扉を開けると、肉とトマトの香りがキッチンに溢れた。
「お待たせー。誠太特製の煮込みハンバーグでーす」
器の中ではトマトソースがぐつぐつ音を立てている。ハンバーグにはほどよく焦げ色がついていた。
「あ、これこれ」
「これを食べないと、
「だよね」
その隣に座る
とはいえ、衿子は明朝に打ち合わせが入ったらしく、今日はジンジャーエールで我慢している。私も排卵日が近いと診断された一昨日の朝にセックスをして、フーナーテストを受けたばかりだ。運動精子が多数確認できたと言われたから、今まさに、受精しているかもしれない。私たち夫婦が不妊治療をしていることは、両親と妹しか知らない。杏奈と衿子には、鼻炎薬を飲んじゃったから、とごまかして、炭酸水を飲んでいた。
「わあ、美味しそう」
杏奈がさっそく煮込みハンバーグを口に運んだ。吹き冷ましが足らなかったらしく、熱っ、と顔に
「ありがとう。あー、熱かったあ。それで、辻原さんは今日もカメラ屋さん巡り?」
「ううん。今日は映画館に行くって」
「へえ。なにを観るって?」
「タイトルまでは聞いてない。ただ映画を観て、街をぶらぶらしようかなって言ってた」
私たちがこの部屋を占領しているあいだ、誠太は外に出ていてくれる。自分がいないほうが気兼ねなく話せるだろうと配慮しているのだ。私は誠太が集まりに加わろうと、あるいは寝室に閉じこもろうと、まったく気にならない。けれども誠太は、必ず外出することを選んだ。
「さすがは愛妻家フォトグラファー。本当によくできた
衿子のしみじみとした口調に、杏奈も、
「まさか辻原さんが、こんなに
と
「二人が付き合い始めたって最初に聞いたときは、志織が辻原さんのどういうところに
「突然だったもんね」
杏奈が頷く。ホールとキッチンで持ち場は違ったけれど、誠太もかつては同じ居酒屋のバイト仲間だった。だから、二人は彼の人となりを知っている。衿子はデパ地下で買ってきたという、セロリとグレープフルーツのサラダを自分の取り皿によそった。
「ホールの輝ける星だった志織と、キッチンでまったく存在感のなかった辻原さん。二人が結婚するなんて、予想もしてなかったよ」
「輝ける星なんかじゃないよ。レジの打ち間違えが多くて、店長からレジ禁止令が出たこともあるんだから」
「そういうことじゃなくて、あのころの志織の人気はすごかったよねっていう話。一晩で五人の客から携帯番号を渡されたり、映画館や美術館のペアチケットを押しつけられたり。あ、お金は払うから、志織を自分の席につけてほしいって店長に頼んだ客もいなかった?」
「いた……けど。それは、私の愛想がよかっただけで──」
「お客さんだけじゃなくて、王子も志織にめろめろだったもんねえ」
杏奈は含みのある笑顔で言うと、グラスの赤ワインを飲んだ。乾杯前は、一人で飲んでもつまんない、と嘆いていたのに、いざ会が始まると、普段と同じペースでワインを手酌している。三人の中では、杏奈がもっとも飲みっぷりがいい。垂れ気味の彼女の目の縁は、早くも赤らんでいた。
「王子もすごかったよね。彼がしょっちゅう友だちと飲みに来てたのって、志織の顔を見るためだったんでしょう? 高そうな服しか着てこないから、トヨ丸の店内で超浮いてたよね。王子とホールの男連中がいつの間にか仲良くなってたときには驚いたなあ。
衿子が天井を仰いで
「衿子は誠太に存在感がなかったって言うけど」
私は話の方向性をさりげなく切り替えた。
「それは、衿子が誠太のことを気にしてなかったからじゃない?」
「そこは否定しないよ。でも志織だって、辻原さんと普通に話すようになったの、大学四年の秋くらいからだったよね? 一緒に働いてた期間は長かったのに」
「んー、話す機会がなかったときも、存在感がないとは思わなかったよ」
むしろ、同い年とは思えない誠太の落ち着きに、一体どういう人なのだろうと淡い好奇心は覚えていた。群馬出身で、東京の大学に通うために上京したらしいことは人づてに聞いていたけれど、内面が一向に見えてこない。でも、他人と積極的に関わろうとしない彼の態度にこちらから話しかけるのも悪いような気がして、衿子の言うように、
杏奈と衿子が誠太をやんわり見下していることは分かっているから、二人が遊びに来るときは、誠太に手料理を用意してほしいとお願いする。ここ数回は、煮込みハンバーグを仕込んでくれることが多い。今、私の幸福は誠太によってもたらされていることを、二人にそれとなく伝えたかった。杏奈も衿子も結婚していないから、頭に浮かぶまま彼のことを話しても、自慢や当てつけになりにくかった。
「ではここで、お二人の
杏奈がマイクのように握った
「とにかく話しやすかったんです。彼と一緒にいるとすごく楽で、少しずつ恋愛対象として意識するようになりました」
いつものように、本当のきっかけには触れずに答えた。あの日のやり取りや、付き合う前に一度出かけたときのことは、友だちにも教えたくない。初めてちゃんと喋ったとき、私は自分が健太朗と別れたかった本当の理由を理解した。誠太のおかげで、自分が恋人に求めるものは、整った外見でも洗練された物腰でもなく、居心地のよさだと知ったのだ。
「我々の送別会の日になにかあったらしいと、一部関係者のあいだでは
「誰なの、その一部関係者って。ええっ、これも話すの?」
「はい。改めて志織さんの口からお願いします」
杏奈がさらに箸を突き出す。私は
「私がトイレに行って戻ってきたら、店長がビールのジョッキをひっくり返して、座敷が大騒ぎになっていたんです。畳を
雨に
「泣き顔を見て恋に落ちただなんて、志織は意外とサドっ気があるのかな」
「だったら、辻原さんはマゾ?」
衿子の言葉に、杏奈がハンバーグのおかわりを盛りつけながら小首を傾げる。
「そんなことないって。私たちは、どこにでもいる普通の夫婦だよ」
子どもがなかなかできないこと以外は、と胸中で付け足した。事実、私と誠太のセックスは至って穏やかだ。誠太の前に付き合っていた、健太朗を含む四人の元恋人とのほうが、いろんなことを試したような気がする。誠太は私と恋人になって半年が過ぎても、キス以上のことをしようとしなかった。誠太に経験がないのは分かっていたから、彼のペースに任せようと
初体験が済んだあとは、誠太からも誘うようになった。タイミング法のために日にちを指定して、気乗りしない態度を取られたことも一度もない。彼の手つきはいまだに丁寧で、挿入の前には驚くほど真剣に私の同意を得る。いつだったか、二人でくつろいでいたときに、強制性交事件のニュースがテレビに流れたことがあった。飲みものにレイプドラッグを混入し、被害者の意識を失わせて犯行に及んだという加害者の手口に、誠太は震える手でチャンネルを替えていた。彼にとって、もっとも許せない性質の事件だったのだろう。
「普通の夫婦ってどういうこと? あのね、志織。普通っていう考え方は、普通を信じたい人の中にしかないんだよ」
衿子の声には微妙なざらつきがあった。なにが彼女の気に障ったのか分からないまま、ごめんね、と反射的に謝る。私は父親の仕事の都合で、六歳から十二歳までアメリカに暮らしていた。日本人学校に通っていたから、英語はたいして喋れるようにならなかったけれど、帰国後、中学校の英語教師に気に入られ、問われるままアメリカのことを話すうちに、クラスの一部から猛烈に嫌われていた。アメリカに滞在していたときの日本の流行りを知らない疎外感も大きく、三年間を通じて、楽しかった思い出は一切ない。高校は、同窓生が受験しないことを第一条件に、家から離れたところに進んだ。
それからは、人に受け入れられることを第一に心がけた。自己啓発本やハウツー本を読み
その努力の方向性は正しかったようで、高校から大学にかけて、私はたくさんの友だちに恵まれた。もう大丈夫。あのころのような地獄には、二度と戻らない。けれど、いくら自分にそう言い聞かせても、印象を損ねることに対する恐怖心はゼロにならなかった。相手の私を見る目が変わるかもしれないことが嫌で、中学時代のことは誠太以外の誰にも話さなかった。
「っていうか、サドとかマゾとかって、相手によっても変わらない? あのね、私、最近年下の友だちができたんだけど、その子がすんごくかわいくって」
んふふ、と杏奈が笑い声を漏らした。雰囲気を和ませるために話題を変えてくれたのかと思ったけれど、このやに下がった表情は、たぶん、自分が喋りたかっただけだ。だからこそ、私は
「年下って、いくつの人なの?」
「なにしてる人?」
衿子も興味を引かれたようだ。
「二十四歳の美容師さん」
「えーっ、十歳も下なの? 大丈夫? とりあえず、お金は貸さないようにね」
「衿子ったら、大丈夫だよう」
杏奈が膨れる。それからは、彼女の新しい交友関係の話題で盛り上がった。杏奈は特定の恋人がいないときには、セックスありの男友だちと遊んでいる。結婚にも子どもにも興味なし、と常々公言していた。今、就いている美容部員の仕事と自由な生活を、死ぬまで続けたいらしい。
「あー、こういう話をしていると飲みたくなっちゃう」
「だね」
衿子と顔を見合わせて笑った。バイトを辞めてから十二年が経ってもこうして会えるのは、とことんマイペースな杏奈と、言葉はきつくても情に厚い衿子、場の空気を読むことには
杏奈がワインボトルを
「飲みなよお。一杯くらいなら、仕事も薬も平気だよ」
と、まだジンジャーエールが残っているグラスに手を伸ばした。だめだって、と断る衿子と押し問答が始まる。杏奈は本格的に酔っ払っているようだ。次はきっと、私に回ってくる。穏便に断るための方便を探して頭を巡らせつつ、先手を打って、自分のグラスを炭酸水でいっぱいにした。
「あー、待って。今、本当の理由を言うからっ」
杏奈から逃げるためにグラスを上に掲げて、衿子が叫んだ。
「なに?」
「どうしたの?」
嫌な予感がした。
「私、妊娠した」
意識が天井近くまで上がっていくような、視界が
「ええっ、そうだったの? 今、何ヶ月?」
「もうすぐ三ヶ月。でも、分かったばかりだよ。私もびっくりしちゃった。安定期に入るまで親にも言わないつもりだったんだけど、杏奈が飲ませようとするから……」
「そんなの、知ってたら勧めなかったよう。あっ、もしかして志織も?」
「体調は平気なの? つわりとか」
顔が引き
「超元気。私の母親もつわりがなかったみたいだから、遺伝かもね」
「婚姻届はいつ出すの?
杏奈が尋ねる。後藤さんは銀行員で、今は広島に住んでいる衿子の恋人だ。このマンションのローンを組むときには相談に乗ってくれた。よく日に焼けた、がたいのいい人で、誠太となにからなにまで正反対だな、と感じたことを思い出した。
「喜んではいる。ただ、婚姻届は分からない。出さないかもしれない」
「えっ」
私と杏奈は短く目配せを交わした。普通の夫婦ってどういうこと? と私を
「彼が、婚姻制度は現代社会に合わないと思うって言い出して……。銀行なんて、古い体質の業界なのにね。でも、私も
衿子はアパレル企業に勤めていたころの同僚と共同で、オンラインショップを経営している。苗字が変わると、名義変更が大変なのだろう。衿子の発言を理解しようとすればするほど、望んで授かった子どもではないのか、という考えに行き当たる。だめだ、今、そこを掘り下げてはいけない。私は笑顔を作り直した。
「後藤さんの言うとおりかもね。フランスは、子どもの半数以上が婚外子だって聞くよ」
「だよね。パートナーとして支え合えれば、形なんてどうでもいいよね」
衿子はひとつ頷くと、
「とにかく、こういう状況です。杏奈も志織も、子どもが生まれたあとも遊ぼうね。遊んでね」
「もちろんだよ」
そう答える以外に、私に選択肢はない。画像と共に送られてくる〈生まれました!〉のメッセージや、出産祝いに選ぶ、柔らかな配色のスタイやラトル、ある日突然届く内祝いのタオルに、赤ちゃんの写真がプリントされた年賀状。それらがつむじ風のように脳裏を回った。
「早く衿子の赤ちゃんを抱っこしたいなあ。ねえ、志織のところは、まだ子どもは考えてないの? 前に
杏奈の声音は、どこまでも無邪気だった。
「うちは、本当にどっちでもいいって感じなんだ。できても、できなくても」
「今、妊娠したら、衿子のところと同じ学年の赤ちゃんになるんじゃない?」
「あー、私の予定日が来年の一月だから、志織が今すぐ妊活を始めても、タイミングによっては四月になっちゃうかも」
「でも、予定日より早く産まれることも普通にあるよねえ? 私も三週間くらい早かったって、お母さんが言ってたよ」
妊娠週数の計算は独特だ。最終月経の初日をゼロ日目にすると決まっている。一昨日のタイミング法で妊娠していたら、出産予定日は来年二月になるはず。私は無意識のうちに計算していた。
「そう……だね」
「学年が同じにならなくても、月齢の近い子どもを志織と一緒に育てられたら楽しそう」
私を見つめて衿子が微笑む。衿子の目は、色素がこんなに薄かっただろうか。ふと疑問に感じたけれど、今までの彼女の
「絶対に楽しいよ」
精いっぱいにこやかに応えると、私はグラスを満たす炭酸水を飲み干した。
十二日後、生理が来た。
そのとき、私は仕事中だった。海外のサイトを翻訳していて、パソコンにインストールしている辞書ソフトの訳では、どうにもしっくりこない英単語にぶつかっていた。今度は紙で引こうと、本棚に並ぶ辞書のうちの一冊に手を伸ばした次の瞬間だった。身体が熱い液体を絞り出す感覚に襲われると同時に、下着が陰部に貼りつくような感触を抱いた。
どうか違いますように、気のせいでありますように。
トイレに向かいながら、必死に祈った。もしかしたら、三十四年の人生で、これほど強くなにかを願ったことはなかったかもしれない。私を
息を止めて下着を下ろす。赤い染みがついている。視界が揺れて、なんで、という気持ちと、ほらね、という思いが間欠泉のように噴き出した。赤がにじむ。涙が落ちる。着古したルームワンピースに
独身の衿子は、できたのに。
汚れた下着を
〈せいりきた〉
絵文字もスタンプもつけずに、これだけを誠太のLINEに送った。枕に顔を
なのに、今月も祈りは通じなかった。寝返りを打ち、ベッドに大の字になった。体温計に表示された数字を信じたくなくて、測定ミスだと思いたくて、自分の気をそらすために朝から仕事をしていた。パソコンが
どうして私のところには赤ちゃんが来ないのだろう。
カフェインはなるべく避けて、妊活中の摂取が勧められているサプリを飲んでいる。締め切り直前を除いて、睡眠時間や食事の内容にも気を遣っているし、妊娠判定待ちのあいだは、当然、お酒は一滴も飲まない。飲食店に入るときも、完全禁煙のところを選ぶようにしている。夏場でも靴下は常に装着。運動不足にならないよう、意識的に散歩もしていた。
それでも妊娠しない。検査薬に、陽性判定線がうっすらと見えたことすらない。
両脚を大きく開かれる、内診の気恥ずかしさ。採血や、抗体が切れていたワクチンの再接種のために、苦手な注射も数え切れないほど打った。お
あれらを経ないで妊娠できる身体が
空っぽの下腹部に手を当て、瞼を閉じる。分かっている。年齢のことを考えたら、前のクリニックで人工授精に取り組んだことを今の医師に伝えて、一日も早く治療をステップアップしたほうがいい。でも、人工授精を五、六回受けて結果が出なければ、次は体外受精だ。金銭的、肉体的な負担が
衿子は、なにもしなくてもできたのに。
また視界がにじむ。目尻を伝い、涙がこめかみを流れる。
夫婦間の相性みたいなこともあるかもしれませんね、と前のクリニックで私を担当していた医師は言った。四十代後半くらいの、髪がやけに黒々した男だった。二度目の人工授精が失敗に終わったあと、原因は本当に分からないんでしょうか? と食い下がる私に、原因不明不妊というのは、現時点の医学では要因を特定できないという意味でしかないんです、と彼は以前と同じ説明を繰り返した。例えば、と検査方法が確立されていない事柄をいくつか挙げたあとで、否定する医者もいますけど、と彼がどこか投げやりな態度で付け足したのが、卵子と精子の相性に関する話だった。誠太は私の隣で押し黙っていた。
子どもたちの声が遠くから聞こえてくる。スマホで時間を確認すると、ちょうど小学校の下校時刻のようだ。楽しそうな声にしばらく耳を傾けて、それからスマホの検索窓に〈妊娠ジンクス〉と入力した。坊主頭のおじさんのイラストをタップする。ホクロかイボか、おじさんの顔には茶色の点がみっつあり、耳たぶは肩につくほど長い。この画像をスマホの待ち受けに設定すると、子宝に恵まれるというジンクスがあるそうだ。
突然画面が切り替わった。誠太の名前が表示され、
「もしもし? 誠太?」
「志織? 大丈夫?」
「……大丈夫じゃない」
「あっ、そうだよね。ごめん」
外に出たついでに電話をくれたようだ。言葉に詰まった誠太の背後から、呼び込みの声が聞こえた。乗り換え、契約、今だけ半額。回線サービスの代理店だろうか。今、私たちは違う場所にいるんだな、と当たり前のことを感じた。毎晩同じベッドで眠り、平日の昼食以外は同じものを食べ、同じシャンプーで髪を洗っていても、私と誠太は別々の人間だ。子を
「どうして」
「うん?」
「どうして私たちだったんだろう。約六組に一組の夫婦が不妊治療を受けている時代だって言われてるけど、それってつまり、八割の夫婦は医学の手助けがなくても、赤ちゃんができたってことだよね」
「そう、だね」
「私もそっちに入りたかったな」
「うん」
「治療を受けていたら期待しちゃうし、期待していたら、そのぶん絶望する。
「僕は、志織に辛い思いをさせていることが一番辛いよ」
「でも誠太だって、毎月がっかりしてるでしょう?」
相性という単語には、人をもしもの世界に突き落とす暴力性がある。結婚相手が違えば、私たちはどちらも親になれたかもしれない。あの医師の発言は、そういう残酷な可能性を示唆していた。
「がっかり……とは少し違うかな。悔しいし、悲しいけど」
一度目の人工授精が上手くいかなくて落ち込んでいたとき、誠太からは、僕は死ぬまで志織と二人きりでも構わないよ、と言われていた。妊娠することへのこだわりは、私のほうが断然強い。でも、子どもができたら誠太も喜ぶはずだ。赤ちゃんがほしい。初めは水風船くらいの大きさだったこの思いが、いつから気球のように膨らんだのか、自分でも分からない。でも、我が子を抱きしめたいという願いは、多くの人が、もしかしたら夢とも思わないうちに
「私、衿子が羨ましい」
「うん」
「羨ましくて羨ましくて、なんかもう、憎いの」
「うん」
「憎いって思っちゃうの。友だちなのに」
不妊治療を始めてから、私の性格は醜くなる一方だ。街で妊婦や乳幼児を見かけたときの、
「……そっか」
誠太はまた短い相槌を打った。でも、つれないとは思わない。彼の沈黙には、私の言葉を
「だったら、僕が志織の代わりに
「どういうこと?」
「地球上のすべての人が本島さんの出産を祝っても、僕は喜ばない。直接会う機会があっても、絶対におめでとうって言わない」
「なにそれ」
思わず吹き出した。
「僕がそっちを担当するから、志織は今までどおりでいいよ」
「……うん」
鼻の奥がつんとして、返事に困った。泣きたい衝動を額を搔いてごまかし、
「あ、長電話になっちゃったね。私はもう平気だから、誠太は仕事に戻ってよ」
「いや、それが」
「どうしたの?」
「実は会社を早退したんだ。もうすぐ駅に着くところ。途中の駅ビルで、美味しそうな惣菜と、志織の好きなお酒を買って帰るよ。それから、志織が食べたいって言っていたチーズケーキも」
「誠太……」
生理が来たと報告して、勤務時間中に電話をもらったことは何度もある。彼の声を聞くと、ささくれ立った気分は保湿剤を塗ったように柔らかくなった。すぐには治らなくても、皮膚を剝きたいと思わなくなるだけで、傷は快方に向かう。誠太と話せるだけで救われるのに、今日は早退までしてくれた。
「ごめんね」
すばやく瞬きをして、涙を乾かした。全身全霊で慰めを請うようなメッセージを送ったことが、ひどく恥ずかしい。誠太が帰宅してから、今月もだめだった、と明るく伝えればよかった。彼の仕事を邪魔した自分が情けなかった。
「志織が僕に謝ることは、この世の中にひとつもないよ」
誠太の口調には力が入っていた。先日、電車に乗り込む際に謝罪の言葉が聞こえたような気がしたことを思い出す。軽口を交えて、ひとつもないわけないと切り返したかったのに、具体例が思い浮かばなくて、誠太は
「大袈裟じゃないよ」
誠太が言った。
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