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試し読み

笑って泣けて、身も心も温まる『おでん屋ふみ おいしい占いはじめました』第一話試し読み!#1

しらたきを選んだあなた。「複雑に絡み合う――」という暗示が出ています。
「おもしろい女」になり元カレを見返してやろうと、北大塚で深夜のおでん屋を始めた千絵。店の売りとして始めたのは「おでん占い」だった――。


「東京近江寮食堂」「星空病院 キッチン花」シリーズなど、食をモチーフに人生を切り開く男女を描いた作品が人気の渡辺淳子さん。初の角川文庫作品となる本作『おでん屋ふみ おいしい占いはじめました』は、深夜のおでん屋を舞台に、笑って泣ける、おでんのような身も心も温まる話が具だくさんで収録されています。発売直前、刊行を記念して特別に第一話を公開いたします!

『おでん屋ふみ おいしい占いはじめました』第一話試し読み#1

第一話 おでん屋の女将

「いらっしゃいませ」
 店に入って来てすぐに、その男女はアイコンタクトを取った。男性の方が「すんません。やっぱ、おでんの気分じゃなかった」と言い、ふたりしてきびすを返す。声をかける間もなく、出入り口ドアが閉まる。あの人たちはあきらかに、の顔を見て出て行った。
 晩秋、しもつき半ば。時刻は午前一時前。
 今夜も客は訪れない。私のなにが悪いのか。「いらっしゃいませ」のあと「こんばんは」をつけた方がいいのだろうか。つじ千絵はため息を吐く。直後「ため息を吐くと幸せが逃げる」と、子供のころに言われたのを思い出し、慌てて息を吸った。
 LINEの通知音が鳴った。誰だ、こんな夜中に。千絵は白いかつぽうのポケットからスマホを取り出す。
『こんばんは。今夜の調子はどうですか?』
 こい だ。千絵がOLとして日中勤務している社団法人の派遣社員。この店を千絵に紹介してくれた、千絵より十五も若い二十四歳女子である。
『誰も来てくれません』
 カウンター内側、作業台の上に置いたおでんなべのだし汁に沈んでいるイカ天をさいばしつついてみる。これ以上煮ると、練りものの味が抜けてしまうだろう。
『がんばってください!』
 すぐに和歌から返信が来た。彼女は夜中トイレに起きたついでに、冷やかしてやれと思ったか。はたまた遠距離恋愛中の彼氏との長電話を終え、千絵のことを思い出したのか。いずれにしても和歌は、このたくさん余るだろうおでんが、明日あしたの、いや今日のランチで食べられるのを期待しているに違いない。
『がんばります!』
 返信したものの、なにをどうがんばればいいのかわからない。しかもそのメッセージは既読にならない。むなしくスマホをポケットに戻し、千絵はゴボ天とイカ天、さつま揚げ、そしてちくわを、おでん鍋からすべて引き上げ、タッパーに移し替えた。
 午前零時開店の「おでん屋ふみ」を始めて九日目。客は今日までのべ九人。初日に五人、翌日ふたり、五日目にふたり。そのほかの日はゼロだった。だから昨日も一昨日おとといも、うしみつどきから閉店時間の朝五時まで、丸椅子に腰かけ、壁にもたれて眠りこけてしまった。そのうちブランケットを持ちこみ、カウンターの上で横になってしまうかもしれない。
 このままでは「おもしろい女になる」という目標はかなえられそうにない。それどころか貯金は目減りし、精神的にも疲弊するばかりだ。直前、女の一大決心で始めたおでん屋を、むなしくたたむ日も遠くないだろう。
 JRおおつか駅北側。東京はしま区北大塚にこの店はある。狭い敷地に無理したような、六階建ての雑居ビル。その一階で、千絵はおでん屋の女将おかみになった。昼間はOLだから二足のわらじだ。そしてこの店は夜零時に終えたバーを朝まで間借りした、いわゆる二部制だ。
 二足のわらじ。飲食店の第二部。
「よく考えたら、全部二番目だ」
 店内にひとり言が響いた。そう、千絵はつい三か月前まで、セカンドの女だったのである。

「……それ、ふたまたかけてたってこと?」
「二股じゃないよ。でもかおと出会って、話したり食事をしたりしているうちに、ちょっと気持ちが変わってきたっていうか……」
「香里っていうんだ。その人」
 ふたりで来たことのない、パスタのチェーン店で向かい合っていた。ひろたかは別れ話を切り出すのを迷ったのか、いつまでも歩いているうちランチタイムを過ぎてしまい、とりあえず目についた店で手を打ったようだった。
「いつ知り合ったの?」
「……一年、くらい前かな」
 弘孝は食べ終わった自分の皿に残ったミートソースから、目を離さずにこたえた。
「一年。立派な二股だと思うけど」
「違うよ。二股じゃない。これは僕の名誉にかけて断言する。一か月前まで彼女は、あくまでも友だちだった」
 ということは、一か月前になにかあったのだ。千絵は頭に浮かんだ想像を打ち消すため、皿にへばりついたシラスを、再びフォークで取ろうと試みた。
「だから、弘孝くんの、誕生日も、今年の、お正月も、去年の、クリスマスも、前の日とか、次の日とか、違う日に、会うことに、なったわけ?」
 思い起こせばここ一年、恋人たちのイベント日は、もっともらしい理由で会うのを避けられていた。しかし千絵は、四年以上も付き合っているのだから、仕事はもちろん、友人の結婚式、町内会行事、見舞いに出かける親を遠方の病院まで連れて行くことを優先するのは、結婚秒読みと勘違いした。弘孝はひとつ下の三十八歳。ハタチそこそこのカップルとは違う、落ち着いた交際。駄々をこねるのは大人げないと、愚かにも自分に言い聞かせていたのだ。
「私より、その人を、優先、させてたんだね」
 分厚いばかりの上等でない皿が、フォークの先とこすれて嫌な音を立てた。
「そんなつもりはなかったけど……。なんて言ったらいいのか……。つまり……その人は一緒にいると、おもしろい人で……」
「私はおもしろくない人、なんだ」
「そんなことないよ。千絵ちゃんは本当にいい人だし」
 中学生のころ、片想いの相手から「いい人」と称されるのは、「どうでもいい人」の略だと言い合ったけれど、五年近く付き合った男から「いい人」呼ばわりされるのはどうなんだろう。
「千絵ちゃんには、千絵ちゃんのいいところがあるから」
「私はよっぽど、おもしろくない女なんだね」
 弘孝はそのセリフを完全に否定しなかった。そして最後は、「もう指で取れば?」と、オリーブオイルにまみれたシラスと格闘し続ける千絵に、あわれむような目を向けていた。

 出入り口のドアが目に入った。あのドアに最初に手をかけたときは、その重厚さに新しい未来を感じたものだった。しかし今、目の前にあるドアはずいぶんくすんでいる。もしかしたらこのビルの建てられた三十九年前に、取りつけられたままなのかもしれない。
 壁のスイッチに手を伸ばし、店内の電気を全てけてみる。白熱灯でぼんやりしていた店の隅々まで、刺すような光が届く。
 茶色い木製のそのドアは、塗り直したペンキやニスがところどころはげている。最近新調したらしいちようつがいだけピカピカなのが、かえって痛々しい。
 自分と同い年かもしれないドアのありように身震いした。香里という女は、千絵より十も若いらしい。せめて彼女の存在は、自分に知らせないでほしかった。

 翌日も千絵は、多くの人が一日を終えようとするころ、都内で唯一の路面電車、都電あらかわ線大塚駅前駅の細いホームに降り立った。西にしはらにあるひとり暮らしのマンションから、小さなキャリーケースをおともに、JRや地下鉄より少し早い最終電車での出勤だ。
 鼻から息を吐き、帰宅途中のビジネスマンとすれ違う。この時間はもう、サンドイッチマンやキャバクラのお姉さんなどの客引きは、ほとんど見かけない。
 路面電車の線路が緩やかな弧を描いているせいか、JRの駅前ロータリーは面積以上にゆとりを持ち、どこか昭和な雰囲気が漂っている。もちろん高いビルも多いけれど、間にはさまる日本家屋や低層ビルのおかげで、やまのて線のほかの駅周辺と比べて、威圧感が少ない気がする。
 戦前の国鉄大塚駅かいわいは、いけぶくろよりはるかに大きな繁華街だったそうだ。置屋と料理屋と待合、いわゆる三業が許された地で、最盛期には芸者が何百人もいたらしい。今ではすっかりその鳴りを潜めたが、居酒屋の名店がたくさん在するところに、往時の名残がうかがえる。
 道路は駅を中心に放射線状に延び、路地の角を二回曲がれば、元の場所に戻れるところも多い。その三角形の狭い感じは、身を隠す場所を求めて遊んだ子供のころが思い出されて懐かしい。
 いわゆるバーやスナックに行った経験がほとんどなかった千絵は、水商売を始めることへの不安をぬぐえなかった。しかし最初、このすたれた花街に立ったとき、わいざつで雑多なくせに、控え目で不思議な清潔感を漂わせる街のありように、妙な親しみを覚えた。懐の深そうなこの地なら、おくびような千絵でも「おもしろい女」になれるかもしれないと思ったのだ。
 弘孝との別離からたった三か月ほどで、おでん屋開店までこぎつけた。優柔不断な自分には珍しいことだった。怪しげな店に足を踏み入れ、ちょっと癖のあるバーのマスターや大家と交渉し、保健所や税務署におもむき、食器や道具をそろえた。
 大学卒業後、さしてやりがいのない事務仕事に従事し、特別大きな理想も持たなかった千絵がそこまでやったのは、身体を動かすことで気を紛らせたかったのと、落ちこんでいる間にも年を取ると思ったからだ。
 ガラスばりの老舗しにせボクシングジムの前を通りかかると、若い男性がシャドーボクシングの真っ最中だった。細マッチョな身体を見せつけ、短い頭髪からは汗がしたたり落ちている。
 ボクサーの姿に心を奮い立たせた。今夜も客が来ないかと思うと、正直心が折れそうだが、とにかく行かねばならぬ。
 有名なおにぎり屋さんの前の行列を横目に、おでんの入ったキャリーバッグをガラガラと引く。二十四時間営業のマッサージ店のネオンスタンドと、ミャンマー料理店を通り過ぎ、ほどなくイエロービルに到着した。

(続く)

作品紹介



おでん屋ふみ おいしい占いはじめました
著者 渡辺 淳子
定価: 682円(本体620円+税)

しらたきを選んだあなた。「複雑に絡み合う――」という暗示が出ています。
「おもしろい女」になり元カレを見返してやろうと、北大塚で深夜のおでん屋を始めた千絵。しかし客足はイマイチ。ひょんなことから「おでん占い」を売りにして評判になったが、ワケアリ客も集まった! オネエなバーマスター、呑んべのビルオーナー、美容室の元気な母娘――各フロアにも癖のある面々が勢揃い。女将とOLの二足のわらじはいったいどうなる!? 大根、卵、しらたき……アツアツおでんを準備して、今夜も開店!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322009000308/
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