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試し読み

圧倒的筆力の現役東大生デビュー作! 学生メディアが天才医師に挑むリーガルミステリ「テミスの逡巡」試し読み

弁護士から転身した天才医師の背後に浮かび上がる、ある殺人事件。
東大出身作家によるミステリ小説集『東大に名探偵はいない』より、現役東大生・浅野皓生さんのデビュー作「テミスの逡巡」を一部公開します!

直筆メッセージも読める作品特設サイト
https://kadobun.jp/special/todai-mystery/



「テミスの逡巡」浅野皓生・特別試し読み

 その声を初めて聞いた時、かすかに違和感があったことを今でも覚えている。
「外科医の、さとしです」
 スラリとしたせ型の身体から発される伊田の声は、有り体に言えば、落ち着いた低い声ということになるだろう。しかし、その表面上の穏やかさの裏に、薄暗いものが潜んでいるように私には思えた。普段こうして取材をする人たちの声には混ざっていないノイズのようなもの。おそらくは四十余年の人生の中で少しずつ沈殿していった、とげとげしく暗い、何か。
「取材の様子を録音させて頂いてもよろしいですか」
 隣に座るじりがボイスレコーダーを取り出す。
「もちろんです。本格的ですね」
「少々我々には不相応ですが」
 若干の自虐を挟みながら、田尻がスイッチを押す。
「とんでもない。ええと、UT──」
「UTディスカバーです」
 答えると、かゆいところに手が届いたというように、伊田は小さな笑顔をほころばせた。
「そうそう、UTディスカバーさんの過去の記事を少し読ませて頂いたんですが、非常に面白かったです」
「わざわざお読み頂き、有難うございます」
「いやいや、楽しませてもらいました。このディスカバーという名前には、東大を出た後の既定路線からはみ出して活躍している人たちを見つけ出すという、そういう意味が込められているんだなあと思いまして、いい名前だなあと」
 ディスカバーという名前を忘れていた人のセリフとは思えないな、と思っていると、
「じゃあ、ディスカバーって名前を忘れるなよって話なんですが」
 伊田につられて自然と笑っていた。それこそ、痒いところに手が届いたような感覚だった。
「ですから取材して頂けて光栄です。しかし私みたいな変人で大丈夫でしょうか」
「伊田さんのような少し変わったところがある方こそ、我々の大好物ですから」
 少し踏み込んだ言い方をする。会話を始めて数分だったが、この程度の冗談なら伊田は受け止めてくれるだろうという確信があった。
「一本取られましたね、これは」
 果たして、伊田は相好を崩した。

 取材は伊田の経歴を追う形で進んだ。都内の中高一貫校に進学し、現役で文科一類に入学。法学部に進み、司法試験に合格して弁護士資格を取得すると、ほんごう三丁目さんちようめ駅ほど近くのやまがみ法律事務所で働き始める。
「しかし三十歳の時、伊田さんは大きな選択をなさいます。弁護士を辞め、医師になることを決意なさった」
「ええ」
「なぜ、医師になろうとお思いになったのでしょうか」
 よどみなく質問に答えてきた伊田の口が止まった。
「すみません、どこからどうお話ししたらいいものかと──」
「では少し質問の仕方を変えて、弁護士を辞めて医師になろうと思った、きっかけなどがあったんでしょうか」
「きっかけ、ですか」
 ぬるくなったコーヒーを口に含んだ伊田は、独り言のように言った。
「明確なきっかけがあったというより、法律ができることの限界を知ったから、でしょうか」
 その時私は、伊田にを感じた。
 努めて平静を装おうとしているのだろうと思った。彼の中でうごめく何かを押し黙らせようとしているのだろうと。しかし私の耳は鋭敏にその異変を把捉した。声の力みが生んだ空白に、ザラリとした何かが流れ込んできていた。
「法律の限界とは、具体的には、どういうことでしょうか」
 何も気付いていないふりをする。伊田と目が合う。互いに互いの腹の内を探るような、今までにない緊張感がある。気のせいか。それとも私の声にもわずかな綻びが生じ、それに伊田は気が付いたのか。
「実際には色々な事件を通して感じたことなのですが、分かりやすく、たとえ話をさせて頂いてもいいでしょうか」
 口元の緩みが消えている。
「例えば、BさんがAさんに傷害を負わせたとします。分かりやすく、殺すつもりはなかったとしましょう。Aさんは一命を取り留めたのですが、重い障害が残り、それを苦に自殺してしまった。普通の感覚からすると、BさんがAさんを殺したと言ってもよさそうですよね」
「BさんがAさんを殺したようなものだ、ということですよね」
「おっしゃる通り。でも法律は、そんなことは言えない。むしろ言ってはいけないんです。Bさんが犯したのはあくまでも傷害罪であって、その後にAさんに何が起ころうが、基本的には知ったことではない。結果、、Bさんに科される刑はその分軽くなる」
 理不尽という言葉に、強い情動が伴っていた。
「では今度は、Aさんの遺族であるCさんに対して、法律ができることは何か。田尻さんは法学部でしたね、少し聞いてみてもいいですか」
 田尻は澄まし顔で答える。
「損害賠償でしょうか」
「その通り。慰謝料だとか、もしAさんが生きていたら得られたであろう利益、逸失利益ですね、こういったものをBに請求することができる。しかし逆に言えば、これしかないわけです。法律はCさんにお金を取ってきてやることしかできない。しかしAさんの価値というのは、当然ですが、とても金銭に換えられるようなものではない」
 声が熱を帯び始めた。
「仮にCさんがお金など要らないというのであれば、法律にできることは基本的に何も無い。それに損害賠償請求をしたとしても、Bが賠償金を払えるかも定かではないし、途中で逃げ出してしまうかもしれない。そんな時、法律は無力です」
「なんだか法律が役立たずのように思えてきました」
 ここしかないと思って合いの手を入れる。伊田の表情が少し柔らかくなる。
「確かに法律のネガティブキャンペーンをしているみたいですね」
 私が言わせたいことを、伊田は分かっている。
「もちろん、法律が無益だと言うつもりは毛頭ありません。私が言いたいのは、人間が作ったものである以上、法律は完全ではないということ、それを直視しなければいけないということです」
「そしてそれが、伊田さんが医師を志した理由でもあった」
 伊田はうなずく。
「私のしんにあるのは、人を助けたいという気持ちです。環境に恵まれ、東大で学んだ者として、社会に何らかの形で貢献したいと考えてきました。もちろん自己満足かもしれませんが、それでも何か人の役に立ちたいと。そうやって原点に立ち返ってみた時に、ならやはり、医者じゃないかと。目の前の命を救うことこそ、自分が本当にやりたいことなのではないかと」
 ほとばしるパトスが、声に宿る暗い影を完全に覆い隠した。
「先ほどの例で言うなら、医師がAさんをかんぺきに治すことができたら、法律に頼る前にAさんとCさんを救えたはずだと、そう思ったんです──すみません、少ししやべりすぎましたか」
「とんでもないです。このまま記事にできるレベルです」
 私の言いたいことを田尻がかっさらう。
「本当ですか。いやでも、はしさんの聞き方が本当に上手で、そのおかげです」
 褒め言葉かお世辞か、私には判別がつかなかった。
 取材はその後も首尾よく進んだ。弁護士を辞め、二年間猛勉強したこと。合格の歓喜を一人きりで味わったこと。医学部の六年間、友人はできなかったこと。普通なら中堅医師となる三十代後半に、新米医師となったこと。年下の先輩医師が自分との距離感に難儀することに申し訳なさを感じたこと。やっと半人前くらいの医師にはなれたということ。
「では最後に、医師として普段、どのようなことを心がけていらっしゃいますか。その際、弁護士としての経験が役に立つと感じることは、ありますか」
 二時間超に及ぶインタビューが、クライマックスを迎えつつあった。
「二つ目の方からお答えします。あまり考えたことがなかったんですが、例えば患者さんとのコミュニケーションには、弁護士時代の経験が役立っている気がします。どちらも、相手が今、本当は何を思っているのかを聞き出すことが何よりも大切ですから」
 ふと、思う。私は今、伊田から本当のことを聞き出せているのだろうか。
「それから医師として心がけていることは、目の前の患者さんを治すために最善を尽くすことです」
 まだまだ続きそうなところで、パタリと言葉が止まった。思わぬところで車が急停車し、前につんのめるような感覚だった。思わず伊田の方を見ると、うつむき、口を真一文字に結んでいる。もう終わりということか。私は慌てて感謝の言葉を頭の中に用意し、それを口にしようとした。その瞬間、
「たとえ、その患者が、どのような人であったとしても」
 芯を欠くもろい声の中に、しばらく姿をくらませていた暗い影が再び現れていた。それは私たちに向けられた言葉ではないように思われた。伊田は私たちの方など見向きもせず、冷え切ったブラックコーヒーをほんの少し底に残したカップをしつようにらみつけていた。
 先刻の想念が不安となってよみがえる。
「取材は以上です。本当に有難うございました」
 不気味な沈黙を突き破るためには、無神経に朗らかな声が必要だった。
 我に返ったようにおもてを上げた伊田もまた、顔の奥から即座に笑顔を引っ張り出した。
「こちらこそ、有難うございました」

 数日かけて、当たり障りのない記事を書き上げた。取材の中で覚えた違和感の一切を捨象した結果、そこに描かれた伊田は、人を救いたいという純粋な思いに突き動かされる聖人になっていた。
 記事の反響はごく平凡なものだった。伊田からは「感激した」という旨のメールが届いたが、そのどこまでが本心か、私には測りかねた。

 伊田の記事を出してから一週間が経った七月初日。週一の定例会議のため、私はキャンパス内の部室に足を向けていた。
 UTディスカバーは、私を含む東大生四人が運営するウェブメディアだ。普通の東大生が歩まない道を選んだ卒業生の活躍を取材し、月一ペースで記事を配信している。先の五月でめでたく一周年を迎えた。SNSやHPの管理をつのみやが、記事の執筆を私とむらが担当し、発起人の田尻が校閲と全体統括を行う。
 私は語学クラスの先輩だった田尻に誘われ、去年の七月に加入した。記者という仕事への漠然としたあこがれがあった私にとって、その疑似体験ができる格好の居場所だ。
 もちろん記事を書くことは本当に大変で、楽しいことばかりではない。締切に追われれば胃がキリキリと痛むし、心から納得のいく記事が書けることはまずない。でも取材に応じてくれる卒業生は面白い人ばかりだし、私の紡ぎ出した言葉を媒介として彼らの半生が沢山の人に伝わっていくのを見ると、大きな達成感を覚える。読者の生き方に多少なりともいい変化を与えられるなら、望外の幸せだ。
 部室に着くと、田尻が既に自分の席に着いていた。意外だったのは、田尻が私に何も声をかけてこないことだった。
「おはようございます」
「あぁ、お疲れ」
 私と視線を合わせすらしない。
「何かありましたか」
「全員来てから話す」
 数分後に宇都宮が到着した。普段から寡黙な宇都宮だが、異変を感じ取ったのか、どことなく落ち着きがない。
 定刻の十二時を三分過ぎた頃、ようやく村瀬が現れた。
「ごめん、遅れた」
「始めよう」
 村瀬のはつらつとした声を気だるげな田尻の声が制する。
「UTディスカバー宛てに郵送されてきた。これにどう対応するかを話し合いたい」
 田尻は一通の封筒を手に取ると、そこから一枚の紙を取り出し、投げ捨てるようにして机の上に置いた。
 A4のコピー紙の上に、定規で書かれた字があった。

   伊田智ハ青葉里美ヲ殺シタ人殺シダ。記事ヲ即刻削除セヨ。

 確かにこれは、ただごとではなかった。
 どうすべきかと思考を巡らせる以前に、果たしてこれは現実なのかという疑念が頭をもたげる。筆跡を隠すために定規で書かれた告発状などドラマでしか見たことがない。そんな代物が私たちのような弱小学生メディアに送り付けられてくることが、ありえるだろうか。
 そして何より、伊田が人殺しであるなどと、どうして信じられるだろうか。
 だが現実に、誰かが伊田は人殺しだという告発状を書いてしたのだ。
あおさとという名前をネットで調べてみた。その結果がこれだ」
 田尻はノートパソコンを私たちの方に向ける。
 息をんだ。私ばかりでなく、宇都宮も、村瀬も。

 ──五日夜、東京都ぶんきよう区の路上で青葉里美さん(31)が刃物で刺され、病院に搬送後死亡した事件で、警察は青葉さんの殺害容疑で、住所不定の無職まるやまさとし容疑者(39)を全国指名手配した。丸山容疑者は二〇〇五年にも傷害罪で逮捕され、八年の実刑判決を受けていた。

 丸山聡。ナイフで被害者の腹部に二つの×バツを描き、失血死に至らしめるという猟奇的な犯行で、世間を不謹慎な高揚感に沸き立たせた殺人犯だ。一週間ほど前に逃亡中に事故死して以降は報道も下火となったが、事件の記憶は依然として生々しい。
 そしてこの告発状は、という。
 その時、田尻の携帯が鳴った。
「伊田さんからだ」
 鳥肌が立った。狙いすましたかのようなタイミングだった。
「UTディスカバーの田尻です」
 田尻は携帯を机の上に置き、スピーカーモードに切り替える。
「伊田です。先日はお世話になりました。今、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「有難うございます。あの、記事の方も、本当に有難うございました。メールでも書きましたが、本当に感動しました」
「こちらこそ、有難うございました。伊田さんのおかげでいい記事になったと思っております」
「あの、それでですね、記事の反響はどうでしょうか」
 何とも煮え切らない口ぶりだ。
「おかげさまで、おおむね好評です」
 田尻は慎重に表現を選ぶ。
「それはよかった。しかし中には、ネガティブな反応もあるのではないですか?」
 伊田は何を確かめたいのか。何をどこまで知っているのか。
「SNSのシェアなどは全て好意的なものだと認識しておりますが、何かありましたでしょうか」
 田尻の方が聞く側に回る。不意を突かれたのか、伊田は言葉を詰まらせる。
「何かご要望等がありましたら、気兼ねなくお伝え頂ければと思うのですが」
 電話先で小さくためいきをついた伊田は、意を決したように言い放った。
。私が人殺しだとか、そういった内容の」
 今までの回り道が噓のようだった。今度は私たちが黙る番だった。
「──届いたんですね」
 沈黙をもって、田尻は肯定する。
「本当にご迷惑をおかけして申し訳ない。どこかで、少しお話しすることはできませんか?」
「もちろんです。こちらとしても早急に対応したいと考えています」
「なら、あの突然なんですが、今日これからというのはいかがでしょう。例えば、本郷病院で三時からとか」
「私服でよろしければ、伺えます」
 田尻は、私の意見を聞くことなく即答した。

 受付で用件を伝えると、病院三階奥の応接室に案内された。伊田ともう一人の医師が、私たちを待ち構えていた。
「この度は本当に申し訳ありません」
 大人二人に深々と頭を下げられ、一瞬どう振舞うべきか戸惑う。軽く頭を下げ返した田尻に倣い、私も小さくお辞儀をした。
「こちら、同僚の使河原がわら先生です」
「勅使河原わたると申します」
 勅使河原は今一度、頭を下げた。伊田より少し背が低いが、体格がよく若々しい。黒縁眼鏡がよく似合っている。
 自己紹介を兼ねた名刺交換をしてから腰を下ろす。口火を切ったのは、伊田だった。
「勅使河原先生も記事を読んでくれて、いたく感動してくれたそうです」
「ええ、とてもいい文章で驚きました。あれは橋部さんがお書きになったんですよね」
 頷くと、その顔があいきようたっぷりに綻ぶ。
「伊田先生の魅力がよく伝わる、大人顔負けのすごくいい記事でした。ですから今日は、こういう状況ですけど、お会いするのを楽しみにしていました」
 こういう状況、という一言が、私たちの顔から笑みを吹き消す。
「すみません、それでは、本題に入りましょう」
 一瞬の沈黙の後、伊田の手がかばんに伸びた。一枚の紙が机の上に置かれた。
 やはり定規で書かれた字だった。

   青葉里美ヲ殺シタノハオ前ダ。人殺シハ医者ヲヤメロ。

「これは数日前、病院に届いた手紙です。現在、対応を検討中なんですが、UTディスカバーさんの方にも火の粉が飛んでいないかと思い、念のためご連絡差し上げた次第です。差し支えなければ皆さんの方に届いたものも拝見できますか」
 横に並べると、紙のサイズもインクの色も全く同じように見える。
「同一人物から送られたものと考えて間違いないでしょう。繰り返しになりますが、ご迷惑をおかけしてしまって、本当に申し訳ない」
 伊田は首を垂れる。
「こうなった以上経緯を説明しなければならないと思い、ご足労願いました。その上で記事をどうするかは、皆さんの判断にお任せします」
 私たちが促すまでもなく、伊田は話を始めた。
「先月の上旬、取材の二週間くらい前だったと思いますが、深夜、腹部を刺され出血多量状態の患者が搬送されてきました。青葉里美さんです。緊急手術を私が担当することになり、勅使河原先生には助手をお願いしました。しかし力及ばず、亡くなってしまった」
 悔しさのにじんだ声が微かに震える。
「ご両親はかなり取り乱されていました。私は冷静に説明しようとしたのですが、こらえきれず少し涙が出てしまった。それでご両親は、何か私がミスをしたんじゃないかと、そう思われたようなんです」
 僕からもいいですか、と勅使河原が割って入る。
「終始先生を責め立てるような口調でした。なんであんたが泣くんだ、何かやましいことがあるんじゃないかって、何度も何度も」
「私の心の弱さが招いたことです。医師として、泣くべきではなかった、それだけのことです」
 あくまで自身に冷淡な伊田に対し、勅使河原は食い下がる。
「それだけしんに治療に向き合ったということじゃないですか。特にあの日の先生はいつにも増して気迫があって──」
「それが分かるのは手術室の中にいる私たちだけです」
 伊田は勅使河原の擁護を遮る。
「ともかく、そういったことがあって、私はご遺族から恨みをかってしまった。その結果が、この告発状です」
「これは、ご遺族が書いたということですか」
 田尻が尋ねる。
「断定はできませんが、ほぼ間違いないと思っています。亡くなった青葉さんのことも私のことも知っていて、かつ告発状を送る動機がある人物となれば、そう考えるのが自然でしょう。恐らくご遺族は、私が手術ミスを犯したせいで青葉さんは命を落としたのだと思い込み、怒りが抑えきれなくなった。だから私と、私の記事を出したUTディスカバーさんに告発状を送ったのだと思います」
 つまるところ告発状の送り主は、と言いたいのだ。
「しかし、当然ですが、私は人殺しではない。手術にミスはありませんでした。手術の録画データも残っていますし、勅使河原先生も証明してくれると思います」
 おおなくらいに勅使河原は頷いてみせる。一瞬、伊田の顔にうれしげな苦笑が浮かぶ。
「以上が事のてんまつです。何か疑問点等はありますか」
「警察には届けないんですか」
 間髪れずに田尻が尋ねる。伊田は首を横に振った。
「こういうことが続くなら話は変わってきますが、今のところ通報は考えていません。私にも責任の一端がありますから。できれば皆さんにも、そうして頂きたい」
「こちらとしても、そのつもりはありません」
 伊田は私の方を向く。
「橋部さんは、どうですか」
 特にありません、と即答するつもりでいた。伊田の説明は筋が通っていたし、勅使河原という証人もいる。一時は私たちを震え上がらせた告発状だが、伊田への単なる逆恨みと考えて差し支えないように思えた。
 だからいざ返答しようとして、即座に声が出なかったことに私は驚いた。
「特に、大丈夫です」
 数秒を要してようやく口に出せたのは、ぎこちない言葉だった。
「それでは、後はUTディスカバーさんの判断にお任せします」
 心なしか声が遠く感じた。あんしたように息をつく伊田も、一件落着と立ち上がる田尻も、どこかここではない別の空間にいるみたいに思えた。一人取り残されたようなそこはかとない心細さが、胸を淡く締めつけ始めていた。

 その日の夜、UTディスカバーの四人で再度ミーティングを開いた。記事の掲載継続に反対する者は誰もいなかった。
 胸をなで下ろしてしかるべきだった。時間と労力を費やし、曲がりなりにもこだわりを持って書いた記事だ。言いがかりで削除されるとしたら看過できない。そして、危機はひとまずのところ去った。これ以上望むことなど無いはずだった。
 しかし私のひねくれた心の中では、依然として何かがくすぶっていた。
 それは輪郭がぼやけた、言語以前の感覚とでも称すべきもので、伊田に対する即座の返答を阻んだ真犯人に他ならなかった。厄介なことに、それは無視するにはあまりに不快な代物で、私に対して自分の方を見てくれと懇願していた。
 電源の切れたパソコンの画面に映る自分の姿を他人行儀に見つめながら、私はそれを言語化しようと試みた。顕微鏡で微生物にピントを合わせるように、少しずつ、その解像度を上げていく。
 結果、それは一つの素朴な疑問に集約された。
 
 患者を救えなかった医師が悔しさに涙するということはあるだろう。しかし、遺族を前にして涙をこぼす医師がどれほどいるだろうか。その場で落涙すべきはまず遺族であり、医師は感情を押し殺して必要な説明をし、遺族に寄り添うものではないのか。
 医師としての責務を果たせなくなるほどの激烈な感情が伊田を襲ったのだとしたら、それは一体、何によって生み出されたのだろうか。
 そしてその答えは、伊田の声に時おり現れるの正体と深い所で結びついているはずだと、私は直観した。
 伊田は医師を目指すことになった転機などについて敢えて言葉を濁し、まさにその時、その声は濁った。その淀みは、明らかにしたくない過去と、それをあいまいにぼかす言葉との間のかいが生み出したものではないか。そしてそのひた隠しにする過去こそが、遺族の面前で伊田に涙を流させた原因ではないか──
 隠されているはずの過去を知ることで、自分の記事が提示する凡庸な伊田像を打ち砕きたいという情動は、後から振り返れば病的に強力かつ執拗であり、根拠の無い憶測にまみれている。もしかすると、自分にままならぬもの、理解できぬものを何とか掌握したいという幼い支配欲が、私を駆り立てていたのかもしれない。

 私はその日のうちに、伊田のかつての勤め先である山神法律事務所に取材申込みのメールを送った。
 山神から承諾の返事が来たのは二日後だった。取材は土曜日の午後に決まった。

「これね、なかなか楽しく読ませてもらいました」
 山神は老眼鏡を取ったり外したりしながら、印刷した記事をしげしげと眺めていた。ややしわの寄ったグレーのジャケットに、くたびれた黒のズボン。そこだけ見ればだらしないとも言えるが、長年の経験を感じさせ、得も言われぬかんろくがある。
「伊田さんとは、今も親交がおありなんですか?」
「ええ。年賀状は毎年来るし、たまに電話もね」
 山神は湯吞のお茶を口に含むと、私に向き直った。
「それで今日は、もう少し伊田くんのことを知りたいと?」
 私も居住まいを正す。
「はい。特に伊田さんが弁護士を辞めて医師を志したきっかけについて、お話を伺えればと思っております」
 ふん、と小さく息をついた山神は、頭をかきながら言った。
「実はですね、私よりもその話をするのに適した人がいるもんですから、その人を呼んでいるんです。もうすぐいらっしゃるみたいなので、少しお待ち頂けますか」
 願ってもない厚意に、頭が上がらなかった。
 十分くらい待っただろうか。ドアを開けたのは淡いピンク色のブラウスを身にまとった、高齢の女性だった。
「山神さん、ごしております。遅れてしまって申し訳ありません」
 丸みを帯びた穏やかな声。
「いえいえ。こちらこそ、ご足労おかけしてしまって申し訳ない」
「いいんですよ。こちらはずっと暇ですから」
 丁寧に整えられた髪。真っすぐ伸びた背筋。控えめな化粧。りんとしたたたずまいという言葉は、まさにこの人のために作られたのではないかと思うほどだった。
「こちら、伊田くんの記事を書いた、東大のウェブメディアの橋部さん」
 山神の紹介にあわせて、柔らかなまなしが私の方に向く。
「東京大学二年の橋部と申します。今日はよろしくお願いします」
くらもとせつと申します。よろしくお願いします」
 倉本は両手をひざのあたりで重ね合わせ、丁重に頭を下げた。

「橋部さんは、伊田くんのことを知りたいのよね」
 倉本は山神の隣のソファに腰を下ろすと、おもむろに口を開いた。
「はい。特に伊田さんがなぜ弁護士を辞め、医師を志されたのかについてお聞きできればと」
「自分で話すのが面倒くさいので、倉本さんにお任せしようと思ったわけです」
「あら、それは光栄だわ」
 山神の軽口に、倉本も軽口で返す。
「そうね、どこからお話しすればいいかしら」
 波が引くように、倉本の表情から笑みが消えていく。
「私にはじゆという一人娘がいてね。樹里と伊田くんとは、法学部の同級生だったの」
 とつとつと、倉本は話し始めた。
めは深くは知らないんだけどね、ゼミが一緒だったのかな。それで仲良くなったみたいで。二人とも弁護士登録した年に、結婚したの」
 私は驚きの色を出さぬよう努めた。家庭や所帯というものと縁遠そうだと思い込んでいたが、伊田は結婚していたのだ。つまり、倉本は伊田の義母ということになる。
「二〇〇〇年でしたかね。確か結婚式はとうきようかいかんでしたか」
「そうそう、そうでした。華やかな、いい式だったわ」
 懐かしそうに、倉本は頷く。
「それから暫くは、本当にいい時間でした。主人もまだ元気で、四人でご飯を食べたり、旅行に行ったりして。伊田くんは山神さんのところで、樹里も別の法律事務所で働いていて、結構忙しかったみたい」
「今思えば、伊田くんを馬車馬の如く働かせていました」
 神妙な面持ちで山神が言うものだから、倉本は心底おかしそうにケラケラと笑う。
「でもね、二人とも、とにかく毎日が楽しくて仕方ないって感じだった。落ち着いたら子供を持ちたいって言ってたけど、随分先になるかなって思ってた」
 だけどね、と倉本は、やや投げやりに言う。
「楽しい時間は、大して長くは続いてくれなかった」
 二〇〇五年五月十八日。
「朝からずっと弱い雨が降ってて、梅雨がもう近いなって感じさせるような日だった」
 倉本は目を細める。
「夜の八時頃だったかな、伊田くんから電話があって。樹里が刺されて病院に搬送された。自分も向かっているから、私たちも急いで欲しいって。あの時の伊田くんの声は忘れられないわ。感情がまるっきり抜け落ちてて、まるで、出来の悪い機械音声みたいだった」
 後に明らかになったことだが、樹里が襲われたのは午後七時半頃。自宅マンション近くの路地でのことだった。樹里は男にナイフで腹部を切りつけられ、その場に倒れ込んだ。悲鳴を聞いた近隣住民がすぐに通報。犯人は逃亡したが、救急車の到着も早く、命に別状はなかった。
 しかし樹里の苦しみは、あまりにも深かった。
「傷の場所が悪くてね、子供の産めない身体になってしまったの。そのこと、お医者さんは回復するまで樹里に話さないようにしてたんだけど、樹里がね、何度も何度も聞くの。私はもう子供を産めないんですかって。きっと、直感的に分かったのね」
 伊田との大切な夢を、樹里は奪われた。だが、それだけではなかった。
「お腹の傷はね、二つの大きな×バツだったの。マル×バツ×バツ
 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が全身に走った。
「それは、この前死んだ──」
 倉本は頷く。
「そう、よ。
 
 私の動揺をよそに、倉本は話し続ける。考えるのは後だと自分に言い聞かせる。
「樹里は言っていたわ。あの傷、あの×バツを見るたびに、自分が否定されるような気がするって」
 そして退院を間近に控えた、二〇〇五年六月十八日。
「トイレの中で、ハサミで手首を切って、自殺したの」
 三十歳だった。
「丸山が捕まったのは、そのまた一カ月後の、七月二十日だった。でも、傷害罪よ。ふざけるなと思った。樹里は丸山に、
 ようやく気付く。のだ。
「出所してからは大人しくしてるのかと思ったら、また事件を起こして、被害者の方は亡くなってしまって。今度こそ殺人で当分出てこられないだろうって思ったら、事故死でしょ。拍子抜けって言うと変だけど、何かこう、恨むすらなくなっちゃったというか」
 笑みになり損ねた表情で、倉本は顔をゆがませる。
「ごめんなさい、伊田くんの話だったわね」
 高ぶる気持ちを抑え、倉本は話を本筋に戻そうとする。山神も倉本も、被害者の手術を担当したのが伊田だと知らないようだ。
「丸山が捕まった後、伊田くん、自分が全部準備するから、損害賠償請求をしようと言ってくれたの。いくらか生活の足しになるって。でも私、もう限界だった。お金なんか要らなかった。陳腐な言い方だけど、お金もらったって、樹里は帰ってこないでしょ?」

 ──法律はCさんにお金を取ってきてやることしかできない。

「でもそんなこと、伊田くんが一番よく分かってたはずなの。それでも伊田くんは私たちのためを思って言ってくれた、今なら分かる。でも、その時の私には、伊田くんが樹里を利用して、お金を稼ごうとしているように見えた。だから、言っちゃったのね。お金なんて要らない、余計なことをしないでいいから、もう放っておいてくれないか、って」

 ──しかしAさんの価値というのは、当然ですが、とても金銭に換えられるようなものではない。仮にCさんがお金など要らないというのであれば、法律にできることは基本的に何も無い。

「それからしばらく、伊田くんは顔を見せなくなった。三カ月くらいした頃かな、ふらっと家に来て。驚いたわ。もう弁護士を辞めて、お医者さんになる決意を固めていたんですもの。あの時は凄く申し訳なかった。私の心ない一言で、伊田くんの人生を大きく変えてしまったと思ったから。あの年から医者を目指すなんて、いくら伊田くんでも本当にできるのか、半信半疑だった」
 だが、それはゆうに終わった。
「今はね、凄く嬉しいの。伊田くん、楽しそうだから」
 柔らかな笑みをたたえた倉本は、私の方に向き直る。
「こういうお話で、よかったかしら?」
「はい、本当に有難うございました」
「今日の話は、記事になるの?」
「現時点では未定ですが、可能なら今掲載している記事に加筆したいと思っています」
「じゃあ、それを期待して楽しみにしてるわね。あ、でも私、うまく橋部さんの記事を見つけられなくて。インターネットはどうもよく分からないのよ」
「よければ今、印刷しますよ。私も結局、紙で読みましたから」
 山神がそう言って腰を上げた瞬間、我慢の限界が訪れた。
 立ち上がって二人に感謝の言葉を伝え、足早に事務所を後にした。本来なら丁重にお礼をすべきところ、失礼な振舞いであるということは分かっていた。不審がられるかもしれないということも。だがこれ以上、平静を装うことは不可能だった。
 外は雨が降っていた。いかにも梅雨らしい、弱くも強くもない雨だった。傘の上で雨粒が砕ける軽やかでリズミカルな音だけが、私の鼓膜を揺らした。
 全てを考え直す必要があった。
 もはや告発状を妄言と笑うことはできない。伊田が意図的に隠した過去は、加害者である丸山との深い因縁だったのだ。
 しかし丸山を殺す動機ならともかく、青葉を殺す動機が、伊田にあるだろうか。
 青葉は丸山の被害者だ。伊田の恨みを買うようなことは当然ながら何一つしていない。同じ丸山のやいばにかかり、死へと追いやられた樹里のことを思えば、むしろその命を救いたいと考えるのではないだろうか。だとすれば、青葉を生かす理由こそあれ、青葉を殺す理由など到底存在しないことになる。
 では、伊田は本当に無実なのか。
 雨音の中、私は想像する。
 伊田は青葉を前に、何を思っただろう。自分が救おうとしている命が、かつて自分の愛する者を死に追いやり、彼を医師という第二の職業にいざなう血塗られた契機を作った張本人によって侵されていると悟った時、何を感じただろう。その命を救えなかった時、何が彼の胸の内に巣くっていたのだろう。

 ──Bさんが犯したのはあくまでも傷害罪であって、その後にAさんに何が起ころうが、基本的には知ったことではない。結果、、Bさんに科される刑はその分軽くなる。

 蘇るのは、取材の時の伊田の言葉だ。今なら分かる。あの時の伊田は法律家でも医師でもなく、遺族として語っていた。理不尽という一言に凝縮されていた情動は、やるせなさであり、怒りであり、無力感だったのだろう。
 殺人者を殺人犯として裁けない法の理不尽を、伊田は誰よりも熟知していた。

 ──医師として心がけていることは、目の前の患者さんを治すために最善を尽くすことです。
 たとえ、その患者が、どのような人であったとしても。

 ──今度こそ殺人で当分出てこられないだろうって思ったら、事故死でしょ。

 一つのおぞましい可能性が存在していることに、私は気付く。
 もしその可能性が事実なら、記事は即刻、削除しなければいけない。いや、可能性が存在する現時点で記事を取り下げてしまうのが、最も確実で、安全で、賢明な方法だ。
 しかし、私の身勝手な指は違う方向に伸びる。
 欠片かけらも迷うことなく、伊田にアポイントメントのメールを打った。待ち構えていたかのように、数分で返信があった。
 明日の三時。取材に使ったあの喫茶店。
 私は再び、伊田に会う。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



東大に名探偵はいない
著者 市川憂人 伊与原新 新川帆立 辻堂ゆめ 結城真一郎 浅野皓生
定価: 1,815円(本体1,650円+税)
発売日:2023年01月27日

東大卒&東大生作家による「東大ミステリ」アンソロジー!
収録作
「泣きたくなるほどみじめな推理」 市川憂人
1995年、憧れの従姉を失った私は、彼女の痕跡を探すため東大の文芸サークルに入った。

「アスアサ五ジ ジシンアル」 伊与原 新
地震研に突然届いた1枚のはがき。虹で地震を予知したという「ムクヒラの電報」との関連は。

「東大生のウンコを見たいか?」 新川帆立
東大卒のミステリ作家・帆立は、親友リリーとともに農学部で起きたウンコ盗難事件の犯人を探す。

「片面の恋」 辻堂ゆめ
五月祭の準備中、クラスメートの熱烈な恋を一瞬にして冷めさせた「片面」の意味とは。

「いちおう東大です」 結城真一郎
美しく完璧な妻がまっさきに提示した新居の条件は、「東大が見えるところ」だった。

「テミスの逡巡」 浅野皓生 (東大生ミステリ小説コンテスト大賞受賞作)
卒業生の医師を取材した学生メディア「UTディスカバー」のもとに、彼は人殺しだという告発状が届く。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322202000823/
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