東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇蹟』
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全世界累計1300万部突破のベストセラーが読めるのはここだけ! 東野圭吾“最初で最後かもしれない”電子書籍化記念!『ナミヤ雑貨店の奇蹟』第一章「回答は牛乳箱に」試し読み#2
これまで著書の電子化をしてこなかった東野圭吾氏が、ついに電子書籍の配信をスタートすることになりました。それに合わせてカドブンでは、記録的ベストセラーとなった『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の第一章をまるごと試し読み公開します!
>>前話を読む
◆ ◆ ◆
『初めて御相談いたします。私は、月のウサギという者です。性別は女です。わけあって本名を明かせないことをお許しください。
じつは私は、あるスポーツをやっております。申し訳ないのですが、種目も明かすわけにはいきません。といいますのは、自分でいうのもおこがましいのですが、それなりの実績がありまして、来年行われるオリンピックの代表候補になっております。つまり種目を明かせば、ある程度、人物が特定できてしまうのです。そして私の相談事というのは、自分がオリンピックの代表候補であることを伏せたままでは打ち明けられない内容なのです。どうか御理解ください。
私には愛する男性がいます。彼は私の最大の理解者であり、協力者であり、応援者です。私がオリンピックに出ることを心の底から望んでいます。そのためなら、どんな犠牲を払ってもかまわないとまでいってくれます。実際、物質的にも精神的にも、数えきれないほど助けられました。彼のそんな献身があったからこそ、私も今までがんばってこられたのです。苦しい練習にも耐えられました。オリンピックの舞台に立つことこそが、彼への恩返しだと思ってきました。
ところが、そんな私たちに悪夢のような出来事が起きました。突然、彼が倒れたのです。病名を聞き、目の前が真っ暗になりました。
治癒の見込みは
彼は病床から、自分のことは気にせず、競技に打ち込んでほしいといいます。今が大切な時期だから、と。実際その通りで、強化合宿や海外遠征の予定がたくさん入っています。代表に選ばれるためには、今、がんばらねばならないのです。そのことは頭ではわかっています。
でも私の中にある、競技者とは違うもう一人の自分は、彼と一緒にいることを望んでいます。練習などは放棄して、彼のそばにいて、彼の看病をしたいと思っています。事実、オリンピック出場を断念することを彼に提案したこともあります。しかしその時の彼の悲しそうな顔は、今思い出しても涙が出そうになるほどのものでした。そんなことは考えないでくれ、君がオリンピックに出ることが僕の最大の夢なのだから、どうかそれを取り上げないでくれ、と訴えてきました。何があっても、オリンピックという舞台に君が立つまでは死なない。だからがんばると約束してくれといわれました。
彼の真の病名については、周囲には隠しています。オリンピックが終われば結婚する予定なのですが、どちらの家族にも話していません。
どうすればいいのかわからぬまま、日々を過ごしています。練習をしていても、まるで気持ちを集中させられず、当然のことながら成果も上がりません。こんなことをしているぐらいなら、すぱっと競技をやめたほうがいいのではないか、という考えが頭をもたげてきますが、彼の悲しそうな顔を思い出すと、とても踏み切れません。
一人で悩んでいた時、たまたまナミヤ雑貨店さんの噂を聞きました。もしかすると何か名案を授けていただけるのではないかと
返信用の封筒を同封しておきます。どうかお助けくださいませ。
月のウサギ』
2
手紙を読み終え、三人で顔を見合わせた。
「何だ、これ」最初に声を発したのは翔太だった。「なんで、こんな手紙を投げ込んできたんだ」
「悩んでるからだろ」幸平がいった。「そう書いてある」
「それはわかってるよ。どうして悩み相談の手紙を、雑貨屋に放り込むんだといってるんだ。しかも、誰も住んでいないつぶれた雑貨屋に」
「そんなこと、俺に訊かれたってわかんないよ」
「幸平になんか訊いてねえよ。ただ疑問をいっただけだ。何だ、これって」
二人のやりとりを聞き流し、敦也は封筒の中を覗いた。折り畳んだ封筒が入っていて、宛名のところに、『月のウサギ』とサインペンで記してあった。
「どういうことだろうな」ようやく彼も言葉を発した。「凝った
「どこかと間違えたんじゃないか」翔太がいった。「どこかにさ、悩み相談に乗ってくれる雑貨屋があって、そこと間違えたんだよ、きっと」
敦也は懐中電灯を取り、立ち上がった。「確かめてくる」
裏の勝手口から外に出て、店の前に回った。懐中電灯で、汚れた看板を照らした。
目を凝らす。ペンキが
屋内に戻り、そのことを二人に話した。
「じゃあ、やっぱりこの店なのか。こんな廃屋に手紙を投げ込んで、まともに答えが返ってくると思うかねえ、ふつう」翔太が首を傾げた。
「ナミヤ違いとか」そういったのは幸平だ。「どこかに本物のナミヤ雑貨店があって、名前が同じだから間違えたんじゃないか」
「いや、それはありえない。あの看板の薄い文字は、ナミヤだと思って読まなきゃ読めない。それよりも……」敦也は先程の週刊誌を取り出した。「どこかで見たような気がするんだよな」
「見たって?」翔太が訊く。
「『ナミヤ』っていう文字だ。たしか、この週刊誌に載ってたんじゃなかったかな」
「えっ」
敦也は週刊誌の目次を開いた。さっと視線を走らせる。すぐに目が一箇所で止まった。
その記事は、『大評判! ナヤミ解決の雑貨店』というものだった。
「これだ。ナミヤじゃなくてナヤミだけど……」
ページを開いた。そこに載っていたのは、次のような記事だった。
『どんな悩みも解決してくれる雑貨店が評判だ。
「きっかけは近所の子供たちとの口げんか。店のことを、ナヤミ、ナヤミとわざと間違えるんです。看板に、お取り寄せもできます、御相談ください、と書いてあるものですから、
どんな悩みが多いですかと尋ねたところ、圧倒的に多いのが恋の悩みらしい。
「でもじつは、それに答えるのが一番苦手なんですよねえ」と浪矢さん。それが御自身のナヤミらしい。』
記事には小さな写真が付いていた。そこに写っているのは、間違いなくこの店だった。小柄な老人が、その前に立っている。
「この週刊誌が残ってたのは、たまたまじゃなくて、わざと残してあったんだな。自分ちのことが載ってるから。いや、それにしても──」驚いたな、と敦也は
翔太が
「噂を聞きましたって書いてある。ナミヤ雑貨店さんの噂をって。これを読むかぎりだと、最近聞いたって感じだ。ていうことは、まだそういう噂が残ってるのかな」
敦也は腕組みをした。「そうなのかもしれない。考えにくいけど」
「ぼけた年寄りから話を聞いたんじゃないか」幸平がいった。「その年寄りは、ナミヤ雑貨店がこんなふうになってることを知らないで、ウサギさんにそんな話をしたんだよ」
「いや、仮にそうだとしたら、この家を見た時点で、おかしいと気づくはずだ。誰も住んでないことは明らかだからな」
「じゃあ、ウサギさんの頭がおかしいんだ。悩みすぎて、ノイローゼになってるんだ」
敦也は首を振った。「頭のおかしい人間の書いた文章じゃないと思うけどな」
「だったら、どういうことなんだよ」
「だからそれを考えてるんだろうが」
すると翔太が、「もしかしてっ」と声を上げた。「まだ続いてるんじゃないの?」
敦也は翔太を見た。「何が?」
「だから、悩み相談が。ここで」
「ここで? どういう意味だ」
「今、ここには誰も住んでないけど、悩み相談の受付だけはしているんじゃないかってこと。爺さんはどこか別の場所に住んでて、時々手紙の回収にやってくる。で、回答は、裏の牛乳箱に入れておく。それなら筋が通る」
「たしかに話は通るけど、その場合、爺さんはまだ生きてるってことになる。とっくに百十歳を越えてるぜ」
「代替わりしてるんじゃないの」
「だけど、人が出入りした形跡なんて全くないぞ」
「家の中には入ってないんだよ。シャッターを開ければ、手紙は回収できる」
翔太の話は、
くそっ、と翔太は吐き捨てた。「一体どういうことだよ」
三人は和室に戻った。敦也は改めて『月のウサギ』からの手紙を読んだ。
「なあ、どうする?」翔太が敦也に
「まあ、気にする必要はないんじゃないか。朝になれば、どうせ出ていくわけだし」敦也は手紙を封筒に戻し、畳の上に置いた。
沈黙が少し続いた。風の音が聞こえる。
「この人、どうするのかな」幸平が、ぽつりといった。
「何が?」敦也は訊いた。
だから、といって幸平は続けた。「オリンピックだよ。
さあな、と敦也は首を振った。
「そういうわけにもいかないんじゃないか」そういったのは翔太だ。「だって恋人は、この人がオリンピックに出ることを望んでるわけだし」
「でもさ、好きな人が病気で死にそうなんだろ。そんな時に練習なんてやってられないよ。一緒にいたほうがいいよ。恋人だって、本当はそう思ってるんじゃないかな」幸平が珍しく強気の口調で反論した。
「俺はそんなことないと思うな。恋人は彼女の晴れ姿が見たくて病気と闘ってるんだ。せめてその日までは生き延びようとがんばってるんだと思う。それなのに彼女がオリンピックを捨てたら、もう生きる気力がなくなっちまうじゃないか」
「でもさ、ここにも書いてあるけど、何をするにも上の空だと思うんだ。そんなんじゃ、結局、オリンピックには出られないよ。恋人と会えなくて、挙げ句に願いも
「だから死ぬ気でがんばらなきゃいけないわけだよ、この人は。あれこれ悩んでる場合じゃないんだ。恋人のためにも、必死に練習して、何としてでもオリンピック出場を勝ち取る、それしか残されていないわけよ」
えー、と幸平は顔を
「おまえにやれといってるわけじゃねえよ。このウサギさんにいってるんだ」
「いやあ、俺、自分にできないことを人にやれとはいえないんだよね。翔太は自分だったらどう? できる?」
幸平に問われ、翔太は返答に窮したようだ。
敦也は二人の顔を交互に眺めた。
「おまえら、何を真剣に語り合ってんの? そんなこと、俺たちが考える必要ないだろ」
「じゃあ、この手紙はどうするわけ?」幸平が訊く。
「どうするって……どうしようもねえよ」
「でも何か返事を書かないと。放ってはおけないよ」
「はあ?」敦也は幸平の丸い顔を見返した。「返事、書く気かよ」
幸平は頷いた。
「書いたほうがいいんじゃないの。だって、勝手に手紙を開けちゃったわけだし」
「何いってんだ。ここには本来、誰もいないんだぜ。そんなところに手紙なんかを投げ込むほうが悪いんだ。返事がなくて当たり前なんだよ。翔太だって、そう思うだろ?」
翔太は
「だろ? ほっときゃいいんだよ。余計なことはするな」
敦也は店へ行き、障子紙のロールをいくつか持ってくると、それを二人に渡した。
「ほら、これを敷いて寝ろ」
サンキューと翔太はいい、幸平はありがとうといって受け取った。
敦也は障子紙を畳の上に広げ、慎重に横になった。目を閉じて眠ろうとしたが、二人が動く気配がないことが気になり、目を開けて顔を起こした。
二人は障子紙を抱えたままで、
「連れていけないかな」幸平が呟いた。
(つづく)
あらすじ
悪事を働いた3人が逃げ込んだ古い家。そこはかつて悩み相談を請け負っていた雑貨店だった。廃業しているはずの店内に、突然シャッターの郵便口から悩み相談の手紙が落ちてきた。時空を超えて過去から投函されたのか? 3人は戸惑いながらも当時の店主に代わって返事を書くが……。悩める人々を救ってきた雑貨店は、再び奇蹟を起こせるか!?
著者 東野圭吾(ひがしの けいご)
1958年、大阪府生まれ。大阪府立大学電気工学科卒業後、生産技術エンジニアとして会社勤めの傍ら、ミステリーを執筆。1985年『放課後』(講談社)で第31回江戸川乱歩賞を受賞、専業作家に。1999年『秘密』(文藝春秋)で第52回日本推理作家協会賞、2006年『容疑者χの献身』(文藝春秋)で第134回直木賞、第6回本格ミステリ大賞、2012年『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(KADOKAWA)で第7回中央公論文芸賞、2013年『夢幻花』(PHP研究所)で第26回柴田錬三郎賞、2014年『祈りの幕が下りる時』(講談社)で第48回吉川英治文学賞、さらに国内外の出版文化への貢献を評価され第1回野間出版文化賞を受賞。
書誌情報
発売日:2014年11月22日
定価:本体680円+税
体裁:文庫版
頁数:416頁
発行:株式会社KADOKAWA
公式書誌ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/321308000162/