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試し読み

【試し読み】名作アニメーション映画「時をかける少女」を細田守監督自ら小説化!『時をかける少女 A Novel based on the Animated Film』冒頭特別公開!

映画公開から19年――青春アニメーション映画の金字塔「時をかける少女」を細田守監督自ら小説化!
時をかける少女 A Novel based on the Animated Film』の刊行を記念して、大ボリューム試し読みを特別公開します。
物語のはじまりを、どうぞお楽しみください。

*本作は劇場版アニメーション映画「時をかける少女」(原作 筒井康隆/脚本 奥寺佐渡子/監督 細田守)をもとに小説化したものです。

細田 守『時をかける少女 A Novel based on the Animated Film』試し読み

第1章


01 奇妙な夢


 ゴオン、ゴオン、ゴオン……。
 暗闇に、巨大な機械仕掛けがゆっくり駆動するような音が、低く反響している。
 遠くに、赤い光が一筋の線になって浮かび上がる。
 それが何なのか、わたしにはすぐには分からなかった。
 06:59:10……。06:59:15……。06:59:20……。06:59:25……。
 目を凝らしてみると、その文字は、整然と並ぶ数字の列だった。横一列に赤い数字がどこまでも連なっていた。
 ゴオン、ゴオン、ゴオン……。
 06:59:30……。06:59:35……。06:59:40……。
 これらは――、時だ。
 06:59:45……。06:59:50……。
 整然と時間を刻む、赤い帯だ。
 06:59:55……。
 午前7時の、少し前を指しているようだ。

 パッと目を開け、生暖かい空気を吸い込むと、草の匂いや土の香りが一気に鼻をつく。見上げた空のスカッと晴れた青さが、あまりにも濃くて圧倒される。ショートカットの髪が風になびいて、一本一本が皮膚をかすめる感覚がくすぐったい。わたし――こんこと17歳――は、てつがくどう公園野球場グラウンドのピッチャーマウンドに立っていた。
 右手にわしづかみにしていた野球のボールを握り直し、
「いくよっ!」
 とグローブをつけた腕と一緒に振り上げた。
 そのときどこからともなく、ピピピピッ、とアラーム音が聞こえた。
「……あれ?」
 振りかぶったまま、その音の正体を探してあちこちをキョロキョロと見た。フェンスの向こうのビル。家の屋根。遠くの木々の葉の揺れ。雲の形。
「ん……? ……お?」
 なにも見当たらない。あれ? おかしいな。すると、
「真琴」
 と、わたしの名を呼ぶ声が聞こえた。
 バッターボックスのみやあきだ。長身に赤毛がかった長髪。白いシャツの下の赤いタンクトップがまぶしい。左手首に黒いリストバンドをつけている。
「早く投げろよ」
 とかすが、わたしの頭はさっきの奇妙な音のことでいっぱいだ。
「なんかさあ、聞こえなかったあ? 今」
「聞こえたか?」
 千昭はバットを肩に掛け、ちょっと面倒くさそうにレフトの方へ視線を向けた。
「何が?」
 と伸びた坊主頭に青いTシャツ姿のこうすけが、腰を落とした守備ポーズのままグローブを耳に当てた。
「……あれぇ……?」
 ここにいるのはわたしたち三人だけだ。じゃあさっきの音はいったい何?
「おい真琴」
 千昭が待ちきれないように急き立てる。
 ちょっと不安になったが深呼吸して気を取り直した。再び振りかぶって片足をあげ、
「……いくよっ! そりゃっ!」
 と思いっ切り投げた。
 ボールはストライクゾーンめがけてまっすぐ……、ではなく残念ながら大きくそれてしまった。千昭はあわててバッターボックスから飛び出し、体勢を崩しながらも、
「おりゃっ!」
 とアッパースイングで打ち返した。白い球が高く舞い上がって青空に吸い込まれていく。
「あーくそ」
 千昭が悔しそうな声をあげる。
「オーライ……」
 功介は少し位置を調整してグローブを出し、優雅な動きで見事にキャッチする。野球上級者のしなやかな動きでくるっと回ってボールを投げ返してくれる。
 そのボールを目で追いながら、唐突に昨日のことがわたしの頭に浮かんだ。
「きのうさあ。プリン……、あっ!」
 グローブを差し出してジャンプしたが、タイミングが合わなくてキャッチできず、転がるボールを追いかけた。
「プリン、食べそこねた」
 制服の短くしたスカートのままで野球なんて、考えてみればばかげているけど、いまさらもう気にしない。
「プリンがどうした」
 千昭が左のバッターボックスに移動する。
「また妹に食われたんだろ」
 功介は肩のストレッチをしている。
「わざわざとっておいたのに。食べちゃうことないよねっ」
 悔しさと怒りが沸々と湧いてくる。ボールを拾ってピッチャーマウンドに戻り、
「もうっあのバカ妹っ!」
 と怒りに任せて勢いよく投げた。ボールは千昭めがけてまっすぐ飛んでいく。
「あぶねっ!」
 千昭が驚いて身を反らすが、ギリギリバットでとらえ、打ち返した。
「うりゃっ!」
 ボールは高々と舞い上がって、空に浮かぶ雲の中に溶け込んでいった。
「あーあ………。またやっちまった……」
 千昭がぼやいたそのあとすぐ、わたしの頭の中で一瞬、赤い数列が光る。
『お姉ちゃん?』
 と唐突に、ゆきの声がした。
「え?」
 ハッとして振り返った。すると、
『お姉ちゃん!?』
 赤い数列と同時に、また美雪の声が響く。
 わたしは周りをあちこち見回した。でも美雪の姿はどこにもない。なにこれ?
「……あれ? え……?」
 どこから声がしてるの? 混乱が深まる。なになに? どういうこと?
「真琴……。……真琴!」
 外野から功介が何かを叫んでいる。
「え?」
 気づいて振り返った。功介は大きな身振りで頭上を指している。
「上だ上!」
「……上………?」
 言われるまま見上げると、雲の白さにまぎれて白いボールがこちらに向かって落ちてくる。……いや、それはボールじゃない。シンプルな白いきようたい。赤いデジタル表示の、目覚まし時計だ。
 ガツンッ!
 08:02:55……。
 衝撃で、時計の赤い数列が一瞬乱れたように見えた。

「痛……」
 頭がズキズキする。目を開けるとわたしの部屋だった。枕元の棚から目覚まし時計が落下して額に当たったのだ。夢か。夢だったんだ。でもあまりにも鮮明で、現実との境界線がぼやけているように感じる。寝ぼけまなこで時計を持って赤い表示を見た。08:03、とある。8時03分……。時計を握りしめて跳ねるように起き上がった。
「あーっ!」
 遅刻だ。
「起きなよ、いいかげん」
 ベッドサイドから見下ろしていた中学のセーラー服姿の美雪が、コップの牛乳をゴクリと飲んだ。
 わたしは記録的な速度でパジャマを脱ぎ捨て、白いポロシャツと短めの紺色スカートの制服を身につけると、跳ねた寝癖を直す暇もなく、古い木製の階段をバタバタと駆け下りた。
「なんで目覚まし止めんのよ!」
「自分で止めたんじゃん!」
 美雪がすでに玄関で革靴を履いている。そう言えば確かに、夢の中でアラームが鳴っていた。
「行ってきまーす」
 身を反らせて母に声をかけ、玄関を出ていく声に小さな優越感が潜んでいる。
 中庭に面したリビングに飛び込むと、朝のテレビニュースが聞こえる。
『今日7月13日はナイスの日なんですねー』
『何ですか、ナイスの日って』
『7と1と3で、ナ・イ・ス』
 へーそんな日があったんだ。でも今はそんなこと気にしている場合じゃない。画面左上の時刻は8時を回っている。
「わーんヤバイ!」
「真琴。やっと起きたの?」
 あきれ顔で食器を片付ける母と入れ替わるようにダイニングに突入した。出版社に勤めている父は朝が遅く、のんびり新聞を読んでいる。
「父さんおはよう」と可能な限り早口で言った。
 おは……、と父が返事をしかけたのと同時に、わたしはコップの牛乳を一気にのどに流し込んだ。ぐびぐびぐびぐびぐび………。父はそれを黙って見ている。はあっ、飲み干したコップをテーブルにタンと置いた。それをきっかけに父のあいさつが返ってくる。
「………おはよう」
 もう時間がない。バッグを肩にかけ小走りで廊下に出た。
「行ってきます」
「真琴、ちょっちょっちょちょ」
 母が追いかけてくる。
「何?」玄関で足踏みしながら振り返った。
「これ帰りに魔女おばさんとこ持ってって、おばあちゃんからって」
 と桃がいっぱいに入ったビニール袋を差し出す。
「えーっ? やだよそんなの持って学校行くの」
 足踏みを止めて渋々受け取った。袋の中からふわりと桃のいい香りがする。
「それから、いつになったら結婚するのかも聞いといてね」
 言いつつ母が口と鼻の間を指差す。
 ハッと気づき、口の周りにできた牛乳のヒゲを慌ててき取った。
「うん」
 母はわたしの顔を確認し、笑顔でうなずく。
「よし」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
 家を飛び出すと自転車を引っ張り、ペダルに足をかけてサドルにまたがった。前カゴのビニール袋に入った桃の重さで、前輪がグラグラと不安定になる。
「あわわっ!」
 それでも構わず左に曲がると、急な坂道だ。
「あらマコちゃん、おはよう」玄関先を掃除するしらいしのおばさんが声をかけてくれる。
「おはようございまーす!」
 と振り返って挨拶した。坂を下るほどにスピードが上がってゆく。風を切る感覚が気持ちいい。
 商店街のゲートをくぐった先の踏切で、電車の通過を待つ通勤・通学の人たちがいる。そこへ坂道を下ってくるわたしの自転車が、キイイイイイイ……とけたたましいブレーキ音を鳴らして突進してゆく。ぜんとした目で道を譲る人たちをしりに、踏切のぎりぎり手前で後輪を浮かせながら止まった。
「いやー毎朝うるさくてスミマセン……」
 と頭をきながら苦笑いを向けた。申し訳ない思いでいっぱいだ。遮断機の向こうを快速電車が通過してゆく。
 踏切を渡ると上り坂。立ちぎで力強く登って坂上に着くと、ガニまたでだらだらと自転車をこぐ千昭を見つけた。
「千昭!」
 わたしの声に気づいて、千昭が耳のイヤフォンを外す。
「お、真琴。少しは余裕を持って行動しろよ」
「あんた人のこと言えんの!?」
「どうせまた二度寝だろ?」
 図星を突かれて言い返せない。
「うるさいー!」
「カゴのそれ何?」
 千昭が桃をのぞき込む。
「なんでもいいでしょー?」
「なんだよ教えろよっ!」
 くら高校が見えてくる。
 正門手前には、大正から昭和初期にかけて建てられた登録有形文化財に指定されている旧館、奥には新しく建てられた高層ビルの新館がある。白亜の壁に緑の窓枠が並ぶ、古めかしくも麗しい建物が旧館の教室棟だ。
 わたしと千昭は校門をくぐり抜けて自転車置き場に自転車をめ、教室棟の木製の階段を走って上った。教室に入ると、窓際で参考書を開く功介の黒縁メガネ姿が目に入る。わたしは息を切らしながら席に倒れ込むように座った。
「ゼェッゼエッ……」
「またギリギリかよ。遅刻した方がいっそすがすがしいな」
 功介がページをめくると、千昭が入ってきてその背中をひじで小突く。
「早ぇよ功介。ちゃんとオナってきたのかよ」
「うるせえ、おめえらが遅すぎんだよっ!」
 功介は座りかけの千昭の腹を小突き返す。
「ギリギリじゃないよ。ほら」
 とわたしはちょうど教室に入ってくるふくしま先生を指差した。
「ついてんなーオレたち」
「ついてんのはわたしよ!」
「なんだよそれ」
 不満そうな千昭をよそに、わたしは椅子の背にもたれ、ギリギリ遅刻にならずに済んだ喜びに浸りつつバッグから教科書を取り出した。
 オールバックに開襟シャツの福島先生は、紙の束を掲げて教室を見回した。
「はい先生が遅れた理由はなにかなー?」
「小テストー?」
 明るい色の髪をしたが、不満げに答える。
「はいはやかわ正解!」
「え~~っ!?」
 生徒たちの悲鳴が教室中に響いた。


02 例外の法則


 数学の小テスト。福島先生が教室内を巡回している。
 となりの功介は、黙々とよどむことなく筆を走らせている。しっかり準備する努力家で文武両道の秀才。
 千昭は早々に突っ伏して寝ていた。先生は立ち止まって、裏返された千昭の答案用紙をめくった。既にギッシリと解答が書かれてある。馬鹿っぽく見えて天才肌、といえば言い過ぎな気もする。
 わたしはといえば、運がいいタイプだ。ついてない時はとことんついてないと言うけど、そんなのひとごとだと思っていた。どちらかといえばついてる方だ。自分で言うのもなんだけど運もいいけど勘もいい。おかげで成績はほどほど。そんなに頭良くないけれど、バカってほどじゃない。
「あと5分」
 先生は横を通り過ぎ、お、と小さな驚きを漏らしてわたしの机を覗き込んだ。
 わたしの答案用紙は白かった。目に痛いほど白紙。問題を見ても何も浮かばず、頭の中も真っ白。脂汗をだらだらと流し、白目をむいて白紙を見つめ続けるしかない。
「あと5分」福島先生はわたしにだけ聞こえる小さな声で告げた。
 バカってほどじゃない、と言ったそばからあれだけど、いまのは例外。ただの悪い日だ。こんな日もある。
 このことでわたしのことを分かった気になるかもしれないけれど、それはたぶん誤解。大いなる誤解。わたしはと言えば、器用ってほど器用じゃないけれど人に笑われるほど不器用じゃない。あとから思い出していやになっちゃうような失敗もそんなにしない。
 家庭科の時間。教室の黒板に『ケーキ』『とんかつ』『天ぷら』などレシピと分担が書かれている。みんな色とりどりのエプロンをつけて楽しそうに調理をしている。
 なのに――。
 海老の殻をむいていたわたしの指先がつるんと滑って、身がぴょんと飛び出した。
 衣をつけるのにさいばしがうまく使えず、海老がつるりと逃げ出した。
 なんとか衣をつけた海老のしっぽを持ち、そーっと天ぷらなべに近づけた。しかしまたしても手元が滑って海老がボチャンと鍋に落ち、熱い油が跳ねた。
「あちゃちゃちゃっ!」
 と後ろにぴょんぴょんと踊るように飛び退いて、どん、と誰かにぶつかった。いつもおとなしめのたかくんが、厚い唇で驚いた顔を向けた。
「わっ!?」
 わたしはバランスを崩してとっさに手をついた。でもそれはまな板だった。その上のとんかつに添える用のキャベツの半玉がテコの原理で宙に舞い上がり、かんぺきな弧を描いて別の班の天ぷら鍋の中へぼちゃんと落下した。
「うわあっ!?」
 熱した油しぶきに、クラスのみんなは驚きの声をあげて逃げ惑った。鍋からぼわっと炎が立ち上がり、あっという間に火柱が教室を焦がした。
「なにやってんのバカ! 消火器! 高瀬君、消火器!」
 家庭科の先生に指示されて、高瀬くんが不器用に消火器のホースを引っ張り出して消火剤を吹きかけた。わたしはただ腰を抜かして座り込むことしかできなかった。
 いまのも例外。今日はただの悪い日。こんな日もあるってこと。
 午後、中庭の芝生でプロレス同好会の男子たちがハイテンションなパフォーマンスに興じている。
 友梨が心配そうに尋ねる。
「大丈夫ぅー?」
「ちょっと前髪焦げた」
 端が少し縮れて短くなってしまった。がっくり肩を落とさざるを得ない。
 普段はそこそこ慎重だから大きなケガなんかしたこともない。ややこしい人間関係に絡まっちゃうこともない。と頭の中で自分を励ました。でも今日は普段とはなんだか違う。
 友梨が突然、あっ、と声を上げて立ち止まった。
 ジャイアントスイングされたプロレス同好会男子が、まっすぐわたしに向かって飛んできたのだ。
「ぎゃっ!?」
 ぶつかった衝撃で男子と一緒に後方の木へと吹っ飛ばされた。その根元に座っていた生徒たちも巻き込み、絡み合った。わたしは反り返った姿勢のまま身動きが取れなくなった。
「おいおい」「大丈夫か?」「絡まってるぞ」と周囲から心配そうな声が聞こえる。
 投げられたプロレス同好会男子がわたしの上に横たわっていて、もがけばもがくほどさらに絡まってしまう。
「うー、ちょ……、ちょっと……。なんなのよもうっ!!」
 例外。そうに違いない。

 サッカー部が練習している放課後のグラウンドの隅、功介が足元のグリップを確かめながらバットを揺らしている。
「チャーチャーチャチャッチャーチャ、チャーチャーチャチャッチャーチャ、チャーチャーチャチャッチャーチャチャー」
 応援歌を口真似しつつゆっくりとバットを構え、ボールが来るのを待つ。すると突然、バスケットのボールが飛んできた。
「いてっ!」
 ぶっ倒れる功介を指差し、千昭が腹を抱えて笑っている。
「アハハハハハハ!」
「おまえなァ……。待てっ!」
 功介は、転がるバスケットボールを片手ドリブルで立ち上げると、笑いながら逃げる千昭を追いかけ、その背中にボールをボフンッと当てた。
 二人のじゃれ合う様子を、部室棟の生徒会掲示板の前で一年生女子のもりせき、そしてが見つめていた。
「血液型占いとかこの際関係ないと思う」
 ドクターペッパーの缶を片手に、髪を後ろでまとめた盛子が険しい目で見る。
「でも最悪って出てんだよ。ヤバくない?」
 ショートボブの析美が占い雑誌を片手に反論する。
「ヤバイかヤバくないかはこいつが決めることじゃん」
「えー……?」
 長めの黒髪をした果穂は、不安げな表情で二人を見た。

 その時わたしは返却されたばかりのテスト用紙を見つめていた。右上に大きく書かれた『9』の赤い文字が、まるであざわらうように見つめ返してくる。
「……………」
 100点満点の9点である。言葉が出ない。ここまでひどいとは思わなかった。人生で最低の点数。むしろほとんど白紙だったのに9点だけでもよく取れたものだ。この結果を誰にも見られたくない。
「真琴!」
 友梨の声がして、わたしは慌ててテスト用紙を何重にも折りたたんだ。
「……なに?」
「理系か文系か決めた?」
 ホウキを持った友梨が問いかける。放課後の掃除の途中、『進路説明会のお知らせ』と書かれた黒板を見上げた。
「まだ。友梨は?」
「まだまだ」
「よかったー」
 友梨もまだ決めていないと知って安心する。
「すぐには決められないもんねー」友梨がつぶやく。
「先のことは分からないもん」わたしも同意する。
「果てしないよねー」
 窓から差し込む光が、教室の床に濃い影を作っている。進路を決めるということが複数の可能性を一つに絞るということならば、わたしにはその準備がまだ何もできていない。先の見えない不安な未来の前で立ち尽くしているだけだ。
 わたしは突然、友梨に向き合い、
「離ればなれになっても友達だよ~」
 とまるで劇の一場面のように芝居がかると、目を潤ませた。
「あたりまえじゃ~ん」
 友梨も合わせてわたしと指を絡め、顔をしかめてみせた。
 その茶番を打ち消すように窓の外から声がした。
「オイ真琴!」
 自転車にまたがった千昭が見上げている。「いつまでやってんだよ!」
「だったら手伝えば!?」
「冗談じゃねぇ」
 千昭は自転車に乗ったまま逃げ出すように背を向ける。
「早くしろよ」功介も待っている。
「うーん」
 わたしは窓際の机にペタンと尻をついて座り、窓から二人の背中を見送った。やつらはいつも勝手だ。急かすだけ急かして手伝おうともしない。
「いいなー。真琴はモテて」
「そんなんじゃないよ」
「モテてんじゃん」
「ちがうって」
 否定すればするほど、友梨の声が切なげになる。
「……千昭くん、どうするのかな」
「理系でしょ? 漢字読めないし」
「数学とかすごいもんね」
「だけじゃん」
「でも……」
 友梨を見ると、なにか言いたげな様子だ。
「つーかなんで千昭の話?」
 といた時、教室の後ろから掃除中の男子の声がした。
「オイ! 提出用のノート置きっぱだぞ! 日直誰だよ!?」
「誰ー?」わたしは振り返るが、
「あんたでしょ!?」
 友梨のツッコミが入る。
 クラス全員分のノートを抱えて新館の理科室への階段を上った。重い。腕が痛い。踊り場で一休みしてため息をついた。
「……ハァ。……めんどくさー」

 放課後、学校は別の顔を見せ始める。
 音楽室では、グランドピアノを演奏する男子生徒の姿があり、数人の友達がそれを静かに聴いている。ゴールドベルク変奏曲(Goldberg Variations)の最初の曲、アリア(Aria)だ。図書館では、柱にもたれた女子生徒がひとり物語の世界に没頭している。体育館では、男子バレー部の練習の声と床の反響が途切れなく聞こえてくる。誰もいないピロティの自販機だけが、静寂の中で無機質な光を放っている。守衛所の時計は午後2時10分を指していた。放課後の学校は人の気配が薄れ、時間がゆっくりと流れているように感じる。
 わたしは重いノートの束を抱え、理科室の扉を開けた。誰もいない静かな室内。遠くからせいひつなピアノの音が聞こえてくるのみだ。
「……よっ、と……」
 教卓にクラス分のノートを持ち上げ、提出用段ボール箱に数冊に分けながら入れようとした。その時ふと黒板に目が留まった。授業の終わり、スライド式の黒板には化学式やグラフが消されずにそのままになっている。その下に、授業とは無関係な英語の落書きがある。

 Time waits for no one.
 ↑( ゚Д゚)ハァ?

 わたしはそれをじっと見つめた。時は誰も待たない、という意味だ。小さな声で口に出して読む。
「タイム、ウェイツ、フォー、ノー………」
 その時、ガタッ、という小さな物音が聞こえた。
「………?」
 ハッとしてその方向に目を向けた。音は、理科室の奥の部屋――理科実験室から聞こえてくる。じっとその扉を見つめた。ガタッ、ガタッ、と断続的に音がしている。明らかに誰かがいる気配だ。誰? 放課後に何をしているの? 扉にそっと近づき、午後の光に照らされたドアノブを握る。冷たい金属の感触が指先に伝わる。
 ガチャッ。
 なるべく音がしないように扉を開き、隙間から実験室を見た。室内はカーテンが引かれていて薄暗い。体を守るように数冊のノートを胸に抱き、息を殺して、おそるおそる一歩踏み入れた。実験室特有の化学薬品の匂いが鼻をつく。机いっぱいに雑然と置かれた実験器具やガラス容器が、カーテンの隙間から漏れるわずかな光を反射している。中央の二つの大机の間を進みながら見回した。フラスコ、メスシリンダー、アルコールバーナー、シャーレ、ビュレット台、試験管立て、凝縮器、電流計、電子てんびん、顕微鏡。壁に並ぶ、動植物や昆虫の標本の数々。
 だが、先ほど人の気配はあったはずなのに、室内に人影は見つけられない。
「あれ……? 誰かいると思ったのに……」
 小さな声でつぶやきながら、部屋の反対側の廊下へと通じる扉に手をかけ、引く。しかし、ドアは動かなかった。
「……あれ?」
 再び力を入れて引くが、びくともしない。外からかぎがかかっているのだ。
 力を緩め、改めて実験室全体を見回した。
「………うーん、密室」
 その言葉を口にすると、推理小説の一場面にいるような、不思議な気分になる。誰かいたはずなのに、人影は見つけられない。部屋は入ってきた扉以外、閉ざされている。ではさっきまでここにいたはずの誰かは、どこに消えたのか? などと考えていた時だった。
「……?」
 床に、何かが落ちているのを見つけた。指でつまめるほどの小さな丸い物体。光を受けて、かすかに輝いている。
「………何だろ?」
 近づいてよく見る。くるみに似た、自然のものとも人工物ともつかない不思議な形をしていた。中心に赤い光がチラチラとともっているように見える。わたしはしゃがみ込み、その物体に手を伸ばそうとした。
 その時、ガタッ、という物音とともに、丸いフラスコの向こうに人影が見えた。
「ハッ!?」
 振り返ろうとするが、中腰の不安定な姿勢で、よろけそうになる。
 ガタッ、ガタッ。
 その間にも、人影は実験器具の向こうを素早く移動する。
「わわわぁあああああっ!」
 驚いてバランスを崩し、胸に抱いていたノートをぶちまけながら、あお向けに倒れた。わたしの左の二の腕がそのくるみに似た物体の上に、ドン、と覆いかぶさった。放り出されたノートが、空中でゆっくりと舞うように見える。――いや、そう見えるのではなく、本当に時間が引き延ばされたかのように、全てがスローモーションで進んでいる。
 何が起こっているの?
 そう思った瞬間、視点が加速し、猛烈な勢いでノートへと近づいた。ページ一枚一枚の白さが拡大し、まばゆい光に変わる。わたしはその光の中へと吸い込まれていった。
「わああああああ………!」
 光のトンネルの中をすさまじい速度で進んでいた。理解できない現象に言葉を失う。ひとみにいくつもの光の粒が反射する。遠い音楽室からピアノの音が反響するように聞こえてきた。ゴールドベルク変奏曲の、軽快で突き進むような第一変奏(Variatio 1. a 1 Clav.)だ。
「な……、何コレ………!?」
 突然、水の中に飛び込んだ。無数の気泡に囲まれ、水中を漂う。そこには重力も方向感覚もない。
 そのわたしの目の前を、巨大な飛行船が横切っていく。現代の飛行機とは明らかに違う、蒸気の世界から抜け出してきた過去の遺物。光沢のある金属製のプロペラがくるくると回り、船体にぶら下がったクラシカルなゴンドラの小窓から、タキシードを着た紳士たちがこちらを見上げている。その光景があまりにも鮮明で、幻とはとても思えない。
「あああああああ……」
 飛行船が通り過ぎると、周囲の光と影が渦を巻くように変形して、現実感が揺らぐ。時間と空間、そして自分の体も、速度に引き裂かれるようにゆがんでいく。
 ほどなく遠くから地響きのような音が聞こえてきた。目を凝らすと、草原を走る野生種の馬の大群だった。茶色と黒と白の馬体が入り混じり、疾風のごとく駆け抜けていく。振動も、匂いさえもあまりに生々しい。
「……ああ………あ……」
 言葉にならない声が漏れてしまう。周囲は目まぐるしく変化し、すべてが夢のようにかすんでいく。
 一瞬後、わたしの意識は古代の部族の祝祭の中に放り込まれた。色鮮やかな衣装とアクセサリーを身にまとい、顔や手足に塗料を塗った人々が、燃え盛る大きな炎の周りで激しく踊っている。太鼓の振動とリズムが体の内側を震わせる。意識は踊る人々をすり抜けて炎の中へと吸い込まれていく。
 光のトンネルはさらに速度を上げていった。それが極限に達したとき、一気に光が視界を包み込んだ。意識は激しい光と共に、どこか遠い場所へと飛ばされた。
 そこはまばゆいほどに輝く未来都市だった。建物や道路は発光する素材で彩られ、未来の技術が生み出す色彩が街全体を包み込んでいる。立体的に積み上がる超高層のビルとビルの間は無数の橋やチューブトンネルでつながれ、飛翔する多数の乗り物が空中を行き交っている。なんという巨大な文明だろう。上へ上へと伸びるように建つ未来都市は、いくら上方へ進んでも先が見えず、気が遠くなるほどどこまでも続いていた。このはてしなき流れのはてに、一体、何があるのだろうか?
 すると突然、建築物の連なりを抜けて、真っ青な空と広い雲が視界に飛び込んできた。
「……ああ…………!!」
 わたしは宙に浮いたまま漂っていた。背後には都市ではなく、新緑の草原が一面に広がっていた。両手を広げたまま、その青々と輝く美しさの中へゆっくりと下降し始める。風に揺れる葉先が背中に触れそうになった瞬間――。
「あっ!」
 突如としてわたしは理科実験室の床に落下した。頭を強く打ち、手足がバウンドする。空中に散らばっていたノートが、次々とわたしの上にバサバサと降ってきた。
「ううっ!」
 顔がノートに埋もれた。体は現実に戻ったが、意識はまだあの不思議な時空の旅の余韻にある。何が起きたのか、全く理解できない。今の体験は夢? 幻覚? それとも現実に起こったこと? 飛行船、野生種の馬、古代の祝祭、未来都市、草原……。それらは夢にしてはあまりにも生々しく、現実にしてはあまりに非現実的だった。しかし今は、その謎を解く余裕はない。ノートの重みで息苦しく、体はまるで長旅から戻ってきたかのような疲労感に包まれている。それと同時に湧きあがってくる強い高揚感。これまでに経験したことのない冒険。恐ろしくもあり、不思議でもあり、生死の境をさまうようでもあり、それでいて何よりも魅力的だった。
「うーん……」
 ノートを払いのけながら身を起こし、わたしは改めて実験室を見回した。さっき見たくるみ状の物体は、どこにも見当たらなかった。


03 夏の陽炎


「アッハッハッハッ」
 千昭は笑いが止まらない。バット片手にユラユラと自転車を漕ぎながら、わたしの顔を見ては込み上げる笑いをこらえられない様子だった。
「バカだなーおまえ。ハラいて~!!」
 そんな千昭を、功介は困ったような表情で見ている。
 わたしはいらちを抑えつけながら黙々と歩き続けた。
 古びたアパートの前を通りかかると、軒先に布団が干してある。太古とも未来とも無縁の風景だ。理科実験室での不思議な体験のことを二人に話したのは失敗だった。特に千昭は、わたしが床で転んだという部分だけを聞いて大喜びしている。
「おまえ、笑い過ぎだろ」功介が諭すように言う。
「そうよ。笑い過ぎよ」わたしも同意する。
「だっておもしれえもん」
「おもしろくない!」
 わたしの声が裏返る。本当はあの体験の不思議さを二人に伝えたかった。古代の祭りや未来都市の鮮明なヴィジョンのことを。でも言葉にするのは難しく、結局、転んだ、という部分だけが強調されてしまったのだ。
「ま、でも今日が真琴の厄日だってことは確かだな。気をつけろよ。このあともなんかあるかも」
「もうないです。あっちゃ困ります」
 功介の心配にわたしは首を振る。
 他にも朝の小テスト、家庭科での大惨事、プロレスごっこに巻き込まれたこと。今日はもう十分すぎるほど「厄日」だ。
「でも何にもないのにぶっ倒れるか普通?」
 千昭が茶化すように言う。
「何にもなくないよ! 誰かいたんだもん!」
 わたしは立ち止まって振り返る。
 功介も足を止める。
「誰かって?」
「誰が?」
 千昭も自転車を止める。
 クリーニング店の前で三人は向かい合う。わたしは千昭をじっと見つめた。
「じーっ」
「なんでオレがおまえを転ばすんだよ?」
 次に功介を見た。
「じーっ」
「俺かい犯人は」
 わたしは空を見上げながら考える。
「………じゃ誰だろ?」
 あの実験室の人影は誰だったのか。それとも単なる錯覚だったのだろうか。

 蟬の鳴き声が哲学堂グラウンドに充満している。青空にゆっくりと流れる白い雲を見上げながら、わたしたちは夏の暑さに身をさらしていた。緩やかな三角形を作り、いつものようにゆるいキャッチボールを続けた。
「あっちーなー全く」千昭がぼやきながら投げる。
「今年は猛暑だからな」功介が淡々と受ける。
「ふざけんなよ」
「もうすぐ夏休みだろ、我慢しろ」
「そうだよ夏休みだよ! どっか行こ? 三人で」わたしは元気を取り戻した。
「お、いいこと言うねぇ」
「例えばどことか?」
「ナイター行こうぜ」
「先月行ったじゃん、千昭そればっか」
「じゃどこだよ」
「海とか」
 夏の海。波の音と潮の香り。砂浜を駆ける三人の姿が頭に浮かぶ。
「あちいだろ」千昭は即座に却下する。
「混んでるしな」功介も同調する。
「じゃ花火大会は? 浴衣ゆかた着てさ!」
 わたしは少し夢見るような気持ちになる。夜空に広がる大輪の花。浴衣姿の三人。うちわ。きんちやく。露店。夏の思い出にぴったり。
「持ってねぇよ」
「それに混むだろ」
「じゃ功介はどこ行きたいの?」
 わたしから功介へとボールを投げた。
「図書館」
 功介はそれを受け止める。
「はあ!?」
 思わず声が出てしまう。
「みっちり勉強」
 功介は鋭いモーションで千昭に投げた。
「ふざけんなよ」
 千昭はボールをキャッチすると、抗議するように功介へ鋭く投げ返す。「あっついのに勉強ばっかしてっと、バカになんぞっ!」
「おまえらしなさすぎ」功介は呆れながら受け止める。
「医学部受ける人と一緒にしないで」
 功介の真面目さは尊敬するけれど、時々うつとうしい時もある。
「じゃ真琴、おまえはどうすんだよ?」
「え?」
 功介からのボールをキャッチしたものの、とっさには答えられなかった。将来? そんなこと今まであまり真剣に考えたことがなかった。
「うーん、ホテル王」
「わっ!」功介はわたしのノーコントロールのボールを際どくキャッチする。
「もしくは石油王」
 さらに追加した。
「真面目に考えろ……よっ!」
 と功介は突然ボールを高く放り上げた。
 わたしたちはみな空を見上げ、滞空するボールを目で追った。本当は、真面目に考えたいと思っている。でも考えれば考えるほど、答えが見つからない。
「……ねえ、千昭はどうすんの?」
「オレ? ……オレは…………」
 千昭は上を見たまま、言いよどんだ。彼は未来をどう考えているんだろう? 将来は何をするつもりだろう。どのように答えるのか、興味があった。だがそれを言う前に、落下したボールが千昭の顔面を直撃した。
「イテッ!」
「アヒャヒャヒャヒャ!!」
 わたしは思わずお腹を抱えて大笑いした。
「ふたりとも、少しは真面目に考えろよ」
 功介は呆れたようにため息をついた。
 そのあと一休みになった。木漏れ日の差すネット裏の水道で千昭が顔を洗っている。わたしは自転車のスタンドを外し、サドルに跨った。
「あれ、帰んの?」功介が意外そうに聞く。
「今日お母さんに用事頼まれてたんだった」
 魔女おばさんのところへ行かなければならなかったのだった。母に託された桃を届けるために。
「あぁ? つまんねーこと言うなよ。こいつとふたりかよ!?」
 千昭はびしょれの顔を上げ、タオルで拭きながら抗議する。
 わたしは自転車を走らせて手を振った。
「じゃあまたねー」
「オイ! オーイッ!」
 千昭の声が遠くなっていく。

「行くよ」
 坂道にある商店街で、買い物帰りのおばさんが小さな男の子を呼ぶ。
 しかし、道の反対側から男の子は動こうとしない。手に持った黄色い電車のおもちゃで、坂下にある商店街のゲートを指す。
「もうすぐお人形さんが……」
 そのゲートの上にある時計を、男の子は期待を込めた目で見上げている。
「まったく……」
 おばさんは呆れたようにつぶやくと、道を渡り始めた。すると、わたしの運転する自転車が、急ブレーキの音を響かせておばさんの目の前ギリギリを横切った。
「……わっ!!」
 おばさんはこぶしを振り上げて怒鳴った。「コラ!! どこに目ぇつけてんだい!?」
「スイマセーン!」
 わたしは振り返りながら謝った。考え事をしていて、道を渡っているおばさんに突っ込みそうになったのだ。幸いにも避けられたが、今日はやはり不運な日なのかもしれない。気をつけないと。
 商店街のゲートに設置されたからくり時計から、軽快な音楽と共に何体もの小さな人形たちがせり上がって現れた。時計は3時59分30秒を指している。あの男の子が楽しみにしていたのはこれだったのだろう。
 坂下から警報機の音が聞こえてきた。人々が急ぎ足で渡っていく中、踏切の遮断機が下りていく。左右のどちらからも電車が来ることを告げる矢印が点灯する。
「あ」
 時計があるゲートの下を自転車で通過して、ペダルを止めると、ジーッとラチェットの空転音が鳴る。カゴに入った桃が揺れる。
 わたしは左のブレーキバーを、ぐぐぐ、と握った。後輪のローラーがブレーキシューを押し広げて、ギギギギ………、と音を立てながら徐々に減速する。
 今日がもし――。
 とわたしは思う。今日がもし、なんでもない普段の一日だったら、何の問題もなかったはず。
 でも――。
 ブチッ、と異音がして、突然、ブレーキにごたえがなくなった。
「え!?」
 ブレーキバーを握る。が、まるで利かない。
「あれ!?」
 もう一度ブレーキバーを握る。何度も、何度も。が全く利かない。
 自転車が徐々に加速していく。
「あれ!? あれ!?」
 何度も、何度も、何度も握る。でも、全然手応えがない。
 もしかして、ブレーキのワイヤーが……、切れた!?
 背筋が凍った。わたしはすっかり忘れていた。今日が最悪の日だってことを――。
 3時59分40秒。
 坂を下る自転車はブレーキが利かないまま、徐々に加速していった。
 踏切の警報機が激しく鳴り響いている。
 3時59分50秒。
 からくり時計の鐘の周りで、人形たちが背丈ほどもあるハンマーを持って踊り出す。
「ああああああ!?」
 わたしはブレーキバーを握り続けた。指が痛いほど力を入れているのに、何の役にも立たない。両足を地面につけて踏ん張り、必死で止めようとするが、急な坂道では全く効果がない。桃の重みで前輪がガクガクと激しく揺れる。
 3時59分55秒。
 人形たちが、間抜けなわたしをまるであざ笑っているかのように楽しげに回りながら踊っている。
 もう無駄だとわかっていても、わたしはブレーキバーを握り続けるしかない。
「ああああああああああ!?」
 その声と不穏な気配に、遮断機の前に集まった人々が、次々と坂の上を見上げる。
 踏ん張った足から脱げてしまった片方の革靴が大きく斜面をバウンドしながら、あっという間に後方に遠ざかっていく。
 3時59分58秒。
 人形たちは、中央の鐘に向けてハンマーを振り上げる。
 わたしはハッと顔を上げた。風で激しく舞った前髪が、視界を遮る。大勢の人が見ている中、踏切へと猛スピードで突っ込んでいく。
「ああああああああああああああ!?」
 からくり時計の人形たちが、鐘をハンマーで一勢にたたく。
 4時00分00秒。
 ゴーンと響く鐘の音と同時に、自転車の前輪が遮断機の竿さおに激突した。その衝撃で自転車が大きく跳ね上がり、わたしは軌道内へと投げ出された。カゴの中の桃が飛び出し、一緒に宙に舞う。時間がスローモーションのように感じられる。
 まさかとは思うけれど――、死ぬんだ。
 右から快速が迫ってくる。その前面のガラスが太陽の光を反射してまぶしい。反対側からは特急が接近している。二つの電車に挟まれ、わたしは宙に浮いている。桃が空中でゆっくりと回転する。左から迫りくる特急のごうおんが、体を震わせる。右から迫る快速電車のライトが、網膜に焼きついていく。
 桃と一緒に落下するわたしを見上げる人々の顔が、妙に無表情に見えた。彼らの目には、もう助からない少女の哀れな姿が映っているのだろう。
 4時00分02秒。
 ゆっくりと落下していく。
 目を閉じた。これが最期の瞬間。今日で最期なんだ。
 もうダメか――。
 こんなことになるんなら、もっと早く起きたのに。寝坊なんかしないし、遅刻もしない。天ぷらももっとうまく揚げる。バカな男子にぶつかられたりしない。
 今日は確か、ナイスの日なのに――。
 左右からの電車が、猛スピードで交差した。
 遮断機の向こうで、桃と自転車が大きな音を立てて粉々に打ち砕かれた。
 4時00分05秒。
 そのとき、暗闇の中の赤い数字の列が一度ピタリと止まり、それから高速で逆回転を始めた。
 ガシャン!
 と自転車が激しく地面に倒れる音がした。車輪がカラカラと回転している。わたしはアスファルトの地面にうずくまっていた。体中がキリキリと痛い。
「痛………………。くぅ…………っ」
 少しの間、動けなかった。うつむいたままよろよろと上半身だけを起こした。
 でも………あれ? ……生きている? ………なぜ?
 すると突然、怒鳴り声が耳に響いた。
「コラッ! どこに目ぇつけてんだい!」
「………ハッ!?」
 声の主は、わたしの自転車の下敷きになった買い物帰りのおばさんだった。
「そっちからぶつかって来たんじゃないの! 謝んなさい! ほら、謝んなさいよっ!」
 とおばさんが力任せに自転車を押し返し、わたしの方に突き返す。ガシャーン、と大きな音を立ててわたしの前に倒れる。その剣幕に身をすくめて、事情がわからないまま頭を下げた。
「え………あ……、ごめんなさい……!」
「目がなんで前についてるかわかる!? ちゃんと前見て歩くためよ、わかった!?」
 おばさんの怒声に、
「ハイ! ……どうも失礼しました………」
 と地面に両手をつき、平身低頭して謝った。
 おばさんは落とした野菜や缶詰を自分のバッグに入れながら、不満そうな顔でため息をつく。
「まったくもう……」
 すると軽快な音楽が聞こえてきた。男の子がその方向を見て、黄色い電車のおもちゃで指す。
「ママー。あれ」
「え? あら、もうこんな時間」
 おばさんも時計を見上げる。わたしも思わず顔を上げる。
 せり上がってくる人形たちの姿が見える。そのからくり時計は、3時59分30秒を指していた。
「……!?」
 ぼうぜんと立ち上がり、時計を見つめた。
「………な…なんで…」
 人形たちが踊り始める。警報機が鳴り、遮断機が下りていく。
 さっき、4時になったはずなのに……。
「なんで!?」
 遮断機の向こうを、上りと下りの電車が交差していく。
 体験したはずの事故は、なかった。いや正確には、まだ起きていない。これは幻? それとも……。
 一体、何が起こったのか――。
 気持ちと頭の中はひどく混乱していて、収拾がつかないくらいにぐちゃぐちゃになっていた。
「ど……どうなってるの……? コレ……!?」

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:時をかける少女 A Novel based on the Animated Film
著 者:細田 守
発売日:2025年08月29日

待ってられない未来がある。あの名作アニメ映画を細田守監督自ら小説化!
ある夏、偶然“タイムリープ”という能力を手にした女子高校生の真琴。ついてない毎日を変えるため、ささいなことで時間を跳び越えタイムリープを繰り返すが、その積み重ねの先に思いもよらないピンチが訪れる。
かけがえのない時間と大切な人を救うため、真琴が決めた未来とは――。

*本作は劇場版アニメーション映画「時をかける少女」(原作 筒井康隆/脚本 奥寺佐渡子/監督 細田守)をもとに小説化したものです。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322505000585/
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