十っぱそろえて ……なははや なははや…… なはよいよい……
節の調子は、あの歌と雰囲気が似ていた。子どもの歌うような。巫女が倭子らしきものを降ろしたとき、歌った曲と。
声の主は、私の背の、すぐ後ろに座った。
冷や汗が額を伝うが、拭うこともできない。これは何なのか。倭子なのか、まったく別の何かなのか。
背後で畳をさする音、身動きをする
──布団を探している。
ふいにそんな考えが浮かんだ。暗闇の中、寝床を求めている。倭子の使っていた布団が、今はもう敷かれていないからだ。
私の頭の上に気配がした。
覗き込まれている。目を少し動かせば、誰が、何が私を見つめているのか、すぐに分かるだろう。
倭子の顔よりも、人間でない何物か、目鼻の
やがて気配が頭の上を去り、また衣擦れの音が聞こえてきた。足を
すぐ後ろに寝ている。
指一本でも動かせば、布団と
布団の間に何かが滑りこみ、私の背中へと
「
かすかな声がした。
紛れもなく、倭子の声だった。
喉に息が詰まった。ただ一度だけ、倭子がこうして背中に手を当て、名前を呼んだことがあった。仕事で描いた挿絵を見せはじめて三か月目、それまでうなずいていただけの倭子が、初めて嬉しそうに笑った日の夜だった。
よく覚えている。今置かれている手の位置も、名前を呼ぶ調子も、そのときとちょうど同じだった。
唇だけ動かして、倭子、と呼びかけた。手がすぅと、布団の間を滑り、襟首から頭へと動いていく。
「壮一郎さん」
倭子がもう一度言った。さっきよりも少し低く、柔らかに。
手がそっと頭を撫でた。幼いころ、母がたまに、こうして撫でてくれたのをふいに思い出した。耳にわずかに触れた手はやはり冷たかったが、もしかしたら私が熱を出しているからかもしれない。倭子は手の温かい女だったが、もし生前に私が熱を出して、触れてくれていたら、このくらいの冷たさに感じていたかもしれない。
今度こそ、倭子、と口に出そうとしたとき。
「そ──そ、そう、い、いいいいちろ、さ」
声が歪み、かすれて、
思わず身を起こし、何を目にするのかなどと考える前に、部屋じゅうを見渡した。誰もいない。暗い寝室が、うっすらと視界に浮かび上がるばかりだ。だが何者かがいるという感覚だけが、まだ残っている。
「ううう、うしろ、う、う、う、うしろ」
歪んだ声が寝室に響く。背中が何かにぶつかる。無意識のうちに後ずさって、障子戸に突き当たったらしい。
「うしろに──」
声が再び途切れ、それきり何も聞こえなくなった。気配すら感じられない。移動した様子もなく、ただすっと消えてしまった。
たっぷり一分も経って、ようやく、全身が冷や汗で
うしろに。
最後の言葉を思い出して、恐る恐る振り向くが、ただ閉められた障子が見えるばかりだった。あれが脅しか警告かも分からない。自分が今体験したことが、熱のせいで見た悪夢だとも思いたかったが、きしむ身体と、背中に張り付いた寝巻の感触は現実そのものだった。
恐怖と動揺が収まりかけると同時に、自分の名を呼ぶ倭子の声が胸によみがえってきた。
倭子が死んで以来、二度と聞けないと思っていた。背中に置かれたあの小さい、柔らかい手も、二度と触れることはないと思っていた。巫女が降ろしたときも倭子のそれだと思っていたが、比べものにならない。
何を犠牲にしても、聞きたいと思っていた声と、触れたいと思っていた手が、ついさっきまでここに響き、私の背に触れた。
それなのに、あれは消えてしまった。
静まりかける鼓動と反比例して、ある直感と、同時に胸が潰れるほどの懐かしさが湧いてきた。
この家に、倭子がいる。
わずか一年ばかりの生活の末に亡くして、二度と会えないと思っていたものが。
寝巻の腿にぽたりと
(続きは本書でお楽しみください)
作品紹介
をんごく
著者 北沢 陶
発売日:2023年11月06日
第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞 史上初の三冠受賞作!
嫁さんは、死んでもまだこの世にうろついているんだよ――
大正時代末期、大阪船場。画家の壮一郎は、妻・倭子の死を受け入れられずにいた。
未練から巫女に降霊を頼んだがうまくいかず、「奥さんは普通の霊とは違う」と警告を受ける。
巫女の懸念は現実となり、壮一郎のもとに倭子が現われるが、その声や気配は歪なものであった。
倭子の霊について探る壮一郎は、顔のない存在「エリマキ」と出会う。
エリマキは死を自覚していない霊を喰って腹を満たしていると言い、
倭子の霊を狙うが、大勢の“何か”に阻まれてしまう。
壮一郎とエリマキは怪現象の謎を追ううち、忌まわしい事実に直面する――。
家に、死んだはずの妻がいる。
この世に留めるのは、未練か、呪いか。
選考委員満場一致、大絶賛!
第43回横溝正史ミステリ&ホラー大賞 史上初の三冠受賞作!
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