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試し読み

純粋さの塊のような生き方と、ありあまる将棋への情熱――【大崎善生『聖の青春』試し読み】

 ある日、大阪の理事から森の部屋に電話が入った。そして、村山の入会は見合わされることになるかもしれないと言うのである。
 森は耳を疑った。「何でですか」と言う自分の声が震えているのがわかった。
 理事の説明によると、京都のなだれんしよう九段から村山の入会に対してきようれつなクレームがつき、問題が持ち上がっているというのである。
 そう説明されても森には何がどうなっているのかさっぱり見当がつかない。「どういうことですか」と聞きながら、何かいやな予感で体中の血の気が引いていくような感覚にとらわれていた。
 理事の話によると、村山は森ではなく本来は灘の弟子なのだということである。
 伸一が最初にプロ入りの相談をもちかけた篠崎が、奨励会時代からおたがいにふんけいの友と認め合う灘に弟子入りを申しみ、許可されていたというのである。
 森にしてみればせいてんへきれきだった。
 プロ入りはまだ早いと言いつつも、篠崎はきたるべき聖のプロ入りを準備していたのである。それに篠崎には、聖は自分がはつくつし育てたのだという自負もあった。伸一のぎわというのはこくかもしれない。伸一には師弟関係のような将棋界のもろもろのとくしゆせいを知るすべもなかったのである。本多に師匠探しを頼むときに、そのことを篠崎にひとこと断っておくべきだったのだ。
 灘蓮照九段といえば当時の関西を代表する名棋士である。
 灘にしてみれば四段になりたての森はひよこのようなものであった。
 自分が親友から頼まれて、弟子にしたはずの子供がなぜか、森門下で奨励会試験を受けている。それは灘にはとうてい承服しかねることであった。
 森は困り果てた。篠崎や灘の怒りはもっともである。しかし、自分は何の事情も知らなかった。それに、それはすべて大人の世界の話であり村山君には何の罪もないじゃないか。そう思い、森は師匠のみなみぐちしげかず九段をはじめ、の棋士たちに根回しをはじめた。不合格はどうしても納得がいかなかった。
 だいたいの情報をつかんだ森はすぐに広島へ飛んだ。篠崎に会うためにである。くわしい事情を知らずに弟子にした自分のけいそつさを、まずは篠崎にあやまるしかないと考えたのだ。
 森は篠崎の教室を訪ね、そしてした。
「何とか村山君を奨励会に入れさせてやってください」と何度も何度も頼みこんだ。
 森の誠意が通じたのか、わかったと篠崎は言ってくれた。
 胸の中の氷が解けるような思いで森は新幹線に乗り大阪へ帰った。「よかったなあ、村山君」と心の中で何度も叫んでいた。明日の朝、いちばんで電話をかけてやろうと思った。
 しかし、森が電話をかけるより先に森の部屋の電話が鳴った。
 妙なむなさわぎがした。電話のぬしは篠崎だった。
「昨日はああ言ったけど、もうわしの力じゃどうにもならんのじゃ。この問題はわしの手の届かないところにいってしまっておる。悪いけどもうどうもできんのじゃ、わかってくれ」
 そう言って電話は切れた。
 それならば、と森は思った。残る手段はただ一つ、灘に直接かけ合うしかない。
 森は意を決して灘に電話をかけた。電話口に出た灘は低い声で森にこう言った。
「あきらめろ。これ以上このことでおれに何か言ったら、お前をるぞ」
 このひとことで森の腹は決まった。大人たちのくつを一方的に押しつけ、子供の未来を次にする、その論理が許せなかった。斬るならば、勝手に斬れと思った。
 斬られようが、将棋界を追放されようが自分はどうなったっていい。もし村山君が将棋界に入れないようなことになれば、そのときは自分も将棋をやめよう、そう決心したのだった。
 考えてみれば、この1週間ろくにものも食べずに、ほとんどすいみんらしい睡眠もとっていなかった。何とか事態を打開するためにただ走り回っているばかりだった。昼は駆け回り、夜は夜で一人悶々と打開策を練りつづけた。なぜ自分がこんなに追いつめられているのか不思議に思えた。
 弟子という言葉が胸にみこんでくるようだった。あの、かわいそうに病気で膨らんだほっぺたとクリクリとした瞳や低い鼻がいとおしくて、どうしようもなく涙があふれた。
 村山君はわしの弟子や。はじめてのわしの弟子や、どんなことがあっても守ってやらな……。
 そう思う気持ちと自分の無力さ、そのきよの開きが切なかった。
 翌日から森は作戦を変えた。
 心の底から、怒りがこみ上げた瞬間、森は冷静になった。
 不合格を受け入れよう。その代わり、来年の試験に何のこんも障害も残さないようにしよう。それを落としどころにしよう、そう考えたのである。意地と意地をぶつけあっても、何の前進も望めない。このままでは、弟子の将来を本当に閉ざすことになりかねない。
 森は師匠の南口に調停を頼んだ。こちらの非を認め今年の入会は断念する。しかし、来年は水に流して自分の弟子として再度受験させてやってほしいというものだった。
 その調停案は功を奏した。灘にしても、たかが子供一人のことにいつまでもわずらわされたくはなかった。上げたこぶしを降ろす場所さえあれば、後はどうでもいいというのがほんだったのである。

 森は村山家へ無念の報告をした。
「今年はあきらめるしかありませんね。来年よい形で入会できるように全力をつくしましょう」
 伸一はそのことを聖に告げた。そして森から聞いたことを包み隠さず教えてやった。
 森が聖を電話口に呼んだ。
「つらいだろうけど、まんしてや」と森は言った。そして「この1年を無駄にしないようにすればいいんだから」とつづけた。
 森の言葉をじっと聞いていた聖がはじめて口を開いた。
「どうして、どうして僕、奨励会に入れないの」
「しかたないんや。将棋界はいろいろめんどうでな」
「どうして?」と言った聖の声がみるみる涙ぐんできた。
「どうして、僕」と言ってとうとう泣き出してしまった。そしてわんわん泣きながらつづけた。
「奨励会に入れないの」
 聖の無念の気持ちは森には痛いほどわかった。試験の成績はばつぐんだった。そして聖自身が何をしたわけでもない。しかし気がついてみれば、聖を取り巻く糸はもうどうにもならないほどにこんがらかっていた。森にはもうそれをほぐすことはできない、無理にそうすればそれは聖をますますめつけることになるだろう。
「来年、来年や」と森は聖に語りかけた。
「どうして?」
 泣きじゃくりながら、聖はやっとその言葉を振りしぼった。その言葉は森の心の奥深くを鋭くえぐった。
「とにかくいまは我慢してや」
 そう言って森は静かに受話器を降ろした。
 その夜、聖は血相をかえ伸一にいますぐ篠崎教室へ連れていってくれと言い出した。
じかだんぱんする」と言って聞かないのである。
 もう、どうにもならないことは伸一にはわかっていた。しかし、大人の一方的な理屈で夢を打ち砕かれた聖の納得のいくようにしてやるしかないと思った。自分が篠崎に電話を一本入れていれば、何の問題も起きずにすんでいたのかもしれないのだ。そう思い、伸一は聖を車に乗せて、トミコと一緒に篠崎教室の近くのきつてんまでいって、そこに篠崎を呼び出した。
 篠崎が喫茶店に現れるなり聖は深々と頭を下げた。
「お願いします。一生のお願いです。僕を奨励会に入れてください。そうなるように、してください」
 しかし、篠崎の答えはつれないものだった。
「そうしてやりたいのはやまやまだが、もうわしにもどうすることもできんのじゃ」
 それは正直な篠崎の気持ちだった。おこっているのは自分ではなくて関西を代表する九段なのである。この問題は自分の手の届かないところで動き、そして自分に関係のないところで結論が出た。それを、覆すことはもうできない。
「わかってくれ」
 そう言うと篠崎はそそくさと喫茶店を出ていってしまった。
 沈黙の時が少しだけ流れた。
「僕は何もこわくない」
 喫茶店に残された聖は父と母の前でそう言った。
「何も恐くない」
 もう一度そう言った目にみるみる涙があふれ、病気でむくんだほおを伝わって落ちた。
「恐いのは大人じゃ」と言ってわんわんと泣き出した。
 両手の拳を握りしめ、自分のひざを殴った。歯を食いしばって耐えようとしても体の中からこみあげてくるどうしようもない怒りを抑えることはできなかった。
「僕は病気だって死ぬことだって恐くない。恐いのは人間じゃ、人間だけじゃ」
 そう言ってとめどもなく流れる涙をぬぐおうともせずに泣き叫んだ。
「大人はきようじゃ。どうして、どうしてじゃ」
 頭がおかしくなってしまうのではないかと心配になるほどに、聖は泣いて泣いて泣きじゃくった。
 伸一もトミコも、気が触れたように泣くわが子をどうしてやることもできなかった。なぐさめる言葉もうまくみつからない。
 幼い日から、病院で暮らしてきた聖のことを伸一は思った。
 じゆうとくな病気を抱える子供たちに囲まれ生きてきた聖。いちばん甘えたいときにも、母も父も側にはいなかった。そんな寂しさと夜の深さをまぎらわすために、教えてやった将棋にのめりこみまるで申し子のようにすくすくと腕をみがいていった。自分の体の弱点を補完できるただ一つの将棋という存在。それは翼のように聖に世界の広がりを示しつづけた。
 将棋を知るために、強くなるために自分をコントロールし、ありとあらゆる努力をただの一日も欠かさずにつづけてきた。誰の力も借りず、そうやって聖は自分の道をたった一人で切り開いてきた。しかしまるでそのゆく手を閉ざそうとしているかのような大人たち、そしてそれをの当たりにしながら何もしてやれない自分。
「人間はきらいじゃ」と聖がどうこくするたびに、伸一は割れたガラスのかけらが胸にさったような痛みを覚えた。伸一もその痛みに耐えるために歯を食いしばっていた。
 どんなに泣いても叫んでも、聖の悲しみは止まらなかった。
 木かられ葉が落ちるように簡単に死んでいく子供たちに囲まれて、それでも自分はけんめいに耐え抜いてきた。大人たちはいつもいばるだけで、ルールや理屈をこねくりまわすだけで、消えていこうとする子供たちの命のともしを守ることもできなかったじゃないか。
 1年、と大人は簡単に言う。しかし、同じ1年でも意味が違う。自分にはわかっている。時間がないということが、健康な人間たちとは与えられている時間の絶対数が自分には不足しているということが。もしかしたら、生きてさえいられないかもしれない気の遠くなるような1年。それをいったいどんな思いで待てというのだろうか。
「大人は嫌いじゃ」
 もう一度聖は体の奥底からしぼり出すような声でそう叫んだ。それは魂を揺るがすような切ない叫びだった。そして、聖のごうきゆうは真夏の雨のように突然にやんだ。
 ぜんまいが切れたおもちゃのように、聖はぐったりと気を失ったように静かになった。泣きやんだのではなく、もう泣くことすらできなくなったのである。
 翌日から聖は寝こんだ。
 奨励会入りを目前にして、光り輝いて見えた自分の道が突然姿を消した。名人位が目に見えないところに遠ざかってしまったように思えた。その夜を境に中学入学以来、何の問題もなかった聖の体調に異変が起きた。熱がつづき、体は重く動かない。悔しさとせつかんさいなまれた聖は、悲しむことと泣くことに体力のすべてを使い果たしてしまったのだった。
 そのすきをのちぎれたまむしがのがすはずはなかった。
 ネフローゼ再発。
 病院で医師からそつこく入院を宣告された。
 いまいかなければ間に合わない、それどころか自分が歩く道すら閉ざされてしまっていた。
 病院のベッドの上で、窓から差しこんでくる月の光をぼんやりと聖は眺めていた。何をする気力も起きなかった。ただ、時間がすぎてくれることだけを願っていた。
 あまりにもつらい、秋。
 昭和57年、聖は13歳の落ち葉の季節をどうしようもないだつりよくかんといき場所のないいきどおりの中ですごしていた。将棋への道を閉ざされたいま、もう自分の手の中には何も残ってはいなかった。
 聖の翼はもう少しで折れてしまいそうだった。

〈このつづきは製品版でお楽しみください〉

★作品詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/321501000146/
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