カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
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(応募要項は記事末尾をご覧ください)
◆ ◆ ◆
>>前話を読む
北畠彩香と名乗った女は、病院へ搬送された。
ひどい栄養失調と脱水症状を起こしていたため、ただちに点滴処置となった。百六十センチの身長に対し、体重は三十九キロまで落ちていた。
首輪と
北畠彩香の名で照会した結果、去年の九月に、
──北畠彩香、二十六歳。
既婚。子供はなし。失踪当時、千葉県
事情聴取を任されたのは和井田だった。
「聴取は、患者の回復を待ってからにしてください」
と担当医は言った。しかし頼みこんで、五分だけ面会を許してもらった。
デリケートな事件ゆえ女性捜査員に同席してもらい、病室には担当医と看護師が待機しての聴取であった。
「……夫に、殴られていたんです」
消え入りそうな声で、彩香は言った。
夫は八歳年上の会社員。インターネット上の趣味サークルで知り合った仲で、二年の遠距離恋愛を経て、
千葉は夫の会社と実家がある土地だ。彩香自身は、
「結婚前は、やさしい人でした。でも籍を入れた途端、人が変わったみたいになって……。お酒を飲んでは『食事の味付けが気に入らない』だの、『旦那さまを笑顔で出迎えろ。辛気くさい顔をするな』だのと難癖をつけて殴るんです。逃げたかったけれど、実家は祖父母の介護で大変だし、心配をかけられませんでした。行政もあてにならなかったんです。『夫婦の話し合いが足りないんでしょう』、『旦那さんも、お仕事のストレスで大変なんですよ』と、定型句で追いはらわれました……」
彩香は唇を嚙んだ。
女性捜査員が確認したところ、彩香はDVシェルターや配偶者暴力相談支援センターの存在を知らなかった。福祉の窓口といえば市役所しか把握しておらず、子供がいないため、保健師や民生委員とも
ある夜、彩香はとりわけひどく夫に殴られた。
夫は倒れた彼女の顔や腹を踏みつけ、
「おまえみたいな役立たずのブスを養うのは嫌気がさした」
「とっとと出ていけ。どこへでも言って野たれ死ね」
と開けた窓からバッグを外へ放り投げた。
彩香はよろめきながら、バッグを拾いに走った。散らばった財布や携帯電話をかき集め、アパートに戻る。しかしすでに、中からドアチェーンがかけられていた。
「ビジネスホテルにでも泊まれたらよかったんですけど……お財布に、二千円しか入っていなくて」
しかたなく彩香は三十分かけて、二十四時間営業のマクドナルドまで歩いた。
夕飯は食べていなかった。しかし食欲はなかった。口内の傷に
千葉に知り合いは一人もいなかった。長野の友人にメールしようかとも思ったが、こんな夜更けに来てもらえるわけもない。第一、自分がみじめすぎて打ち明けられなかった。
ゆっくりと店内を見まわす。
真夜中のマクドナルドは、昼間とはまるで客層が変わっていた。ホームレスじみた風体の男や、キャリーバッグを引きずる老女。男か女かもわからないバックパッカーなどが
──どうしてわたし、こんなところにいるんだろう。
自嘲の笑いがこみあげた。
いい
──家出少女。
頭に浮かんだその単語が、彩香を馬鹿げた行動に突き動かした。
彼女はその場でツイッターのアカウントを作成した。使ったのは、古いフリーメールのアドレスだ。そして「#泊めてくれる人募集」のハッシュタグを付けて、
「26女。千葉。今晩泊めてくれる人を探しています。助けてください」
と発信した。
普段ならこんな愚かな
一時間待ったが、届いたダイレクトメッセージは二件だけだった。
だよね、ネットの世界じゃ二十六歳なんて、もう需要のないおばさんだよね、と苦笑しながらひらく。
一件目はあきらかな冷やかしだった。しかし二件目のメッセージは、
──大丈夫?
の一言ではじまっていた。
その言葉が、彩香の胸を貫いた。
誰でもいいからそう言って欲しかった、いたわられたかったのだと、言われてはじめて気づいた。メッセージはさらにつづいていた。
──大丈夫? つらいことでもあった? おれでよかったら、話聞くよ。
彩香は半泣きで返信した。
三、四通やりとりすると、相手が茨城在住の男性であり、自分よりすこし年下であるとわかった。
──車あるし、一時間もあればそっちに着くよ。待ってて。白のロードスターで、目印は黒地に赤いスカルマークのステッカー。
当てにせず待ったが、一時間後、白のマツダロードスターは、ほんとうにマクドナルドの駐車場にあらわれた。
「やさしそうな人に見えました。身長も、わたしとさほど変わらないくらいで……。体の大きな、怖そうな人だったらもっと警戒したと思います。でも、メッセージのやりとりがまともだったし……心が弱っていたせいもあって、信じこんでしまいました」
供述に矛盾はないな、と和井田は思った。
検視された薩摩治郎の遺体は、身長百六十四センチ。童顔で、おとなしそうな容貌の男だった。彩香が
「でもあの家に……竹林の陰の家に着いた途端、あいつは
彩香は「視界の隅で、火花が散るのを見た」と言う。
見たように思った。だがその瞬間には、すべてが遅かった。彩香は気を失い──目が覚めたときには、あの地下室にいた。
「火花はスタンガンだったんだと、目覚めてようやく気がつきました。でも、手首も足首も拘束されていて、逃げられなかった。首には、鎖付きの首輪が……」
だが一番恐ろしかったのは、首輪でも足枷でもなかった。
先住者が、もう一人いたことであった。
「もう一人……?」
和井田は問いかえした。彩香が頰をゆがめる。
「そうです。わたしが来たときは、すでにチイちゃんがいました。でも半分くらい、おかしくなっていた。おかしな方向を見てぶつぶつ言ったり、泣いてばかりだった。それをある日、あの男が『うるさい』と怒りだして、『泣くな。なにが不満なんだ』と、チイちゃんの足首を縛って、逆さに
数秒、彩香は絶句した。
「……どのくらいの時間吊るしていたか、わかりません。あいつは、暗くなっても下ろしてくれなかった。やっと下ろしてもらえたときには、チイちゃんの顔は真っ赤に膨れあがってた。すこし吐いて、……ぐったりして、動かなくなった」
そしてそのまま、二度と動かなかった──。
その言葉を最後に、彩香はパニック状態に陥った。
急いで医師が割って入り、「これ以上は無理です」と、看護師に和井田たちを病室から追い出させた。
和井田はいったん捜査本部に戻り、係長に報告を果たした。
係長は額の汗を拭い、唸るように言った。
「〝もう一人の先住者〟か。こりゃあ、マル害の庭一帯を掘りかえしてみにゃならんな。管理官とも合議の上、
(つづく)
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