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過去作とのつながりや、映画では語られなかったエピソードが満載。
観る前に読むと、映画が何倍も楽しめる。
時代とともに進化する貞子の、今度の呪いは、
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4
曇天の中、初子は大きなスーツケースを引き摺っていた。
今にも降り出しそうな空を見上げ、溜息をつく。傘はなく、急ぐにはあまりにもスーツケースが大きい。あと十分でいいから降らないでいてくれることを初子は祈った。
そしてこの世の終わりのような顔でスーツケースを引く。がらがらと大きな音がするのは、スーツケースが古く、車輪のバランスが狂ってしまったからだ。
スーツケースを片手で引きながら、蠅を追うように目の前を払う。
──ああもう、うるさい。静かにして。余計なことをしないで。うるさい。黙っててっていったでしょう。
ぶつぶつと呟きながら初子は歩いていた。
彼女の祈りは叶えられたようだ。大粒の雨がぽつぽつ降ってくると同時に、そのアパートに辿り着いた。
古いアパートだ。隣に造成中の空き地があった。おそらくそこに家が建っていたのだろう。まるで心霊写真のように、隣の家の影がコンクリートの外壁に焼き付けられていた。
小さな玄関を押し開け、散乱するゴミや使われなくなった三輪車を搔き分けるようにしてエレベーターに乗る。
四階のボタンを押した。
なぜか獣臭い臭いがする箱の中で、女はなおも呟き続けている。
──もうすぐ着くから。静かにして静かにしててお願いだから。
不安を煽るようにがたがたと箱は揺れ、四階で扉が開いた。
ビニールタイルが剝がれた廊下に出る。歩く度に靴底がへばり付き粘る音がした。
一抱えほどの大きなダンボール箱が置かれた部屋の前で立ち止まる。送り状には祖父江初子の名前があった。彼女がここに送り、部屋の前に置いてくれと指示をしたのだ。受取状のサインも無しだ。個人でやっている小さな、引っ越し屋とも言えない怪しげな引っ越し屋だからこそだろう。
何度か部屋番号を確かめてから錠を開けた。
錆びた扉を開くと、かび臭い湿ったにおいがした。
ダンボール箱を抱え中へと運び入れる。それからスーツケースだ。
部屋の中までごろごろと転がして運び込む。
六畳の部屋に申し訳程度のレンジ台がついている。
初子は玄関の錠を閉め、チェーンも掛けた。
何度かガチャガチャとドアノブを捻ってから、冷たい鉄の扉に背をもたれ、ほっと息をついた。そのままずるずると玄関に座り込み靴を脱ぎ散らかす。
──わかってるよわかってるよ。もう着いたんだ。開けてやるからもうちょっと待つんだ。
呟きながら重い腰を上げスーツケースの前に立った。ゆっくりと倒し錠を開ける。古風なマジックのようにそこから幼女が立ち上がった。五、六歳だろうか。棒のように瘦せた身体に垢と埃で薄汚れたワンピース。裸足だ。長い髪はずいぶん長い間梳いていないようだった。
「おまえの部屋は」
言いながら辺りを見回す。
「とりあえずここ」
押し入れを開けた。黴のにおいがさらに濃い。幼女はおとなしく中に入っていく。初子はガムテープを乱暴に引き剝がしダンボールを開いた。
わずかばかりの衣類に食器を出して、次にとり出したのは藁を綯った縄だ。白い紙片──所謂紙垂が下がっている。つまりそれは注連縄だ。
小さな袋を箱から出した。その中に手を入れて画鋲を取りだした。事故現場の立入禁止テープのように、襖の前に注連縄を張る。
「晩ご飯買ってくるから、ちょっと待ってて」
幼女の方を見るでもなくそう言って、初子は立ち上がった。
風でも吹いているのか窓がかたかたと鳴った。
初子は、うん、うん、うん、と一人で頷いている。
「ちょっと、ちょっとだけだから。腹が減ったんだよね。わかってるよ。わかってるからちょっとの間我慢して。ね、我慢して」
窓の音が激しくなった。
がたがたと強風に煽られているようだ。
空が堪えきれなくなったように雨が降ってきた。当たると痛いほどの大粒の雨だ。
「やめて。お願い、やめて。すぐに食べ物買ってくるから。わかるよね。何度も何度も引っ越ししてるよね。今も引っ越したばかりだよね。しばらくはおとなしくしててよ。わかるよね。わかるよね。どこ行ってもすぐに変な噂を立てられて居づらくなって居るに居られなくなって引っ越し引っ越し引っ越し」
玄関のチャイムが鳴った。
弾で撃たれた猫のように、初子がぴょんと跳び上がった。
「脅かさないでよ。ちょっと閉めるからね」
押し入れの襖を閉めた。
呟きながら玄関へと向かう、その間もずっとチャイムが鳴っていた。
「おい」
声が聞こえた。
野太い男の声だ。
初子は小さな悲鳴を漏らした。
窓の音がぴたりと止んだ。
「おい、そこにいるんだろう」
耳を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「どうせ耳を塞いでしゃがみ込んでるんだ。さあ、さっさと開けろ。開けずにすむわけないよな。今ならまだ俺は怒ってない。だがなあ、いつまでも優しい俺だと思っているのなら大きな間違いだぞ」
初子はチェーンをはずし解錠した。
押し破る勢いで扉が開いた。
いきなり押し入ってきた中年の男はいきなり初子の腹を殴った。
蹲る初子を見下ろし男は言った。
「だからいつまでも優しくないって言っただろう」
後ろ手で扉を閉め、錠を掛けた。
「クソ! 雨でびしょ濡れだ」
男は初子の髪を摑んだ。
「ようやく見つけたぞ。五年も掛かったよ」
そのままグイと持ち上げる。頭の皮が剝がれそうだった。操り人形の様に初子は立ち上がった。
「で、なんで逃げた。おまえは馬鹿か。馬鹿だな。馬鹿そのものだ。俺には馬鹿の考えることがよくわからんよ。育ててやった恩を忘れて親から逃げ出すなんてことがよくできるな。クズが」
襟を摑みねじ上げると、平手で頰を打った。
右、左、右。
交互に頰を張る。
「可愛い娘だ。こんなことをしたくてしているわけじゃないんだ。わかるよな。俺はずっとおまえを可愛がってきたからな」
鼻血が流れ、裂けた唇から血が滲んだ。叩いている間に興奮してきたのだろう。平手打ちがいつまでも続く。頰が腫れ、顔の形が変わってきた。
「おまえが裏切ったんだ。名前を変えたら見つからないとでも思ったか。そんなもの、調べたらすぐにわかるんだよ」
「やめてやめてお願いやめて」
ようやく初子は声を上げた。
それでも男はやめようとはしなかった。
興奮した男は気づいていなかったが、低く鈍い音がずっと聞こえていた。
窓硝子がまたがたがたと鳴り出していた。
「やめて、駄目、やめて」
初子はそのことに気づいていた。
部屋に湿気が満ちている。
夜の浜辺に立っているようだ。粘る湿気は、やがて形を得て雫となり、天井から滴りだした。
窓はさらに激しく震えている。
だがその音は雨音に搔き消され、興奮した男には届かない。
「やめて、お願い。殺しちゃ駄目」
男は初子のその台詞を命乞いと思っていた。
それは間違いだった。
振りかぶった腕が、ぴたりと止まった。
男の顔にたちまち脂汗が滲んでいく。
腕があらぬ方へとゆっくり捻られているのだ。
胸元を摑んでいた手を離した。
その場に初子は頽れる。
「おい、これは」
男の声は途中から絶叫に変わった。
腕が雑巾のように捻れている。肩も肘も関節が外れていた。
「駄目、駄目、やめて」
念仏のように呟きながら、初子は目を閉じ耳を塞ぐ。
「なあおいこれは」
虚ろな目で男は呟く。呟きながらふらふらと玄関へと行き、動く方の手で扉を開いて外に出ていった。
──おまえは賢い子賢い子。人は殺しちゃ駄目だよ。わかるよね。おまえはかしこいこ……なにを、どうしてどういう……。
呟きながら初子は、ぎこちなく窓際へと近づいた。自分の意志ではない。初子は右目を押さえ、見えない左目で足元を見る。瘦せた長い指が初子の足首を摑んでいた。その指の先に爪がないことまでしっかりと見えた。
──なにを、なにを。
呟きながら窓の前に腰を下ろした。
初子はしばらくシャワー並みに降る雨を窓越しに見ていた。雨に煙り、いつもは雑然とした町並みが今は朦朧としたモノクロ写真のように見える。
横座りしてじっと外を眺めていたが、とうとう堪えきれず立ち上がろうとした。
一瞬だった。
しかし一秒にも満たないその刹那、初子ははっきりとそれを見た。
人が落ちてきたのだ。
落ちてきた男はまっすぐ初子を見ていた。
戸惑ったような情けなさそうな顔の男と初子は目が合った。
その直後、雨音に紛れて土囊を叩きつけるような音がした。
──とうさん。
低く小さく初子は呟いた。
>>第5回へつづく
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書誌情報はこちら≫著者:牧野 修 原作:鈴木 光司 脚本:杉原 憲明『貞子』
>>映画『貞子』公式サイト