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過去作とのつながりや、映画では語られなかったエピソードが満載。
観る前に読むと、映画が何倍も楽しめる。
時代とともに進化する貞子の、今度の呪いは、
動画配信から始まる――!
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真新しい北欧製の家具に洋書の詰まった古風な本棚。本革のソファーにオーク材のどっしりとしたテーブル。観葉植物。英国製の茶器。壁につけられたアンティーク調の大きな鏡。
生活感のない広い居間。あるいはモデルルームのようだ。少なくとも総合病院の中に造られたカウンセリング・ルームには見えない。
歴史を誇る、といえば聞こえは良いが、ちょっと前までほとんど廃墟寸前の病院だった。それが別の医療法人グループに買収され、二年前に大規模な改装がされた。今や日本で一、二を争う最新治療が望める総合医療センターだ。
患者の精神的なケアを含め心療内科や神経精神科も充実しており、このカウンセリング・ルームもその施設の一つだった。他の最新鋭検査機器や治療設備と比べれば安いものだろうが、それにしてもここだけでかなりの資金を注ぎ込んでいるのがわかる。
秋川茉優が臨床心理士としてここに来たのは半年前のことだ。それまで勤めていた精神科のクリニックから引き抜かれる形でここにやってきた。
この病院では精神疾患そのものへの対応はもちろん、その他の患者の心のケアにも臨床心理士が医師と一緒にチームを組んで取り組む。転勤してきた当時、頻繁に行われる勉強会や研修の熱心さに茉優は驚いた。チームの一員として自分に期待が掛けられているのは確かで、やりがいと共に重責も感じていた。
今から長期入院を続けている精神科の患者とのカウンセリングを行うことになっていた。時間ぎりぎりまで付箋が鍵盤のようにつけられた資料に目を通していた。
天井は高く床には分厚い絨毯が敷かれている。そのためか音の反響が少なく、まるで新雪が降り積もったかのようにしんと静まっていた。ページをめくる音が耳障りなほどだ。
ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
入ってきたのは三十代後半の女性だった。
柔和な笑顔を浮かべ、茉優に手を振って言った。
「おはよう」
明るい声だ。
茉優はソファーから立ち上がると、大きな窓の横にあるサイドテーブルで、紅茶を淹れる。
「ずいぶん元気そうでよかった」
「食欲も戻って、もう食べ過ぎちゃうくらいで」
言いながらソファーに腰を下ろした。
「太ったでしょ」
「前が瘦せすぎだったから」
微笑みながらテーブルにカップを置き、紅茶を注いだ。
「ありがとう」
「顔色もいいし、凄く健康的で、最初にお会いしたときから比べたら別人みたい」
自分の分も淹れると、茉優もソファーに腰を下ろす。
カップから湯気がのぼる。
紅茶の香りが心地好い。
「ああ、あの頃はまた調子が悪くなってた頃だったから。ごめんね、迷惑掛けちゃって」
「いいえ、雅美さんに迷惑掛けられたなんて思ってませんから」
倉橋雅美は廃病院と化していたこの病院に十七歳からずっと入院していた。そして改築後も真っ先に病室へ戻った。とりあえず会話が出来るようになったのは二年ほど前から。その時ようやく退院が叶った。それでも今のように普通にコミュニケーションが取れるようになったのは、改築後の病院に通い始めてからだ。
「先生、ほんとにありがとうね。今だから言うけど、最初はこんな若い人に務まるのかなあ、っていうか、ちょっと信頼出来ないって思ってたの」
雅美は猫舌なのか、紅茶にふうふう息を吹いてなかなか口をつけようとしない。
「当然ですよ。自分より若い者に何がわかるって思う方が普通ですから。私のような若輩者はどこでカウンセリングしてもそこから出発です。そこでどうやって信頼を得ていくかってことですけど、私はテクニックみたいなものは下手くそなので、やれることはただ誠実にクライアントに向かっていくことだけなんですよね」
「わかってます。その誠実さ、ひしひしと伝わってるよ」
ひしひし、に力がこもる。
「そう言っていただけると嬉しいなあ」
「今はほんと、秋川先生が私の担当でよかったなって思ってるんだから。でもたいへんだったでしょう。新人には結構厳しい仕事よね、カウンセリングなんて。大丈夫だった? 藤井先生なんか、新人に厳しそうだしなあ」
「倉橋さん、鋭い」
「ほら、やっぱり」
雅美が真剣な顔で言うので、慌てて笑いながら付け加えた。
「冗談ですよ。ちっとも、そんなことないですから。こんなんでいいのかなあって思うぐらい皆さん優しくて」
雅美はぐっと顔を前に突き出して、秘密めかして小声で言った。
「困ったことがあったら、私に言ってよ」
そして改めて茉優を見、破顔した。
「私がガツンと言っといてあげるから。なんせこのフロアで一番長いのは、私だからね」
「長老ですね」
茉優がそう言うと、二人してケラケラと笑った。まるで同級生の友人のようだ。そして笑いながら茉優は考える。ちょっと距離を詰めすぎたのではないかと。
相手を受け入れ、その気持ちを理解することは大切なことだ。が、あくまでカウンセラーはカウンセラーであり患者は患者だ。それ以上に距離を近づけると、いろいろと不都合なことが生じる。
「でもね、ほんと秋川先生には感謝してるの。だから今度お礼させて」
話がいきなり意外な方向へ進んだ。
笑顔だけ向けて茉優は無言だ。
咄嗟に返答が出来なかったのだ。
雅美は勝手に話を進めていく。
「実は近所に、ちょっと雰囲気の良いお店を見つけてね。創作イタリアンなの。ワインの種類が豊富でね」
「私、お酒はあんまり──」
「ねえねえ、一緒にどうかな。新人カウンセラーのお給金でも大丈夫。あっ、でも、もちろん誘ってる私の方がご馳走するから」
「いえ、そんな」
茉優は顔の前で手を振った。
「いいのいいの。遠慮しないで。あっ、でも忙しいか、若手は。聞いてるわよ。レポートやらなんやら残業も多いって。大変なんでしょ?」
「ええ、そうですねえ。なかなか自分の時間を──」
「わかった。じゃあセンセイの仕事が落ち着いたら教えてね。夏とか暇そうな気がするんだけど、どう? ほら冬は冬季鬱とかいって心病む人多そうだし、秋口も寂しいし、春先ってかえって心の調子崩しそうだしね。やっぱり夏じゃない。でしょ」
「さあ、どうかなあ。あんまり変わらないような気がするけど」
押しの強い雅美のペースに、ついつい茉優は吞み込まれてしまっていた。何とかして主導権を取り戻さねばと思うのだが、どんどん饒舌になっていく雅美に追いつくことすら難しい。
ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
茉優が言うと、扉を開いて入ってきたのは白衣の若い男性だった。
「藤井先生」
茉優と雅美が声を揃えた。
「ごめん、面談中だった?」
人当たりの良い笑いを浮かべて藤井は言った。藤井稔は精神科医だ。茉優とそれほど歳が離れていないのだが、精神科の副主任を任されている実力者だ。
「ここ、使うんですか」
雅美が訊ねた。
「いや、秋川君がここにいるって聞いてね」
「先生、秋川先生苛めちゃ駄目ですよ」
「何を言ってるんですか。さては悪口言ってたな」
「言ってた言ってた。言って悪いか?」
「居直っちゃったな。で倉橋さんは、どうですか、体調は? この間風邪気味だって言ってたけど」
「大丈夫、大丈夫」
「まあ、確かに元気そうだけどね。何かあったら私か秋川君に相談してくださいね」
「はいはい、わかってますよ。もうそろそろ病院とおさらばできるんじゃないかなって」
「そりゃ凄いなあ。とりあえずは通院しながら普通の生活が出来るようになるのを目標にしようか」
「そりゃ、そうなればいいんだけど……あっ、悪い。お邪魔ですね」
雅美は立ち上がった。
「まだ何か話したいことがあったんじゃないんですか」
茉優が呼び止めた。
「ただ食事に誘いたかっただけ。それじゃあ、秋川先生、また今度ね」
「私に言っておくことない?」
「ないです」
あっさりそう答えると、茉優に手を振って雅美は出て行った。
閉じた扉をしばらく見ていた藤井が言った。
「なかなか難しいでしょ、倉橋さんのカウンセリング」
「そうなんですよ。なんていうか、押しが強いから」
「気をつけた方が良いですよ。食事に誘われてたけど、もう少しあそこはやり方があったんじゃないかな。黙っちゃうのはリアクションとしてまずいかな」
「何点ぐらいですか」
「五〇点だな」
壁にある大きな鏡は、実はマジックミラーだ。隣にはモニタールームが設けられている。カウンセリングは複数の人間が関わるようになっていた。ところが二対一では相手も緊張してなかなか打ち解けない。そこでもう一人がモニタールームから観察するようになっている。マジックミラー以外にもカメラが数台設置されていて、記録は常時残されている。治療のための観察という意味が主だが、カウンセリングの方法でクライアントともめることを避ける為にも記録を残してあるのだ。
「秋川君はどうしてもクライアントに引き摺られやすい。それは共感とは違うんだよ。ただ同一化してるだけ。自分を見失っている」
茉優は項垂れて藤井の説教を聞いていた。
「あの人、この間も手作りのクッキー持って来ちゃったんだろう?」
「そうです。食べてねって」
「どこかでケジメをつけなきゃな。クライアントとの適切な距離感。基本だけどそれが一番難しいんだから」
「雅美さんが元気になって、つい嬉しくて」
「だからそれが同一化なんだよ」
「すみません」
「謝るんじゃなくて……まあいいや。こうやって臨床を経験していくと、すぐにわかるようになりますよ。ここへ来て、だいぶ慣れてきたでしょ」
「ええ、まあ、でも……」
「ここへきて、何かあった? 変わったことなかった?」
「変わったことですか」
質問の意図をくめず、茉優は黙り込む。
「たとえば……倉橋さんを受け持ってから、何て言うか、倉橋さんとの関係で奇妙な現象が起こってない?」
「奇妙な……どういうことですか」
「……ちょっと待ってて」
藤井はそそくさと部屋を出て行くと、すぐに戻ってきた。
「要するに超常現象的なことが起こっていないかなと」
「無いです。でも、どうしてそんなこと」
「これは他の人には内緒にしていて欲しいんだけど、私は個人的にトランスパーソナル心理学の研究を続けてきた」
「トランスパーソナルって何ですか」
「自我を超越した高い次元での精神性──魂の進化の研究をする心理学だよ。具体的に言うなら超能力や霊現象なんかを調べている。私は人の潜在能力と呪いの関係を……何て顔をしているんだ」
茉優は、目の前で美女が狐に変身するところを目撃したかのような顔で藤井を見ていた。
「一応言っておくけど、宗教の話をしているんじゃないよ。勧誘されるって思ってるんなら大間違い。あくまでこれは私の学問上の興味の話だ。デタラメでも与太話でもない。国際的な学会も存在するし、私も日本トランスパーソナル学会に所属している。ただ、ここの仲間にそんな話をしても君と同様の反応だろうと思って誰にも知らせてないけどね」
「もしかして、さっき出て行ったのは公的な記録に残らないようにカメラを停止したんですか」
「さすがに勘がいいなあ。ストレートに話を始めて良かった。へんに勘ぐられる方が話はこじれそうだったからね。というわけで前置き無しに聞くけど、秋川君は人の心の中を見ることができるよね」
返事はない。
「秋川君は十代でご両親と別れて児童養護施設で育てられた。そこで他の子供たちの心の声を聞き取っていると噂になった。それが原因でみんなに苛められていた。そのためしばらくはそれを隠していたが、前職で患者の心の中を探って再びちょっとした騒ぎになった」
「どこでそんな事を」
「それを知ったからこそ私は君をこの病院に推薦したんだ」
「そうだったんですか」
初めて聞いた話だった。前に働いていた病院の院長が推薦したのだと聞かされていた。
「君が優秀な心理カウンセラーだったことはもちろんわかっている。それが無ければ私も余所からヘッドハンティング紛いのことをしないよ」
「なんか、気を遣っていただいて申し訳ないです」
茉優は真顔で言った。
「すぐそうやってひがむのは君の悪い癖だ。経験は浅いが君が臨床心理士として優秀であることは間違いない。悪い方にばかり考えていても未来は拓けないぞ。そうやって君に興味を持っている私を利用するぐらいの気持ちでやってくれよ」
「はい」
「で、改めて聞くよ。そういう意味で、何か変わったことがなかったかな」
「今のところは何もないです」
「そう、わかった。もし何かあったらその時は一番に私に相談してね」
「はい」
「声が小さい」
「はい!」
やけくそのように大声で茉優は返事した。
>>第3回へつづく
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書誌情報はこちら≫著者:牧野 修 原作:鈴木 光司 脚本:杉原 憲明『貞子』
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