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試し読み

【試し読み】文庫化記念! 大ヒット『悪い夏』著者・染井為人による戦慄のダークサスペンス『黒い糸』冒頭を大ボリューム特別公開

「病気って、どういう?」
「網膜色素変性症という指定難病でして、健常者よりも視野が狭いんです」祐介は指で輪を作り、双眼鏡のようにして両目に当てた。「こんな具合に、わたしが見えているのは、ほぼ真っ正面のみ、つまり間接視野というものがほとんどないんです」
 発症したのは大学二年生の夏――実際は、もっと早い段階で発症していたのかもしれないが、何かおかしいと自覚したのは、その頃だった。
 当時、祐介は野球部に所属していたのだが、簡単なフライを落としてしまうことが増えた。一瞬、視界からボールが消えてしまうのだ。
 ただ、すぐには病院には行かなかった。きっと疲れているだけだろう、少し休めば治るはずだ、そう信じて疑わなかったからだ。
 だがある日の朝、実家の車を運転しているときに、人をいてしまいそうになったことで、いよいよ自分の目が信じられなくなった。そこは見通しのいい交差点で、相手はふつうに歩いていただけだったのだ。
 はたして眼科で診察を受け、網膜色素変性症という診断を下された。
 祐介は頭の中が真っ白になった。この病気は一過性のものではなく、一生治ることはないと、はっきり告げられたからだ。また、年月を経て、さらに視野が狭まれば、いつか失明する可能性があるとも言われた。
「指定難病なんだ……それはたしかに大変。でも、失明する可能性もあるけど、しない可能性もあるってことでしょ?」
「まあ、そうですね」
「だったら、そっちの方を信じなきゃ。きっと、大丈夫」
 明日はきっと晴れるわよ、そんな軽い響きだった。だが、不思議と不快な気持ちにはならなかった。
 ここで、平山亜紀がハッとして腕時計に目を落とし、「いけない。そろそろ帰らなきゃ」といきなり席を立った。「今日はありがとうございました。失礼します」
 彼女は慌てて応接室を出ていく。
 祐介は見送りについて行き、「このあと何かご予定があるんですか」と彼女の横に並んでいた。
「もう少しで、スーパーの特売が始まっちゃうの」
 つい笑ってしまった。
「大変なのよ、主婦って」
 玄関先で別れのあいさつを交わし、平山亜紀を見送った。彼女は「また相談に乗ってくださいねー」と親しげに手を振り、小走りで去って行った。
 祐介は肩を揺すって笑った。平山小太郎の母親はなんだかおもしろい人だ。
 離れてゆく彼女の背中は、西日で赤く染まっていた。それが遮光レンズ越しでもまぶしく感じられ、祐介はきびすを返して室内に戻った。
 病気の進行を遅らせるためには、極力強い光を避けなくてはならない。
 なぜ網膜色素変性症などという病魔に自分が襲われたのか、その理由はよくわからない。両親にも、親族にも、同様の病気を患っていた者はいないのだから。
 だが、発症してしまった以上、野球も、車の運転も、恋愛も、結婚も、すべて手放すしかなかった。もし視力を失えば、いずれパートナーを苦しめることになるだろう。なにより、網膜色素変性症の遺伝率を思えば、子を持つなど考えられなかった。その確率は、けっして気休めや、希望的観測で乗り越えられるような数字ではないのだ。
 だから祐介は、当時付き合っていた恋人に病のことを一切告げず、あいまいな言葉を並べて別れを選んだ。
 代わりに、教師になるという夢を抱いた。将来など霧の向こうだった自分にとって、それは初めて見えた明確な道だった。
 自分の子を育てられないのなら、せめて他人の子を――。
 今思えば単純で、浅はかな動機だったと思う。もしかしたら、学園ドラマなんかに感化されていたのかもしれない。
 だが、夢をかなえてみて、待っていたのは理想とはかけ離れた現実だった。
 教育の現場には、白黒のつけようもない問題がいくつも渦巻いていて、結局は曖昧なまま見過ごすしかなく、己の無力さに打ちのめされるばかりだった。
 それでも、教師を辞めようと思ったことは、なぜか一度もない。

「娘が忘れ去られることが怖いんだろ」
 と、半笑いで答えたのは、居間の中央でせっせと腕立て伏せを行う風介だ。ブリーフ一丁なので、各部位の筋肉の動きがよくわかる。
 祐介は帰宅後、放課後に小堺夫妻と交わしたやりとりのことを、兄に話してみたのだ。
「人々の記憶から娘の存在が徐々に失われて、気がついたら事件そのものが風化しちまってるってのが怖くてたまらないのさ。だから、夫婦揃って騒ぎ立てんだよ」
 この意見については素直になるほど、と思った。この変人は、人に共感する能力が欠落しているが、矛盾したことに洞察力にはやたらけている。
「ビラ配りなんか、まさにそうさ」
 風介が額に浮かんだ玉の汗をタオルでぬぐってから補足した。そんな様子をソファーに座りながら眺めている祐介が、「どういうこと」とたずねる。
「事件後すぐならまだしも、二ヶ月が経った今、そんなことをしたって無意味だと思わないか。だいいちメディアでも散々取り上げられたわけだから、世間の大半は事件の詳細を知ってるし、持ってる情報があれば、とっくに警察に提供してるに決まってるだろ」
「まあ、たしかに」
「だからこれ以上、新たな情報は出てこない。きっと、両親も心の奥底じゃそれをわかってるはずさ。じゃあ、なんで彼らがビラ配りを止めないのかわかるか」
「さあ」
「精神が崩壊しちまうからだ。じっとしていることに耐えられないから、あくせく動き回るのさ。もっと言うと、自分たちがそうした活動をやめてしまったら、永遠に娘が返ってこないような気がしてんだろう」
 これにも、なるほど、とうなずかされた。
「ま、それを差し引いても、ちょっと異常な気がするけどな。その小堺夫妻とやらは」
 兄貴でもそう思う、と訊こうとしたが、祐介はあえて別の言い方をした。
「兄貴よりも?」
 彼はこれを無視した。
「ただ、おれは担任の女教師との事件当日の電話でのやりとりについては、小堺由香里の主張の方が正しいんじゃないかって気がするけどな」
「ウソだろう。そんなことありえないよ」
 警察に通報するのはまだ早い――これを飯田美樹が発言したか否か問題だ。
「そうか。ふつうに言いそうなもんだろう」
「もしそう言ったなら、言ったと認めてるだろう」
「認めないね。とことんシラを切り通す。人間なんてそんなもんさ」
「罪悪感は抱かないわけ?」
「だから、メンタルが崩壊して休職したんだろ」
 そうなのだろうか。そんなふうに言われると、そんな気もしてきてしまう。
 だが、だとしても飯田美樹には同情する。彼女はその電話のあと、自ら櫻子を捜索しているのだ。
「それはそうと、娘の櫻子ってのはどんな子だったんだ?」
「明朗、活発、だったみたいだけど」
「みたいって、おまえ自身はまったく知らないのか。自分の学校の児童なのに」
「全校児童で何人いると思ってるんだよ。自分が受け持ってるクラスや学年じゃなければわかるわけないさ」
「ふうん。そんなもんか」
「そんなもんさ――で、どうして櫻子のことが気になったのさ」
 この人は理由もなく、弟に質問をしない。何かしら興味が湧いたのだ。
「そうした奇天烈きてれつな両親の血を受け、育てられた子はどんなガキなんだろうと思っただけさ。さぞや、ヒステリックな少女だったんじゃねえかってな」
「そんなことなかったみたいだよ。まあ、それなりに気は強かったらしいけどね」
 ゆえにクラスの児童の中には、小堺櫻子のことを苦手に思っていた子もいたと聞く。
「けど、櫻子も成長するにつれて、母親のようになっちゃうんだろ。兄貴の言い分だと」
「別におれの言い分じゃないさ。ただし、そうなる可能性は高いだろうな。子の性格の半分は親からの遺伝で決まるんだ」
「その手の話を聞かされると、気がるよ」
「なんだよ、その手って」
「カエルの子はカエルだし、うりつる茄子なすびはならないし、トンビがたかを生むのは幻想なんだろ」
「トレーニング中に笑わせんなよ」
「全部兄貴が言ってた話だろう」
「おれは常に例外はあるとも言ってるはずだぜ。トンビが鷹を生んだ例なんていくらでもあるからな。ま、それも実は、親であるトンビに鷹の資質が内在してたってことなんだけどな」
 風介は腕立て伏せをやめ、床にあぐらをいて座った。パンプアップされているので、ふだんにも増して両胸がこんもりと盛り上がっていた。肩など滑り台のような角度がついている。
 兄が筋トレにハマり出したのは十年ほど前、三十歳の頃だった。それまでは風が吹けば飛ぶほどガリガリだったのに、今ではボディービルダーのようなたくましい肉体を誇っている。
「なあ。兄貴は何が楽しくて、そんなに身体を鍛えてるんだ」
 だが、風介はこの質問には答えず、「いいか、弟よ」と顔を指差してきた。
「たしかに、おれのしている研究は身もふたもない、希望がないもののように映るかもしれない。けどな、だからこそ、世の中に必要なんだ――って、昨晩も話しただろう。まさか、聞いてなかったのか」
 ほとんど聞いてなかった。せっかくのごそうがまずくなるからだ。
「だったら改めて話してやる」
「いや、結構」
 そう断ったのだが、風介はこれも無視して、「大前提として人のDNAというのは――」と昨夜同様の切り口で話を始めようとしたので、祐介は「本当に大丈夫だから」と両手を突き出して拒否をした。
「ダメだ。聞け」
「どうせ最後には、人間は環境じゃなく、遺伝子によって人格や才能が形成されてるって話に帰結するんだろ。もうお腹いっぱいだよ」
「だからそこがわかってないって言ってるんだ。おれが本当に伝えたいのは、遺伝がもたらす力が半分しか受け入れられていない現代社会はどうなんだってことだ。半分というのはたとえば、短距離走の選手の子は足が速い、歌手の子は歌がい、学者の子は勉強が得意だ、こうした常識として世間に認知されているものがある一方、はたしてこれらを逆にして考えたときにはどうだろう。それらは生活環境や、本人の努力次第で向上すると世間一般では考えられているじゃないか。だけども、それは聞こえのいい物語でしかないし、ここに現代社会の闇があるとおれは考える。どれだけ努力しても足の遅い子はいるし、訓練したって音痴を矯正できない子もいる。それと同じように、どんなにがんばろうが勉強のできない子だって一定数、確実に存在するんだ。学校の先生であるおまえなんか誰よりもわかってるだろう」
「あのさあ、兄貴――」
「もっと言えば、親が陽気なら子も明るい性格になる。これを逆にすると、親がいんうつなら子も暗くなるという論理が成り立つし、実際にそうした研究はなされていて、答えも明確に出ている。その答えはイエスだ。しかし、世の学校教育はそうした子どもの存在に蓋をするし、研究成果から目をそむけるだろう。だから不登校や学級崩壊なんかが起きるし、いつまで経っても大人になりきれず、社会にめない人が出てきちまうんだ。要するに、何事も本人の意識や、がんばりによって乗り越えられるという教えこそが悪で――」
 祐介はソファーを離れ、逃げるように脱衣所へ向かった。
 すると、風介が後ろをついてきた。
に入らせてくれよ」
「まだ話は終わってない」
 彼はそう言って、脱衣所の中までついてきた。
「つまり、我々が本当に目を向けなければならないのは、環境や教育ではなく、まずは遺伝子そのもの――」
 祐介は両手で兄の背中を押して、力ずくで追い出した。すぐさま脱衣所のかぎを閉める。
 さっと衣服を脱ぎ、浴室に入った。
 そうしてシャワーを浴びていると、
「つまるところ、人は生を受けた時点であらゆる能力の限界値が決まっているんだ。伸び代はけっして無限では――」
 と、再び風介の声が響いた。
 驚いて振り返ると、りガラスに兄の姿がにじんで映っていた。どうやら脱衣所の施錠を解いたらしい。爪を差し込めばなんなく開いてしまうのだ。
「頼むから、勘弁してくれよ」
 だが、この変人が聞き入れるはずもなく、彼は磨りガラス越しに延々としゃべりつづけるのだった。
 湯船にかってもなお、兄の演説はつづいている。
「現代人が抱える不幸の根源は、平等という概念を取り違えたことにある。そこから逆説的に差別意識が肥大し、ゆがんだかたちで社会をむしばんでいるのだ。人は生まれながらにして、できる者とそうでない者に分かれている。これは厳然たる事実であり、誰にもあらがえぬ現実だ。それを無理にならそうとするのではなく、差異を前提としたうえで、どう共に生きるか――その視点こそが、社会のいしずえであるべきではないか。それを誤れば、この先、我々人類は、より深い不幸へとちて――」
 祐介は鼻をつまみ、頭ごと湯の中に潜り込んだ。これでようやく声が遮断された。
 なぜ自分は、よりによって、あんな変人を兄に持ってしまったのか。
 というより、本当に自分たちには同じ血が流れているのか。
 湯の中で、ふと疑念が湧いた。
 自分と兄は、性格も顔立ちも、思想だって似ても似つかない。
 一度、真剣にDNA鑑定でもしてみようか――そんな考えが一瞬、のうをかすめたが、それをすること自体が、兄の説を全面的に認めることと気づき、祐介は顔をしかめた。

 翌朝、祐介は雨音で目を覚ました。ベッドを出て、カーテンを開くと、眼下にれそぼった街並みが見えた。空は悲しいほどどんよりとしている。
 祐介はため息を漏らし、だらだらと身支度を始めた。別室の風介はまだ眠っているようだ。彼はフレックス勤務なので、毎日起床する時間がばらばらなのだ。
 それにしても、昨夜は散々だった。風呂を出たあとも延々と説を浴びせられたのだ。兄の話を聞いていると、人が行うすべての努力は無駄に思えてくる。
 焼いた食パンにバターを塗って、コーヒーで流し込んだ。その間、テレビで天気予報を見ていた。気象予報士によると、関東は終日雨らしい。
 やがて出勤の時間が迫り、祐介はテレビを消して、ひっそりと家を出た。
 白い息を吐き、透明のビニール傘を差しながら、バス停を目指す。勤務先までは電車を使った方が早いのだが、三十歳を過ぎてから駅で人とぶつかることが多くなった――つまりは病気が進行した――ので通勤手段を変えたのだ。朝から舌打ちをらいたくない。
 そうして沿道を歩いていると、後方から自転車に乗ったサラリーマンがやってきて、追い越された。彼はペダルをぎながら、器用に黒い傘を片手で差していた。
 祐介には、絶対にできない芸当だった。
 自動車はもちろん、自転車にも乗れない。傘は透明のものしか持てない。今さら悲嘆に暮れることもないが、ふつうというものに対してうらやましく思う気持ちはいまだにある。
 バスを一回乗り継ぎ、目的の停車場で下車した。ここから十分程度歩けば、旭ヶ丘小学校に着く。まだ七時なので辺りを歩いている児童の姿はない。
 校庭には、大小のみずまりができていた。我が校の校庭はやたら水はけが悪いのだ。今日明日の体育の授業は体育館になりそうだ。
 職員室に入ると、電話を受けていた事務職員が、「あ、ちょうど長谷川先生がいらっしゃいました」と言って、祐介に受話器を持ち上げて見せた。
「佐藤日向さんのお母様からお電話です」
 祐介は電話を代わり、「もしもし、長谷川です」と応答した。
〈おはようございます。娘の日向なんですが、夜中からお腹を下していて、なので本日学校をお休みさせて――〉
 相変わらず若い声だった。以前にも一度、電話で話したことがあるのだ。
 もっとも、祐介はまだ、佐藤日向の母親と顔を合わせたことはない。
 今年に入って早々、就任あいさつのために六年二組の保護者に教室に集まってもらったのだが、佐藤日向の母親は都合がつかず、欠席をしたのである。
 ちなみに、そのときは平山小太郎の母の亜紀も欠席した。彼女たちは共にシングルマザーなので仕方ないだろう。
「昨日は元気な様子だったので心配ですね」
〈ええ、おそらく昨夜の夕飯に食べた生魚が当たったのかなと思うんですけど〉
「ああ、なるほど。病院には行かれるんでしょうか」
〈いえ、発熱もしていませんし、今はだいぶ治まっているようなので、このまま自宅で様子を見ようかと思います〉
「そうですか。最近、日向さんは倉持莉世さんと仲良くしているようで、少しずつ学校にも慣れてきたのかなと思っているんですが、ご家庭ではいかがでしょうか」
〈ええ。本当に莉世ちゃんのおかげで。家でも学校のことや莉世ちゃんとのことを楽しそうに話してくれます。転校してすぐにああいう事件が起きてしまったものですから、娘もしばらくはふさぎ込んでいたんですが、最近になってようやく笑顔を見せてくれるようになったので、親としては心からホッとしているんです〉
「そうですか。それは何よりですね」
〈はい、本当に。長谷川先生、短い期間ではありますが、卒業まで日向をよろしくお願いします〉
「こちらこそ。では、お大事に」
 電話を切ったあと、祐介はノートパソコンを立ち上げ、クラス児童の身上書のデータが入っているフォルダを開いた。そこから佐藤日向のファイルを探し出し、クリックする。
 事故で父親を亡くした上、転校して早々にクラスメイトの、それも唯一親しくしていた友人を失ったのだから、佐藤日向も、そして母親もつらいところだろう。
「ん?」
 祐介はまゆをひそめた。
 佐藤日向の保護者の欄に、佐藤せいと名前が記されているのだが、彼女の生年月日の記載がおかしいのだ。
 これを計算すると、母親の年齢は現在二十四歳になる。娘の日向の年齢はもちろん十二歳だ。
 これはいったい――。
 祐介が口に手を当て、思案にふけっていると、「長谷川先生。そろそろ行きましょうか」と渡辺が声を掛けてきた。
 毎朝、三人の教師が校門に立ち、登校してくる児童を出迎えるのだ。これは交代制で行われており、今日は六学年を担当している自分たちの当番なのである。
 祐介はダウンコートを羽織り、渡辺と湯本と共に職員室をあとにした。
 傘を頭上に掲げながら校門に向かう途中、祐介は佐藤日向の母親の年齢のことを話題に挙げた。
 すると渡辺が、「びっくりしますよね。彼女が転校してきたときに、我々六学年の教師の間でも話題になりましたもん」とニヤニヤして言った。
「おそらく日向ちゃんは亡くなった父親の子で、今の母親は再婚相手なのよ」これを言ったのは湯本だ。「なのに、父親の方が先に亡くなってしまったものだから悲劇よね。だって母親からすれば血のつながってない子を、これから一人で育てていかなきゃいけないわけでしょう。ちなみにこの血縁関係のこと、飯田先生もどこまで深掘りして聞いていいのかわからないって、しばらく悩んでたんですよ」
 そこはしっかりと把握しておかなくてはまずいだろう。なぜなら日向本人は今の母親を実母と認識している可能性もあるのだから――いや、それはありえないか。聖子の年齢を考えれば、再婚時期は遠い昔ではないはずで、となれば日向は彼女がままははであることを知っていることだろう。
 なにはともあれ、佐藤宅はかなり複雑な家庭環境にあるようだ。
「あー寒ぃー。冬の雨は最悪だな」
 校門に到着したところで、渡辺が傘を持つ手に白息を吹きかけて言い、湯本が「ほんと。春が待ち遠しいわよねえ」と同調した。
「春といえばはるかわ先生、四月からまた育休に入るみたいっスね」
「ああ、そうらしいわね」
 春川というのは、二年一組の担任の三十二歳の女性教師で、数ヶ月前に懐妊の報告があったのだ。
「これで四人目でしょう。すごいわよねえ」
「ほんと、すごいですよ。うちなんて息子一人ですけど、めちゃくちゃ手が掛かって四苦八苦してるのに」
 それから二人は、春川が出産のたびに育児休暇を取っていることを「羨ましい限り」と言い合った。
「だから春川先生って、実質は五年くらいしか現場に出てないのよ」
「あ、そういうことになるのか。でもその間、給料は出てるわけですよね」
「そりゃそうでしょう」
「うーん。なんかそれもなあ」
「ねえ」
 そんな会話を交わす同僚たちを、祐介は冷ややかな目で見た。きっとこういう人たちの存在も、日本の少子化の一因なのだろう。
「何にしても、春川先生がいなくなったら、ちゃんと教員を補充してくれるんスよね。こっちにまで累が及ぶのは勘弁ですよ」
「わたしだってイヤよ、また合同授業がつづいたりなんかしたら」
 小堺櫻子の事件後、担任だった飯田美樹が休職してしまったため、しばらくの間、この二人が六年二組の授業を分担して受け持っていたのだ。
 これを解消するために、今年から祐介が六年二組を任されることになり、それまで祐介が見ていた四年一組は臨時的任用職員が受け持つこととなった。この人物を探すのも、相当苦労したと聞いている。
 教員不足はここ千葉県に限らず、全国的に大きな問題だった。二十年前、祐介が教員を目指した頃は倍率が高く、狭き門だった。たとえ教員試験に受かったとしても空きがなく、採用されるのは一部の人たちだけだった。それが今やこの有様である。
「あーあ。飯田先生、どうにか復職してくんないかな」
 渡辺がこのようにぼやくと、「渡辺先生は別の意味でも、飯田先生が恋しいんでしょう」と湯本がおちょくるように言った。
「やめてくださいよ。こっちは妻子持ちなんですから。ただ、飯田先生、ダイエットされて、ぐっとれいになりましたよね――ね、長谷川先生」
 と、同意を求められたが、祐介はうなずけなかった。というのも、飯田美樹の体型の変化を感じたことなど一度もない。
 正直にそう伝えたところ、
「えー、めちゃくちゃせたじゃないですか。去年の今頃はもっとふっくらしてたでしょう」
 言われてみればそんな気がしないでもないが、あまりイメージはできなかった。正直、飯田美樹に関心を払ってこなかったというのが本音だ。
「けど、あれって、本当にダイエットで、ああなったのかしらね」
 湯本が含みのある言い方をした。
「じゃなかったら、なんなんです? もしかして心労ですか」
「それも多少はあるんだろうけど、ほかにも理由があるんじゃないかしらって、わたしは思ってるけど」
「ダイエットでもなく、心労でもなく、ほかの理由……」
 そんなやりとりの最中、傘を差した児童らが登校してきた。みな、何人かのグループで固まって歩いている。
 小堺櫻子の事件以来、基本は班ごと、最低でも二人で登下校をするように児童たちに指導しているのだ。
「おはようございます」とあいさつをするたびに、「おはようございまーす」と児童らの元気な声が返ってくる。
 冬だろうと、雨だろうと、子どもは笑顔だからいい。仏頂面をしているのはいつだって大人だ。
 そこに真っ赤な傘を差した、一際背の高い少女が、下級生を引き連れてやってきた。倉持莉世だ。
「倉持さん、おはようございます」と祐介が声を掛ける。
「おはようございます。日向ちゃん、今日はお休みだそうです」
 今朝、彼女は佐藤宅まで日向を迎えに行ったらしい。
「うん。今さっき、佐藤さんのお母さんから連絡をもらいました」
「長谷川先生、今ちょっといいですか」
「ん?」
「ちょっと」
 そうして、祐介は少し離れた場所へ連れ出された。
 ここで雨音が大きくなった。みずまりに打ち上げ花火を連発したような水紋が起きている。
 ブロック塀の前で、共に傘を差しながら向かい合ったところで、莉世が切り出してきた。
「長谷川先生は、日向ちゃんのお母さんと会ったことありますか」
「いや、まだ直接は会えてないんだ。佐藤さんのお母さんがどうかしたのかい」
 くと、彼女はややしゆんじゆんした素振りを見せてから、「日向ちゃん、危ないかもしれないです」と声を落として言った。
「危ないって、どういうこと」
「日向ちゃんの命が危ないってことです」
 意味不明だった。
 その真意を問うと、
「わたし、こう思うんです。あの誘拐事件で、犯人が狙ってたのは櫻子ちゃんじゃなくて、本当は日向ちゃんだったんじゃないかって」
 いきなり、この少女は何を言うのか。
「つまり、犯人は佐藤さんとまちがえて、小堺さんを連れ去ってしまったってこと?」
「はい。もちろん証拠はないですけど、でも、たぶんそうだったんだろうってわたしは思っています。二人は背格好も似通ってますし」
 いよいよ、頭が混乱してきた。
「ちょっと待って。倉持さんは犯人が誰か、心当たりがあるのかい」
「いいえ、それはわかりません」と彼女は首を横に振った。「だって、実行犯はきっと、お金で雇われている人だろうから」
「雇われているって、誰に?」
 訊くと、莉世は切長の目で担任教師の顔を正視した。
「だから、それが日向ちゃんのお母――」

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



書 名:黒い糸
著 者:染井 為人
発売日:2025年08月25日

25万部突破&映画化『悪い夏』の著者が放つ、戦慄ダークサスペンス!

結婚アドバイザーを務めるシングルマザーの亜紀は、
クレーマー会員とトラブルを起こして以来、悪質な嫌がらせに苦しんでいた。
息子が通う小学校ではクラスメイトが誘拐される。
担任の祐介は対応に追われる中、
クラスの秀才・莉世から推理を聞かされる――「あの女ならやりかねない」。
その後莉世も何者かに襲われ意識不明に。

亜紀と祐介を追い詰める異常犯罪の数々。
街に潜む“化け物”は一体誰なのか?

『悪い夏』の鬼才が現代社会の不条理とタブーに真っ向から挑む、戦慄ダークサスペンス。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322503000697/
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