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試し読み

【試し読み】秘密×友情×男子高校生ミステリ!――織守きょうや『学園の魔王様と村人Aの事件簿』第一話全文特別公開!

完璧だけど黒い噂のある優等生×彼に憧れる平凡男子。
そんなふたりが繰り広げる青春ミステリ『学園の魔王様と村人Aの事件簿』(著:織守きょうや)が待望の文庫化!
刊行を記念して、物語の第一話をまるごと特別公開します。

秘密×友情×男子高校生ミステリのはじまりを、大ボリュームでお楽しみください。


織守きょうや『学園の魔王様と村人Aの事件簿』試し読み

第一話 村人A、魔王様と出会う

 噂なんて無責任なものだ。
 有名人に関するそれは特に、話半分に聞いておいたほうがいい。
 そう思っている俺でも、呼びとめられ振り向いて、目の前にさきが立っていたときは、一瞬身構えてしまった。
 御崎しゆういちは有名人だ。
 顔がよくて頭がよくて、そのほか、すべてにおいて秀でている。入学式で学年代表を務め、先生からも先輩たちからも一目置かれている。その割にいつも一人でいる。変人で、何をするかわからない。近寄らないほうがいい。
 クラスが違い、話をしたこともない俺の耳にも、彼の噂は届いていた。
「これ、落ちたから」
「あっ」
 彼は、赤い髪の美少女が表紙に描かれたライトノベルの文庫本を差し出している。勝気そうな目でこちらをにらみつける、その絵には見覚えがあった。
 慌てて手に持ったかばんを確かめる。ポケットに入れておいたはずの、昨日買ったばかりの新刊がない。気づかないうちに落としていたらしい。
「あ、……ありがとう」
 俺が文庫本を受け取ると、御崎はそのまま歩いて行ってしまう。
 身長は俺と変わらないくらいなのに、姿勢がいいからか、随分スタイルがよく見える。
 声までかっこよかったな、と思いながら後ろ姿を見送っていると、
「何か食って帰ろーぜ」
 後ろから、同じクラスのたけうちに背中をたたかれた。そのすぐ後ろに、たなもいる。
 俺が返事をする前に、橘田が「俺、ポテト食いたい」と意思を表明した。
「ていうか、今の御崎? やまぎし、知り合いだったん?」
「全然」
「だよなあ」
 俺たちは並んで歩き出した。アプリの割引クーポンが今日までだと橘田が言うので、駅前のハンバーガーショップに寄っていくことにする。
 歩きながら、話題は自然と、御崎のことになった。
「御崎って、あんな顔して、実はけん上等の超武闘派なんだろ?」
「あ、俺も聞いたことある。絡んできた先輩を返り討ちにしたんだっけ」
 俺たちの通うこうりよう学園高校は、自由かつ穏やかな校風の進学校で、校内で殴り合いの喧嘩なんてそうそう見られない。だから、学年代表の一年生が三年生とやりあった、というのはかなりセンセーショナルだった。御崎や相手の三年生が処分を受けたというような話は聞かないので、あくまで噂の域を出ないが、一年生にも目撃者がいるらしい。
「そうそう、まゆ一つ動かさずに相手をボコボコにしたとか……怖えー。見た目はそんないかつい感じじゃないよな。むしろイケメン」
「本を拾ってくれたんだ。意外と親切なのかも」
「いや、あいつ普段は静かなんだよ。いかにも優等生って感じなの。そういう奴がキレたらやばいから怖がられてるんだって」
 三人の中で唯一、御崎と面識のある橘田が言う。
「俺、御崎と中学同じで、三年のとき一緒のクラスだったんだけどさ、一回目撃してめちゃくちゃびびったもん、ちやわん叩き割るとこ」
「茶碗?」
 どういう状況だ。
 き返した俺に、橘田は「茶碗」と答えてうなずく。
「中三のときの美術で、陶芸やったんだよ。美術の先生は陶芸部の顧問もしてて、自分でも結構真剣に陶芸やってる人でさ。授業でたった一回習っただけの御崎が作った器が、すげえ出来がよくて、その先生が興奮しちゃって、コンクールに出してみたらどうだとか、本人より盛り上がってたんだけど」
 当の御崎は、誉められても全然うれしそうじゃなかった、と橘田は続けた。
「確か最初は、興味ないので、みたいなこと言って断ってたかな。けど、先生がコンクールの話を続けてたら、御崎、いきなり器を叩き割ってさ」
「えっ、怖い」
「な! 怖いよな! もう、クラスの皆も先生もぼうぜんよ、ボーゼン。つうか、ドン引き?」
 かなり過激だ。空気が凍りついただろう。その場に自分がいたらと想像するだけで震える。
 引いている俺の横で、竹内は顔を輝かせ、「すげえ」と声をあげた。
「それで? それでどうなったんだよ」
「御崎は、『納得いく出来ではなかったので』とか言って、眉一つ動かさないで自分でかけらを集めて捨てて床を掃除して、あとは何事もなかったかのようにしててさ。教室、しーん。怖えだろ。どんだけかんぺき主義なんだよって」
 陶芸家じゃないんだから、と橘田は言ったが、陶芸家だって、普通は失敗作をいきなり叩き割ったりしないだろう。
 現場を見た橘田が言うのだから、御崎は実際に、かなりエキセントリックな人物のようだ。クラスが違ってよかった。なるべく近づかないようにしよう、と心に決める。
「ていうかそれ、よっぽどその美術教師がうざかったんじゃねえの? 黙れ、って言ったようなもんだろ」
「どっちにしても怖えよ。叩き割るか普通? 笑わないし、なんでもできて、クラスで一人だけレベル99って感じで、何か近寄りがたい雰囲気だから、前から皆ちょっと遠まきにしてたけど、あれが決定的だったな。こっちからかまわなきゃ、だいたい一人で本とか読んでるから、害はないんだけどさ。魔王様って呼ばれてたもん、本人いないとこで」
 橘田は、御崎に苦手意識があるらしい。一方で、噂を聞いただけの竹内は、彼に興味を持ったようだった。
「キャラ立ってんなあ。今度話しかけてみようかな」
「やめといたほうがいいって。なんかどっかの組の、組長だか若頭だかの孫? 隠し子? って噂もあるし」
「さすがにそれは設定盛りすぎだろ。いつの時代だよ」
「いやそれがマジっぽいんだって。何か、見るからに堅気じゃなさそうなスーツ姿のこわもての男と一緒にいたとか……」
 校舎を出ると、数メートル先を御崎が歩いているのが見えた。普通に話している声が届く距離ではないが、「やべ」と言って橘田が口をつぐむ。
 正門へ向かって歩いている後ろ姿はぴしっと一本しんが通ったようで、目を引いた。

       *

 落とした本を拾ってもらい、初めて言葉を交わしたのが二日前のこと。
 今後同じクラスにでもならない限り、話すこともないだろうと思っていた御崎が、何故かまた目の前にいる。
 下校途中に書店に寄った帰り道だ。梅雨入りにはまだ早いのに、朝から雨が降っていた。
 御崎は紺色の傘を差し、不動産屋の前に、賃貸物件の見取り図が隙間なく貼られた壁のほうを向いて立っている。
 高校一年生が部屋探し? と不思議に思って、ビニール傘ごしに盗み見ると、御崎は不動産屋に用があるわけではなく、不動産屋と、隣に立つ喫茶店の隙間にある何かを見ているようだった。
 二つの建物の間には、大人の腕くらいの太さの、木製の柱が立っている。街灯のようだが、今は電気はついていない。古そうなので、もう使われていないものかもしれない。
 その柱と、不動産屋の壁との間に、一匹の猫が挟まっていた。俺の住むマンションの管理人が世話をしている半野良で、ぶちすけと呼ばれている、白と黒のぶち柄の猫だ。
 その上半身が、壁と柱の間から突き出て宙に浮いていた。ううう、と低くうなるようにのどを鳴らしている。
 御崎の肩ごしに見える街灯は電気のかさ部分の重みのせいか傾いて、下に行くほど、隙間の幅が狭くなっていた。ぶちすけはそこに挟まって身動きがとれなくなってしまったようだ。
「動かないでくれないか」
 こちらに身体の側面を向けたまま、御崎が言った。
 自分に言われたのかと思ってびくっとしたが、彼はこちらを見ていない。
 どうやら、ぶちすけに話しかけているようだ。
「このままだと衰弱死する。それが嫌なら、三秒でいいからじっとしていてくれ」
 御崎は言いながら傘を閉じ、丁寧にベルトを留めて壁に立てかける。そして、ぶちすけに手を伸ばした。
 柱と壁に挟まれていると言っても、上部の空間には余裕があるので、持ち上げれば簡単に救出できそうだ。しかし御崎の手が近づくと、ぶちすけはしゃーっ、と威嚇する鳴き声をあげる。
 胴体が挟まっていても、前足は動く。鋭い爪で引っかかれ、御崎は伸ばした腕を引っ込めた。
 そして、無言で、引っかかれた手首と手の甲と、激しく威嚇を続ける猫とを見比べている。
 普段は静かだけど、キレたらやばい――。
 橘田の言葉を思い出した。
 声をかけるべきか。でも怖い。
 俺が迷っていると、御崎はおもむろに制服のブレザーを脱ぎ始めた。
 何をする気かと一瞬慌てたが、俺が声をかける間もなく、彼は脱いだブレザーを広げ、無造作に、猫の上半身を覆うようにかぶせる。猫はさっきよりも激しく暴れたが、爪は届かなくなった。
 御崎はそのまま間髪をれず猫の胴体を上下から挟んでブレザーごと持ち上げる。
 鮮やかな救出だった。
 自由になったとたん、猫は御崎の胸を後ろ足でり飛ばし、だつのごとく逃げていく。
 取り残された御崎の足元に、猫の毛にまみれたブレザーが落ちた。
 命の恩人に対してのあんまりな態度に、俺のほうがいたたまれなくなり、
「だ、大丈夫?」
 思わず声をかけてしまった。
「ちょっと引っかかれたくらいだから」
 御崎はれたブレザーを拾い上げ、クールに答える。
 しかし、俺の見たところ、結構激しく引っかかれていたようだったし、最後の猫キックも強烈だった。ちらりと見ると、御崎の右手の甲と手首には血がにじんでいて、白いシャツの胸にも、泥の跡がついている。
「あの猫、うちの近所の……っていうか、管理人さんの猫なんだ。半分野良みたいな感じだけど……」
 今さらかな、と思いながら、傘を差しかけた。御崎のシャツは、泥の被害を免れた部分も色が変わりつつあったし、前髪からは水滴が滴っている。
「その、災難だったね。助けてあげたのに」
「相手が猫じゃ、仕方ないよ。動物にはあまり好かれないんだ」
 御崎は壁に立てかけていた傘をとり、開いた。ありがとう、と言われ、数秒差しかけただけの傘への礼だと気づく。
「俺の家、そこだから。手当てしていきなよ」
 気がついたら、そう口から出ていた。
 御崎は不思議そうに俺を見る。
 げんそうではなく、不思議そう、だ。
 あ、何か、あんまり怖くないかも――と思ったら、気が楽になった。
「あと、着替え貸すよ」
 そう付け足すと、それまで思案しているようだった御崎は、濡れて泥の跳ねた自分のシャツと腕に掛けたしわだらけのブレザーを見下ろした。その動作で、御崎の前髪からしずくが滴る。
 彼は指先で額をぬぐい、観念したように、「お言葉に甘えるよ」と言った。

 共働きの両親は、どちらもまだ帰っていなかった。
 俺は先に靴を脱いで洗面所の電気をつけ、朝脱いだパジャマがそのままになっていないか、見られて困るようなものが落ちていないかをさっと確認する。
 大丈夫そうだったので、戸棚から新しいタオルを出して、まだ鞄も置いていない御崎に渡した。
 御崎は礼を言って受け取ったが、そのまま立ち尽くしている。
 戸惑っている様子なので、どうかした、と声をかけると、
「君がちょっと信じられないくらい親切だから、驚いているんだ」
 今さらそんなことを言う。
「ついてきておいて何だけど、ほぼ初対面の人間を自宅にあげるのは不用心じゃないか」
 それこそ今さらだ。思わず苦笑してしまった。
「まあでも、同じ学校の生徒だし」
 本を拾ってもらったこともあるし――とは、彼はおぼえていないだろうと思い口に出さなかったが、心の中で付け足す。
「俺は、君のこと知ってるし。御崎くんだよね」
 安心してもらおうと思って言った後で、もしや、一方的に知っていたというほうが怪しいだろうか、と思い至った。
 しかし、幸い――自分が有名人だという自覚があるのか――御崎は特に警戒する様子はない。
「僕も知っているよ。C組の山岸くん」
 え、なんで、という表情をしていたのだろう。俺の顔を見て、御崎は少し目元を緩めた。
「そう呼ばれているのを聞いたし、C組の教室から出てくるところを見たこともある」
「そうなんだ、記憶力いいね」
 俺は彼のような有名人ではないので、認識されていたことはかなり意外だった。
 ちょっと嬉しい。
 王子様に名前を呼ばれて舞い上がっている村人Aの気持ちはこんな感じかな、なんて考えて、すぐに反省した。いくらなんでも卑屈すぎる。
 御崎は結構濡れていたし、顔に泥も跳ねていたので、シャワーを使ってもらうことにした。俺はのドアを開けたところにある給湯器のスイッチを入れ、廊下に出て御崎を手招いた。
「どうぞ。脱いだものは洗濯機に入れちゃって」
「いや、持って帰るよ。乾くまでお邪魔するわけにはいかないし」
「そう? じゃあ、持って帰る用の袋出しとくね」
「ありがとう」
 俺の渡したタオルを持って、御崎は洗面所に入っていく。
 後から、脱いだ服を入れる袋を持っていったら、汚れた制服はきちんと畳んで洗濯機の脇に置いてあった。俺は袋を洗濯機のふたの上に敷いて、御崎の制服を置き、その横に買い置きの新しい下着とスウェットの上下を並べる。
 最後に自宅に友達が遊びに来たのがいつか、思い出せない。小学生のとき以来かもしれない。誰かを泊めたことは一度もないから、風呂場に家族以外の人がいるのは初めてだった。
 居間で一人になると、急に緊張してくる。
 成り行きとはいえ、御崎秀一にシャワーと着替えを貸すなんて。
 猫に恩をあだで返されているのを見て、なんだか気の毒になって――それから、実物は意外と怖くなさそうだ、と思って、もう少しちゃんと話してみたいという気持ちも湧いて、思わず声をかけてしまった。
 色々な意味でドキドキする。
 粗相があったらどうしよう。シャンプーは残り少なくなっていなかっただろうか。着替えはスウェットでよかったんだろうか。
 そういえば、持っていた傘も靴もなんだか高そうだった。こんな安物は身に着けられない、と言われたら……。
 まんまと噂に踊らされている自分に気づいて、頭に浮かんだ後ろ向きな想像を振り払う。御崎が雨の中、びしょ濡れになって猫を助けるのをこの目で見たというのに。
 気を紛らわせるためにテレビをつけた。ちょうど、好きなアニメの再放送をしている時間だ。
 おなじみの美少女探偵が画面の中を駆けまわるのを観ていると気持ちが和んで落ち着いてくる。
 CMが明けて番組の後半が始まったころに、洗面所から御崎が出て来た。
「ありがとう。助かったよ」
 同じくらいの体格だと思ったのに、俺のスウェットを着ると、丈が少し足りないようで、手首と足首が出てしまっている。
 それだけが理由ではないと思うが、御崎はなんだか浮いていた。カジュアルな服を着ても、背景になじんでいない。妙に品があって、お忍びの王子様みたいだ。
 御崎はまだ湿っている髪をタオルで押さえながら、ちらりと画面を見る。
「邪魔をしたかな。観ていたんだろう」
「あ、気にしないで、これ再放送なんだ。観たことある、ていうかブルーレイ持ってるし」
 座ってて、と御崎に言い、キッチンへ行って冷蔵庫を開けた。
 我が家では夏も冬も麦茶を作って冷やしている。
 美少女ものラノベが原作のアニメになんて興味がないだろうなと思ったのだが、俺が麦茶のグラスを持っていくと御崎はテレビの前に座り、画面に見入っていた。
 ライバルキャラクターに推理のミスを指摘されショックを受けた主人公が、大げさなポーズで地面に崩れ落ちるシーンだ。
「インバネスコートだね」
 御崎は、彼女が身にまとった衣装を見てつぶやく。
「シャーロック・ホームズと何かかかわりがある設定なのかな。舞台はイギリスではないようだけど」
「あ、うん。ホームズが実在の探偵として活躍した設定の、架空の世界でね。探偵学校に通う女の子たちが、学校や町で起きる事件の謎を解くっていう……ラノベが原作なんだけど、御崎くん、ラノベとか読まなそうだよね」
「ライト文芸と呼ばれているようなジャンルなら、何冊か読んだことがあるよ」
 あそこにあるタイトルは全部読んだ、と言って御崎はテレビの横にある木製の棚に目を向けた。ライトノベルは俺しか読まないので全部自室の本棚にあるが、ライト文芸の文庫本は、母さんがときどき「貸して」と言うので、俺が読み終わったら居間の棚に置くようにしている。今も、何冊か立ててあった。
「へー、意外。何か、海外文学しか読まないようなイメージだった」
「海外文学も読むけどね」
 麦茶のグラスを渡すと、御崎は礼を言って受け取った。
「あ、お茶菓子……おちゃんが送ってくれたようかんくらいしかないけど」
「おかまいなく」
 御崎の返事を受けて、俺は浮かしかけた腰を戻した。
 やっぱりお菓子くらい出したほうがいい気がしたが、友達に出すおやつとして、羊羹はちょっと渋すぎるかもしれない。俺が橘田や竹内とよく買い食いするのはコンビニの菓子パンやスナックだが、御崎が駄菓子を食べているところは想像できなかった。冷蔵庫に何かあっただろうか。スウェットを着させて麦茶を出してしまった時点で今さらだろうか。
 冷蔵庫や台所の戸棚の中身を思い出そうとしていたら、
「羊羹は好きだよ。でも、時間が中途半端だし、お茶だけで十分だ」
 御崎は麦茶のグラスを胸の高さまで持ち上げて見せ、お気遣いありがとう、と言った。
 ほっとすると同時に、そんなにわかりやすく表情に出ていたかな、とちょっと恥ずかしくなる。
 俺が頰をかきながら横目でテレビを見ると、御崎も画面のほうへ目を向けた。
「この子が、山岸くんの好きなキャラクターかな」
「えっ、なんで」
 画面の中では、主人公たちのライバルキャラクターである赤い髪の少女が推理を披露している。彼女は確かに俺の一番のお気に入りキャラクターだったが、御崎にはもちろん、誰にもそれを言ったことはなかった。
「前に読んでいた本の表紙も、こういう感じの子だったし……そこの棚のライト文芸に登場するヒロインの傾向からもなんとなく、髪が長くて気の強そうな女の子が好みなのかなと思って」
「俺ってそんなわかりやすいんだ……そのとおりなんだけど、指摘されるとなんだか恥ずかしいっていうか」
「それに、彼女のセリフが聞こえたときだけ、画面をちらっと観てたから」
「うわ、恥ずかしい!」
 無意識だった。それが余計に恥ずかしい。
 頭を抱えた俺に、御崎は「そんなことはないよ」と笑う。
「好きなものを目で追ってしまうのは当たり前だし、フィクションを楽しむとき、特定のキャラクターに思い入れがあるとさらに楽しめるというのは僕もわかるよ」
「うう……フォローありがとう」
 御崎の態度に、俺を馬鹿にする意図はまったく感じられなかった。それで少し落ち着いてきた。
 俺はぱたぱたと手で顔をあおいで、ほてった頰を冷ます。
「俺はもともとは箱推し、って言ってもわかんないか、えっと作品自体が好きで、キャラクターは全員好きで応援してるんだけど、その中でもこの子はイチオシなんだ。途中から出てきたキャラクターで、最初は対立してたんだけど、だんだん事件解決のために協力することも増えてきて……映画版がきっかけで最推しになった。あ、最推しって、最も推している、つまり応援しているキャラって意味なんだけど」
 いたたまれなさをごまかすために話し始める。好きなものの話だと、いくらでも言葉がでてきた。話しているうちに、顔のほてりも引いていく。
「映画版は、一つの密室殺人事件について複数の探偵役が色んな推理をして、一つずつ可能性をつぶしていく感じの構成で、すごくよかった」
 御崎は、多重解決ものか、と興味をかれた様子で言った。
「謎解きは僕も好きなんだ。おもしろそうだね」
「おもしろいよ」
 かぶせる勢いで言って、俺は彼の正面にひざをつく。そのまま腰を下ろすと、自然と正座になった。
「キューティーホームズ、興味ある?」
 御崎は、この話題はこれで終わりくらいのつもりで言ったのかもしれない。わかっている。社交辞令だ。
 しかし、ほんのわずかでも興味を示されると、作品の魅力を語らずにいられないのがファンというものだ。
「主人公はこの女の子で、ホームズリスペクトの探偵志望なんだけど、ホームズの血を引いてるのは実はこっちの金髪の子のほうでね。物語の縦筋もちゃんと作られてるんだけど、各話も結構ちゃんとミステリしてるんだ。この回は、『あかれんめい』をヒントに作られてるんだけど、バイト探しをしていた女子高生が……」
 気がついたら、早口になってまくしたてていた。
 竹内や橘田なら、「それもう聞いたよ」とか「ちょっと落ち着け」と適当なところで止めてくれるのだが、御崎は止めなかったので、俺のマシンガントークは続く。
 御崎は、頷いたり、あいづちを打ったりしながら聞いていた。
 設定とシーズン1の見どころとイチオシのエピソードについて熱く語ったところでアニメのエンディングテーマが流れてきて、俺はようやく我に返る。
「ごめん、俺ばっかりしゃべってるね」
 気づくの遅えよ、という橘田と竹内のツッコミが頭の中で聞こえたが、ここには失敗を笑いに変えてくれる気心の知れた友人たちはいない。
 きっとあきれられた。これだからオタクはと思われたに違いない。
 理性を取り戻したとたん、かーっと顔が熱くなった。
「いや、楽しいよ」
 御崎は、うなだれている俺を見て、驚いたように言った。
 とっさにフォローしたというより、俺が何故謝ったのか不思議に思っている様子だった。
「君が楽しそうに話すから、僕も楽しくなった。山岸くんは色んなことを知っているんだね」
 優しい。
 怖い人かもしれないと思っていたぶん、ストレートに胸に刺さった。
 れそうだ。
 えない男子がスクールカースト上位の女の子に思いがけず優しくされて、恋に落ちる漫画を思い出す。これか。この感じか。
「御崎くん、それ通常運転なの? すごすぎるんだけど」
「山岸くんは言葉の選び方がおもしろいね」
「御崎くんは王子様みたいだよ」
「えっ」
 御崎はグラスを持ち上げる手を止めて俺を見た。
「そんなこと、初めて言われたな」
「そう?」
 俺は脚を崩して座り直し、くつろいだ姿勢になる。
 スウェット姿で頭にタオルをかけていてもまだ近寄りがたかった御崎が、急に近くに感じられた。
 自分と同じ、年相応の男子高校生に見える。御崎もリラックスしてきたのだろうか。さっきまでは、俺の緊張を感じて硬い表情になっていたのかもしれないし、そもそも最初から、俺に勝手にそう見えていただけなのかもしれなかった。
 俺は意識して、橘田や竹内に対するように、つまり同い年の友達に対するときのように、軽い口調で話しかける。
「ちょっとときめいちゃったよ。一見怖そうな同級生が捨て猫を拾うのを見てギャップにキュンとするのって、少女漫画なんかでは王道のシチュエーションなんだけど、何かヒロインの気持ちがわかっちゃった」
「……僕は怖そうかな」
 少女漫画かよ、とか、ヒロインかよ、というツッコミが来るかと思ったら、意外なところに反応されてしまった。
 もしかして、気にしていたのだろうか。周囲にどう思われているかなんて、気にもかけないように見えるのに。
 冗談でも、陰で魔王様って呼ばれてるよ、と言ったら傷つくかもしれないと思い、俺は言葉を選ぶ。
「怖いっていうか……なんていうか、ある種の近寄りがたさみたいなのはあるかも」
「近寄りがたい……そうなのか」
 薄々感じてはいたんだ、と御崎は麦茶のグラスに視線を落とした。
「入学してもう一か月経つのに、あまりクラスの皆と話す機会がなくてね。あいさつ程度の会話はするし、皆親切なのに、何だかよそよそしいんだ。理由はわからないけど、どうも距離をとられているというか……怖がられているような気さえする」
 自分が遠まきにされていることに、気づいてはいたようだ。
 しかしこの口ぶりからすると、組長の孫だとかなんだとか、不穏な噂が色々と流れていることは知らないらしい。そんな噂を真に受けているのは橘田くらいかと思っていたが、もしや中学時代の同級生たちの中には、ほかにも信じている生徒がいたのだろうか。
 御崎が敬遠されている理由の大部分は、彼自身のまとう、近寄りがたい雰囲気のせいだろうと思うが、噂がそれに拍車をかけていたということは考えられる。
 こうして話してみれば、思っていたよりずっと話しやすい――それどころか、一瞬でクラス中の女子が恋に落ちそうな王子様ぶりだというのに。
「御崎くんって無口なイメージだったけど、結構しゃべるんだね。そうやって、もっと自分から話してみたらいいかも……あんまり笑わないみたいな話を聞いたけど」
「たいてい一人でいるからね」
 さほど寂しそうでもなく、御崎は言った。
「一人でいるときには笑わないだろう?」
 ――確かに。
 彼が遠まきにされているのは、いつも一人でいるから笑う機会がなく、そのせいでますます近寄りがたく思われて孤立するという、悪循環の結果なのか。
「休み時間とかも、一人でいることが多い?」
「そうだね。無理をして会話に参加しても、話題とか、相手に気を遣わせてしまうしね。最近の流行に疎いという自覚もあるから、わからない話をしているときには、自分から入ってはいかないな」
「うーん、その気遣い、伝わってないかも……話しかけないほうがいいと思われてるのかも」
「そんなに無愛想にしていたつもりはないんだが……たまたま考えごとをしていたとか、機嫌が悪いところを見られたのかもしれないな」
 御崎はごとのように言って麦茶を飲む。
 もともと、一人でいるのが苦にならないタイプなのだろう。俺もどちらかというとそうなので理解はできる。
 自分が孤立しているようだと感じても、そのこと自体に居心地の悪さを感じているわけではないから、積極的に皆の中へ入っていこうとも考えないのだ。
 ちょっともったいないような気もするが、本人にも周囲にもそれで不都合がないのなら、このままでも問題はないのかもしれない。
「そういえばさ、中三のとき、美術の授業で作った茶碗を割ったって聞いたんだけど……」
 俺が水を向けると、御崎は目を瞬かせた。
「そんな話、どこから……ああ、橘田ひろと同じクラスだったね。一緒にいるのを見たことがある」
 話すほどのことでもないんだけど……と言いよどむので、俺は「聞きたい!」とにじり寄った。
 でたらめだったらそう言うだろうから、経緯はどうあれ、茶碗を割ったこと自体は間違いないということだ。魔王と呼ばれるにふさわしいエキセントリックな行動と、目の前の御崎とが結びつかない。
 御崎は、特におもしろい話じゃないよ、ともう一度前置きしてから話し始めた。
「美術の課題で僕の作った茶碗が、たまたまうまくいって、先生の目に留まったんだ。僕に陶芸の才能があったとか、そんなことはないよ。偶然の産物だ。でも、窯から出す前の段階から、コンクールに出すことを強く勧められて……クラスの中でも、ちょっと盛りあがるというか、すごいな、みたいな雰囲気になったんだ」
 数日後、美術の授業が始まる前、御崎が美術室に行くと、日直の女子が、皆の作品を棚に並べていた。そのとき、彼女が手を滑らせて、御崎の作った茶碗を落としてしまうところを、彼は目撃したのだという。大きな音はしたが、地面に落ちたわけではなく、棚板にぶつかっただけで、茶碗は無傷で済んだように見えた。
 目撃したのは、早めに教室に到着した御崎一人だった。
 彼女は慌てた様子で茶碗を拾い上げ、棚に置きなおしたが、授業が始まった後で御崎が手にとってみると、茶碗にはひびが入っていた。
「コンクールに出すことになったら、ひびが入っていることに誰かが気づくだろう。僕自身は、作品にそれほど思い入れはなかった。ただの美術の課題だと思っていた。でも、先生が僕の茶碗のゆうやくの具合を誉めている横で、さっきの女子が泣きそうな顔をしているのが見えて」
 顔も知らないその女子生徒の、そのときの気持ちを想像する。御崎もそうしたのだろう。
 御崎自身が気にしていないと言えば、彼女の気持ちは軽くなるだろうが、彼女が名乗り出ていないのに、御崎から声をかけるわけにもいかない。
「先生が、よく見せてほしい、と言って近づいてきたから、茶碗を落として割ったんだ。手が滑ったことにして」
「……先生、驚いてたでしょ」
「そうだね。コンクールがどうとか言われたから、『どちらにしても、満足する出来ではありませんでした』って言ったかな」
 橘田から聞いた話とは随分違う――いや、端から見た事実はほとんど違わないのだが、事情を知ってから聞くと印象が全然違う。
 茶碗を落としてひびを入れてしまった女子生徒にとっては、魔王様どころか、王子様だ。彼女が御崎の真意に気づいていたかはともかくとして。
 ――そこでとっさに、茶碗を割る、という選択をするあたり、やっぱり普通じゃない気もするが。
「先輩に絡まれて返り討ちにしたって話もガセ?」
「ああ……そんなこともあったかな」
「あったんだ」
 どれもこれも、根も葉もない噂というわけではないらしい。
 三年生の先輩の彼女だか、好きな女子だかが、入学式で学年代表として挨拶をした御崎に興味を持ち、それが理由で絡まれたという話だった。当事者の先輩プラス取り巻きの三人組に呼び出され、「調子に乗ってるらしいな」と因縁をつけられたので叩きのめして追い払った……と、聞いた話を伝えると、御崎は、おおむねその通りであると認めた。
「ああいう手合いには、最初に弱みを見せるとめられるだろう。だから、少し強気に対応したかもしれない。でも、叩きのめした、というのは大げさだな。転ばせたくらいだよ。何度も絡まれるのは面倒だったから、もうそういうことがないように、懲りてもらっただけだ」
 転ばせた、と簡単に言うあたりに余裕を感じる。進学校でちょっといきがっているくらいの先輩だから、最初からおおごとにするつもりはなかっただろう。脅しつけて終わりにするはずが、反撃をされてさぞ驚いたに違いない。そう思うと、少し気の毒になってきた。
 御崎が三年生を叩きのめした、ということが一年生の間で噂になっているということは、三年生の間でも、その先輩が御崎に叩きのめされた、ということが噂になっているはずだ。
「そのときさ、何か、噂になりそうなこと言うかするかしてない?」
「特には……」
「先輩に、何か言わなかった?」
「……身の程を知れ、と言ったかな」
 それだ。容赦がない。
「たぶんそのせいだね。怖い人ってイメージがついちゃったんだと思う」
 御崎は、そうか、と小さく息を吐いた。
 自分がクラスメイトたちに遠まきにされている理由について理解したようだ。むしろ、今まで理解していなかったのが不思議だ。
 麦茶をもう一口飲んで、もう一度息を吐くと、御崎は頭を切り替えた、というように顔をあげた。
「もういいよ。今のままでも支障はないし、あきらめて大学デビューを狙う」
「諦めが早いし気が長いね」
 御崎は麦茶のグラスを置こうとして、テーブルの端に重ねられた文庫本の一番上の一冊、海外翻訳ものの推理小説に目を留める。
「これは山岸くんの?」
「うん。それしか読んでないけど、アニメの監督のインタビューに出てきて……あ、謎解きが好きって、そっちのほう? クイズとかじゃなくて」
「そうだね、パズルも好きだけど、人の起こした事件に関する謎のほうが好きかな。一番興味を惹かれるのが、動機の解明の部分だから。推理小説も好きだよ。がミステリマニアで、色々と本を貸してくれたのがきっかけで読むようになったんだ」
 その叔父は推理小説好きが高じて警察官になり、今では刑事として活躍しているという。
 個人名を伏せて、実際の事件の話も聞かせてくれるそうだ。
「刑事さんってかっこいいな。捜査一課とか?」
「今は組織犯罪対策本部にいるよ」
 組織犯罪対策本部というと、主に暴力団などの組織犯罪を取り締まる部署だったはずだ。それだけに、逮捕する側とされる側、どちらが暴力団員かわからないようないかつい外見の刑事も多いと聞く。
 堅気ではなさそうな強面の男と御崎が一緒にいるのが目撃された……と、橘田が話していたことを思い出した。それで、組長の隠し子だの孫だのなんて話になったのか。噂なんてそんなものだ。
 通学用の鞄の中で、スマホが振動する音が聞こえた。慌てて取り出そうとしているうちに振動は止まって、今度は自宅の電話が鳴る。受話器をとりあげた瞬間、
たくみ? 仕事が長引いちゃった。今から帰るけど、ごはん炊いておいて』
 電話口から母の声がする。
「わかった。今、友達が来てるんだ。濡れちゃったから、雨宿りしてもらってて」
『そうなの。家、散らかってなかった? 夕飯食べていってもらうなら、ごはん多めに炊いておいてよ』
 了承して受話器を置いた後、忘れないように、そのままキッチンへ回った。テレビのある居間とダイニングは続き部屋になっていて、ダイニングの一角にカウンターで仕切られたキッチンがあるので、キッチンからでも居間にいる御崎と会話をすることができる。
「母さんだった。今から帰ってくるみたい。ちょっと待ってて、ごはん炊いといてって言われてるから」
「僕のことはおかまいなく」
 無洗米をカップで量って水を入れ、炊飯器のスイッチを入れて居間に戻る。
 それから、ブルーレイでキューティーホームズのシーズン1を流し、一緒に第一話を観終わったところで玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、母さんだ」
 続いて、かぎを開ける音がする。母さんはいつも、呼び鈴を鳴らすだけ鳴らし、俺を待たずに自分の鍵でドアを開ける。呼び鈴は、ただの、「帰ってきたよ」という合図だ。
 それでも一応玄関まで行き、スーパーの袋を受け取った。ただいま、おかえり、雨ちょっと弱くなってきたみたい……そんな会話を交わして、俺だけ先に居間へと戻る。
 御崎は立ち上がっていた。
 母さんが、玄関を入ってすぐ横にある洗面所で手を洗い、居間へ入ってくると、御崎は上品な仕草で「お邪魔しています」と頭を下げる。
「山岸くんと同じ学校の、御崎秀一です。シャワーと着替えを貸していただいて、とても助かりました」
 母さんは、いいのよ、とにこやかに応じた。
 息子の部屋着のスウェット姿でも、何だかいつもつるんでいる友達とは違う雰囲気だぞと感じたらしい。
「傘がなかったの? 災難だったね」
「管理人さんのとこのぶちすけが壁に挟まってたのを助けてあげて汚れたんだよ」
「そうなの。じゃあ、ヒーローじゃない。引っかかれなかった?」
「あ、そうだ。手当てしてなかった」
「ちょっとだけ。傷口は洗いましたし、平気です」
「でも、ばい菌が入っちゃうかもしれないから、消毒だけでもしておいたほうがいいよ。救急箱出すね」
 母さんが夕食の支度をしている間に、俺は救急箱を持って来て、御崎の手の引っかき傷を消毒した。
 消毒液をかけてばんそうこうを貼っただけなのに、「何から何までありがとう」と御崎は律儀に礼を言う。ぶちすけに引っかかれた傷は、本人が言うよりも深くて痛そうだったが、御崎は痛がるそぶりも見せなかった。
 その後、母さんが作った夕食を、御崎は米粒一つ残さず、全部きれいに食べた。ごちそうさまでした、と手を合わせる仕草も上品だ。
 母さんは上機嫌で、食後のお茶とお菓子を運んできた。みは、滅多に使わない来客用のものだ。
「おしゃれなお菓子でもあればよかったんだけど」
 なんて言いながら、羊羹をのせた小皿を御崎の前に置く。親子で似たような心配をしている。
「和菓子、好きなんです。ありがとうございます」
 御崎は礼儀正しく言った。
 それならよかった、と笑って母さんは俺と自分の前にも小皿と湯吞みを置き、俺の隣、食卓を挟んで御崎の斜め前に座る。
「この子は結構渋いおやつをよく食べるのよね。おせんべいとか甘納豆とか」
「それは家のお菓子にそういうのが多いからだよ。外ではもっと若者らしいものも食べてるよ」
「あらそうなの? 若者らしいものって何よ」
「……フライドポテトとか、コンビニのチキンとか」
 どうでもいい会話を、御崎は笑顔で聞いている。
 優雅に菓子楊枝で羊羹を一口大に切って口に運び、
「山岸くんのお祖母様は、にお住まいなのかな」
 湯吞みを手のひらで包みながら言った。
 俺と母さんの、羊羹を切る手が止まる。
「どうして?」
「え、俺言ってないよね」
 御崎は俺を見て、次に母さんを見て答えた。
きゆうのお菓子ですよね。名古屋市内に店舗のある……さっき、お祖母様がお菓子を送ってくれたと山岸くんが話していたので」
 俺はキッチンへ行き、羊羹の箱の裏を確認した。店の名前なんて気にもしていなかったが、確かに御崎の言ったとおりの店名が記されている。
「ほんとだ、伊勢久兵衛って書いてある」
「すごい、味でわかるのね」
「いえ、たまたまです。以前お土産にいただいたことがあって、とてもおいしかったので憶えていただけで」
「記憶力いいなあ」
「格付けチェックとか出られるんじゃない?」
 御崎はなんでもできる、と橘田が言っていたが、本当だったようだ。
 親子二人ですごいすごいと騒いでいたら、御崎は困ったように眉を下げる。
「本当にたまたま食べたことがあっただけだから、そんなに誉められるといたたまれない」
 謙虚ね、と母さんは笑った。
「でもさ、記憶力って名探偵のひつスキルじゃない? 俺が落とした本の表紙までちゃんと見て、憶えてたり……」
 細かいところまで見落とさない観察力と、それを記憶しておく力がなければ、必要な情報がそろったときに推理することすらできないのだ。フィクションの有名な名探偵たちを思い浮かべながら俺が言うと、御崎は頷いて肯定した。
「情報を結びつける頭の働きが推理だから、それはそうかもしれないね。僕が興味があるのは、どちらかというと、論理パズルみたいなロジックより、人の行動とか心情のほうなんだけど……」
「犯人の動機とかそういうのだよね」
「そうだね。犯罪に限らず、どうしてその人はそういう行動をとったのか、とか」
 推理? 動機? と母さんが話についていけなくなっていたので、「さっきそういう話をしてたんだ」と説明する。
「御崎くん、謎解きとか好きなんだって。さっきもテレビ観てて俺が好きなキャラ、すぐ当てられちゃって」
「それは巧がわかりやすかったんじゃなくて?」
「う、それもあるかもしれないけど……」
 母さんには、普段テレビにくぎづけになっているところを見られているので反論できない。
 この話題を続けると御崎の前で恥ずかしい思いをすることになりそうだったので、俺は口をつぐんだ。
 三人とも同じくらいのペースで羊羹を半分食べたところで、
「そうだ。それならちょっと聞いてもらえないかな。困っていることがあって」
 母さんが、思いついたように言い出した。
「これも謎といえば謎だから、御崎くんの意見を聞きたいんだけど」
「僕にお手伝いできることなら」と、御崎は優等生の返事をする。
「えっ何? 俺も聞いたことない話?」
 母さんは頷いて話し始めた。
「私の勤務先が管理している物件で、困ったことが起きてるの。『きたまちユニオンビル』っていう建物で、私がそこの担当なんだけど」
「北町ユニオンビル」は、中小企業のオフィスや、店舗が入っている七階建てのビルで、二階から七階まで各階にトイレが設置されているのだが、ここ一か月ほど、四階の女子トイレでいたずらが続いているのだと、母さんは説明した。
「トイレの、二つ並んだ個室のうち、一つがいつも汚されてるの。水浸しになっていたり、大量のトイレットペーパーが詰まって使えなくなっていたこともあった。テナントから苦情があって、そのたびにうちの管理会社から清掃員を出していたんだけど、きりがなくて。トイレのドアに『マナーを守って使用してください』って張り紙をしたけど、効果がないの」
 同じ人のしわざじゃないかなと思うのよ、と困った表情で続ける。
「別のフロアの人とか、外部の人かもしれない。二つしかない個室が一つ使えなくなると、四階のテナントの人や、そこへ来るお客さんは困るでしょう。嫌がらせをされるような心当たりはないか、連絡をくれた四階のテナントの人に訊いてみたんだけど、覚えがないって……」
 四階に入っているテナントは、エステサロンと、人材派遣会社の二軒らしい。別の階の誰かとトラブルになったというようなことはなく、嫌がらせをしそうな顧客も思い当たらないという。
「汚されている個室は、いつも、同じ個室なんですか?」
 御崎の質問に、母さんは、「そういえば、そうね」と頷く。
「いつも向かって左側、出入り口に近いほうの個室。それもあって、同じ人のしわざだと思ったの。いつもなんとなくこっち側の個室に入っちゃう、っていう、癖みたいなのってあるでしょう」
 故意に汚しているかは別として、向かって左の個室が犯人のお気に入りということらしい。
「両方の個室を使えなくされているなら完全に意図的なものだと言えるけど、一つだけだから、誰かがうっかり詰まらせただけかもしれないと思うと、余計に対処がしにくくて……。毎朝業者に清掃に入ってもらっているけど、土日は清掃は入らないから、土日にいたずらをされちゃったときは、私が直接行って掃除したこともあるの。それで私は現場を見て、これはわざと汚したんだな、って印象を受けたけど……上司は、もうしばらく様子を見たらって。でも、あんまり続くから、さすがにこれは意図的だろうと思って」
 なんとかして犯人をつきとめたり、やめさせたりできないか、考えているんだけど……と言って、母さんは俺と御崎とを見比べた。
 いくら御崎でも、そこまでは無理だよ、と俺は言いかけたが、御崎は、真剣な表情で何やら考え込んでいる。
「それは……ちょっと、放っておかないほうがいいかもしれない」
 俺たちに向かってというより、独り言のような調子で御崎は言った。
 え、と俺が訊き返すと、彼は顔をあげ、今度は母さんのほうを見る。
「警察に、相談したほうがいいと思います。叔父が組織犯罪対策本部にいるので、先に話を通しておきますから……問題の女子トイレを、きちんと調べてもらってください」
「えっ、ちょっと待って、いたずらに対して大げさじゃない? そりゃ、わざとやってることなら問題だけど」
 俺は慌てて声をあげた。
 そもそも警察が相手にしてくれるのだろうか。トイレを汚す、という迷惑行為が何らかの犯罪に当たるとしても、意図的であるということを証明できなければ罪にはならないだろう。
 御崎の叔父のコネクションで、話くらいは聞いてもらえるかもしれないが、具体的な対策をとってもらえるとは思えなかった。
 しかし御崎は眉根を寄せたまま、「調べたほうがいい」ともう一度言う。
「四階のテナントの人への嫌がらせ、あるいは、管理会社への嫌がらせという可能性も考えられるけど……もしかしたら、犯人の目的は別のところにあるかも」

       *

 母さんの勤務先に、警察から連絡があったのはその二日後だった。
 担当の警察官は、今度またいたずらをされたら、四階の女子トイレを使用禁止にして警察に連絡をするように、ビルの利用者にもそう伝えるように、と母さんに念を押した。
 連絡を受けた、まさにその翌日、四階女子トイレの左側の個室が水浸しにされているのをエステサロンの店員が見つけて管理会社へ電話をかけ、それを受けた母さんは言われていた通り、警察に連絡をした。
 本当にこんなことを捜査してもらえるのか、と半信半疑だったそうだが、すぐに警察官が二人来てくれ、母さんの立ち会いのもと、使用禁止の張り紙をした四階の女子トイレに立ち入って個室内を調べ――そこから、犯罪の証拠を発見した。
 巧妙に細工され仕掛けられた、小型の隠しカメラだった。
 その後警察官がトイレのそばの給湯室に隠れて張り込み、カメラを回収しに来た犯人――女性だったらしい――をつかまえて話を聞いたところ、彼氏に言われて仕方なく盗撮用カメラの設置を引き受けたと白状した。四階のエステサロンの客や店員を狙ってのことだったという。
「犯人、逮捕されたそうだね。よかった」
 学校からの帰り道、並んで歩きながら御崎が言った。
 その手には、大小の紙袋が二つ提げられている。大きいほうが洗濯済みのスウェットの上下で、小さいほうは菓子折りだ。
『改めてお礼がしたいのでご自宅にお邪魔していいだろうか』と昨夜、メッセージアプリに連絡が来たので了承した。母さんにそれを伝えたら、「夕食を一緒にって誘っておいて」と張り切っていた。推理が的中したことで、ますます御崎を気に入ったらしい。その気持ちはよくわかった。俺も、事件の話を聞きたくてわくわくしていた。
「学校で渡してくれればよかったのに」
「荷物になるだろう。借りたのはこちらなのに、君に負担をかけるのは心苦しい」
 御崎は断固として、二つの紙袋を自分で俺の家まで持っていくと言って聞かなかったので、俺は通学鞄だけを持って歩いている。
 カメラを仕掛けた女性の恋人は、駅での盗撮行為を運悪く地元の半グレグループ――暴力団には所属せず犯罪を行う若者の集団――の一員に見つかり、それをネタに脅されて、盗撮映像を上納することを強要されていたそうだ。
 主犯ともいえるその恋人に警察が話を聞きにいったところ、半グレに脅されているので助けてほしいと、反対に泣きつかれた――と、これは御崎が、組織犯罪対策本部に所属する叔父から聞いて教えてくれた話だ。
 詳しく聞こうと、周囲に人がいないのを確認して口を開きかけたとき、御崎が何かを見て「あ」と小さく声をあげた。
 その視線の先を見ると、数メートル向こうで、ぶちすけが、のたりのたりと塀の上を散歩している。
「あの猫……ぶちたろうだったかな」
「ぶちすけね」
「ぶちすけ。……ケガをしていたようだから、飼い猫なら、動物病院に連れていくか、せめて手当てはしたほうがいいと思う」
 ぶちすけが足を引きずっている様子はなく、いつも通りに見えたが、御崎は慎重に言った。
 動物には好かれないと言っていたが、本人は意外と動物好きなのだろうか。助けたことで情が湧いたのかもしれない。
「管理人さんに言っておくよ。でも、つかまえて病院に連れていくのは大変かも。割と暴れん坊だから」
「それは体感したよ」
 御崎の手の甲と手首にはまだ絆創膏が貼られている。
 ぶちすけより御崎くんのほうが重傷だったかも、と俺が言うと、御崎は優雅な足取りのぶちすけをもう一度見て苦笑した。
「見たところ元気そうだから、大丈夫なんじゃないかな」
「そうだね。たくましいな」
 少し速足になってぶちすけに追いつき、隣に並ぶ。御崎は歩きながら塀の上の猫を見上げ、「やあ」と声をかけた。
「さっきは名前を間違えて失礼をしたね」
 ぶちすけはちらっと御崎を見たが、すぐに興味を失った様子で目をらし、さっと塀の反対側へ飛び降りてしまった。
 イケメンでも名探偵でも、猫には関係がないようだ。
「例のビルの女子トイレのことだけど」
 俺が口を開くと、残念そうにぶちすけのいたあたりを見ていた御崎がこちらを向く。
「いたずらした犯人の証拠を探すために警察を呼んだのかと思った」
 御崎は、ゆるく首を横に振り、
「僕が調べてもらうように言ったのは、いたずらをされていないほうの個室だよ」
 前を向いて歩き出した。
「いつも同じ、左側の個室ばかりいたずらされると聞いたから、そこに何か理由がありそうだと思ったんだ。嫌がらせなら、両方の個室を使えなくしたっていいはずだろう。左の個室を使えなくするということは、右の個室を使わせたいってことなんじゃないかって……だとしたら何のためだろうと考えて、盗撮目的の可能性に思い至ったんだ。問題の女子トイレがある四階には、エステサロンが入っているそうだから、女性客が多そうだしね」
 そして御崎の言ったとおり、右側の個室からは盗撮用の隠しカメラが見つかった。
 犯人は、撮れ高のために――盗撮用のカメラを仕掛けた個室に人が入るように、もう一つの個室を使えないようにしていたのだ。
 あのとき、母さんの話を聞いただけで、御崎はすぐにその可能性を思いついたのか。
「すごい……! 美少女探偵キューティーホームズみたいだよ」
「び……?」
 御崎は怪訝な表情になったが、すぐに、あのとき観ていたあれか、と思い当たったようだ。
「いや、思いつきがたまたま当たっただけだよ。そのうち誰かが気づいたさ。こんなの、大した謎じゃない」
「でも、俺は全然気づかなかったよ。一緒に話を聞いたのに……母さんも」
 言われてみれば、納得できることだった。
 自分たちは、どうして気づかなかったのか。母さんも、もっと早く気づいていれば、盗撮の被害を食い止められたのにと悔しそうにしていた。
 俺がうつむいて言うと、御崎は「それは」と声をあげる。
「僕は君たちより少しだけ、悪人の行動や考え方に詳しいだけだ。そういうものを目にする機会が多かったから」
 顔をあげると、目が合った。御崎は真剣な表情で俺を見ている。
「気づかなかったのは、君たちがいい人だからだ。こんなことをする人間がいるなんて、思いもつかなかったんだ。君たちが、こういった下劣な発想から遠いところにいる証拠だよ」
 こんな風にまっすぐに人間性を肯定されたのは初めてで、言葉を失う。
 まるで自分が、正しくて美しいもののような気分になった。
 それは錯覚だとしても――ただ慰めるために言ったわけではなく、御崎が心からそう思っているのは、彼の表情を見ればわかった。
 嬉しくて、誇らしくて、泣きたいような気分になる。
 そして、御崎と、もっと仲良くなりたいと思った。
 ありがとう、とも、嬉しい、とも、君と友達になりたい、とも、彼のようにストレートには言えなくて、俺はそのかわりの言葉を探す。
 何か、自然な、友達らしい言葉を。
「週末、映画、観に行かない?」
 やっと出てきたのはそんな言葉だった。
 御崎は驚いた表情で俺を見た。たっぷり三秒間目を見開いた後で、ぱちぱちと二回瞬きをして、「かまわない」と言い、それから、はっとしたように言いなおす。
「是非行きたい」
 俺たちは見つめ合って、へへへと笑った。
 友達ができた。

(気になる続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:学園の魔王様と村人Aの事件簿
著 者:織守きょうや
発売日:2025年04月25日

秘密×友情×男子高校生ミステリ!

ライトノベルが好きな普通の男子高校生・山岸巧(やまぎし・たくみ)は別のクラスの眉目秀麗な生徒・御崎秀一(みさき・しゅういち)に本を拾って貰い、彼のスマートさに憧れを抱く。しかし御崎には、ヤクザの孫だとか、先輩をたたきのめしたなどの不穏な噂があった。ひょんなことから御崎のたぐいまれなる推理力を知った山岸は、彼の助手として学校や町で起こる事件の解決に挑むことに。「片方の個室だけいたずらされるトイレ」「犯人を見ても名乗り出ない目撃者」「酔って寮から転落死した先輩」「半グレの仲間割れ殺人事件」。些細な違和感を見逃さず、魔王・御崎は予想外の真相を導く!

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322410000627/
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著者プロフィール

織守きょうや(おりがみ・きょうや)
1980年イギリス・ロンドン生まれ。2013年、第14回講談社BOX新人賞Powersを受賞した『霊感検定』でデビュー。15年、第22回日本ホラー小説大賞読者賞を受賞した『記憶屋』は、シリーズ累計35万部を超えるベストセラーとなる。その他の著作に『SHELTER/CAGE』『黒野葉月は鳥籠で眠らない』『響野怪談』『花束は毒』『学園の魔王様と村人Aの事件簿』『彼女はそこにいる』などがある。


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