
過去作とのつながりや、映画では語られなかったエピソードが満載。
観る前に読むと、映画が何倍も楽しめる。
時代とともに進化する貞子の、今度の呪いは、
動画配信から始まる――! (第1回から読む)
<<第4回へ
5
歩道橋を少女が歩いている。
煤けた顔に乱れた長い黒髪。かつて白かったであろうワンピースには、垢や埃で薄汚れた抽象画が描かれていた。
晴天の真昼だが、周囲に誰もいない。四車線の広い道路だが、今は一台の車も走っていない。
白茶けた陽の光に照らされた少女は、人類が滅びた世界に一人残されたようだった。
いや、一人というわけでもなさそうだ。
「大丈夫? お嬢ちゃん」
少女には横に立つ若い女性が見えていた。
少女はこくりと頷いた。
「本当? お姉さんにはそう見えないなあ」
女性はしゃがみ込んで少女と目を合わせた。
「辛い事、ない?」
少女は頷く。
「お嬢ちゃんはわからないと思うけど、お姉さんはね、ほんとうに辛い目にあってきたの。だからこそ辛い人のことがわかるのよ。どんな目にあったのか訊きたい?」
返事を待たず女は話を続ける。
中学校に入ったときからの壮絶なイジメの話に始まり、階段を上るように一つ一つ聞くに堪えないような酷い話が続く。
あまりにも酷すぎて、少女には意味がわからないものが沢山あった。それでも少女は黙って聞いている。それが務めであるかのように。
「だからね」
そう言って女は立ち上がった。
「私死ぬの」
歩道橋の手摺りを乗り越え、女は橋の下へと頭から飛び降りた。
少女が手を伸ばしたときには既に女の姿は消えていた。
何の音もしなかった。
歩道橋から下をのぞくと、さっきの女があり得ない姿勢で横たわっていた。潰れた頭からだくだくと血が流れていく。その音が聞こえそうなほど、しんと静まりかえっていた。
その瞬間で時が止まっているようだ。
少女の足元が定まらない。それでもふらふらと歩道橋を渡りきると、手摺りにしがみつくようにして階段を降りた。降りきって車道を振り返る。
そこに女はいなかった。血の一滴も残っていない。その代わりに錆びた歩道橋の横に花束が置かれてあった。真新しい菓子箱もある。
それを見た途端、少女は芯を引き抜かれたようにその場に倒れた。
その時、現実の時間が戻ってきた。
音が蘇る。
往来を走る車が急に現れたようだった。
喧噪と共に人が集まってきた。
倒れた少女に声を掛けるものもいたが、少女は目覚めない。
たちまち少女は野次馬たちに囲まれた。携帯を出して写真を撮るものが現れる。みんながみんな歌会の歌留多でも読んでいるかのように携帯を掲げている。
──臭いね。
──酷いにおいだね。
顔をしかめる口さがない女たち。
──ここはよく事故が起こるねえ。
──呪われてたりして。
笑い声。
誰かが連絡したのだろう。
救急車がやってくると、ストレッチャーに少女は乗せられ運ばれていった。
6
「記憶喪失?」
茉優が訊ねた。
「まだ診断が出たわけじゃないんだ」
テーブルの上に数枚のレポート用紙が置かれてある。
藤井は大学ノートを開いて、ボールペンを神経質にノックしていた。
カンファレンスに使われる病院内の小さな会議室だ。
話題に上っているのは、昨日病院に救急搬送されてきた少女のことだ。
紙コップのコーヒーを一口飲んで、藤井は言った。
「おそらく自閉症スペクトラム障害ではないかと思えるけれど……君が担当してくれないかな」
「私がですか」
「小児科と精神科、それに医療ソーシャルワーカーで一応チームを組むんだけどね。救急で入ってきてまだその処遇が決まってないので、暫定担当みたいなものだけど、やってもらえないか」
「でも私で良いんですか」
「君だから出来ることがあるんじゃないのかな」
「私だから……」
「そういうこと。とはいえ、両親が出てきてすぐに引き取られていくかもしれないし、児相や警察が絡んでくる可能性も大だ。虐待の痕がいろいろと見つかったからね。事件性も高い。だから、本当に仮の担当だけどね。あっ、もちろん私も手伝うよ」
藤井は紙コップを持って立ち上がった。
「早速君に紹介しておこう」
「あっ、でも私……」
「一緒に来てくれるかな」
否応なく茉優は立ち上がり、藤井の後に続いた。
「その子、家出でもしたんでしょうか」
「かもしれないし、もしかしたら棄児かもな」
「それでですか」
「何が」
「私が児童養護施設で育てられたから、親に捨てられた子供の気持ちがわかるとか」
「少なくとも児童養護施設がどんなものかはわかってるよね。気持ちが理解出来ることは大事だよ。我々が彼女に関われるのはちょっとの間だとは思うけど、わずかな時間でも救われて欲しいよね、子供たちは」
珍しくロマンティックな台詞を藤井が言った。
「それはクライアントへの同一化じゃないんですか」
嫌味ではなく、本心からの疑問だった。
「個々のクライアントの話をしてるんじゃないよ。これは診療の姿勢みたいなものさ。いわば医は仁術みたいなことさ」
病室の前で立ち止まり、ドアの小窓から中を覗き込んだ。
「ほら、あの子だ」
その少女はベッドに横たわり点滴を受けていた。上体を少し起こし、ぼんやりと正面を眺めている。
扉を開き二人は病室へと入っていった。
「どうかな、気分は」
笑みを浮かべて藤井は言った。しかし少女は真正面を見たままだ。
「昨日はちゃんと眠れた?」
こくりと少女は頷いた。それでも藤井と目を合わせようとはしない。
「こっちのお姉さんは、秋川茉優さん。私と一緒に君のお世話をすることになったんだ」
「こんにちは、茉優です。よろしくね」
茉優が一歩前に出たときだ。
瞬時に空気が変わった。
何があったわけでもない。なのに不穏な気配が一瞬で病室を支配した。
茉優も藤井も、崖の縁に立たされたように緊張した。なぜかはわからない。理不尽な力が場を支配していた。
ぴん、と空気が張り詰めている。
大気が酷く乾燥しているときのように、肌がびりびりと痛い。
今まで正面を見ていた少女が、ゆっくりと茉優の方を向いた。
感情の失せていた曖昧な瞳に、力がこもった。
睨んでいるわけではない。
なのにその瞳からは、物理的な力とまがうほどの圧倒的な何かを発していた。
茉優は彼女から目が離せない。
だがどうやら、少女もまた目が離せないようだった。
二人は拳を固く握りしめ、見つめ合っていた。
カタカタと音が聞こえる。
窓が鳴っているのだ。
よほどの風が吹いているのか。
藤井は窓を見ていた。強風に煽られているようだ。藤井はその場を離れ窓に近づいた。窓に触れると細かく振動している。藤井は窓に手を掛け開いた。
冷たい大気が入り込んできた。
が、風はない。
それでも窓はがたがたと震えていた。まるで何かに怯えているかのように。
藤井は窓を閉めて、少女のいるベッドへと近づいた。
「あれは」藤井は窓を指差した。
「君がやっているのか」
少女は窓を、それから藤井を見た。
糸が切れたように緊張が失せた。
茉優がほっと息をついた。
「君がやっていたのか」
藤井はもう一度訊ねた。
少女はゆっくりと首を横に振った。
ベッドサイドのテーブルに、ほつ、と水滴が落ちた。藤井は天井を見た。そこが透明な疣のように結露していた。
茉優は腰を折り視線を合わせて訊ねた。
「何か思い出したことがあるかな」
少女は不安そうに視線を逸らす。
「お母さんとかお父さんのこととか、何か思い出せるかなあ」
少女が首を横に振る。
「お名前は?」
少女は俯いて黙った。
「まだちょっと難しいよね。大丈夫だよ。今はゆっくり休んで、これから少しずつ思い出していこうか。お姉さんも手伝うからね」
うん、と少女は小さく頷いた。
「じゃあ、また後でね」
藤井が手を振った。
茉優も立ち上がり、少女の手を握った。
「何でも相談してね」
そう言って手を振り、二人は病室を出た。
「どっちだ」
扉が閉まるなり藤井はそう言った。
「何のことですか」
「君かあの少女かと聞いてるんだ」
「ですから、何が」
「窓が振動していた。地震でもない。風も吹いていなかった。あれを動かしていたのは君なのか」
「私は何も」
「それじゃあ、あの子か。またまた逸材登場か。超常的な力を持った者は呼び合うと聞いたけど、本当のようだな。それで、君はあの少女の心の声を読み取れたのか」
「出来ません」
えっという顔で藤井は茉優を見る。
「名前も知らない初対面の人間の心には絶対に入り込めません。……ただ、勝手に映像が頭の中に流れてきたんです。それがあの子の心象風景なのかどうかもわかりません」
「で、何が見えた」
「炎が」
「炎?」
「部屋が燃えてるみたいでした。それから……人も」
実際は燃え上がる人間が部屋の中を絶叫しながら転げ回っていた。そして動いていく場所にどんどん炎を広げていった。あっという間に何もかも紅蓮に染まっていた。しかし熱はない。冷たい炎が部屋を埋めていく。
「火事か……」
廊下を歩きながら藤井は黙り込んだ。
「どうしたんですか」
言われてようやく顔を上げた。
「……あの子は力を持っているんじゃないのか」
真正面からじっと目を見詰めて藤井は言った。
「君はどう思う」
「私にはわかりません」
「呪いと呼ばれるようなものと超常能力は親和性が高い。人を呪うような強い想いが能力を引き出してくるからだ。私が今注目しているのは、都市伝説だ。いや、発端は実際にあった事件なので、純粋に都市伝説とは言い難い。聞いたことはないかな。貞子の噂を」
「どこかで聞いたような気がしますが、どんな話かはまったく」
「今から二十年以上前の話だからね。でも当時はかなり有名な話だったんだよ。主にネットで囁かれていた。ひと言で言うなら呪いのビデオの話なんだが、今となってはビデオとは何かから話を始めないとわかってもらえない代物になってしまった」
「ビデオが何かぐらいは知ってますよ。っていうか、先生、私とそれほど年齢変わらないじゃないですか」
茉優がそう言うと、藤井は笑いながら答えた。
「年齢の問題じゃなく、知識量の問題だよ。いずれにしても、それなら話は早い。とにかく呪われたビデオがあり、貞子と呼ばれる女が映っているそうだ。それを見た者は呪われるらしいけど、これが他の都市伝説と違うのは、噂の発端が特定されていること。つまりそれが実話に始まったということなんだ」
中高生の間で、見ただけで死んでしまう呪いのビデオがあるという噂が流れた。当時いくつかのマスコミがそれを追い掛けて取材をしている。ただしほとんど公表されてはいない。その噂の元になった事件は車の中で若い男女の変死体が発見された、というだけのものだった。直接の死因は急性心不全。当初は薬物使用による自殺あるいは事故死が疑われた。しかし二人とも心臓が悪かったわけではない。薬物等も使用していない。高校生の女と予備校生の男の二人だった。彼らは家族ぐるみでつき合っていて、その時もデートに行くと家族に告げて出掛けていた。自殺する理由もない。不審死としか言いようのない事件だった。
「私は時間を作っては関係者を探し出してインタビューをした。別に急ぐものでもない。ゆっくりと時間を掛けて調べていったんだ。その時の第一発見者とも話したが、その人の言うには二人とも恐怖に歪んだ怖ろしい顔で息絶えていたらしい。それだけでも噂を広げる原動力になったとは思うが……」
奇妙な事件ではあるが、それだけでは大きく噂が広がっていくような話でもない。しかし同時刻に四人の友人たちが死んだとなると話は別だ。車で死んでいた辻洋子と恋人だった予備校生の能見武彦。そして洋子の同級生の大石智子と彼女の友人だった岩田俊文。この四人は死ぬ一週間前、一緒に伊豆へ旅行に行っていた。
「四人はまったく同じ時刻に急性心不全で亡くなった。彼女たちのいた高校を中心に瞬く間に噂は広がった。四人は伊豆大島に旅行に行き、そこで一本のビデオを見ていた。呪いのビデオだ、というような話までは、直接聞いた複数の人間の証言を得ている。そこまでは事実のようだ。実はクライアントの倉橋雅美はその呪いに関わって、なお生き残った数少ない貞子サバイバーなんだ」
「貞子サバイバーってなんですか」
「この都市伝説は〈貞子の呪い〉あるいは単に〈貞子〉と呼ばれている。関わった者の大半が死ぬと言われているが、それがどこまで本当かはわからない。何しろ関わった人間そのものがなかなか見つからないからね。それでも私が知っているたった一人の関係者が倉橋だ」
「ほんとですか」
「噓をつく意味がない」
少し怒っているかのような口調に、慌てて茉優は頭を下げた。
「すみません」
「謝ることもない。彼女は亡くなった智子の友人だよ。智子が死んだときそのすぐそばにいたそうだ。その時何を見たのか、今でも話してはくれないが、噂の始まりとなる事件が間違いなく実話であることを彼女が証明してくれた」
「まさか先生、倉橋さんがこの病院にいることを知ってここに来られたんですか」
「もちろんだ。そんなことでもないと、こんな病院に来るメリットは何もない。まあ待遇は悪くはないけどね」
呆れ顔の茉優を見て、藤井は付け足した。
「これはあくまで私の個人的な研究だ。病院に迷惑をかけるようなことはしていない。君も時間に余裕のある範囲で協力してもらえると有り難い。何度も言うが、これは仕事じゃないから業務に差し支えのない程度に手伝ってもらえると嬉しいな」
上司の、しかもこの病院に誘ってくれた人間の頼みを断るわけにもいかないじゃない。
そう考えながらも茉優は元気よく「はい」と返事をした。
(つづきは本編でお楽しみください)
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。

■『貞子』
著者:牧野 修 原作:鈴木 光司 脚本:杉原 憲明
撮ったら、死ぬ。その呪いは動画配信から始まった……新たな恐怖の誕生!
日本で一二を争う最新治療が望める総合医療センターに、秋川茉優が臨床心理士として来たのは半年前のことだ。その病院に、記憶を失っていた少女が運び込まれたことから、怖ろしい物語が始まる。茉優の弟・和真は自分の動画配信チャンネル『ファンタステイック・カズマ』を持っている。伸び悩む再生回数を増やそうと、最近放火事件がおき、多くの死者を出した団地に潜入。心霊動画の撮影を試みるのだが……。その後の和真、焼身自殺した女性と謎の少女の関係。鳥の啼く夜に次々と死んでいく人たち。二十年以上も前の貞子の呪いが復活したのか――。映画で語られなかった背景や登場人物たちのエピソード満載の充実のノベライズ。
※本作品は映画「貞子」ノベライズです。映画本編とは一部内容が異なります。
https://www.kadokawa.co.jp/product/321810000192/
>>映画『貞子』公式サイト