いくら食べてもおなかがすいて、直ぐに倒れてしまう。
原因不明の特殊な虚弱体質のせいで「ふつう」の人生をあきらめていた主人公。
彼女が出会ったのは、唯一おなかを満たす料理を作れる、謎多き美貌の料理人で――。
累計68万部大ヒットシリーズ著者、あさばみゆきさんの最新作は、鎌倉を舞台にした〈ごはん×怪異×年の差契約結婚〉物語!
発売を記念して、カドブンでだけ特別に、各章名シーンを配信いたします。
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いまだ謎多き「夫」頼兼。ご近所の先生を訪ねた小鳥は、思わぬ事実を知る。
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「鎌倉の地名の由来は、一説には、山に囲まれて下一方だけ空いた地形が、『
放課後、唐突に竹山家を訪ねた小鳥を、竹先生は執筆の手を休めて迎えてくれた。
──頼兼さんのお仕事について、竹先生がご存じのことを教えてもらいたいんです。それから「ムクビト」っていうのが何だか分かりますか?
小鳥の質問に答えるため、彼は本棚の前を歩きまわり、目的の本を探してくれてる。
「または、
書斎は古い本の香りでいっぱいだ。
どことなく頼兼の部屋に雰囲気が似てるのは、物がとにかく多いからか。
正座の小鳥は口をぽかんと開け、きっと一生読むこともないだろう、漢字の連なりの背表紙を見回す。
「そうそう。ちょっと怖いのでは、ヤマトタケルが東方に侵攻し、いわゆる
「うわぁ、死体の谷ってことですか……?」
今座ってる、ここが?
ゾゾッとする小鳥に、竹先生は「どの説が正解かは、だれも分からんがね。難しいところだ」とくしゃり笑う。
笑うと、厳しい顔つきが急に優しいおじいちゃんになる。
ミネコさんはこの笑顔のギャップにやられたのかななんて想像しちゃう。
「前にかみくらさんから
「ロ、ロマンですかぁ。私は火葬場みたいだなって、なんか」
茶寮かみくらはつまり、あのキッチンの火で怨霊の怨念をボーボー燃やしてキレイにする──って場所?
ふすまが空いて、ミネコがお盆でお茶を運んできてくれた。
「あなた、やめてくださいよ。若い女の子にそんな怖い話」
「だって、聞きたいってわざわざ訪ねてきてくれたんだよ。おまえはあっち行ってなさいよ。小鳥くん、後でミネコとお茶菓子でも食べてやってくれるかね」
「えっ、私、ごめんなさい。手ぶらで来ちゃったのに」
「そんなのいいのよぅ、小鳥ちゃん。ちょうどさっき、なみへいでタイ焼き買ってきたの。皮がパリッパリでおいしいのよ。冷めないうちに来てね。この人と話してても頭が痛くなるだけよ」
廊下を遠ざかっていくミネコの足音に、小鳥は恥ずかしさに身を縮こめる。
いきなり思い立って寄ってしまったけど、そういえば手ぶらで押しかけて質問なんて、めちゃくちゃ失礼だった。
「老人はたまに若い人と話せると楽しいもんなんだよ。遠慮しないで、いつでも身一つで寄っておくれ。家内は私が小難しい話を始めると、サッといなくなるんだから」
「ありがとうございます……」
先生はぎっちり詰まった本を
神様への供物を専門に説明してるらしい、分厚い本。
「小鳥くんの質問のムクビトというのはね、おそらくコレではないかな」
竹先生が指さしたカラー写真。
「神に捧げる供物のことを、特に
「じゃあ、ただの褒め言葉ですか?」
「ううむ。あんまり褒め言葉に使うような言葉じゃないねぇ。無垢な人だね、とは言うが、無垢人だねと言えば、供物を運ぶ神職のイメージの方が強いだろう? それに、供物に人形自体を含めて、それをやはり『無垢人』と呼ぶ場合もある。その時はむしろ『
生贄。
小鳥は熱いお茶を、ヤケドしそうになりながらゴクリ飲み下した。
「穢れなき者の命を捧げて、神を呼び下ろしたり加護を祈ったりとは、太古から世界で行われてきたことだ。無垢人は、おそらくは荒ぶる鬼神を鎮めるために捧げる生贄。もしくはその代理の人形──というところではないかな」
なるほどとうなずいた顔がこわばってしまった。
竹先生は本を小鳥の手にのせてくれる。
写真には、その無垢人人形が静穏な表情でたたずんでいる。
「かみくらさんが言ってたのは、供物を運ぶ係か、または生贄を指すのか、どっちだろうねぇ。彼はどんな文脈でこの言葉を使っていたんだい?」
「あ~~……。どんな流れだったっけな。すみません、ちゃんと思い出せなくて」
「いいや、かみくらさんはもともと、核心をボカす話し方をする人だからね」
──小鳥さんは、僕の大事なムクビトですからね。
頼兼の声を頭に再生する。
大事な供物運び係ですから。
それとも、大事な生贄ですから?
小鳥は供物を神様に、夜ノ人に運んだ心当たりはない。
なら、後者? 小鳥自体が……供物。
【中略】
小鳥は回遊魚の群れみたいな人波に押し流されて、堤防沿いの道に出た。
「うわっ、すげぇ! 真っ赤じゃん! きったねぇ~っ」
先を行く小学生男子たちの叫び声につられて海を見やると、本当だ、波が真っ赤だ!
夕陽に染まってるワケじゃない。赤い絵の具を溶かしこんだような濁った被膜が、海一面を覆ってる。
「赤潮だ」
ニュースで時々見る。プランクトンが大量発生して海を汚すヤツだ。
引き潮で広くなった砂浜にまで、赤のなごりが水たまりを作ってる。
それに──、
「ほんとにいたぞ! あそこ!」
「カメラカメラ! ってか
浜辺へ駆けおりていく子供たちに続き、小鳥も堤防に立った。
見下ろす真っ赤な波打ちぎわに、大きな黒いものが横たわってる。巨大な丸太でも流れついたのかと思ったけど……。
赤い波に洗われて、もうぴくりとも動かないソレ。
──クジラか。
物見遊山の人たちが集まってきて、周りにポールを立てられてる。
たぶん五メートルはあるだろう。クジラってこんなに大きいんだ。
もう腐りはじめてるのか、鼻を突くニオイが漂ってきた。
水族館か博物館のスタッフらしき人が、がぱっと開いた大きな口の前にしゃがみこみ、何か紙に書きこんでる。
「これでまだ子供らしいわよ。大きいわねぇ」
「迷子になっちゃったのかしら。かわいそうだわ」
小鳥の隣から、おばさんたちの会話が耳に入ってくる。
──前浜は、竈の火焚き口。そこに迷い込んできた巨大なシカバネ。
クジラが自分から焼かれに来たように見えて、小鳥は
ローファーの足もとをフナムシが通りすぎ、岩の間に隠れた。夕焼けの空にはとんびが円を描いてる。生き物たちが
打ち寄せる血の色の海が、離れた堤防の上までじわじわと迫ってくる幻覚に、小鳥はふらりよろめいた。
ここにいちゃいけない気がする。
(帰らなきゃ。かみくらに)
スカートのポケットの中、金平糖の瓶をにぎりこむ。
『……おいしそう』
とうとつに真下から響いた、子供の声!
ビックリした。浜辺に、いつの間にか勇魚が立っていた。
「な、なにっ。驚かせないでよ。勇魚、いつからいたの」
怒ってみせてから
勇魚の顔が、変だ。
昨日はもっと斜に構えた気の強そうな顔だったと思う。
でも今、夕陽に照らされる彼は、眉を下げ、くりくりした
「勇魚……?」
彼はこっちに下りておいでよと言うように、小鳥に手を伸ばした。
なんの気なしに、その手を取って下に飛びおりようとして。
(ダメだ。浜には行くなって)
境界線の堤防の上で、動きを止めた。
瞬間、大きな影が小鳥の上を覆った。
勇魚の足もとから不自然に伸びた、巨大な影。
それが堤防の白いタイルを
影に
勇魚の顔が堤防のむこうに見えなくなる。
エサ。
信号の赤いランプが頭の中で明滅する。
堤防のタイルのふちに、ぺたり、小さな手。
何かを探るような手の動き。小鳥を探してる。
「い、勇魚?」
ぺたり、もう片方の手も。こっちに上ってこようとしてる。
──気づいたら、駆けだしてた。
リュックが背中ではずむ。
クジラを見に来た人たちの波に逆らい、肩がぶつかったのを謝りながら、全力で駆けぬける。後ろを向いちゃいけない。わかんないけど、そんな気がする。
だいじょうぶ、かみくらまで走れば五分。金平糖も持ってる。
なまぬるくなったタイ焼きが、駆ける
「ああ、小鳥さん。今日はずいぶん遅かったですね。心配してました」
かみくらののれんの下、まるで小鳥が帰ってくるタイミングを計ったように、頼兼が顔を出した。
「どうしたんです、血相変えて」
彼が身をかがめて
もう大丈夫だ……!
「あ、あのね」
勇魚が大変なことになってる! あのコを助けてあげて!
もうちょっと呼吸が落ちついたら声を出せそうだ。早くっ、早く!
「あ。小鳥さん、あのイヤリングですね」
鼻の先で頼兼がにっこり笑う。
小鳥は耳たぶを指で覆った。
うれしくて、浮かれてつけていったオカメインコ。
思い出した。
この人、前のイヤリングを片方、菜摘に渡したとき。
──釣れそうだったので。
そう言ってた。
あの時は意味の分からないまま流されてしまったけど。
彼女に
つまりそれは、
「釣れそうって──、あれ、私をエサにしてオカメを釣ったってこと?」
「小鳥さん?」
必死な色に気づいたのか、彼は長身をかがめたまま不思議そうに首をかしげる。
「私が
しゃべりながら、頭の中のもやもやしていたモノが形を作っていく。
彼がなんの見返りもなく小鳥をかみくらに置いて、三食まかなってくれる理由。
夫婦としての愛情なんてもちろんなく、料理以外に興味のない彼が、小鳥の体調をマメに気にかけてくれた理由。
優しい笑顔、優しい言動で、だけど時々、小鳥を
小鳥は目の前の「
頼兼は体を持ち上げ、まっすぐに立ち直す。
夕陽に雲がかかった。彼の表情が見えづらくなる。
「私は、エサなんかじゃないよね?」
頼兼さんにとっての、私は。
なに言ってんですかって笑い飛ばしてくれるよね?
必死の形相の小鳥に、彼はきょとんとした後で、ふはっと笑った。
「急に深刻になるから驚きましたよ」
「あ、えと」
大きく息を吸って肺がいっぱいになった。
(やっぱ考えすぎだった)
まとめて息を吐きだしたとたん、小鳥の頰にも笑みが浮かんでくる。
へへ、と笑ったところで、
「当然そうですよ。無垢人は最高の
(このつづきは本書でお楽しみください)
▼あさばみゆき『茶寮かみくらの偽花嫁』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
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