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試し読み

【試し読み】「だども、あの子はまだ生きとる」――凍てつく冬の大地を春へと駆ける少女の物語。高瀬乃一『天馬の子』第1章「柳の穴」全文特別公開!

デビュー作『貸本屋おせん』(文藝春秋)で第12回日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞、『梅の実るまで 茅野淳之介幕末日乗』(新潮社)が第38回山本周五郎賞、第13回野村胡堂文学賞、第31回中山義秀文学賞の各候補となるなど、いま最も注目される新鋭・高瀬乃一さん。最新作『天馬の子』の刊行を記念して、第1章「柳の穴」全文を特別公開します。

高瀬乃一『天馬の子』試し読み

第一章 柳の穴



 雪けの道をゆっくり進むいけづきの手綱をきながら、リュウはふと足を止めた。頭上を通り過ぎたキビタキが、西の空へ飛び去っていく。
「見ろよ、生築。はちこうがあんなに近くに見えでら」
 手を伸ばしてみる。なにもつかめない。
「まだ背丈が足りねえみてえだ」
 みちはたや田のあぜに白や黄色の花が咲くと、リュウは八高田だけの頂に手が届くくらい背が伸びた気がする。八高田は、朝も夜も春も冬も、大地の向こうにそびえる山である。朝日が昇ると、峰々はその光を受けてうっすらと青白く輝き、日が沈むころにはまばゆい橙色だいだいいろの日を背にして巨大な生き物のような姿をかたどり、夜には満天の星の中に影を残した。
 背伸びして、もういちど試してみる。山さ、無理だな。せめて空を流れる雲ならば。
「おい、リュウ。なにしてんだ?」
 いちかわの岸辺から声が聞こえた。リュウよりすこし背の高いセツが、首を伸ばして手を振っている。
「あの白いの、つかめんかなあって」
ほうじゃな、うんまやのてっぺんに登ったって無理だべな」
「んだか? 馬っこの背に乗ってもだめか」
「そったら馬鹿げたことで馬っこさ乗ろうだなんて、リュウくれえなもんだ」
 セツの笑い声に引き寄せられるように、生築と堤の坂を下りていく。
 生築は首にぶら下げた馬鈴を打ち鳴らしながら、市川の岸へゆっくりと向かっていった。手綱を外してやると、川岸に生える草をみはじめる。
 柔らかな日があたる土手に寝転がってフクベラの茎をつまみ、くるくるとまわしていたセツが、筋の通った鼻先に日差しをうけてくしゃみをした。
 そのひょうしに白い花びらが吹き飛び、見ていたリュウは腹ばいになって笑い転げた。川沿いにはすでに青い草が芽生えはじめている。
 もうすぐ春彼岸だが、八高田の頂には白い筋が残り、ふもとの集落の日陰にもうっすらと固まった雪が残っていた。それでも春の風は甘い雪融けの匂いを運んでくれている。
「まだ、馬の尻尾しつぽさ切れねえな」
 雪がけていくと、山上の残雪の形が、空をける馬のように見えてきて、やがて夏が近づくとその尾がちぎれた風になる。川で水浴びができるほど暖かい陽気になるが、それはまだ先のようだ。
 尻尾っていえば、とセツが声をひそめた。
「このまえ臥牛山がぎゆうざんのちかくで狼が出てよ。はちのへの村の里馬っこ、三頭もわれて尻尾と骨しか残らなかったってよ」
「うちのじっちゃも、夜明け前から出かけたすけ、狼を追い払いに行ったんだべか」
 南部藩こつちに入って来るかな、とリュウが不安を口にすると、セツは物知り顔でうなずいた。
「あいつらは藩の境目なんて気にしねえべ」
 セツは八戸藩なが村の子だ。
 リュウが暮らすなん藩と、セツが暮らす八戸藩の藩境には、柳とならの木が交互に植えられ、根元に塚が築かれている。そこがふたつの藩の境目と定められたのは、前の南部藩の殿さまが没した、二十年ほど前のことだった。
 村の大人たちは集まりがあると、楢の木を植えてまわった時の苦労を語りだす。植樹していると、すぐ横で八戸長根村の衆が柳の木を植えていくが、互いに顔見知りだから奇妙なもんだったと、昔をなつかしむのが、酒の席の決まり事のようになっている。
 目の前の市川を渡るとセツの長根村。いら川のほうへ戻ると、リュウが暮らすおし村集落がある。リュウは市川の向こうに行ったことはない。
 ザッとかわを旋風がいでいく。跳ねあがる水しぶきがリュウの頬にかかる。
 生築の馬鈴の音が、風にのり聞こえてきた。
「ころんころん、ええ音するな」
 と、セツが耳を澄ませる。
「ころん? おかしな耳しとるな」
「リュウはどう聞こえるんじゃ」
 うーん、とリュウは目を閉じる。腹が鳴った。笑い転げたセツは、ふっと空を見てまゆじりを下げた。
「いげね、そろそろうちさ戻らねえと」
 八戸領の方角から昇ってきた日は、すっかり中天にある。リュウも「オーラ」と生築を呼びよせた。だが、一向に動く気配がない。まだ草を食べ足りないのだろう。馬はとにかくよく食べる。もう一度呼ぶと、丸いボロを落としそっぽを向かれた。
「いつもは言うこときくんだよ」
 セツが口に手をあて、目をほそめてクツクツと笑う。大人びた顔つきで、末は八戸一のべつぴんになると言われており、噂は南部の忍野村にも聞こえてくる。しっかり者で、働き者。リュウと同じ十歳なのに、まるで姉のように頼りになる娘だった。
「あーあ、もっとセツと話してえじゃ。な、うちじゃあいっつも口閉じてろって叱られるすけ、腹の中もぞもぞしてしかたねえじゃ」
「おめさんらしいわ」
 いつものようにリュウが愚痴をこぼすと、セツは優しく笑った。
 だが、そんな子どもじみたことばかり言ってもいられない。
 ひえの作付けが近づいている。八十八夜のすこし前から畑の掘り起こしがはじまるが、たねきに間に合わせることができないと、村名主のへいから、のみんなが叱られるのだ。
 今年は母のキヨについておが仕事を覚えるようにと、祖父のさぶろうからきつく言われている。
「リュウにおとなしく畑仕事できないべ?」
は目悪くて畑さ出られねえし、男手がねえから、しかたながんべ」
 リュウの父、さくぞうは、リュウが生まれてすぐに病で没した。七つ年上の兄のこうきちも、二年前の冬に不慮の死をとげている。祖母の目の悪さでは畑に行くのも危ないため、祖父と母が畑仕事を担っている。ただ二人だけでは人手が足りない。
 リュウが大人ひとり分の仕事をこなさなければ、家が成り立たないのだが、手足がひょろりと細長く腰回りも薄い。畑仕事に向いていない体型だと井三郎からがっかりされている。体力も技量も兄には遠く及ばず、井三郎の口癖は「おめが男だったら」だ。
 リュウは生築のもとに駆けていき、手綱をくわえさせた。生築は前脚で土をかいて、鼻息をふうふうと吐き出している。白い息の生温かさが伝わってくる。
「次こそめんこい、生まれるといいな」
 川に掛かった丸太橋を渡りきったセツが、手をふり叫んだ。
「んだな。できりゃあ駄馬がええ。だったらうちで面倒見れるからさ」
 ひと月前、生築が産み落とした仔馬は立ち上がることができず、間引かれてしまった。その前の年も死産している。井三郎は生築のせいだとひどく怒って、これをもらってきたキヨにまで怒りをあらわにした。
 母馬は仔を産んだあと、ひと月ほどで発情する。そのときがもっともつぎの仔ができやすいからと、明日には井三郎が村名主のもとへ種付けに行くそうだ。
 村で生まれた仔馬が駄馬(めすうま)ならば、村の里馬としてこの先も飼うことができる。駒馬(おすうま)なら藩の牧へ引き取られ野馬(藩所有の馬)になるが、と評されるとばくろうへ売られていく。だから村で飼う里馬は、圧倒的に駄馬が多かった。駒馬はお殿さまやお侍の馬だと、リュウは亡き兄から教わった。
「セツ、あしたさ行くけど、おめさんも来る?」
「いけたらな!」
 向こう岸で川の土手を上がりながら、セツが振り返った。
 リュウたちが集まる〈柳の穴〉は、「うんまや」と呼ばれる小高い山の斜面にある秘密の隠れ家だ。雲馬は、春彼岸の頃になると、山のちょうどてっぺんから日が昇るようになる。春の訪れを知らせる山になっており、頂に近い場所には馬をまつそうぜん社が建っている。
 冬のあいだは穴の入り口を雪が覆っていたが、そろそろどうくつの中の泉の氷も融けたはずだ。あのあたりはトチの木が多く、若芽も生えているころだろう。
「そういやあ、うちの長根のの子が来てえって言ってるすけ、連れてってええか?」
「口かてえ?」
「石よりかてえ」
「だば、いいよ。その子の印は〈ごつごつの岩〉じゃあ」
「そりゃぴったりじゃ」
 明日は井三郎が生築の種付けに出かけて留守だし、母のキヨもトコロを掘りに村の女衆と集まると言っていた。
「家の手伝いが増える前の息抜きじゃな」
 と、リュウが眉を上下させると、まるで大人みたいなことを言うとセツにからかわれた。
 セツはまた明日と大きく手を振り、土手の向こうへ消えていった。
 リュウも生築の手綱をとった。「シー、シー」と声をかけると、生築はよだれをたらして頭を振る。カラカラとふたつの馬鈴が鳴り、水辺に浮かんでいた鴨が驚いて水面を駆けながら飛び立っていった。
 強く引っ張ると、ようやく頭をもたげた生築が、荒い鼻息をリュウに吹きかけた。



「リュウ。おめ、まだ血抜いてねえ生築を連れて出かけただろ」
 囲炉裏の炭を寄せながら、井三郎がぼそりと口をひらいた。胡坐あぐらをかく足のあいだにげんが置かれている。干した薬草やミミズの粉を合わせて熱さましの薬を作っているのだ。井三郎の親の親から伝わった万能薬である。声は薬研の音にかき消され、リュウが聞き返すと、祖父は手をとめた。
「村の決まり事さやぶっちゃなんねえ。おくうまにかかわることならなおさらじゃ」
「んだども……もう雪融けたっけな」
「おめの好き勝手するんじゃねえ」
「血抜き」は、長い冬の間じっとしていた馬が、急に動き回り怪我をするのを避けるためと、その先も健やかに育つように、ていの爪首の裏から放血することだ。それが終われば焼切り(野焼き)した村の牧草地に放牧することができる。
 わかってはいたが、うまやでもどかしそうに地面をる生築を見ていたら、じっとしていられなかったのだ。
 麻の着物つづれのほつれを直していたキヨが、けんに指をあてている。リュウが祖父の機嫌を損ねた時に必ずする癖だ。
「狼がうろついているって噂あるべな。生築が襲われたらどうすんだ」
 キヨがリュウをにらみつけた。
「大丈夫だよ。馬鈴つけていたし」
「あげな玩具もんで狼が逃げるわけねえべ。ほにほに、おめさんは目を離すと駒っこみてえによそさ行ってまう」
 母の小言はいちどはじまったら最後、リュウが寝床に入るまで止まらない。
 それを察したのか、厩の生築がいなないた。うるさいねえとキヨが深く息をついたので、いそいでリュウは厩へ下りた。
 リュウの家は厩になっている土間が広く造られている。人と馬が同じ屋根の下で寝起きするので、馬の気配をすぐに察することができた。居間じよいの奥にはふたつの小部屋がある。戸をはずせば、かなりの広さになった。建物のけたゆきは五間(約九メートル)ほどあり、集落のなかでは大きなほうだ。
 父の作蔵は生前、藩の所有する御牧を守る猟師として奉公していた。とくにさき(木崎の牧)は狼が多く出没する場所だったので、父のように乗馬と鉄砲のふたつにけた者が猟師としてつかえていた。
 木崎野の野馬は、冬の間、ここから一日ばかり南に登ったにのふくおか村で舎飼いされることが定められていた。野馬を運ぶ途中、かならず忍野村を通過するが、ここを休息の地として数日とどまることがある。リュウの家は、お役人と野馬が体を休める場という役目を負っていた。そのため村から許しをもらって、厩を広く建て直したと聞いている。
 本家(名主一家)以外では、リュウの家だけの栄誉でもある。
 兄の幸吉も、父の血をよく継ぎ、乗馬の腕前は忍野村随一だった。十三という若さで、野馬捕りで先頭に立って馬を追いかける「」をおおせつかったほどだ。
「名子」は、木崎野を守る「おんもり」であるるいまき家が務めるという定めがあった。忍野村では、本家が小比類巻家の縁筋にあるため、当主の治五平が務めることになっている。ただ治五平はもともと足が悪くて馬には乗れない。ならば息子がとなるが、病がちで乗馬などしたことがないという。
 リュウの家は、遠くさかのぼれば小比類巻の分家筋の血を引いているため、幸吉が名子と同様に馬に乗ることを許されたらしい。兄は十三から十五まで、三度の名子を務めあげた。この歳を下まわる名子は、後にも先にもいない。
「生築、こんどこそ丈夫な仔っこできるすけな」
「馬っこに必ずはねえ。油断するとしっぺ返しくらうわ」
 井三郎の言葉で、祖母のカズの糸繰の手が止まった。キヨも針を動かしながら、ちらと義父を見て、すぐに目を伏せる。
「そりゃあわかってるけんど……」
「口答えするなじゃ。ろくに働きもできねえくせに口だけは一人前じゃ。幸吉さ生きとったら、もっどわぁらも楽さできるのに」
(しっぺ返しうけたら、もういっぺんひっくり返しゃあいいが)
 と、反論できたらいいが、そんなことをいった瞬間、祖父の固いげんこつを食らうだろう。
(なあしてみんな馬っこのことになると目くじら立てるんじゃ。こんなにめんこいのに)
 リュウは生築の体をなでながら、この先生まれる仔馬に思いをはせた。
 生築は薄い茶のあしで額には大きな白い星がある。四肢は太くて乗馬や荷を運ぶには都合がいい理想的な奥馬(南部馬)だ。
 ただ、南部の殿さまやご家来衆は、乗合が良い馬よりも、ことのほか見目を重視するものらしい。毛色で尊ばれるのは、色の濃い青毛や栗毛、鹿である。生築が駒馬を産んだとしても、母親に似て葦毛や河原毛(亜麻色の毛)ならば、下馬として藩の外の誰ともわからぬ者に売られてしまうだろう。
 馬は生まれ落ちた瞬間に一生が決まる。
 だけど、いまはまだそんなことは心配しなくていい。
 どうか、元気で丈夫な仔馬が生まれてきますように。
 毎日おいしい草を食み、野を駆けられますように。
 そう願いながら、リュウは生築の首をポンとたたいた。

 田起こしが終わり、里にカッコウがおりてきたら稗まきがはじまる。
 水田に稗を植えるようになったのは、リュウのじっちゃのじっちゃの頃からだという。
 このあたりは冷害がひどく、南の地から伝わってきた稲はなかなか育たない。かわりに稗、大豆、麻を順繰りにいて育てているが、とくに稗は寒さに強い穀物だ。このあたりでは、米に代わる上納の穀物として、また主食として重宝されていた。
 稗植えまでに、男たちは焼切りをし、女たちは機作業を済ませ、村総出でおが仕事の備えをしなければならない。
 そんな忙しい合間をぬって、井三郎は生築を本家のきゆうしやへ連れていった。キヨはかごを背負って山菜採りに出かけている。
「ばっぱ、わぁもちょっと出るすけ」
 つむで麻糸をっているカズに声をかけると、「家のこともしねえで」とぼやきが返ってきた。
「どこさ」
「雲馬のお蒼前さん」
「ああ、そりゃあいい心がけだ」
 雲馬は昔このあたりを蝦夷えみしの一族が治めていたころに築かれた小さな山城のあとである。
 言い伝えでは、良馬が多く生まれた年に、神様の使いが現れるとされた神聖な場所だ。「ウンマ」は蝦夷のことばで「馬」だという。それが言い伝えと相まって、「雲の馬」という字があてられたと、死んだ兄から聞かされたことがある。
 長い年月の中で幾度も領主は替わったが、山頂にある蒼前さまの御社だけは変わらない。奥馬の繁栄と武勲のために村々を守ってくれていた。
 山の側面には無数のけもの道がある。その道をたどった先に大きな洞穴を見つけたのは、リュウとセツだった。幸吉が亡くなると、冬の間じゅう家には悲しみが満ちていた。ようやく川面の氷が融けても、リュウの心は涙が凍ってしまったようにがちがちだった。いつも兄に遊んでもらった雲馬へ一人で出かけたが、寂しさが募るばかりだった。蒼前さままで登り、まだ雪の残る社の前に座って泣いていると、同じ年ごろの女の子がひょっこり現れたのだ。その子はリュウを見て、どうしたと近づいてきた。
 セツと名乗ったその子は、家の手伝いが嫌で逃げだして、藩境を越えてしまったという。雲馬は長根村からも眺めることができるので、好奇心から山道を登ってきたらしかった。
 兄が死んだと告げると、「泣いたってっちゃは生き返らねえよ」と至極まっとうなことをいわれた。そして一緒に遊べば泣く暇はないと、彼女のたもとでリュウの涙をぬぐってくれたのだ。
 ふたりでリスを追いかけたり、ウサギのわなを作ったりしているうちに、あたりが薄暗くなってしまった。春になったとはいえ、日がかげれば凍えてしまう。うっそうと茂る立木のせいで方向を見失ったとき、リュウが垂れ下がる柳の枝をよけた先に、ぽっかりと大きな穴が開いているのを見つけたのだ。大人が三人ほど並んでもゆうに通れるくらいの、大きな洞穴だった。
「柳の穴」と名付けたその隠れ家に行きたい子は、先に仲間になった子に連れられてくる。大人に殴られても穴のことを告げ口しないと誓うと、仲間だと認められ、野馬一頭ごとに焼きつける「馬印」のように、その子だけの印が与えられるのだ。
 リュウは「馬の目」、セツは「フクベラの花」だ。どこかに書いて残すことはしていないが、誓いのあかしとしてみんなの胸に刻まれている。
 いまでは忍野村やその周辺の集落のみならず、藩境をこっそり越えてきた八戸領の子も仲間にくわわり、リュウが知っているだけでも十を超える子が、柳の穴に出入りしていた。
「おお、リュウ。相変わらず不細工の面してら」
「おめこそ、団子みてえな頭がデコボコして不細工じゃ」
 茂みを割って道にとび出てきたのは、だ。村名主の治五平ので、リュウ達よりもひとつ年下の忍野村の子である。
 千加良は生まれつき毛があまり伸びないたちで、くりくりの坊主のようにり上げていた。頭が丸っこくてころころと音が出そうだから、仲間の印が「馬鈴」になった。
「千加良、その格好で柳の穴さ行くのけ?」
 千加良は村の子たちが身に着けているつぎはぎの着物ではなく、領主さまや木崎野のおんもりさま、村を回ってくる馬改めの役人が身に着けているような立派なはかま姿である。
「なんじゃ、坊主が婿にでも行くみてだな」
「本家に漢学の偉い先生がとうりゆうしててさ。あにさの代わりに講義ば聴いてきた……気は進まんかったけど、っちゃが来いへっていうすけ」
 どうやら強いて行かされたらしい。千加良の母親は、治五平の囲い者だ。村はずれに立派な家をあてがわれ、母子ふたりで暮らしている。
 千加良は包みをひらいて、数冊の書物をリュウに見せた。難しい字が紙面いっぱいに並んでいる。
「ほええ、おめさん、こったらもん読み書きできるんだか」
「やらねえと、が鬼さなるすけよ」
「ええなあ。わぁも字さ読めるようになりてえな」
「なしてじゃ」
「セツと文のやりとりしてえ。そしたらいつも一緒にいられるべな。我ながらいい考えだろ?」
「いいなあ。そりゃ、いい」
 千加良は、セツのことをひそかに好いている。リュウとセツが並んで歩いていると、うらやましげに後ろからついてくるのだ。
 雲馬の山頂へつづく古道を登っていくと、蒼前さまの社に至るが、そこまではおしゃべりをしながらあっという間にたどり着く距離である。昔山城だったこともあり、石垣に使われた大きな石が、そこかしこに転がっていた。
 道のわきにはキマンサクが咲き乱れている。花の咲き具合で、この年の豊凶を占うことができるが、はたして今年はどうなのだろうか。千加良に聞くと、そったらこと知らんと返された。
「学問しとって、なしてわからん」
「そったらこと教わらんもん」
「役にたたんのお」
「ええんじゃ、どうせおらは本家の厄介もんだすけ」
 しっとりとした水融けの香りが黒土の匂いとまじりあい、通り道を吹き抜けていく。その風といっしょに、セツが息を切らして駆けあがってきた。うしろにはおどおどした顔つきの見慣れぬ男の子がついている。こいつが口の堅いすてきちだ、とセツがふたりに引き合わせ、すぐに声をひそめた。
「いまな、ふもとに見慣れねえ男がいたよ」
「木崎野のお役人さんじゃねえか?」
 足を止めて忍野村の方角に目をやると、はるか遠くにうっすらと白い煙が立ちこめている場所があった。南部藩が抱える九つの牧で最も広い敷地を擁する木崎野である。
 その放牧地の焼切りをしているのだろう。冬の間敷地内に残った枯草を一気に燃やして、若い新草が生えやすくするもので、春の訪れを告げる風景のひとつだ。
 それが終わり夏になれば、里馬の生育を確かめるために、木崎野の役人が村を巡ってくる。それを「馬改め」といった。この時期は、馬を飼う家は粗相がないようにと気をもみながら、役人たちを迎え入れるのである。
 だが、セツは違うと思うと首を振った。
「その人、左のそでがぶらんとしてた。腕がねえんだ」
 千加良が「ひい」とおびえた声をあげたので、セツが「なさけねえな」とあきれ顔を浮かべる。旅人だろうとリュウがいうと、セツもそうだろうとうなずいた。
 社のお参りを終えると四人で列になり、細いけもの道を伝って残雪が凍ったがけを下りていった。日があたる茂みに、桃色の花が咲いている。千加良が手を伸ばして引きちぎった。ままごとでもするのかとセツがからかう。
「となりの家のぜんぞうさ、年明けにめんこい赤子が生まれたんじゃ。もう目が見えるころだすけな、土産に持って帰る」
 腹違いの兄しかいない千加良にとって、近所の赤子が妹のようにかわいいらしい。たまに子守りを頼まれると、返したくなくてたまらないと目じりを垂らす。
「わぁも見に行っていいべか」
 リュウがいうと、セツが「わしも行きてえなあ」とうらやましそうにつぶやいた。
 穴にはすでに数人の子がいて、リュウたちと入れ替わりに、家の手伝いがあると帰っていく子もいた。
 穴の中は、リュウの家がすっぽり収まるくらいの大きな空洞になっており、奥に行くほど狭くなる。山に蓄えられた清水が壁を伝って穴の外へ注がれ、天井には乳白色の岩がぬるぬると広がっていた。
 穴の入り口には、雪の下で冬を越えた松ぼっくりや枯れ葉や木の実が押しつぶされている。袴をまくり上げ草履を脱いでつま先立ちで穴に飛び込んだ千加良が、松ぼっくりに足をとられて勢いよくしりもちをついた。



 日が暮れかけたころ、キヨが身なりを整え、カズにゆうの支度を頼むと言づけていた。
「こったら遅くにどこさいくの?」
 表からまきを運んでいたリュウが声をかけると、キヨがしき包みを掲げ、「染屋だ」といって家を出ていった。
 昼は畑仕事が忙しく、冬の間織った麻の反物を、染屋へ納めに行けなかったのだろう。そんなことならリュウが遣いに行ったのにと思いながら、遠ざかる母の後ろ姿を見送った。ちようちんあかりが小さくなって見えなくなると、表は闇に包まれた。西の空には深い紫色の影が広がっている。
 ふいに厩の生築が頭を上下させた。耳を倒して後ろ脚を踏み込み後退しようとしている。
「おめもこええのか?」
 せんぼうごしに手を伸ばし、生築の首筋をでてやる。生築は広げていた鼻孔を小さくしながら、リュウに顔をすりよせてきた。
 キヨが生築をもらい受けてきたのは、幸吉が死んで半年ほどたった夏の盛りのころだった。歯のすり減り具合から十歳前後。そのときすでに仔をはらんでいた。だが、その仔が死産となり、次の年もうまく育たなかった。
「大丈夫だ。今度こそめんこい仔っこ生まれるべ。心配するな、生築」
 生築は体から湯気をくゆらせながら、静かにかいを食みはじめた。
 家に戻ると、カズが曲がった腰をたたきながら手招きしている。
「そこさ立って背見せろ」
 リュウが土間に立ったままかまちに背を向けると、腰丈の着物を当てられた。キヨの古着を仕立て直したものだ。
「ちょうどよがんべ。なんじゃあ、ずいぶんなあ。もうキヨと背丈変わらなくなったべな」
「ばっぱはだんだんちっこくなるなあ」
「ヒヒ、そのうち豆粒になっちまうわ」
 長年の畑仕事で腰が曲がっているカズは、ぐっと背をのばしてもリュウより小さい。近ごろは目が悪くなったというが、糸撚り台に向かって錘をかけ、機にかける麻糸をつくる速さは目を見張るものがある。その麻糸を織って反物に仕上げていくのが、村の女たちの仕事のひとつだ。
 忍野村では、女の子は七つになればいとみを覚える。割かれた麻をつないでいく作業だ。リュウは指が短くて細かな仕事に向いていないのか、すぐに麻糸をちぎってしまう。
 翌日、リュウは昼ちかくまで切りをした。村で飼う里馬たちが食べる干し草やわらを、木枠におのを取り付けたトナキリという道具で細かく刻んでいく。ひたすら切ったあと、それを大きなトナ煮釜で煮る。これが臭くて煙が目に染みるが、トナをたくさん作っておかなければ、冬のあいだ里馬が飢えてしまうのだ。
 昼飯は朝の残りの稗飯に寒干大根の味噌汁をかけてカズと食べた。腹がふくれると、カズがうとうとと居眠りをはじめる。
 リュウは籠に焼き餅と漬物を入れ、生築を連れて家を出た。
 近くの稗田で草刈りをしている井三郎とキヨに昼飯を届けると、ふたりが刈った草を生築にくくりつけてまた家に戻る。それを何往復かすると、生築を市川の近くにある放牧地へ連れて行った。ようやく、リュウの休息の時である。
「生築、たんと食っとけよ、わぁ柳の穴さ行ってくるすけな」
 生築は食欲がおうせいで、しばらくはリュウなどお構いなしに草を食んでいるだろう。同じように馬の世話をする村の子がふたり、牧の中をゆらゆらと歩き回っている。「ちょっと見といてくれるか?」と声をかけると「いいよー」と返ってきた。
 空にはぐずぐずとした雲が広がっていたが、右手に見える八高田の峰は光が満ちている。いまの時季は土が干からびるくらいがちょうどいい。あの空なら雨はしばらく降りそうにないなとあんしながら歩いていくと、市川のほとりに見覚えのある女がたたずんでいた。
 善蔵の女房のマツだった。
 マツに背負われた赤子が、指をしゃぶりながら、横を通るリュウを見つめていた。白い小さな手が、夏の風をつかもうとしている。
「その子、年明けに生まれた子け?」
 リュウが声をかけると、マツがゆっくりと振り向いて、そう、と小さくつぶやいた。
「さわっていい?」
「いいよ」
 そっと小さな紅葉のような手の、さらに小さな細い人差し指をつまんでやると、赤子はくすぐったいのか、よだれを垂らしながらリュウに満面の笑みを向けた。
「なんってえ、めんこいの。いいなあ、わぁも妹が欲しいじゃ!」
 善蔵夫婦の赤子がかわいくて仕方ないと目じりを垂らしていた千加良の気持ちがわかる気がした。
「ねえ、この子の名前、なんていうの?」
「まだねえのさ」
「なして?」
 忙しくてね、とマツが目を伏せる。
「いい名前つけてやれるといいな」
 声が大きすぎたのか、赤子が驚いてぐずりだした。
 リュウはマツと赤子に手を振り、川を上っていった。
 雲馬のふもとでかつさぶろうの兄弟とはちあわせた。ふたりは田畑の乏しい小村の出身で、父親とともに治五平の家に住み込み、草刈りや馬の世話などをするかりだ。一昨年おととしから勝次が、昨年から三郎がこの村へ働きに来るようになった。勝次はリュウより三つ年上の十三歳、三郎は一つ年上の十一歳だ。
 今日は屋敷に大人たちが集まっており、子らは脇街道沿いの草刈りへ行くように命じられたらしいが、怠け心が出て柳の穴で一服やろうとなったらしい。
(千加良、穴におらんとええな)
 この兄弟と千加良が柳の穴で出くわすと、きまってけんかになるのだ。
 千加良はふたりが働く本家では良く思われていない囲い者の子だから、借子たちも千加良に対してそんな態度をとる。馬が合わないとはこのことだ。リュウにだって苦手な奴がいるから、三人がいがみ合う気持ちも理解できた。
 リュウの家から少し北にすぎぞうという若者がいる。リュウより六つほど年上で、幸吉が生きていた時は舎弟のように後をついて回っていた。そのころから村娘へのいたずらや乱暴な行いが幼いリュウの目にも怖く、口をきかないようにして避けている。
 先日、畑へ行く途中に杉蔵に出くわしたが、彼は薪を背負う老いた母に、早く飯を食わせろとせいを浴びせていた。
 三人で柳の穴につくと、捨吉ら長根村の子が数人車座になって、なにやら笑い転げていた。セツはどうしているか尋ねると、捨吉が知らないと首を振った。
「リュウ、麦餅、食うか?」
 すすっとリュウに近寄ってきたのは、長根村の娘でハヤという。リュウより三つ年上で、柳の穴の仲間では年長者としてみんなの世話を焼いてくれる。セツが初めて連れてきたのがこのハヤだった。昔から姉のように慕っていると紹介してくれた日から、リュウも身内のような気がしている。
「食う食う、腹ぺっこぺこだべ」
「あいかわらず食い意地はってるなあ。そう思って、たあんと持ってきたべな」
 こうして家から食い物を持ち寄れば分け合い、具合の悪い子がいれば、賢い子が山から薬草を採ってきて看病してやる。親からひどいせつかんをうけて帰りたくない子をここにかくまったときは、大人たちが神隠しだと大騒ぎになったこともある。
 リュウは、ハヤからもらった麦餅を半分ちぎると、穴のくぼみに身を隠すように座っている、スミと呼ばれる娘に差し出した。スミはあたりを見回し、そっと近づいてくると手を伸ばして麦餅をつかみ、一気に飲みこんだ。
 いつも隅っこにいるからスミという。本当の歳も名前も分からない家無し子だ。着物は破れ、帯ひもは藁を縛る縄紐である。忍野村や近隣の村々を渡り歩いていたが、いまは柳の穴に住みつき、仲間の食べ物をかすめ取って腹を満たしていた。
 大人たちは、スミとは関わるなという。気にかければ、家についてきてしまうからだ。だから柳の穴の仲間ではない。「印」もついていなかった。
 湧き水がたまった泉のそばに集まる男の子たちは、騒々しい声をあげている。
 輪の中心にいる勝次が、懐から火打石を取り出して藁に火をつけはじめた。
「父っちゃのとっておきじゃ」
 と、煙管キセルを仲間に見せびらかし、草に火をつけてフーと息を吹きかけている。
「穴で煙やらねえでけろ」
 リュウたちがきこみながら穴の外に飛び出すと、ちょうど崖を滑るように千加良が下りてくるのがみえた。風呂敷包みを抱えているから、学者先生のところへいくのを怠けてきたのだろう。
 千加良は煙草の匂いに気づくと、頬をふくらませてきびすを返した。
「寄ってかねえのか」
 リュウが声をかけると、
「今日はいい」
 と叫んで帰っていった。

 稗植えがおわると、ようやく忍野村に穏やかな日々が訪れる。稗がしゆつすいするまでひたすら草刈りをし、お天道さまの機嫌をうかがいながら生築を放牧につれていく。合間にはキヨとともに山菜や魚をとりに出かけた。
「あっぱ、川さ行ってくる」
 土間でほしもちを水でもどしている母に声をかけた。
「トナ切りは?」
「おわった!」
 厩に虫がたかって、生築が体を気にするそぶりをしていた。市川の水で遊ばせてやれば、虫も流れていくだろう。
「あ、生築、待ってけろじゃ」
 リュウが手綱を引いていたはずなのに、いつの間にか生築が速足でリュウを引っ張っていた。「ダア、ダア」と掛け声をかけて生築を立ち止まらせる。
 抱えていたむしろを生築の背にかけ、縄をぐるりと回して結ぶと、その背にひょいと乗った。草とボロのツンとした臭いが立つ。馬の前脚の付け根に足の指を挟むようにして乗れば振り落とされることはない。リュウがしっかり座ったかたしかめるように、生築が黒い眼を背に向けた。
「オーラ、オーラ」と首を撫でてやると、気持ちよさそうに鼻息を吐き出してゆっくり歩を進めた。
 荷駄馬に木材を積んでいく村の男たちとすれちがった。畑の仕事は一段落したが、男衆は秋を迎える前に街道沿いの道や、木崎野の周辺に連なる長いさくの修繕などに駆り出されている。男たちはリュウを乗せた生築を見て「なんじゃ、あれは」と振り返りながら笑っていた。生築は、耳の大きさが左右で違うし、毛並みも薄茶と白のまだらになっているからだ。
 リュウは恥ずかしくて顔を伏せた。賢い奥馬だが、この毛並みでは下馬には違いない。奥馬は、殿さまの家来衆に認められてこそ価値があると、大人たちは口にしていた。
 そんなリュウの気持ちを察したのか、生築はリュウを振り落とさんばかりに首を振る。
「すまねえじゃ。そんなに怒るなよお」
 気まずさを鼻歌でごまかしていると、市川の土手の下を善蔵が歩いていくのが見えてきた。その後ろに顔をふせたマツがついている。
 ふたりは川沿いを行ったり来たりして、川面を指さしながら言葉を交わしていた。
 ぬるい夏の風が、八高田から吹いてくる。
 リュウはふたりからすこし離れた上流まで行き、生築から飛び降りて縄を解いた。
 水遊びがおわったら、柳の穴へ行ってみよう。作付けが終わるまで仲間たちは家の手伝いで集まることができなかったが、そろそろ怠け心がうずいてくるころだ。
 土手を下りゆるやかに流れる水面みなもに足をそっと浸した。ひざの上まですそをたくし上げて、岩場に腰を掛けた。見た目よりも川底は水の流れが強い。生築は水の中に寝転がって体についた虫を洗い流している。
 顔をあげると、下流ではまだ善蔵たちがうろついていた。ふたりはしばらく川面を眺めていたが、やがて踵を返して土手を登っていった。
小魚じやつこ、おらんのかのう)
 岩場から首をのばしてみると、すぐに小さな魚影が目にとびこんできた。
「なんじゃ、おるでねえか」
 そっと川に入って、手づかみで数匹捕まえる。腰にぶら下げた麻袋にいれた。
 すっかり気持ちよくなった生築は、岸に上がると身を震わせて水滴をとばし、柳の穴のある上流へむかって前脚をかつかつと鳴らした。
 柳の穴に続くけもの道は細いので、生築は連れていけない。山のふもとの堀跡のちかくの茂みに放つと、崖に生い茂るヒメザサの葉を食みはじめた。
 穴には千加良とセツがいた。ふたりは向かい合わせに腹ばいになって、一冊の書物を繰っている。リュウと一緒に文字を教わりはじめたセツだが、リュウと違ってみ込みが早いらしい。すでに難しい真名(漢字)もいくつか読めるようになっていた。
「どした、リュウ? ぼんやりした顔して」
 ふたりの横にひざをついたリュウが、いつもより大人しいことにセツがすぐに気づく。
「川で善蔵さたちがおっかねえ顔して歩いてたじゃ」
 ちらりと見ただけだが、マツは泣いていたかもしれない。
「けんかでもしたんじゃろか」
 もしかしたら、リュウが名前はないのかとたずねたので、言い合いになったのかもしれない。
 あとで魚を届けてやろうかなとリュウがいうと、セツが静かに書物を閉じた。なにか言いかけたとき、穴の外の立木の枝ががさりと揺れた。
「間引くんじゃ」
 穴にやってきた勝次だった。三郎も腰ぎんちゃくのようについている。
「ふたりで川さ見ていたなら、そういうことだべな」
 勝次の言葉に、千加良が「ああ」とのどを詰まらせた。
「あっこはもうふたりのおるすけ、はいらねえんだ」
 寝たきりの老婆も養っているし、昨年善蔵が体を悪くして、身重のマツだけではどうにもならず、稗と豆の畑を枯らした。そこに三人目の女の子が生まれれば、暮らしはひっ迫していただろう。畑を駄目にした善蔵一家は、本家や結仲間へ助けを求めることなどできなかったにちがいない。
 千加良はそう言って、書物に目を落とした。その紙面に、ぽたぽたと涙がおちる。口をとがらせ涙を止めようとするが、うまくいかないようだった。
 リュウも、おひさまに照らされて笑っていた赤子の笑顔と小さな指が、まぶたの裏に焼きついている。
「おらたちの間にも、ひとりいたんだべ」
 三郎が言うと、勝次が「んだな」とつぶやいた。
「もしかしたら、わしらみんな、間引かれていたかもしれねえんだよな」
 セツはそう言って、穴の隅に座ってこちらをみつめているスミに目をやった。
 穴の外から、生築のいななきが聞こえた。それはひどく悲しげで、リュウには怒りを含んだ声にきこえた。



「いいか、ぜったいに、姿見られちゃなんねえぞ」
 リュウが念をおすと、千加良と三郎が同時にうなずいた。勝次とスミは下流で待機している。リュウたちがしくじったら、勝次たちが流れてくる籠を捕まえることになっていた。
 千加良が隣の善蔵の家を見張ること三日目。
 畑仕事を終えた善蔵が、藁で編まれた赤子の寝床を抱えて家を出た。赤子を川に流すのだ。
 すぐに千加良は本家の横に建つ借子小屋へ走り、勝次と三郎を誘い出した。
 三郎がリュウの家に知らせにきたのは、ちょうどカズとキヨが麻布を染屋に納めに行き家をあけているときで、井三郎も薪を採りに出ていた。
 市川へ向かう途中、ひとのない家の軒先で干餅を盗んでいるスミを見つけた。スミは赤子にかかわるのを嫌がっていたが、「仲間の印」を与えると誘うと、うれしそうに足をばたつかせ、「嘘っこつくなよ」と念をおしてついてきたのである。
 三郎は背丈ほどもある葦を一本引き抜いて、青い穂先で千加良の顔をつついている。まったく男の子というのはいつまでも幼子のようであきれるばかりだ。これから行うことが、どれだけ尊いことなのか分かっているのだろうか。
 リュウは顔を上げて、茂みから八高田の頂に潤みながら落ちていく光を見つめた。あたりの雲の端が真っ赤に燃える。あまりのまぶしさに、リュウは目を細めた。
 どうして日は嶽の向こうに落ちていくのに、雲のずっと上のほうが赤くなるのか。逆さまではないかと不思議に思って、幸吉に尋ねたことがあった。ふたりで蒼前さまの社に手をあわせ、預かっている野馬が丈夫に冬をこせますようにと祈った帰り路だった。
 ――帰るとき、あたりが暗くなっちまったら家がどこにあるか分かんねえべ。その目印に八高田の上が燃えてんだ。
 幸吉は、いつもリュウの「なぁして」に根気強く付きあってくれる優しい兄だった。
「なあ、リュウ。こったらことして、本家のだんさまに叱られねえべか」
 三郎が声を震わせた。今になっておじけづいたらしい。
「見つかったら、言い出しっぺのリュウが謝ってくれろ」
「ええよ。こんなすっからかんの頭さ、いっくらでもさげてやるべな」
 何年か前、リュウは奥入瀬川で魚を獲っているとき、流れていく赤子を見つけた。とつにおくるみに手を伸ばしたリュウを、一緒にいたキヨが止めたのだ。
 仏のもとへ旅立つ赤子を、他人がどうこうしてはならない。それが、おとなたちの言い分だった。
「だども、あの子はまだ生きとる」
 こんどこそ、この手でつかみ取って助けるのだ。
 リュウはふたりの帯紐を握り、力いっぱい引っ張った。やめろじゃ、と男ふたりがひっくり返る。
 やがて、三人の耳にか細い赤子の泣き声と足音が聞こえてきた。
 リュウの心の臓が痛いほど速く鼓動を打っていく。
「ええか。善蔵さがいなくなったら、すぐに寝床さ追っかけて拾いあげるんじゃ」
 リュウの言葉に、千加良と三郎がうなずく。
ねえから、勝手するなよ、三郎」
 足元をなでるような湿った風が川面をゆらしている。善蔵は、籠を抱えたまましばらく川べりに立っていた。一度しゃがんだが、やがて立ちあがり、赤く染まる空を見上げて木のように立ち尽くした。
 もしかしたら、思い直して赤子を連れ帰るのかもしれない。そう、リュウが思ったとき、
「あっ!」
 とっさに声をあげた千加良の口を、リュウは慌てて押さえつけた。善蔵は、前触れもなく籠を川に流すと、一目散に川から離れていった。
 はじめに駆けだしたのはリュウだった。かき分ける葦の穂先が目に刺さった。頬が切れてじりっと痛みを感じた。
「おい待ぢろ、リュウ!」
 千加良の声を振り切り、リュウは籠の横まで走っていくと、そのまま川に飛び込んだ。大きな川ではないが、川底が深い場所もある。籠が速く流れていくように、善蔵はあえてそこを選んだのだろう。
 足裏にぬるりとした石の感触を覚えた直後、足がふわりと浮いて、リュウの体は川の流れに押されていった。なんとか籠に追いつき、その端をつかんだ。籠の中では薄目をあけた赤子が青い夏空を見つめている。
 千加良と三郎が、リュウを追って横を駆けている。
「リュウ! こっちさ来い!」
 下流から駆けつけた勝次が、リュウに手を伸ばしている。その手をつかもうとするがうまくいかない。おぼれそうになり一瞬籠を離してしまったが、勝次が腕を伸ばして籠を引き寄せた。リュウは川岸から伸びる草のツルを掴んでようやく流れからい出たが、牧を駆け回った後のように体が重く動かなくなっていた。
「阿呆かあ。おめまで一緒に死ぬとこだったべな」
 千加良が籠から赤子を抱き上げた。
「捨てられたっでのに、のんに寝てらあ」
 このあと赤子を柳の穴に連れて行き、なんとか七日をやり過ごして密かに親元へ返せばいい。
 間引かれた子が七日後まで生き延びることができたら、この世が恋しいのだろうと情けをかけて、親はその子を連れて帰る習いがある。善蔵たちも、赤子が戻ってくれば、天の御意志だとありがたがってくれるにちがいない。
「スミはどんな印だ?」と、スミがリュウにまつわりついてくる。千加良はれた赤子を強く抱きしめ、勝次と三郎が「めんこいなあ」と目じりを垂らした。
 だが、子どものたくらみなどそうたやすく成功するものではない。
 リュウたちが川に飛び込み、赤子を救い上げたのを見ていた大人がいたのだ。
 雲馬へ行く道中、村人数人が駆けてきて、「なんちゅうおろかなことを」とリュウたちをしかりつけ、赤子を奪い取っていったのである。



 間引かれた赤子を、村の子らが川から拾いあげてしまった。その出来事は、瞬く間に千加良の父でもある本家の治五平に知られることになった。
 リュウと千加良は、母親ともども治五平のもとへ突き出され、さんざん説教をうけた。
 千加良は、母親からもしばらく外出するなと命じられ、泣きながら家に連れていかれてしまった。
 翌日、リュウはキヨに連れられて善蔵の家にむかった。
 善蔵に頭を下げる母の姿を見るのはつらかったが、どうしてもリュウは納得できなかった。縁でマツが乳をやっているのが見える。
「なぁして?」
 ふいにリュウが声をあげると、キヨがリュウの腕をつかみ上げた。母の手を振りはらったリュウは、もう一度善蔵に向かって、「なぁしてなの?」と詰めよった。
「マツさ、あんなに泣いてるよ。なぁしてあの子捨てるの?」
「勘弁してくれろ……。キヨ、おめは娘にどんなしつけをしとるんじゃ」
 善蔵が鼻筋にしわを寄せてキヨをにらみつけた。
「どんだけ、わしらが、わしらが……」
 言葉尻が徐々に小さくなっていくと、マツのすすり泣く声が大きくなっていった。
「今度生まれてくる時は、もっと長い命を持てるようにと願って流したんだ!」
「次の世まで待つの? 善蔵さとマツさは、あの子を長生きさせられねえの?」
 善蔵の腕が振り上げられた。とっさにキヨがリュウの頭を抱えるように覆いかぶさる。母の腕の中から、リュウは善蔵の顔を見た。喉が上下し、両目は血走っているがどこかうつろで、振り上げたこぶしは宙で震えている。
「おめも、もう分かる歳だべな!」
 父親の怒鳴り声に驚いたのか、赤子が泣き声をあげた。
「わかんねえじゃ! 奥馬みたいに大事にすればいいべ。なぁして人の子はこったらカンタンに殺すんじゃ」
「殺すだって?」
 キヨを押しのけた善蔵が、リュウの着物の襟を掴んで地面に投げ倒した。土間に積まれたおけに顔がぶつかり唇が切れて血がにじんだ。目に砂も入って頭もくらくらしたが、リュウはすぐに立ちあがった。こんなのは、井三郎の折檻にくらべたらなんてことない。
 キヨが善蔵の足元にうずくまり、頭を下げた。
「勘弁してけろ。うちの子さ、頭さ悪いっけ、もうしわけねえ」
 目を真っ赤にした善蔵が、さらにリュウに近づいてくる。
 すると、マツが「やめてくれ」と声をあげた。
「この子、乳ば飲んで眠いっきゃ。このまま寝かしてやりてえ」
 腕の中の赤子の頬は、川の水と涙にさらされ、ひび割れて血がにじんでいた。今は母親に抱かれて幸せそうに眠っている。
 善蔵は、マツに「明日、いいな」と告げた。マツは赤子を抱きしめたままかすかにうなずき、リュウたちに背を向けた。細い肩が小刻みに震えている。
 リュウは、がくぜんとした。
 あの子はまた川に流されるのだ。
 赤子を善蔵夫婦に返すことだけ考えていた。そうすれば、必ず幸せになれると思ったからだ。だが実際は、あの子はまた冷たい川に捨てられる。
 マツに駆け寄ろうとしたリュウを、キヨが腕をとって引き留めた。
「いいかげんにしろ。親に捨てられた子の行く末は、スミ見ていてわかってるじゃろ」
 スミがなぜひとりで柳の穴にいるのか、その詳しい事情を話してくれる大人はいない。
 ただ、村の衆はスミを居ないものとして暮らしている。ときどき表に食い残しを置きっぱなしにしてしまうのは、家の者がうっかり仕舞い忘れたものだ。朝になってそれらが食い荒らされていると、猪かいたちじゃろうかと決まり事のようにつぶやくだけだ。大人たちは決してスミの目を見ない。名も呼ばない。
 スミを助けたら、この先の子もみんな救わねばならない。だから、村の大人たちはスミを里に下りてきた獣だと思いこもうとしていた。
 こんどの騒ぎでも、いないように扱われ、ひとりで雲馬に逃げ去っていったスミを思うと、言いようのない苦みが胸の奥に広がった。
「なさけをかけるなら、その先その子の命をぜんぶ抱える覚悟をもってしろ。そうでなけりゃあ、口出すな。生半可なおめが、いっとう残酷だ」
 家に帰る道すがら、リュウは涙があふれて止まらず、なんども道から外れて茂みに転がった。そのたびに、キヨが腕を引っ張って立ち上がらせてくれる。
 赤子を川から拾いあげたとき、リュウはおのれが仏か何かになった気がした。いつも力強く優しかった兄に一歩近づけた気がした。みんなが、ようやったと褒めてくれると思った。
 だが、それは赤ん坊をもう一度同じ恐ろしい悲しい目にあわせてしまう浅はかな行為だったのだ。
「あっぱ、わぁは……わぁは……」
「言わんでいい」
 キヨの手は、だらけでごつごつしていて、引っ張る力は強くて熱い。
 薄闇に響くリュウの泣き声に呼応するように、どこかから狼のとおえが聞こえた。

 その知らせを聞いたのは、五日ほどたったあとのことだった。
 大人たちが草刈りに出ているあいだ、まやごえを集めていたリュウのもとに、息をきらした千加良が駆けこんできた。
「あの子、今朝、もらわれてった!」
「善蔵さの?」
「ああ。父っちゃが仲立ちしたすけ、もう捨てられんですむ。リュウのおかげだ」
「わぁの?」
「おめのおせっかいで、善蔵さ、気がくじけたって」
 ふたたび赤子を川に捨てる算段をした善蔵だったが、どうにも後味が悪く決心がにぶってしまった。
 悩んだ末に、治五平のもとを訪ね、どこかに赤ん坊を欲しがっている者はいないか相談したという。
 治五平も、息子の千加良のせいで善蔵の決心がゆらいでしまったことを心苦しく思い、ひそかに周辺の村に子を望む家がないか探りを入れてくれたという。
 すると、隣の八戸領ではあるが、先日赤子が病で死んで気落ちしている母親がおり、今も乳が出て困っているという。
 間引くことは、家族が生きるためにしかたのないことだ。この先、もしもまた善蔵とマツに新しい赤子が生まれたら、同じ選択をするかもしれない。だが、あの子に限っては、この世への未練が強くて引き戻されたのだ。
 今朝がた、マツが千加良の家へやってきて、リュウに伝えてほしいと告げていったという。
「あの子にあげられなかった名前、別れの前につけて送りだしてやれたって」
「なんて名だ?」

「せい?」
きる、のだな」
「わからん」
「リュウは阿呆だすけ、字読めねえからな」
 でも、すごくいい名前だと、千加良が笑ったので、リュウもそうなのだろうと泣くと、つられるように、厩の生築がいなないた。

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:天馬の子
著 者:高瀬 乃一
発売日:2025年09月02日

何度でも立ち上がる。歩き続ける。冬の大地を春へと駆ける少女の物語。
『貸本屋おせん』で日本歴史時代作家協会賞新人賞受賞、
『梅の実るまで』で山本周五郎賞候補となった注目の新鋭が満を持して放つ感涙の長編時代小説!

南部藩の村に生まれたリュウは馬と心を通わせる10歳の少女。厳しい自然のなかで名馬「奥馬」を育てる村では、時に人よりも馬が大切にされていた。リュウの家にも母馬が一頭いるが、毛並みの良い馬ではない。優れた馬乗りだった兄が二年前に亡くなり、家族は失意のなかにあった。祖父は孫娘に厳しく、母は小言ばかり。行き場のない言葉を抱えたリュウが馬の世話の合間に通うのは「柳の穴」と呼ばれる隠れ家だった。姉のようにリュウを見守る隣村の美少女セツ。村の有力者の優しくてドジな次男坊チカラ。「穴」に住む家無しのスミ。そこでは藩境を隔てて隣り合う村の子どもが集まり、自由な時を過ごしていた。

ある日、片腕のない見知らぬ男が「穴」に現れる。「仔は天下の御召馬になる」。馬喰(馬の目利き)の与一を名乗る男はリュウの育てる母馬を見て囁いた。将軍様の乗る御馬、即ち「天馬」。しかし天馬は天馬から生まれるのが世の道理。生まれにとらわれず、違う何かになることなどできるのだろうか? リュウは「育たない」と見捨てられた貧弱な仔馬を育て始める。

村を襲う獣、飢饉、「穴」の仲間や馬たちとの惜別。次第に明らかになる村の大人たちの隠しごと。与一との出会いから大きくうねり始めるリュウと仔馬、仲間たちの運命。なぜ人の命も馬の命も、その重さがこんなにも違うのか。馬も人も、生まれや見た目がすべてなんだろうか。いつか大人になったら、すべてわかる日が来るのだろうか?

生きることの痛みも悔しさも皆、その小さな体に引き受けながら、兄の遺したたくさんの言葉を胸に、少女と仔馬は生きる道を切り拓いていく。

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