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過去作とのつながりや、映画では語られなかったエピソードが満載。
観る前に読むと、映画が何倍も楽しめる。
時代とともに進化する貞子の、今度の呪いは、
動画配信から始まる――!
誕生の章
1
それが言うので、初子は夕方に島に入り陽が落ちるのを待っていた。
舟を出してもらう金はなかった。金があったとしても夜の海に女子高校生を乗せて出てくれる舟はないだろう。説得するにも、スーパーの店員相手ですらろくな会話が出来ない彼女には無理な話だ。
結局初子は泳ぐことを選ぶ。
それほど遠くはないんだよね。
うん。
大丈夫だよね。
だいじょうぶ。
頭の中で会話を繰り返した。
スポーツとは縁遠い人間だったが、水泳だけは得意だった。なぜかはわからなかった。
だが今、彼女は理解した。生まれたときからこうなるように定められていたからだと。それが彼女の運命だったからだと。
しかしこれを運命と呼ぶのなら、あまりにも惨い。地獄巡りに等しい十六年間だった。今まで生きてきて、良い思い出はたったひとつ。小学五年生の時、夏休みに旅行へ行って来た担任教師から、お土産の小さなキーホルダーをもらったことだ。クラス全員に配ったものだったが、お土産というものを生まれて初めてもらった彼女は涙ぐむほど嬉しかった。
その後、教師から生徒への贈り物は不適切であるとして回収騒ぎになったのだが、彼女は無くしたと言って返さなかった。
引き出しの奥に仕舞っていたそれは、ひと月も経たないうちに部屋を掃除した母親に捨てられた。それでもその思い出だけが、担任に逆らって噓をついたことも含めて唯一の幸せな思い出だった。母親の折檻や、父親の日増しに酷くなる性的な接触があったとき、飴玉をしゃぶるようにその時のことを思い出すのだ。
それ以外ただひたすら苦痛なだけの毎日を送ってきた。諦念こそが彼女の救いだった。彼女の望むものは、死ですら手に入らないだろうと確信していた。今まで幾度も死のうと思いながら実行しなかったのは、失敗したときの絶望を想うからだった。
だが今なら、彼女の力を借りることが出来る今なら、それは可能かもしれない。
ねっ?
初子が問い掛けると、頭の中のそれはうんと答えた。
生まれて初めて頼りに出来る相手ができた。
あなたはわたしの友達かもしれないね。
その問い掛けに答えはない。
それでも初子は友達という言葉を考えただけで、少し温かい気持ちになれた。
彼女が示すままに砂浜の端にまで歩いて行く。
そこから先は岸壁で、遊泳禁止のブイが浮かんでいた。
海水浴のシーズンはとっくに終わっている。しかも夜。海岸には誰もいなかった。
満月が空に輝く。
都会育ちの初子は、月と星がこれほど明るいものだと知らなかった。
鳥が鳴いていた。
甲高く、ぎゃ、ぎゃ、とうるさい。
ウミネコの声に似ているが、より癇に障る啼き声だ。
初子を見つけたときから、見咎めるかのように鳴き続けていた。
それも一羽ではない。
どんどんその数が増えていく。
何の鳥かはわからない。だいたい夜に鳥が鳴くのかどうかも知らない。
時折満月の夜空を背景に、黒い粉を撒いたように木々から群れが羽ばたき、宙を舞ってまた梢に留まる。
その度に数が増えているような気がした。
啼き声に追われ、初子は服を脱いだ。
下着一枚になって服を畳む。重しに靴を載せた。寒さに鳥肌が立った。が、それは苦痛ではなかった。今やろうとしていることに少し興奮していたからだ。やるべきことがあり、自らの意志でそれをしていることが歓びだった。楽しんでいると言っても良いだろう。
砂浜から墨汁のように黒く重い夜の海へと向かった。かつては岸壁に沿って道が作られていたらしいが、数十年前に土砂が崩れ一瞬にして消えた。今は舟か、あるいは干潮時なら歩いて近くまで行くことが出来る。とはいえ洞窟に入りたければ泳ぐしか岸壁を迂回する方法はないのだが。
初子は夜の海が怖ろしくはなかった。寄せて返す波は夜の昏い舌だ。触れれば冷たかったが、進むほどに慣れた。肩まで浸かると暖かいとすら思った。
一度頭まで浸かり、それから泳ぎだした。
岸に沿って島を回り目的の場所に。
もう少し。
もう少し。
もう少し。
声に励まされ五分、十分と泳ぎ続けた。
波に流されないように泳ぐのは思った以上に大変だった。彼女の左目はほとんど見えない。三歳の時水疱瘡の菌が入って失明したのだ。片方が見えないと位置を確認するのが難しい。まして夜だ。それでも初子は泳ぎ続けた。水の中で汗をかいている。自分が海に溶け込んでいくような気がした。
そこ。
声がした。
ここでいいの?
そこ。
再び彼女は答えた。
初子は岸壁へと近づいた。
すぐに岩礁に行き当たり、そこから歩いて岸壁まで近づくことが出来た。
岸壁には確かに洞窟のような穴が見えた。海蝕洞窟と呼ばれる、波の浸食によって岩に穿たれた洞窟だ。島の周辺にはこのような海蝕洞窟がいくつかある。その中には役行者にまつわる伝説がある行者窟というところもある。この海蝕洞窟も岸壁に足場が組まれていた。途切れた道はこの足場に繫がっていた。今はこの岸壁に生えた苔のように貧相な足場も途中で途絶えている。昔は修行者が訪れたこともあったらしいが定かではない。だが近代までこの洞窟を訪れた人がいたのは間違いない。
もうすぐ満潮になるが、その時には洞窟も海水で満たされるのかもしれない。いまはぎりぎり岩礁の頭が見える。岩礁には所々罠のように鋭い断面を見せる岩があり、裸足のふやけた足裏があっさりと切れた。だがその痛みも、流れる血も、初子に殉教者の高揚感を与えるだけだった。
ようやく洞窟の縁に手が届く。
中を覗き込むと、奥の方まで見ることが出来た。
中に入り込み、初子は歩いた。
日向に晒された潮溜まりのような腐臭がした。
足の裏がぬるぬるとするのは彼女の血か、あるいは泥か。
初子はなんとなく崖に出来たくぼみのようなものを想像していたが、思った以上に奥行きがあった。
歩き進み、中が薄明かりに照らされている理由がわかった。
どこへ繫がっているのか、洞窟の上にぽっかりと穴が開いている。
そして丁度その穴から満月が見えるのだ。
道は途中で二股に分かれていた。そしてその分岐点に、月明かりに照らされたそれが見えた。
木製の祠だ。
古びてはいるが朽ちてはいない。おそらく埃を払えば真新しい祠に見えるのではないだろうか。その周りに落ちている腐った注連縄と比べると、その差は大きい。
潮のにおいが濃い。
分かれた道の一方は大きな潮溜まりに通じていた。中を覗き込むと、月光を映す水面の奥に白骨が見えた。泥に半ば埋もれているのは小さな頭蓋骨の断片だ。
それを見ても怖ろしいとは思わなかった。初子にはするべきことがあった。
立ち上がり、見える方の目を手で押さえて祭壇の方を見た。
見えなかったものが見えた。
長い黒髪の女が背景に溶けるように佇んでいる。
彼女は生者ではない。
初子の見えない左目は、失明したその日から誰にも見えない何かが見えるようになった。初子には初めからその正体がわかっていた。
死者だ。
霊と言うのが正しいのかもしれない。が、彼女にとってそれは死者だった。生き物としての生を終えても、死ぬことすら出来ない人間が世の中にはいるのだ。おそらく自分自身も死ねばあのようになるのだと信じていた。
死者が見えることを人に告げると嫌がられたり苛められたりした。初子はそれを隠すようになっていた。
その目が、兄の周囲に現れる髪の長い女を捉えるようになったのは十日ほど前のことだ。女は瘴気のように穢れた悪意をまとっていた。吸えば肺が腐り落ちそうなそれが、兄を取り巻いていた。数日後に兄が死ぬことを初子は確信した。黒い髪の女は救い主だ。初子は思った。この生き地獄から、彼女なら救い出してくれるはずだ。それが正しいことを立証するように、一週間後兄は自慢の彼女と一緒に車の中で死んでいた。通夜の席でその死に顔を見て、初子はほくそ笑んだ。恐怖を顔に焼き付けたような表情だったからだ。間違いなく苦しんで死んだからだ。そしておそらく死後にも平安が訪れることがないことを直感したからだ。
兄の死を知らされた翌日、初子は彼女の声を聞いた。声、というのは間違いかもしれない。具体的な形を伴わないイメージが頭の中に刺さってくる。初子にはそれが彼女の声に聞こえる。
彼女が学校で評判になっている貞子であることを初子は確信していた。貞子はくだらない級友とどうしようもないクズ人間の兄を呪い殺してくれた初子の救世主だった。
その声は言った。
会いに来いと。
そこがおまえの極楽浄土だと。
そして誘われるままにここにこうしてやってきたのだった。
闇に滲む長い髪の女は、そこに跪けと言った。跪いて待てと。
初子は祭壇に向かい、白骨の沈む泥に膝をついた。
じっとしていると身体がかなり冷えていることに気づいた。しかしそんな事、真冬に一日食事を抜いた後ベランダに立たされ水をかけられた時よりはずいぶんましだ。あの時に比べれば遊んでいるようなものだ。
また鳥が鳴いている。
あれは本当に鳥なのだろうか。
こんな夜中に鳴くような鳥がいるのだろうか。
いつの間にか潮が満ちたのだろうか。
潮溜まりは足元まで迫っていた。
そして──。
きた。
長い髪の女が言った。
来た。
初子が繰り返した。
何かが海からやってくる。
ぼうこんがくるぞ。
女の声がした。
一際大きな波の音がした。
と、潮溜まりから海水が噴き出した。
背中に海水が降りかかる。
それは妙に暖かく、まるで血潮のようだった。
その時知った。
今ぼうこんが来たのだ。
腐臭がした。
腐った海水の臭い。
放置された魚の死骸の臭い。
ごぼごぼと泥がはぜるような音がした。
おぞましい何かが、すぐ後ろに立っている。それは飢えている。満ちることのない飢えを抱えている。
それが背中にのし掛かってきた。
その時初子は、取り返しのつかないことをしていることに気がついた。その先に待ち構えているのは死よりも怖ろしい何かだ。死ぬことが救いになるような何かだ。その時、今まで経験した苦痛など、蚊に刺されたほどでしかなくなるだろう。
初めて恐怖に襲われた。
悲鳴を上げようにも喉が絞め上げられたように強ばり声が出ない。
硬い棘のような指が、初子の身体をまさぐっていた。何十、何百という指だ。たちまち下着を剝ぎ取られた。爪が肌を搔く。肌を刺す。全身が血に塗れていく。指はつねり擦り、傷口を開く。
開いた傷口に糞を塗りつけられている。糞には無数の小さな黒い虫が入り込んでおり、それが傷口から体内へと首を突っ込んでいる。鋭い顎で肉を嚙み取っている。
幼い乳房を千切り取りそうな力で摑まれた。
尻を押し上げられた。
腿を摑み、大きく左右に開く。
目に耳に口に鼻に、そして肛門に。穴という穴に冷たい指が差し込まれた。
爪が中を搔き混ぜ、裂く。
しかしその痛みは、まだ始まりに過ぎなかった。
残されたたったひとつの穴に、それは滑り込んできた。
身体の中におぞましい巨大な生き物が入り込んだようだ。それは体内を縦横に動き回り、内臓から初子を蹂躙する。
そのおぞましい脈動に、初子は吐いた。内臓が引き攣れ、押し潰されているのを感じる。四肢がすべて引き抜かれているようだ。痛みは既に許容を超えており、普通なら気を失っているはずだった。が、いつにもまして意識は冴え、激痛はいつまでも激痛であり続けていた。本当の痛みというものがわかった。そして本当の地獄というものが。
悲鳴をあげているのだが、その悲鳴が自身に聞こえない。鼓膜を突き破られたのかもしれない。
髪の長い女が見えた。
苦悶する初子をじっと見ていた。
そこに悪意は無い。
まして慈悲など皆無だ。
空っぽの瞳で初子をじっと見ている。眺めていると言うべきか。
騙されたのだ。
初子は思った。
今何に気づいたところで、もう手遅れだった。
身体の中で何かが破裂した。
汚泥が血管を流れる。
体温が急激に上昇する。
心臓が狂ったリズムを打つ。
ずんっ、と腰が抜けるような鈍い痛みを感じた。
詰め込まれた泥で身体が重い。
ずるりと抜け落ち、それは初子から離れた。
腹や腰がだるく重い。
異様なだるさに手足が勝手にのたうつ。
ひしゃげた呻きが止めどなく漏れ出てくる。
腹が腫れているのに気づいた。
下腹が出ている程度だったのが、見ている間に膨れあがっていく。あっという間に身の丈に合わない餌を丸吞みした蛇のようになっていた。
まるで風船だ。
皮膚が膨張についていけず、割れてひび割れ、裂けた皮膚から血が流れる。
腹の中にそれはいた。
それは育っている。
それはぼうこんが残したもの。
ぐるり、とそれは腹の中で位置を変えた。
棘だらけのボールが身体の中で回転しているようだった。
あまりの激痛に声も出せない。
仰け反り見上げると、洞窟の穴から月がのぞいていた。まるで光る巨大な目が覗き込んでいるようだった。
この地獄の責め苦は、夜明けまで続いた。
その間初子は、気を失うことも狂うことも許されなかった。
>>第2回へつづく
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書誌情報はこちら≫著者:牧野 修 原作:鈴木 光司 脚本:杉原 憲明『貞子』
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