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過去作とのつながりや、映画では語られなかったエピソードが満載。
観る前に読むと、映画が何倍も楽しめる。
時代とともに進化する貞子の、今度の呪いは、
動画配信から始まる――! (第1回から読む)
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3
テーブルの上に次々と料理が並べられていく。映像は短く細切れにカットされ、時間が早送りされている。料理がでる度に派手で馬鹿馬鹿しい効果音と、これまた悪い薬でも飲んだような色彩で料理名のテロップが飛び出す。たちまちのうちに大きなテーブルの上が料理で埋め尽くされた。
「これで全部じゃないんですよね」
画面の中央にいる、少年と呼んでもまだいいような若い男が、運んできたウエイターを見上げて言った。
「三分の二ぐらいでしょうか」
ウエイターは微笑みながら言った。
「了解っす。じゃあ、早速」
ふざけた音とともに、画面中央でカラフルな文字が大きく飛び出してきた。
『ファミレスのメニュー、全部食べてみた!!』
男はフォークを手にし、一番近くにあった唐揚げを刺すと口に運んだ。大きめの唐揚げを全部口に押し込む。うまっ、とほぼ嚙まずに言って吞み込む。それから間髪を容れず次々と口に投げ入れた。その辺りからは早送りになった。見る間に皿が空いていく。
効果音と共に男の顔のアップ。整った顔をわざと歪める。
「いやあ、旨いからどんどん食べれますね。まあ、ここまでが前菜ということで」
高速で古いゲーム音楽風電子音が流れる。それに合わせて三倍速ほどの速さで男は料理を平らげていく。
途中幾度も脂汗を滲ませ必死で咀嚼する男の顔がアップで映る。その度に滑稽で間の抜けた効果音が鳴る。
そこで茉優は画面を止めた。
スマートホンの画面は、目の前に座っている若い男に向けられていた。どっさりと生クリームが載っかったパフェを食べているその男が、画面に映って暴食していた男だ。
男はパフェから目を離して茉優を睨んだ。
昼食にも朝食にも半端な時間で、カフェは空いていた。
「これは何」
茉優は男に尋ねた。
「何って、俺だよ」
「そんなの見ればわかるよ」
「じゃあ、何」
「何をしてるのかって聞いてるの」
「結構人間って食べられるもんだね」
男はへらへらと笑っていた。
茉優は黙って男を睨む。
男が言った。
「どこで見たの」
「私がネットに疎いから見ないだろうと思ってたの? まあ、その通りだけどね。小児病棟のプレイルームに置いてあるタブレットで子供たちが見ていたの」
「でしょ」
男の顔が一気に明るくなる。
「結構人気があるんだって。子供たちに大受けなんだから。あのさあ、姉ちゃん。俺これに賭けてるんだよ」
「この後急性胃腸炎起こして入院してたんだって」
「一日だけね。保険入ってて良かったよ。入院保障が──」
「和真、ふざけないで」
「ふざけてないよ」
秋川和真は唇を尖らせた。そうすると五歳の頃の彼に逆戻りする。彼は二歳離れた茉優の弟だ。
「姉ちゃん、怒らないで聞いてね」
茉優は返事をしない。
それでも和真は話を続ける。
「俺さ、ずっと子供たちに夢を与える仕事をしたいって言ってたじゃん。姉ちゃん、知ってるかなあ。今一番小学生が将来なりたい職業って言うのがこの──」
「学校はどうしたの」
和真が目を逸らす。
「プログラマーになるんじゃなかったの?」
「辞めた……向いてなかったんだ」
「向いてないって……あれほど」
言葉が喉につかえて出てこない。涙が出そうになるが、それは何とか堪えた。
呼吸を整えてから、ようやく口を開く。
「あんたね、いったい誰が専門学校の入学金を払ったと思ってんの」
「返すよ」
再び拗ねた口でそう言った。
「金は返すよ。それでいいだろう。入学金ぐらいすぐに稼げるんだ」
「いい加減にしてよ!」
思わず怒鳴っていた。
店内にいた数名の客が振り向く。しかしそんな事は気にもならなかった。
「こんなんで本当に食べていけると思ってんの? 何が子供の憧れよ。あんた馬鹿じゃないの」
吐き捨てるように言った。
頭に血が上っていた。
怒りと悔しさと情けなさに唇が震える。
「チャンスなんだ。プロが誘ってくれたんだ。石田祐介って知ってるだろ」
「知らないわよ」
「ウエブマーケティングやってる人で、テレビとかにも出てるんだよ。ネットでならもっと有名人だよ。姉ちゃんにはわからないかもしれないけど、プロだよ。こんなことの専門家なんだ。その石田さんが俺をかってくれて、協力してくれてるんだよ。こんなチャンス二度と無いよ。登録もどんどん増えてるし、すげぇ手応えなんだって。だから姉ちゃんもさ、応援してくれよ。頼むよ」
手を合わせ、和真は茉優を見詰めた。
「俺の本気はわかってんだろ?」
もちろん茉優にはわかっていた。
彼がどれだけ本気か。
彼の言うことに噓はない。茉優は彼の心の中に入ることが出来る。弟のことであるなら、考えていることのほとんどが、するすると頭の中に入ってくるからだ。
誰の心にも入り込めるわけではない。慣れ親しんだ相手であれば、集中すると入り込めないこともない。それでも最低、相手の名前だけは知っている必要がある。何故かはわからない。
生きている人間の心にはそうそう簡単には入れないが、死者の声はほとんど無抵抗に──勝手に頭の中に入ってくる。それは幼い頃から彼女を悩ませた。朝起きたらこんな〈力〉が跡形もなく消え去っていることを願い毎夜眠った。そして今までその願いは叶っていない。
本当は今、弟相手に〈力〉を使う気はなかった。そんな力を使わずとも、弟の考えは手に取るようにわかった。素直な人間なのだ。茉優に噓をついたことは一度も無い。
彼は本心からプログラマーになりたいと思い、そして今はネットの動画サイトで稼ごうと考えている。
騙されているんだ。
茉優は思っていた。
その石田という男に。
しかし今それを問いただすつもりはなかった。そんな事を言っても頑なになるだけだ。
あの時がそうだった。
*
家を出ようよ。
最初にそう言いだしたのは和真だった。どんな目に遭わされても、茉優にはその決心がつかなかった。怖ろしかった。確かな苦痛よりも、どうなるのかわからない不安の方が怖ろしかったのだ。
親からは逃げられない。
そんな呪いを掛けられていたのかもしれない。子供というものはそういうものだ。今からは考えられないことだが、その時茉優は和真にこの家に留まるよう説得した。逃げて逃げ切れるものでない。逃げたら余計に酷い目にあわされる。茉優はそう信じて疑わなかった。
その時茉優は小学五年生で和真が三年生だった。家出してどうにかなる年齢ではないと、茉優は思っていた。そして彼女たちに相談する相手はいなかった。半年前、学校で唯一心を許していた保健室の先生に相談し、何の解決にもならないどころか、親に報告され酷い目にあった。その時もう誰にも相談しまいと心に決めた。何かがあるのなら姉弟で考え解決しようと。
親には何があっても逆らえないのだ。
心からそう思っていた茉優は必死になって和真を引き留めようとした。
だがどのように脅しても、なだめても、何をしても和真の決意を翻すことは出来なかった。
中学に入ったらおまえもママと一緒に稼げ。
継父にそう言われた夜、茉優は一人で声を殺し泣いていた。母親の職業がどのようなものかはだいたいわかっていた。お酒を飲むだけの簡単なお仕事です。母親はそう言ってケラケラと笑っただけだ。
その時和真は茉優を慰め励まし、そして家を出ようと説得に努めた。
それしか方法は無いかもしれない。
その時初めて茉優はそう思った。
そして数日後、秋川姉弟は家を飛び出したのだった。
クリスマスが終わって年が変わるまでの、何だか慌ただしいわりに間の抜けた数日間のどれかだった。いったん決めると、茉優が率先して計画を立てた。失敗は許されない。誰も信じるな。茉優は和真に言い聞かせた。その夜まで誰にも悟られないように気を配った。決行の日も、いつもと同じようにしていた。いつものように放課後校庭で待ち合わせた二人は、いつものように二人そろって家に帰り、いつものように母親が仕事に出掛けるのを待った。こんな時に限って母親はなかなか家を出ていこうとはせず、服を着替え化粧を終え、それからしばらくテレビを見ながら煙草を吸っていた。おそらく客とどこかで待ち合わせてから店に行くのだろう。その時間まで間があるのだ。
不思議なことに、待つと時間がどんどん伸びていく。二人はそれをいつもと同じようなふりをしながら、じりじりじりじり待ち続けた。その間に茉優の頭の中では怖ろしい妄想ばかりが膨れあがっていく。
もしかしたら母さんは何かに気がついて、わざと出ていくのを遅らせているのかもしれない。いきなり二人に煙草の煙を吹きかけ、タクちゃん、叱ってやってよ、と襖を開いて押し入れに隠れていた継父を出してくると、あの人は酒臭い息を撒き散らしながらマチ針を手にして──。
妄想はそこまでだった。
母親は大欠伸をすると、もう一度口紅を塗り直して玄関に立ち、和真がぴかぴかにみがいた白いハイヒールを履いて出て行った。
鍵を掛ける音。
遠離っていく足音。
それが聞こえなくなるのを待って、さらにひと呼吸待って、ようやく二人は家を出る荷造りを始めた。以前から少しずつ、用心深く準備を進めてきた。母親は自分の事にしか興味が無く何をしていても気づかないだろうと思っていたが、どういうわけか継父はそういうことにだけ勘が働くのだ。そういうこと、というのは子供たちの勝手な行動だ。それを継父は裏切りととるのだ。異様なほど子供たちのそういう態度には敏感だった。
普段の継父の鈍さといったら、死にかけの牛でももう少し鋭いと思わせるようなひどいものだったにもかかわらず、だ。
前々からバッグに詰めたりして準備をしてしまうと、継父が計画に気がつくに決まっているので、必要なものは少しずつかためて、すぐに取り出せるようにした。洗面道具を机の引き出しに入れたり、部屋のすみに引っ越してきたときから置かれてあるダンボールの中に着替えを入れたりして、最終的な荷造りを一瞬で済ませることが出来るように、この時を目指して、着々と準備を進めていたのだった。
その成果がいま試される。
だから、二人はちょっとばかり興奮していた。
頭の中で何度も繰り返していたように、準備していたリュックにすべての荷物を手順よく素早く詰め込んでいると、和真がくすくすと笑いだし、茉優もつられて笑い出し、最後には二人ともケラケラ笑いながら荷造りを終えると、急に真剣な顔に戻って、二人は家を出たのだった。
日はすっかり暮れていた。赤銅の板に精緻なレリーフを施したような夕暮れは、見る間に藍に浸され夜へと染まっていく。夜は人を扇動する。すぐ後ろから猟犬のように追ってくる継父の息遣いを感じるのだ。聞こえぬ足音を聞いてしまうのだ。二人の脚は次第に速くなり、早足がやがて駆け足へと変わるまでそれほど時間は掛からなかった。そうなると今度は止まることが出来なくなった。止まるとすぐに追いつかれるような気がしたからだ。急げ急げと頭の中の何者かに急かされる。
しかし身体はそれについていけなかった。
二人は走るのが苦手だ。この頃の和真はものすごいチビで、ものすごいやせっぽっちだったし、茉優は運動が大の苦手だったし、そしてなにより二人とも足の指の爪がとんでもないことになっていた。最初からあまり長い距離を走れないことぐらいはわかっていた。
すぐに足が思うように動かなくなって二人は立ち止まった。県道の脇のドブ川から、死んだザリガニのようなにおいがしていた。臭かったけど、息を止めるのは無理だった。二人は夏の犬のように荒い息を吐いていたからだ。実際は年の暮れで痛いほど冷たかったのだけれど。
はあはあと吐く息が真っ白だ。
「これからどうするの」
和真が尋ねた。
「バス停に行くんだ」
茉優は時計を見た。
継父のコレクションの一つだ。いざとなったら売ってやろうと、茉優は一番高そうなのを持ってきたのだ。あれほど怯えていたのに、気がつけば時計を物色していた。一度決意したら度胸が据わるのは昔からだ。見つかったらとんでもないことになるだろうが、決して見つからない。見つかってたまるもんか。もう二度とあたしたちがあの人と会うことはない。
茉優は自分に言い聞かせた。
「あっ、バス」
和真が指差した。
一番近いJRの駅からこっちに来るバスはもう少し遅くまであるのだけど、ここから駅へと向かうバスは、もうそれが最終だった。これも事前に何度も調べた結果だ。
二人は最後の力を振り絞って走った。バスは二人を待っていてくれた。乗ればすぐに終点だ。
終点で降りたのは茉優たちを入れて四人だった。そこからはJRを使って、持っているお金で、行けるだけのところまで行こう。それが茉優の、計画とも言えないような計画だった。
この時間にこの駅から乗れる列車の終着駅は、それほど遠くはなかった。それでもそこまで三十分あまり掛かる。
がらんとした車内で二人はシートに腰を下ろした。暖房が効いていて、たちまち二人は汗ばむ。
前の座席で老人が死んだように眠っていた。もしかしたら死んでいるのでは、と思って茉優は少しだけ怖くなる。
車窓に目をやるが、そこには二人の姿が映っているだけだ。
夜なのだ。
列車はすごいスピードで走っている。
気がついたら和真が茉優にもたれて眠っていた。茉優は彼の肩を抱いた。小さなやせっぽっちの弟だ。もたれられても気がつかないほどの小さなやせっぽっちの弟。
今日は何も食べていない。朝から何も。
空腹を堪えているうちに、茉優も眠くなってきた。
正面に座っていたお爺さんが、新聞紙を開いて中からおにぎりを出してきた。
ニコニコ笑いながら、二人にそれを差し出した。
──さあ、お食べ。
礼を言って茉優はおにぎりを受け取り、いつの間にか起きていた和真にも分けた。むしゃむしゃと食べる弟は幸せそうだ。
良かったなあ。
茉優が言った。
良かった良かった。
口の周りにご飯粒をくっつけて、和真はそう繰り返す。
その時突然大音量のベルが鳴り響いた。照明が変わる。赤と青のランプがめまぐるしく点滅しはじめる。
──こんなところにいたのか。
車両の端に継父がいた。
たちまち車両全体が酒臭くなる。
それに小便の臭いが混ざった。和真だった。怖さのあまり、それでよけいに怒られることがわかっているのに、小便をちびってしまうのだ。
継父が近づいてくる。
──ごめんなさい。あたしが言ったの。
茉優は床に膝を突き、頭を下げた。
──あたしが家を出ようって言ったんです。ごめんなさい。ごめんなさい。
──靴下を脱げ。
継父が言った。
──あたしが脱ぐから和真はよして。
──二人ともだ。
目の前に継父が立っていた。
唇の端がひくひくとひきつっている。
充血した目で、じっと見下ろしている。
──靴下を脱げ。
継父が繰り返す。
茉優は靴下を脱ぐ。いつの間にか靴は脱いでいた。和真はもう裸足になっている。
──お願い。和真は勘弁してやって。
継父は茉優の頰を容赦なくつねり、千切れそうになるまで引っ張った。
──おまえは後だ。見ていろ。おまえのせいで、このちびがどんな目にあうか。
継父は人差し指と親指でつまんでいるマチ針を茉優に見せた。
──やめて。お願い。やめて。
継父は茉優の喉を摑んだ。息が出来ない。手や足をばたつかせる。苦しい苦しいお願いやめて。苦しむ茉優の顔をしばらく楽しそうに眺めてから、彼女の耳元で囁く。
──静かにしろ。
そして喉から手を離した。
やめてくださいと言いたいのだけれど、顎が震えて勝手に歯ががちがちと鳴るばかりだ。
その間に継父は和真の足元に靴屋のように座り込んで、小さな足を持っていた。
こらえろ。
継父は笑いながらそう言い、弟の足の指の爪の──。
ついたよ。
「えっ?」
「もう終点に着いたよ」
真っ先に和真の足を見た。真っ黒に汚れているけれど、それでもそれは靴だ。裸足なんかじゃない。
いつの間にか茉優も眠っていたのだ。
「よかった」
彼女が言うと、ほんと、良かったね、と和真は言った。
どこの駅で降りたのか、正面に座っていた老人は、もういなかった。少なくとも死んではいなかったようだ。茉優と和真は二人並んで、一度も来たことのない駅のホームに立った。冷たく暗いホームに立って、それでも二人はおかしくてしようがなかった。ひじで脇腹をつつきあい、ケラケラ笑いながら二人は駅を出た。
生まれて初めて心から笑った。
その直後、二人は児童相談所へと保護されることになる。最終駅で降りた乗客の中に、児相の職員がいたのだ。そこで初めて彼らは助けを求めた。必死だった。
運が良かったのだ。
彼女たちに声を掛けた児相の職員は真剣に茉優たちの話を聞き、信じてくれた。具体的な話に矛盾がない。作り話とは思えなかったのだろう。
警察と児童相談所に連絡を入れたし、両親へも連絡した。
親にはなかなか連絡がつかなかった。翌日電話に出た母親は、驚くことに子供たちが家出したことすら気づいていなかった。電話では今すぐ子供たちを返せと威勢が良かった継父も、すぐに面倒になったのか連絡を寄越さなくなった。親の心証は極めて悪く、最初に茉優たちを保護した職員はこのまま両親の元に戻してはいけない、それは危険だ、と一貫して主張してくれた。そのおかげもあって、二人はそのまま児童養護施設へと運ばれることになった。
その後両親は連絡も無く行方をくらましていた。姉弟は逃げ出したつもりで捨てられていたのだ。
*
姉ちゃん。
呼び掛けられて茉優は我に返った。
「また何かの声に邪魔されたの?」
和真は茉優の特殊な〈力〉のことを言っているのだ。
茉優は静かに首を振った。
「ちょっと、昔のことを考えていたの。あなたが可愛い子供の頃」
「今も可愛いでしょ」
そう言ってニコニコと笑っている和真を見ていると、それ以上何を言ったら良いのかわからなくなってしまった。
>>第4回へつづく
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書誌情報はこちら≫著者:牧野 修 原作:鈴木 光司 脚本:杉原 憲明『貞子』
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