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試し読み

【まもなくシリーズ完結!】京極夏彦による妖怪時代小説の金字塔〈巷説百物語〉シリーズ第1作を約100頁試し読み!

妖怪時代小説の金字塔として人気を博す〈巷説百物語〉シリーズ。
著者である京極夏彦さんが作家デビュー30周年を迎える今年、ついにシリーズ完結を迎えます。
完結編『了巷説百物語』は6月19日に刊行予定。
発売に先駆けて、シリーズ第1作『巷説百物語』の試し読みを特別公開します!
法では裁けぬ悪を倒す痛快な時代小説であり、数々の妖怪を題材にとった「仕掛け」が読者を驚かせる珠玉のミステリー小説でもある本シリーズ。
その「はじまり」をどうぞお楽しみください。

京極夏彦『巷説百物語』試し読み

小豆洗あずきあら




    


 えちの国におりとうげという難所がある。
 一帯にぶなの巨木が生い茂り、昼尚暗い秘境であるという。その昔、たいらのきよもりに都を追われたちゆうごんふじわらさぶろうふさとしへと向かうその途中、この椈の森へと迷い込み、苦心難渋した際に突如不可思議なる童子が立ち現れ、枝を折りながら一行を山頂まで導いたという故事がある故、枝折峠の名があるのである。
 その峠より更に奥──。
 しのあめけぶる山深いけものみち只管ひたすら進む、じろがさの僧の姿があった。
 この僧、法名をえんかいという。円海は草を踏み分け枝をはじいて、ただ足を進めていた。
 ──早く。少しでも早く──だが。
 円海は立ちすくんだ。
 折からの激しい雨がやまあいの谷川をどうどうとあふれさせている。
 澄んだ清流だったはずの小川も、今は上流の泥土や砂利が混じり、はや濁流としかいいようがなかった。
 ──これは渡れぬ。
 けわしい山道である。引き返せば山の中で夜を迎えることになる。
 今更戻ることも適わぬし、ならば渡るしかない。この谷川を渡りさえすれば、寺までのみちのりは残りわずか──多分半日もかからないのだ。山に分け入らず、街道の峠を越えても二日、峠をかいすれば四日はかかる道程である。このかんどうを行くなら一日で済むのだ。日暮れ前に川を突っ切れば深夜には山門をくぐれるであろうと、円海はそうしたはらもりで歩を進めていたのである。
 からだの隅隅まで、急激に疲労感が充満する。
 ──失敗しくじった。
 取り分け先を急ぐ旅でもなかったのだから、出来るだけ無難な道を行くべきだったのだ。少なくとも街道沿いに来ていれば、このような抜き差しならぬ状況におちいることはなかった。
 それは判っていた。明け方からくもきは怪しかったし、円海は今朝の今朝までそう思っていたのだ。それでも──自然に足は山に向いた。難儀なけものみちではあるが、幼い頃から慣れ親しんだ道だったからであろう。この辺りの山は円海にとって庭のようなものなのである。その慣れが裏目に出た。天候そらもようを読み違えたのである。
 ──却説さて
 残る手はひとつしかなかった。たしか上流には古びた丸木橋らしきものがあった筈だ。そこまでなら日暮れ前に着ける。引き返すよりははるかに得策である。橋を渡ってしまえば──。
 ──後は何とかなるだろう。
 そう考えた。
 円海は重い脚を懸命に振り上げて、川に沿い、上流へと進んだ。
 たっぷりと水を含んだ法衣が躰にまつわり付く。網代笠にばらばらと雨が当たり、やがて笠の目にも水がみた。顔が上げられぬ。
 旅装といえども、歩き難いことはなはだしい。
 ざあざあ。どうどう。
 天の底を抜いたような大粒の雨である。
 風がいでいるのが唯一の救いである。慣れた道とはいえ、これで風が強ければ命の保証はなかっただろう。
 ざあざあ。どうどう。
 しょき。
 ──何だ。
 異質な音がした。
 無理に顔を上げる。目の前に男が立っていた。
 しとどに濡れたその男は、見たところ円海同様の僧形である。
 しかし衣は墨に染まってはおらず、純白であった。胸にはばこげて、坊主頭を白綿めんぎようじやづつみにしている。しゆげんじやか巡礼か、否、ものごい札売りのたぐいであろう。
 男は大声で言った。
「この先はおめなせェ──」
 一本しかねえ橋もちてたようで、流されちまったンでサァ──と、その男は言った。
せいぜい雨宿りでもしなくッちゃ、お互いここで御仕舞いですぜ。このまンま、うンと下手に下った川岸に、粗末な小屋が建っておりやす。そこで夜明かしでもしねえと──否、この雨じゃァ夜が明けたっていけねえやい。いずれおてんとうさまァ拝まなきゃぶつだ」
「小屋──か」
 この辺りに小屋などあっただろうか。
 円海には覚えがない。
「誰が住まうか知れぬあばらでさァ。やつがれはそこに行くところだ」
「小屋──」
 ──そう言われれば。
 小屋があったようにも思う。
「ま、御坊のお好きになさるといい」
 男は円海の返事を待たずに、泥を跳ね上げて斜面を下り来ると、円海を通り越し、確乎しつかりとした足取りで下流へと向かった。円海は肩越しにその男のうしろ姿すがたを追い、それから網代笠をもたげて橋のあるだろう、あるいは橋のだろう方角に顔を向けた。
 目をらしてみたが、えんかすんで何も見えなかった。
 夕暮れの雨空はますますくらい。
 夜がひしひしと近づいている。
 雨足は弱まる気配もない。
 ざあざあ。どうどう。
 しょき。
 ──駄目だ。
 男の言う通り、橋が流されてしまったのならこれ以上の行軍は命取りになる。男の助言に従った方が良いだろう。それならそれで急がねばなるまい。だが──下流に小屋など──。
 ──小屋などあったか。
 円海はきびすを返して川筋を下った。男の姿はもう見えなかった。
 えらく足の速い男だ。いや、この雨である。早足にもなろう。
 みちしるべを失って、視界も悪く、足許もおぼつかない。
 果たしてその小屋とやらに辿たどり着けるものか。
 濁流のどうどういう音にいざなわれるように進む。
 それしかあるまい。それなのに。
 雨の音と、川の音がこんぜんとなる。
 どうどう。どうどう。どうどう。
 せつ
 ぬるり、と足が滑った。こけを踏んだのだ。
 円海は大きく前にのめり、倒れ込むことだけは避けようと躰を返したが為に、反動で腰が引け、結局思い切りしりもちいた。
 ──ここは。
 この場所は。
 大きな一枚岩。
 ──鬼の──せんたくいたか。
 そう呼ばれている場所だった。
 円海は脱力して、しばらく座り込んだ。
 何だか──どうでも良くなってしまった。
 雨を媒介として円海は山や大気と一体化する。
 その時世界は円海の内側に取り込まれ、ざあざあという雨音は、円海の躰を流れる血潮の律動と同調して、小刻みに断絶した。
 ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。ざ。
 ──ここは。この場所は。
 みようほうれんきよう。南無妙法蓮華経。
 すべては──凡てはここから。
 そんなつもりでは。
 ざ。ざ。ざ。ざ。
 ざ。ざ。ざ。
 ざ。ざ。
 ざ。
 円海はふいに我に帰った。
 どれくらい自失していたのだろうか。
 一層激しさを増した雨糸が網代笠沿いに幕を張り、円海を外界から完全にしやへいしている。
 ──いけない。
 恐怖心に駆られ、円海は立ち上がる。そして、もうろうとした過去への時をさかのぼるかの如くに川筋を下った。何も見えないにも拘らず躰はおのずから道を選び、円海は半ば滑るように、落ちるように、あらかじめ決められてでもいたかのように──そこに向かった。
 果たして小屋などあっただろうか──そうした疑念などはうにき消えている。その小屋は円海の観念の中に慥かに建っている。そして天を抜けてしたたり落ちる無数の水滴によって既に山の風景と融合してしまっている円海にとって、外界と内部の差異はなかった。だから円海は無心でそこに向かっている。
 この先に。
 ──小屋だ。
 小屋はそこにあった。
 川と山とに挟まれて、朽ちかけた粗末な小屋が身を縮めるようにして建っていた。雨足に耐えるのが精一杯という、文字通りの掘っ建て小屋である。
 円海は迷わず戸口に駆け寄り、打ち当たるようにして戸を開けて躰をひるがえし、力任せに戸を閉めた。
 これで。
 ──何だ。
 ゆるりと振り向く。
 予想外の──多くの視線に、円海は一瞬ひるんだ。
 を巡って十人程の男女が車座になって座っていた。
 上座には先程の白装束の男が座っている。男は円海を見つめたまま、にんまりと微笑ほほえんだ。
「おいでなさいやしたね──」
 男はそう言ってもう一度笑った。
 行者包みを取り払った頭には、すっかり濡れた髪の毛が、しずくたたえて張りついている。まげを結える程の長さではない。ていはつしたそれが伸びたものであろう。
「──そのまンまじゃあ幾ら修行を積まれた御坊でもあつ寒気がへえりやす。法衣のすそをお絞りンなって、こちらへおいでなせえ──」
 男はあいく手招きをして、一同を見渡した。
 近在の百姓らしき者が数名。担ぎの物売りが数名。
 壁際にはあかけた、色の白いほそおもての女が、しなれるように横座りになっている。
 派手なむらさきの着物に草色のはんてんが小屋の様子にまるで似合っていない。旅支度とも思えぬ出で立ちである。
 女は切れ長の眼を細めて笑いかけた。
 その横に縮こまって居るのは多分商人あきんどである。としの頃なら五十か六十か、こざっぱりしたなりから察するに、それなりに名の通ったおたなあるじといったところだろうか。思うに江戸者である。
 その隣には得体の知れない若い男が正座している。旅装束ではあるが、泰然とした物腰は百姓町人とも思えず、職人の類でもないだろう。もちろん武士ではない。円海の姿を見てもまるで動じる様子もなく、ただひようひようとして、矢立のふたをぱちぱちと開閉している。
 一番奥には襤褸ぼろまとい背を丸めた老人の姿が覗いていた。
 多分、彼がこの小屋の主だ。何故か円海はそう確信した。
 老いさらばえた、干からびたような、せた小さな男だ。
 円海は──目をらす。
 この老人は見たくない。
 表情が解らぬ。きっと言葉も通じぬ。ならば異人である。
 そんな気がしたからだ。
「──遠慮するこたァねえ」
 白装束の男は見透かすような強い視線で円海を見据えて、それでいて尚、随分と柔らかい口調でそう言った。
 円海が何か答えようとするのを遮るように男は続けた。
「なァに、この小屋ァこちらのさんの縁続きの者が、その昔住んでいたところだそうだから、遠慮は無用で。なァ伍兵ヱさん」
 男は老人に鼻を向けた。老人はへえ、と風が抜けるような乾いた声で返事をし、無表情にうなずいた。
 ──主ではないのか。
 円海にはそうは思えない。伍兵ヱと呼ばれた老人は、この小屋にんでいる。この小屋を完成させる為に、この老人は不可欠だ。老人はまるで漆喰の染みの如くに小屋の中の風景に定着している。
 額から伝った水滴が眼に入り、円海は幾度もまばたきをした。
 白装束はさらに続けた。
「どうしやした御坊。いくら濡れてるからって水臭ェや。この連中になら気兼ねァ要りやせんぜ。この時刻、こンなところに居るンでやすから、いずれ表街道を歩けねェ半端者どもにゃあちげエねえんで──」
「オイおんぎよう殿──」
 若い男が手をかざす。
「そちらのお坊様は、私達のようなせんの者との同席を望まれぬのかもしれませぬぞ。もしや修行の最中であらせられるのかもしれぬ。ならばそう無理を言うてはいかん。のう、お坊様」
「否、左様な──」
 しょき。
 ──駄目だ。
 ごやつかいに──円海は短くそう言って、網代笠を取った。
「ご厄介になり申す」
 言うなり円海は土間に膝をついた。
 落ち着くまでに、はんときはかかった。
 悪天は夜半に至っても鎮まる気配はなかった。小屋の中は只管ひたすらに昏く、ただ囲炉裏の炭のぜる音だけが思い出したように幾度か響いて、円海の鼓膜を震わせた。かすかな炭火程度では濡衣が乾く訳もなく、衣はべったりと全身にりついている。
 その不快感たるやたとえようがない。
 座がなごんだのはそれから更に半刻後のことである。
 円海もいつのまにか車座の輪の中にじっている。
 こうした夜は長いもの、ここはひとつ江戸で流行はやりの百物語と洒落しやれてみやせんか──と最初に言ったのは、多分御行だったろう。異を称える者は誰もいなかった。
 慥かに何か無駄話でもせねば堪えられぬ雰囲気ではあったのだ──。

    


 アタシはねェ、こんな根なし宿なしの商売でますからね。そりゃアあちこち廻れば、色色と怖い話妙なうわさも聞きますわねェ。
 え? アタシの商売?
 見ての通りのかいらいやまねこまわしで御座居ますよゥ。
 山猫っていえばねェ。そうだ、山猫ってのは人様を化かすんで御座居ますよ。知っておいでかエ? そう、いたちむじなきつねたぬき、人間様をたぶらかすけだものは多ゥ御座居ますがね。山猫も化かしますのサ。
 噓だろって? 噓なもんか。飼い猫だって化けるンだ。だって、猫は飼い始めに年期を言い渡さなきゃアあだを為すとか、齢とってから化けるとか申しましょう? そう、猫又って言うんですか。
 アタシもね、そう、江戸に居りました時分にね。しんないのお師匠さんの真似をして、小さいを飼いましたのサ。まだ生まれて間もない奴で、ぴいぴいねずみみたいに鳴いてねェ。アタシだってこンなもんが化けるもンか──とは思いましたサ。
 でもホラ、何となく気になるじゃありませんか。だからそいつをてのひらに載せて、三年居れ、とね、そう言いましたのサ。でもそンなこたァすぐに忘れてたんですけどね。ある日突然、それが、そう、ふっと居なくなッちまった。縁の下から天井裏まで探したんですけどねェ。天に昇ったか地に潜ったか、一向姿がないンです。それが──そうなンです。
 それが丁度、三年目だったンで御座居ますよ。
 が悪い? ええ、ええ。そうでしょう。アタシもそン時ゃアぞっとしました。ですから猫って奴は化けるンですよゥ。
 だってホラ、死人ほとけさんが出た時、着物を逆様はんたいに掛けて、とんの上にほうきだのしやくだの載せて、まくらもとほうちようなんか置きますでしょう。あれが化け猫除けなンで御座居ますよ。ええ。びようを逆さに立て回すンだってそうでしょうよ。あれは猫が死人のそばに近寄らないようにそうするンです。知らないンで御座居ますか? 兄さん。そちらのお坊様なら御存知でしょう。そうそう。おや、お坊さんは猫がお嫌いかえ?
 え? なんで? どうして猫をたいに近付けちゃいけないンだって、兄さんはそうおつしやりたいンですか? そりゃア猫が屍体に悪さをするからで御座居ますよ。ねえ、お坊様。猫のね、魂がこう、すっと抜けて、死人の中に侵入はいりますのさ。ねこだまが入るてェとね、怠け者も働き出すって言いますでしょう。死人も動き出すんですよゥ。噓じゃアありませんよ。立ち上がってかんかんのうを踊ったり──まあアタシも見た訳じゃありませんがね。ええ。え? おや、そちらの御行殿は見たことがあるンで? ホントですか?
 ホラ御覧な兄さん。ねェ御行のだん死骸むくろが動いたんですか? 足が出た? お棺から? だらりとかえ? おおいやだ。薄鬼魅悪い──。
 あらヤだ、元ッから鬼魅悪いはなしをしてたんでしたねェ。
 そう、これからお話ししますのはね、アタシが実際に見聞きしたことですからねェ。真実まことも真実、大真面目の話で御座居ますよう。
 あれはもう、かれこれ十年から前のことになりましょうか。
 アタシはまだしよん便べん臭い小娘で、そう十三かそこいらで。
 アタシには二ツ程齢上の姉様が居りました。
 りく、という名前のそれはれいひとでした。
 妹のアタシが言うのもナンなんで御座居ますけれどねェ。
 色の白いはしちなん隠すって言いますけれど、ホントに色が真っ白でねェ。食べたもんがこう、のどに透ける程──まあそりゃあおおで御座居ますけれどね。え? アタシもそうだって? あらヤだ、姉様はアタシみたいなじゃアないンですよう。とした、近在にも此程のべつぴんは居ないと評判でしてねェ。妹のアタシも、まあ自慢でしたし、もう少し経てば自分も姉様みたいになるンだと、そうも思ってましたけれどねェ。ま、結局こンなれになっちゃった訳ですけどね。
 え? そう、あこがれていたンですよ。アタシは。姉様に。
 その姉様がね、お嫁に行くことになったんですよ。
 そう、あれは夏の盛りのことで御座居ましたか。
 お相手は隣の郷のお大尽で──そう、ほんじんの跡取りとかおしようの総領とかいう──ええ、慥か名前はもんとかいいましたっけ。
 身分家柄申し分ないと、大人はみんな喜んでましたけれどもね。アタシはナンだか悔しくてさみしくて。え? そンな理不尽な理由わけで悔しがってたンじゃァないンですよ。誰だっていつかは嫁に行くンですから──アタシは行きませんでしたけれど──いいえね、小娘ったッてもう十三ですから。そんな、誰かに好きな姉様を盗られるようッて、ただねてた訳じゃァないんです。
 与左衛門って男がね。ナンだか気に入らなくって。
 そうナンですよ。厭な男だったンですよ。そいつ。
 背が低くってくびが太くって──目付きが悪くって。
 何と申しますか、こう、というかすいというか──そう。いきじゃないンですよウ。山出しの小娘に、本来粋も蜂の頭も解ったもンじゃァないんでしょうけれど、きっとそこが厭だったンですよ。
 まあ、今こうしてつらつらと思い出せばね。あのひともそんなに悪い男じゃァなかったんでしょうけどねェ。純情うぶな堅物だったような節もありますしねぇ。嫁ぐンなら、へらへらとした色男より無粋の方がマシだったかもしれませんけどね。
 でもその時は厭だったんですよ。
 これからは兄様と思うてくれと言われましてね、むくれて返事もせなんだように思います。悪いことをしたと思いますよ。本当に。
 そんなですからね、しゆうげんの日が近づくともう、厭で厭でねえ。
 父様母様とも口を利かずに、ただ姉様を見ていましたとも。この綺麗な姉様を間近で見るのも後もう幾日と思いますってえと、胸が何だか痛くって。はい? あ、遠くに嫁ぐ訳じゃあなかったんですよ。嫁ぎ先は一里と離れていませんでしたからこんじようの別れなんて大層なものじゃァなかったんですが、ただ娘と女房は違いましょう?
 お嫁に行けばもう娘じゃアありませんものね。
 豪農の嫁なンて、もう疲れるだけでしょう。張りのある皮膚はだつやくして、つるりとした指も節が立って来て──そりゃァ当たり前ですよ。齢とりゃ誰だってそうなります。
 ただ──そう、なンてェんですかねェ。きらきらとした、娘ならではの輝きみたいなモノが、こう、嫁いだ途端に薄れちまうような気がしてたンですかねェ。
 ですから婚礼が決まってからは、アタシはぺったりと姉様に引っ付いて、傍を離れなかったように思います。それまでも──姉さん姉さんと慕っちゃァくっついて回ってたんですけれどね。
 姉様にしてみれば迷惑な話だったと思いますけれどねェ。それでも厭な顔ひとつせずに。優しいひとだったので御座居ます。
 婚礼の前の日でした。
 アタシ達は山へ行ったんです。
 ええ。姉様は花の好きなひとでしたから、子供の頃はく山へ行って花を摘んで来たんです。それで、こんなことが出来るのも今日で最後だからって──あれは──姉様が言い出したものか、アタシが言い出したものか、一寸ちよいと覚えちゃいませんけれど。
 晴れた日でした。
 夏の花って元気があって。
 春の花よりも好きで御座居ます。
 青青とした草や木木の葉が風にそよいで。
 それはもう気持ちの良い日で御座居ましたよ。
 山と申しましてもね、ここみたいな険しい山じゃあないんです。
 村外れの辻から折れてすぐ登れる、子供の足でも簡単に登れるような小さな山なんで御座居ますよ。登り切ると視界が開けてねえ。遠くの在まで見渡せて、その向こうの高い山がすうっと見えて。道行きもそれは綺麗なンで御座居ます。でもアタシは景色なんか見ちゃアいなかった。姉様のうしろにくッ付いて、その白いえりくびにうっすらと浮いた汗や、汗に光るおくれ毛を見ていた。姉様が疲れたから休もうと言うまで、ずっと見ていた。
 頂上じゃァないんですけれど、中程に平らな野ッ原みたいな場所がありましてね。そこで休んだ。姉様は大きな石の上に座って、山の木を眺めていた。アタシはその下にちょこんと座って、青を通り越したあいだまぶちまけたみたいな空に浮かんだ、真っ白い雲を見ていた。
 ええ。雲の形まで覚えていますよ。眼を閉じますとね、形はおろか雲の動く早さまで、今でもありありと浮かんで来ますのさ。あンな青い空は、この齢になってもまだ見たことがないように思います。
 ゆっくりとね。
 雲が。西の方に動いて。
 ふいに顔を上げましたのサ。
 何かこう不吉な感じがしたンで御座居ましょうねェ。
 そしたら──姉様がね、こンな風に硬直かたまっている。
 ホントに、石地蔵になったみたいにねえ、動かない。
 で、アタシはその微動だにしない姉様のね、少しばかりうつろになった視線の先を辿たどりましたのさ。そしたら──。
 そゥしたらね。
 猫が居るンです。
 山猫ですよう。そりゃあ大きな、虎みたいな山猫がね、山茶花さざんかの蔭から凝乎じつと姉様を見つめてるンです。ギヤマンみたいなまなこでね。
 アタシはその時にすぐ了解わかった。姉様はそれで動けないンだと。
 まるで、くちなわに見入られたかわずみたいなもンだったンですよゥ。
 アタシも怖くなッちまって──いいえ、怖いとかいう真っ当な気持ちじゃァないンです。
 頭ン中真っちろになッちまッて、そうで御座居ますねえ、あれが猫の魔力てェ奴なンで御座居ましょうかねェ。動けなくなッちまッた。
 山猫のね、後ろのやぶの、その上の空が、こうサアッとね。
 夕焼けになってねェ。
 だから随分と長い時間そうしていたんでしょうよ。
 とんびか何かがいたンです。
 はッとなって見ると猫はいない。最初から猫なンかいなかったのじゃァないかって、そう思いましたよ。でもときだけは過ぎている。
 で、姉様は倒れていた。
 その後どうしたかは善く覚えちゃいないんですよ。なんせ昔の話で御座居ますからねぇ。でもね、ええ──姉様はなんだかそう、魂半分吸われちまッたような、そんな感じで御座居ましたわねぇ。
 婚礼は盛大で御座居ましたよ。
 その辺のぞうぞう、道行く他人にまで振る舞い酒をしましてね。
 朗朗とじんうたって、舞を舞いましてね。お祭りですよ。
 ただでさえ真っ白な姉様が、一層真っ白に塗られて、その上しろでしょう。こんな綺麗なもン生まれて初めて見たてェ、ホントにそう思いましたのサ。夢ン中みたいでしたよ。少しばかりうつむき加減で、はじらっているような仕草がまた可憐で。
 それが。
 ええ。
 一寸目を離した隙ですよ。
 ふっと、煙のように。
 姉様が消えちまッた。
 誰ひとりとして気がつかなかったンです。いなくなったのは誰でもない、まん真ん中の、金屛風の前に座っていた花嫁御寮で御座居ますよ。祝言の主役が消えちまッたんですよ。不意にね。
 隣に陣取っていた婿殿さえ気がつかなかった。まァ与左衛門殿は、背中にいた入れたみたいにこちこちンなってたようで、花嫁の顔なんか見てる余裕はなかったみたいなンですけれどね。それにしたって、誰も気づかないってのは不思議なことで御座居ましょう。
 宴の席は大騒ぎですよ。
 酔って騒いでいた連中も水かけられたみたいにね。もう、酔いなんか一遍にめちまって。
 隅から隅まで、さっきの三毛猫じゃァないですけれどもね、畳まで上げて、屋根裏から縁の下まで、村人総出で探しましたのサ。
 え? いなかったンですよ。屋敷から出た様子もないのに。
 それで今度は山狩りですよ。おおごとになッちまッた。めでたい祝い宴が一転しての大騒動ですよ。
 ええ。
 夜のうちは見つからなかった。
 次の日のひるぎで御座居ますよ。姉様が見つかったのは。
 どこにいたかって? ええ。それがねえ。ほら。
 あの山のね、中腹の野原の──石の上。
 山猫とにらめっこしていた場所にぺたっと座っていたんだそうですよ。報せを受けて、お父っつぁんと与左衛門さんと、まあ大勢で駆けつけたンですけれど、姉様はもう血の気が失せて、透き通るように青白くなッちまッて、勿論花嫁衣装のままで御座居ますよ。
 すっかりほうけていたンだそうです。
 どこにいた、何をしている、いつ抜け出した──ッて、誰が何をいてもなァんにも答えない。それで、さあ戻ろう、祝言のやり直しだと言っても、厭だ厭だと首を振る。あたしはここに居る、ここに居るのじゃ──と言う。
 あまり聞き分けがないので、村の男共が、担ぐようにして山を下ろしたンで御座居ます。アタシ等は与左衛門さんの家──本陣で待っておりましたけれど、まるで山賊にかどわかされたみたいにねえ、足をばたつかせた姉様が戻った時には、それはきもを潰しましたっけ。
 え? それで? ああ、それで、その日の夕方に、また姉様は消えちまッたんです。はい。またあの山の石の上に居りましたとも。
 え? どうして?
 どうしてって、それが解れば苦労はしませんよ兄さん。
 親父殿も婿殿も、さんざ問いただしましたのさア。
 こんなところでいったいナニをしてるンだ、ほんにどういう了見だと、尋けどただせどなァんにも答えず、ただただ口をつぐんで呆けているばかり。取りつく島もない有様で。
 普通ならそンな理不尽な、礼を欠いたことをされたら破談で御座居ましょう? それが与左衛門てぇ人はまあお人好しなのか何なのか、りくさんのような善く出来たひとがこんなことをする訳がない、これは悪い病に違いない──と、そう言ったそうですよ。それで隣村からしやぼんを呼んで来て脈をとらせた。
 え? 解る訳ない? そりゃあそうで御座居ますよ。御典医だろうがやぶちくさいだろうが、解るわきゃアありません。婚礼をこっそり抜けて山に行く病なンて、そンな病は御座居ませんからねェ。
 どうにもこうにもらちが明かずに、与左衛門さんもしびれを切らしたんでしょうねぇ。今度はどこぞから修験者を引っ張って来てのとう。南無南無拝んでしるしなしで御座居ますよゥ。狐でもいたと思ったンでしょうけれど。効きゃァしません。
 アラ、お坊様の前でこんなこと言っちゃいけませんでしたか?
 お坊様と修験者は違いましょうか。
 かく何をしようが姉様は全く動かない。
 与左衛門さんも三日四日通ったようで御座居ますけれど、そうですねえ、慥か十日目でしたか、根負けしたんで御座居ます。
 は? アタシですか? そりゃ大好きな姉様の変事で御座居ますから飛んででも行きたかったですけれど、きつく止められていましてねぇ。え? それで柔順おとなしくしている玉かって?
 アハハ、仰る通りで御座居ます。
 アタシは夜中にこっそり家を抜け出して姉様の許に行きましたのサ。姉様は月明かりの下で矢張りあの日と同じように、ぼうと座っておりました。白無垢のままで御座居ますよ。飲まず食わずで御座居ましょう、すっかりやつれて、透けるような肌が本当に透けちまって、向こうが見えそうな程で御座居ましたよ。びんで不憫で、涙が溢れて、悲しくッてやるせなくッて。
 そしてアタシは尋いた。
 姉様姉様、おぎんにだけは本当のことを教えておくれよ──。
 すると姉様はねえ、にんまりと笑われてこう言ったんです。
 ──妾には心に決めた想い人がいるのです。
 ──言い交わしたお方がいるのです。
 驚きましたよ。寝耳に水で御座居ましょう。姉様にいい人がいるなんて、考えてもみなかった。婚礼が決まった時だって、そンなことおくびにも出さなかったんで御座居ますよ。アタシが反対してただけで、そのアタシも表向き何にも言いませんでしたからねェ。アタシが何も言わなんだのも、姉様が喜んでいるように見えたからで御座居ますよ。
 アタシは──そう、悩んだ挙げ句、そのことを親父殿にご注進しましたのさ。そン時のアタシにしてみれば、姉様をなんとか取り戻したかったんだと思いますけどね。
 お父っつぁんもおっ母さんもそりゃあ狼狽うろたえて、困りに困ったその末に、与左衛門さんに頭を下げたんですよゥ。び料もたんと添えましてね。どうもあのは気がれている、申し訳ない面目ないと言いましてね。他に男がいたなんて言えませんからねえ。
 与左衛門さんはお金を受け取らず、それでも尚、病ならいつかはえる筈だから、それまで待つと言ったそうですけれどもね。でもねえ、その辺りのお百姓なら兎も角、陣屋の跡取りでしょう。家の者が許しゃアしませんって。恥ィかかせた顔を潰したと、えらい見幕で、アタシも柱の蔭から覗いて見てましたけれどもね。
 お父っつぁんもおっ母さんも平謝りで御座居ますよ。
 そんなでも矢ッ張り娘が可愛かったンでしょうねえ。
 すったもんだの果てに縁組はご破算になッちまッた。
 それで? ええ。普通ならそれで終わりでしょうよ。
 それで姉様がね、かんなんしんを乗り越えて、好いた男とくっついたってえんなら、まあ珍しくったって、ない話じゃァないンです。
 ええ──姉様は好いた男と添い遂げたりはしませんでしたよ。
 そもそも、好いた男なんてんです。
 解らない? そりゃあ解らないでしょうねェ。
 村中探したって姉様の相手はいなかった。いいえ、近在のどこにもそんな男ァいなかったんで御座居ますよ。それで。
 それでも姉様は、一歩もその場所を動かなかった。
 狂ってる? そうだったんでしょうねェ、きっと。
 だまそうがなだめようが、全く動かなかった。無理に連れ戻してもいつのまにか帰ッちまう。結局お父っつぁんもおっ母さんも根負けして、そこに柱を立ててかやき、雨風だけは防げるようにしたンです。そして毎日朝晩食事を届けましてね。
 ええそうですよ。
 そりゃあとんだ親馬鹿で御座居ますよ。
 姉様ですか? その小屋から一歩も出ずに、そう──。
 ひと月は暮らしましたか。ええ。妙な噂も立ちましたよ。
 どこからともなく男が通ってくるとか。
 夜な夜な善い声音の甚句が聞こえて来るとか。
 それを歌っている者こそが、姉様の男なのだとか。
 否、それは姉様自身が、男の声で歌っているのだとか。
 月光を浴びて裸体はだかの姉様がうたいを歌っていたところを見たとか。
 姉様の男は──。
 山猫だとか。
 はい。それを聞いてアタシは思い出したンですよゥ。
 ええ。あン時に魅入られたんじゃないかとね。でも、誰にも言いませんでしたがね。
 それでもそうした噂は流れたンで御座居ます。
 山猫だって。
 それで村の者は鬼魅が悪いと誰も近づかなくなって。
 結局親もあきらめたんですよゥ。食べ物は幾ら届けても食べなくなっていたようで御座居ますしね、魔物に魅入られたンですから、諦めるよりないと、死んだものと思おうと、そう話し合っている声を聞きましたから。
 でも。アタシは諦め切れなかった。
 だから──覗いた。覗きましたとも。
 男なンて通って来ちゃアいなかった。
 噂通り全部姉様のひとり芝居だったンで御座居ますよ。
 男の声色と女の声色を使い分けましてね、何やら問うて答えて話をして、もう人間の言葉じゃあなかったですけれどね。そのうち激しくもだえして歌い出すンです。
 ええ。本当に──。
 狂っていた。
 それから何日かで姉様は死にました。飢え死にで御座居ますよ。
 当たり前ですよゥ。もう、骨と皮ばかりになって。でもね。
 死骸の周りには、山猫の毛が。
 ええ。沢山──落ちていましたのサ。

    


 山猫廻しのおぎんの語る長い話が終わった。
 かんがえものももすけは大変興味深く聞いた。百介は、諸国の怪異譚を聞き集めるのを無類の楽しみとしているという、一風変わった男である。世間には如何いかがわしい話が溢れ返っている。世の中には、不思議なことが沢山あるものなのだ。戯作者志望の百介は、そうした話を集めていずれ百物語本をかいばんするつもりなのである。
 だから偶然とはいえ、この場に居合わせたことは少なくとも百介にとってはぎようこうだった。御行姿の男が怪談で夜明かしをしようと言い出した時は、思わず礼を言いたいような気分になったものである。足止めを食った時は己の不運を呪ったが、こうなってみると悪天候にも感謝せねばなるまい。
 人死のあった家から光り物が飛び出たとか、虫の報せで肉親の死に目に間に合ったとか、百姓達の口からは目新しい話こそ聞けなかったが、ぼくとつな語り口は中中拾い物だった。
 一方、行商の連中の話は一様に類型的で、語り口こそ慣れてはいるが、その分先が読めるので怖くない。
 怪談話は技巧だけでは補えないのだ。
 そしておぎんである。
 一向に正体の知れぬ女であった。ふうていや持ち物から、ゆううた傀儡くぐつを操る山猫廻しであるということだけは当たりをつけたが、へ行くものか何を考えているものか、百介にもまるで見当がつかない。
 怖くはないが、奇妙な話ではあった。
 ず山猫が化かすなどという話は百介も知らなかった。百介の知る限り、猫にまつわる口碑迷信の類は多く天候に関わるものである。顔を洗えば晴れるとか曇るとか、そうしたことわざのような言い伝えなら百介も多く知っている。後は出産に伴う縁起担ぎである。化け猫や猫又の登場するなまぐさい怪談も各地で耳にするのだが、そのほとんどは復讐譚だったりする。なべしまの猫騒動と大差ない。
 そうした話には確実に元がある。例えば江戸で人気の出た読み本や、芝居狂言のネタがそのまま地方に流れて定着し、その地方の伝承として語られることも結構多いのである。怪談好きの百介は、そうした本はあまねく読み尽くし、芝居もおおむね見倒しているから、そうした話だった場合大抵は解ってしまう。
 地名や人名が変わっているだけだったりするときようめである。
 おぎんの語りは、どうやらそうしたものではないようだった。
 百介は一部始終を書き記した。
 ──待てよ。
 その話はいったい何処の話なのだろうか。
 おぎんは場所を特定していないのだ。いずれ本を書く時に土地の名は必要になる。百介は話を捏造つくることだけは避けたかったのである。そうした性質たちなのだ。
 ならば──先ずおぎんのしようごくを尋ねる必要があるだろう。
「おぎんさん──といいなさったね」
 百介が尋ねようと声を発したのとほぼ同時に、最後にやって来て戸口側に座っていた僧が、裏返った声を発した。
其方そなたさま──どちらのお生まれか。それは──」
 それは何処の話であるか──と坊主はおぎんに尋いた。
 百介は──言葉を盗られてしまったので黙るよりない。
 眼を遣れば──どうも坊主の様子は妙だった。雨に濡れているのも疲れているのも判りはするが、それ以上にどうにも気がはやっている。
「今のお話は。その、何処の」
 おぎんは首を僅かに傾けて、
「アタシはせつの生まれで御座ンすよ。ですからこれも、勿論その辺りの話で御座居ますよ。ゆめゆめこの辺の話じゃァ御座居ませんからご心配には及びませんよゥ」
 と、例によって張りのある、なまめかしい声音で言った。
 坊主はそうと聞いても釈然としない様子で、いぶかしそうな表情でおぎんを見返した。そして、真実まことであるか──と再び尋いた。
「アラ厭だ、このお坊様は見掛けに寄らず臆病じゃアないか。ここの山に山猫ァ居りませんでしょうよ。ねえ皆さん」
 おぎんがそう言うと、一同の間に微かな、吐息のような笑いらしきものが起きた。
 山犬なら居るが山猫は居らぬわい──と百姓が言う。そうサこの辺で山猫と言やあ、この山猫廻しのおぎんさんだけサ──とおぎんはうそぶく。坊主は眼をいて、思い詰めるような表情になる。
 ──何に引っ掛かっているのか。
 さか話を聞いているうちに山猫が怖くなったとかいう訳でもあるまい。百介はどうにも気に懸かる。どうやら山の向こうの何とかいう寺の坊主らしいが、坊主が猫を怖がるだろうか。
 ふと見ると、御行も喰い入るように坊主を見つめている。
 ──油断のならぬ小悪党だ。
 愛想も良いし要領も良く、どこか人を魅き付けるような雰囲気を持っているのだが、この御行──またいちという名前らしい──は、それでいて何を考えているのか解らぬようなところもあるから、簡単に信用は出来ぬだろうと、百介はそう考えている。坊主──こちらは円海という名である──は、おぎんに向けてもう一度尋いた。
「其方様の姉様は、真実まこと──りく、という名なのであろうか」
 おぎんは笑った。
「そうだったと思いますけどねえ。昔のことで御座居ますから。それよりお坊様、りくという名になンか心当たりでもおありかえ?」
「それは」
 円海はおぎんの単刀直入な質問に戸惑ったらしく、顔を曇らせて言葉を濁した。
 僧は指で額を拭う。
 雨水ではない。汗をかいているのだ。
 暑い訳はない。ならば冷や汗か。脂汗か。
 百介はこのしん臭い坊主の挙動に興味の対象を移した。
「どうしたのサぁ。そンな顔して。お坊様、アタシの話に何か不都合でもおありかえ? なにサ、アタシの顔に何かついてるのかい」
 それまでおぎんの顔をぎようぼうしていた円海は、そう言われて慌てて顔を伏せた。この坊主、目立つところがひとつもない、地味な顔立ちの持ち主で、物腰も暗く、いんいんめつめつとしている。
 一方おぎんの方はてつはだも度が過ぎて、まるで男のような物腰の癖に声だけはやけにつやつやと色気がある。顔もつるりとうりざねで、目元涼しい別嬪だから、女女なよなよと振る舞えばさぞやいい女だろうに、どうにもこの女その辺のことが解っていないらしい。
 オヤ雨足が弱まった──と、窓際にいた行商の男が言った。
 御行が顔を上げる。
「ああ、小降りになったようでやすね。それにしたってまだ宵の口だ。このまンま止むとも思えねェし、ここで夜を明かすのがよろしいでしょうぜ。下手に動くと──ん?」
 しょき。
 何か、微かな音がした。
 円海が怯気びくりと動いた。
 御行は行商を押し退けて外を見るようにした。
 どうしましたな御行さん──と商人風の初老の男が声をかけた。
 御行は首を傾げて、何か音がしたようだがとつぶやき、再び反対に小首を傾げて、
「なンだか米でもぐような──」
 と言った。
「米というより、もみがら──いや、違うなあ。小豆あずきとか」
「小豆──」
 円海が引きるようにそう言った。
「そんな音がしましたかなあ」
 商人は耳に手を当てた。
 百介には聞こえた。
 否、聞こえたような気がしただけかもしれなかった。
 でも百介は、慥かに聞こえた──と断言した。
 そうすると百姓や担ぎ屋までが、あれは小豆じゃ、そうに違いないなどと言い出したのだった。百介は可笑おかしかった。
 自分が聞いたと言わなければ、果たして何人に聞こえていただろうか。小降りになったとはいえ雨音が止んだ訳ではない。川の音も聞こえているし、山独特の音というのはある。小豆の音などする訳もない。
 だから、よしんばその者達に聞こえていたとしても、百介同様そんな気がするというだけのことだろう。付和雷同というか、何というか、実に可笑しな状況である。御行はそうしたことを知ってか知らずか、珍しく実にうれしそうに、こう言った。
「何だてェんだろう。こんな山でこんな時刻、雨の中小豆を磨ぐ間抜け野郎が居る訳がねェ。聞き違いにしちゃ皆聞いている。御坊もお聞きになったでしょう?」
 円海は答えなかった。
「アラ厭だよ、あの音は小豆磨ぎばばァさ──」
 おぎんはそう言った。
 御行が毒突いた。
「なンでェその小豆磨ぎ婆ァってのは。めえばばさまはこんな山奥に居やがるか。正月でもねえのに小豆なんか磨ぐかい。それとも何か祝い事か。却説さてはこのあま、摂津の生まれとか吹いていやがッたが、正体はこの山のいたちか何かじゃあねえのか」
 馬鹿言ってンじゃあないよこのひようろくだま──と乱暴に言って、おぎんは前を向いた。
「小豆磨ぎ婆ァはもののけさ。こンな山奥で誰がそンなもの磨ぐもンか。明日はせいぜい川に落ちないように気をつけな」
「何でェそれは」
 御行は不満げな口調で尋いた。百介が答えた。
「それは御行殿、小豆磨ぎとか小豆洗いというあやかしは、まあ谷川や橋の下で穀物を磨ぐような音をさせる姿のない化け物で、この音を耳にすると善く水に落ちると言うのですよ」
 御行は鼻で笑った。
「ふふん。先生、先生は慥か読み本かなんかを書かれるとか、書かれたとか仰るお方じゃァなかったですかい? それにしちゃァ話が迷信だ。やつがれのような学問のねェ物乞いが言うなら兎も角も、学のある物書きの先生ともあろうお人が、そンな馬鹿げたことを語っちゃあ困りやすぜ。皆が信じッちまう」
「何が馬鹿なものですか。小豆洗いというのは──」
 田舎者の迷信でしょうや──と御行は言った。
「いいですかい、小豆洗いッてなアちやたてむしのことだ。ありゃあ障子紙にとまってシャカシャカとでかい音ォ立てやがるからなァ。それを小豆洗う音になぞらえたンでさァ。だいいち、小豆洗い爺ィだか飯炊き婆ァだか知らねえが、そンな馬鹿げた野郎がこンな山深い場所にいる訳ゃあねえんで。否否、そンな噓っ八、江戸じゃあ聞きやせんよ。姿がねえッて、そんなモンが居る訳がねえ──」
 一同に、退屈だからというだけの理由で百物語怪談を話すようにけしかけておいて、それでいて随分と真ッ当なことを言う男だと百介は思った。
 僅かだが気に障った。
 そこで百介は、やや憮然として答えた。
「そう言われるが御行殿。これは古今東西、国を問わずに、何処に参っても聞かれる話で御座居ますぞ。私の聞き及ぶ限りでも、似たような話は数限りない。居る訳がない迷信だと御行殿は断言されるが、まじないと違って体験した者は現に居るのです。小豆洗い、小豆磨ぎ、小豆婆ァに小豆小僧、小豆アゲに小豆ヤロと、呼び名は土地土地で色色だが、大体同じようなモノだ。どれも姿を見せずに小豆を磨ぐ音だけをさせる怪です。実際に居る居ないは別にしても、何かあることは、間違いないのです」
 ──そうだ。何か理由がある筈だ。
 小豆を磨ぐ音などというものは、そもそも人為的に発せられるものであって、天然自然が鳴らす類の音ではないのである。だからこそ山中や水際──人の居る筈のない場所でそれを耳にすれば奇異な感じを持つ訳である。
 茶柱虫のことは慥かに小豆磨虫とも呼ぶようだが、だからといってそれが正体だと言い切るのは無理があろうというものである。
 百介はそう思った。
 その時。
 それならオラも聞いている──と百姓のひとりが言った。
「小豆磨いでるなァこうじん様だと聞いておるです。音が近付けば豊作で、遠退けば凶作だと、オラの村ではいうが──」
 それは違う──と担ぎ屋が言った。
「ありゃアかわうそだ。川獺が化かすんだ。小豆磨ごうか、人って喰おうか──と歌うンだから神様じゃあなかろう」
「だがよう、薬屋さん、小豆たァ、めでたいもンではねえですか。滅多たらに炊くもンじゃあねえぞェ。おいらも、ありゃァ、山ン神さんだと聞いとるが」
「アッシのざいじゃ、正体はくちなわだと聞きましたがのう」
「いいやァ、そりゃ違うべい。ながむしにゃ手も足もねえ。どうやって磨ぐ。それなら狐よ。せんたくぎつねッてのがわしの村にゃァ居った」
 へえ、皆知っているのか──と御行はおおに驚いて見せた。
 それから御坊は如何で御座居ましょう──と、円海に振った。
 円海は顔をゆがませて、無言のままひどく不快そうにした。
 ──矢張り何かあるのだ。
 百介はそう思った。
 そこで──それまで黙して話を聞いていただけの初老の商人が、ようやく出番が来たとばかりに口を開いた。

    


 まえびつちゆうとく右衛もんと申します。
 江戸の方でざつこく問屋を営んでおります爺で御座居ますれば──あ、いいえ、もういんきよ致しております身で御座居ますからな、営んでいるなどという大口はたたけませんでしょうかなあ。
 ま、良い身分の爺で御座居ますわい。
 ええ──小豆洗いで御座居ましょう。
 そりゃああなた、幽霊で御座居ます。
 はい。怨みを残して死んだ小僧が、しょりしょりと小豆を磨ぐんで御座居ますわい。はァ?ええ、手前の知っております小豆洗いの怪とはそういうもので御座居ますな。手前の店は日本橋で御座居ますが──そうそう、そこの御行さん、あなた、お江戸にだって小豆洗いはちゃんと居りますよう。
 ホレ、いり。あそこにも出る。それからもといいちようなにがしのお屋敷にも出るという。だからそうしたモノは居るので御座居ますわい。噓とお思いなら帰ってからお尋きなさい。
 ええ? それが皆幽霊なのかって?
 そりゃあそうで御座居ますな。まあ、恍惚とぼけたたぬこう辺りが幽霊の真似をしているとかいうこたぁあるのかも、しれませんがなあ。
 はァ。手前がように断言致しまするのにもちゃんと理由はあるンで御座居ますわい。
 何しろ、手前は小豆洗いの雇い主だったので御座居ますよ。
 はァ、勿論お話し致します。ご心配なさらずに。は? 何で御座居ますか考物の先生?
 ええ。日本橋の備中屋で御座居ます。
 私は五年前に身代を養子に譲りまして隠居致しましたのですが、はあ、種が悪いか畑が悪いか、五十を過ぎて子なく、そのうえ手前を置き去りに、古女房がさっさと西向いてしまいましてなあ。
 跡取りがいない。
 ま、早い話、番頭を養子に迎えた訳で御座居ますけれどもね。
 そんなですから、五年前までは手前も、それは忙しゅう御座居ましたわい。雑穀商と申しますのもこれで中中忙しいモノでして。
 買い付けに諸国を巡ったり、雑穀問屋仲間の肝入りまで勤めておりましたものですから、店をけることも多く御座居ましてな、細かいことなンぞにゃあ気が回りません。飯を食う暇もない。
 へえ。店には大番頭小番頭、手代からでつまで、大勢奉公人が居りましたけれどもね、まあ手前は、こう言っちゃ何なんだが、誰も信用しちゃあいませんでした。
 はぁ? ええ。世にいうしゆせんですよ。今となっちゃ何を欲しがって、何を惜しがってたのか、さっぱり解りません。起きて半畳寝て一畳、人は自分の座る場所がありゃ生きて行けるてぇのに、どういうもンで御座居ましょうか。その頃はそれが解らなくって、誰の顔を見ても、皆手前の身代をねらってるように見えましてね。
 はいはい。手前に跡取りが居らんのは誰だって知っていますからね、そりゃ店の者の中の誰かから跡取りが出るンだろうと。
 それはまァ、そのつもりで御座居ましたわい。でもほら、その頃の手前は──ええ。そうで御座居ましょう?
 金勘定が上手けりゃ上手いで欲が深かろう、糞真面目なら糞真面目で要領が悪かろうと、欠点ばかりが目につきましてなあ。どうもいけません。はァ、いけませんなあ。
 中中ねぇ。そう、血の繫がりでもあればまだ諦めもつくンで御座居ましょうけれども。いいえ、そうならそうで、そンなこたァどうでも善くなるンでしょうけれど。
 そうは申しましてもね、その、まあ手前も、こまごまとしたこたァ、誰かに託さなきゃねえ。商いが出来ませんでしょう。
 たつろうというのがその頃の番頭の名で御座居ます。
 辰五郎というのは、こりゃ善く出来た男でしたよ。
 朝は誰より早く起きる。率先して掃除ですわい。丁稚どもより善く働く。雑巾掛けから金勘定まで、そつなくこなしましたわい。いやあ違いますなァ。そつがないのじゃあない。
 懸命にやってたのでしょうな。手前がね、それをもう少しんでいましたらねえ──。
 そうなんで御座居ますよ。それだけ尽くしてくれる奉公人を、手前は丸切り信用しちゃいなかった。こいつァ手前の身代かっさらう気だと──そンな風に思うておりましたから。
 そういう暮らし方ってェのは、こりゃ寂しいもので御座居ますわい。
 それはあなた、そうで御座居ましょうよ。
 だからですかねえ。手前はね、その──ううん、何と申しますかねえ。はい。その──新米の奉公人が居りまして。小僧ですよ、小僧。そうですね、十三かそこいらの小僧です。これがね、そう、どこかの村から奉公に出されて来た、田舎者でしたよ。
 名前は、そう、すけといいましたか。
 おや。
 どうなさいましたお坊さん。お加減でもお悪いンで御座居ますか? 違う? はあ、何かうめき声が聞こえたような気がしましたのでね。はあ、なら良いんですが。
 その弥助をね、手前は可愛がった。
 何故? 何故ってねえさん、そりゃ無能だったからですよ。
 弥助はね、その、少少足りない小僧だった。
 まァ言葉はある程度解るンですが、人並みじゃあない。そうで御座居ますねェ、丁度五つか六つくらいの童くらいの──そう。その通りです。純朴なンで御座居ます。欲も徳もない。褒めりゃ喜ぶ、しかれば泣く。そういう小僧でした。
 どうしたンですお坊さん。お顔の色が優れませんぞ。はァ? あかりの加減ですか。
 そうですか。なら良いンですけれども。ろうそくも心許なくなって参りましたから。朝までちますかねェ。ああ、替えがある? その偈箱の中に? 流石さすがは御行さん、用意が宜しいンで御座居ますねェ。
 弥助はですね、そんな小僧ですからね、こりゃあお店の役には立ちません。
 子供の遣い──文字通り子供の遣いくらいしか出来ないンで御座居ますから。だから、そんな身代を狙うなンてことはあり得ませんでしょう? それで手前はね、側に置いて。
 はァ、そりゃ他の奉公人どもは得心行きませんでしょう。懸命に働いても見向きもされないてェのに、ぼおっとしたたわけ者を取り立てるンで御座居ますから。意見する者も多く居りましたわい。
 はい。お察しの通りです。意見する奴は、こりゃ怪しいと、ことごとくびに致しました。そうなりますとね、この、士気が鈍るというので御座居ましょうか。段段と遣る気がなくなって来るンでしょう。
 はいはい。今は善く解りますよ。勤めても認められなきゃ誰も勤めませんわい。厭にもなりましょうし、ならば失敗もする。
 失敗した者にも──暇を出しましたですわ。
 あっと言う間に奉公人は半分くらいになったのですな。
 ええ、眼が曇ってはおったのです。
 ただ、この弥助というのが、少し足りないというのに変わった特技わざがありましてね。はァ。ありゃあどういうンでしょうか。
 へ? ええ。その、例えばこう、ますに一杯、小豆を盛りますでしょう。それをこう、見ただけで何粒あるかぴたり言い当てる。
 どうしましたお坊さん。お坊さん。大丈夫で御座居ますか?
 え、ああそう、それが不思議で御座居ましたなあ。一粒たりとも違っちゃいない。何度やっても合っているのです。はいそうです。見ただけですよ。ええ、手には持ちますな。だから重さで判るンでしょうかね。判りますか? 何もんめかも判らない? まあそれが普通で御座居ましょう。それをね、粒の数を当ててしまう。一合でも、一しようでも当たってしまう。
 そこで手前は──まあとことん吝嗇しみたれていたのでしょうな。その不思議な術を商売に利用しようとした訳ですわい。さるお大名を宴席に招き、弥助を引き出してのお座興を致しました。
 殿様がこう、横に用意した赤小豆を升ですくう。それを弥助がうやうやしく戴き何百何粒と量る。次に家来衆が勘定する。全部当たった。
 喜びましたな。
 沢山褒美をくださった。のみならず、手前の商売の方も上手く行ったという訳で──。
 手前の眼は益々曇った。
 大勢の前に弥助を出して、いずれ跡目を譲ると言ってしもうた。
 口が滑りました。一同は響動どよめいた。
 もつとも当の弥助はただにこにこと笑っておりましたけれども。
 兎に角、跡目が決まったのだから祝い──ということになった。
 成り行きで御座居ます、ハイ。
 で、お祝いとくりゃあ小豆で御座居ましょう。
 丁度良い、縁起物じゃということで、弥助がお殿様の前で量ったあの赤小豆を炊くことにしたので御座居ますわい。
 弥助は、まあことの事情は善く解っちゃいなかったンでしょうが、それでもお祝いは嬉しいとね、小豆は大好物だからと。
 自分で磨いで来るって申しまして。
 ええ。弥助は、お店じゃ使えませんから、奥向きの、おさんどんなんかをやらせていたンで御座居ますよ。それでね、はい、台所に居るかと思えば何処まで小豆を磨ぎに行ったやら。そのまんま、弥助は消えてしまいました。お祝いも糞もあッたものじゃあない。
 矢張りは莫迦だと、皆申しましたが。
 手前もね、まあ不憫には思いましたけれども、そんなものかと思っておりました。黙っていなくなった訳ですから、裏切られたような気もしていたので御座居ましょうよ。
 暫くして──。
 そう、番屋から報せがあったンです。
 大川端にむくろが揚がった──。
 人相風体から、当家の使用人と思われるので面通しを頼む──と。
 ハイ、弥助でした。
 頭が割られていた。
 突き落とされたか。足を滑らせたのか。
 どこでどうして落ちたのか、皆目判らなかった。大体小豆を磨ぐったってお江戸の真ン中でしょう。川で磨ぎゃあしませんて。
 何だって川へ行ったものか。
 その日の夜からで御座居ますよ。
 小豆磨ごうか──。
 人獲って喰おうか──。
 しょりしょり──。
 そういう、鬼魅の悪い唄が聞こえる。そう、夜にです。
 店の中で。
 どうも弥助の声だという。
 はい。手前も聞きましたとも。
 そのうち、パラパラッと音がするンですな。
 慌てて出て見ると、軒下に小豆がね。
 赤小豆ですよ。
 雨戸に打ちつけたンでしょう。
 パラパラッと。
 それが幾日も続いた。
 そのうち、どうも土間で気配がするという。
 わ覗いて見ますとね。
 小さな小僧が、土間に小豆をばらいちゃ、数を数えているんですよ。一粒、二粒、三粒。
 小豆磨ごうか──。
 人獲って喰おうか──。
 しょりしょり──。
 それがすうっと立ち上がる。
 それで、井戸の中に消えた。
 翌朝、手前は井戸を調べました。すると弥助の持ち物と、多くの赤小豆が出た。それから血のついた石も出た。
 ハイ。弥助は台所で、小豆を持ったまま石で打ち殺されて、その後に井戸に放り込まれたンで御座居ます。後でなきがらだけ引き揚げて川端に捨てたので御座居ますよ。
 そうそう。下手人はね、辰五郎でした。
 いいえ、奉行所に手前が出向きまして、井戸の中のことをお話ししまして、その時に番頭だった辰五郎も同道したので御座居ますけれど、もう、自ら白状するようなものでして。
 顔面がそうはくになって、しどろもどろで御座居ましてね。
 後で聞きましたが、ぎんかた背後うしろにね。
 背中を向けた小さな小僧が居て。
 何やら磨いでいるところが見えていたんだそうです。
 しょり、しょり、しょり、と、音が聞こえていたという。
 手前には聞こえなかったし見えませんでしたけれどもね。
 ええ。辰五郎は死罪になりました。
 手前も、それで目が覚めたのですわい。可惜あたら働き者の番頭と、罪のない小僧を死なせたのは他ならぬこの手前自身の強欲なンで御座居ましょう。それで、もうすっかり目が覚めた。そこで二番番頭だった男に身代の凡てを譲り、こうして諸国の寺社を巡り歩いて、ふたりのだいとむらっているンで御座居ますわい。
 え? その後ですか?
 はい。ですからまだまだ成仏出来ぬらしくって、行く先先で聞こえるンで御座居ますよ。小豆磨ごうか、人獲って喰おうか、ほら。
 聞こえますでしょう?
 しょりしょりと。
 あれです。あれは、怨みを残して死んだ弥助が、小豆小僧が、小豆を磨ぐ音なんで御座居ますよ。

    


 いきなり大声を上げて円海が立ち上がったので、その場に居た全員が肝を潰した。円海は善く聴き取れない、意味不明の言葉をわめき散らし、濡れた衣を振り回したので、それでなくとも心許ない蠟燭の火は消え、小屋の中は真っ暗になった。
「おのれ、貴様達は何者だ、何の企みだ」
 そんなことを叫んでいたようだったが、勿論百介には何のことだか解らない。ただ闇の中で得体の知れない濡れた塊が動いているので、それが生理的に怖かった。最早漆黒の闇自体が、凶暴な気を振り撒いて律動しているようなものだったからである。
 百姓どもも物売りも、余程驚いたのであろう。腰を抜かして壁に貼りつくようにしているのが百介には解った。落ち着きなせェ落ち着かれるが善いと御行の声がした。煩瑣うるさい黙れと円海は叫んだ。
「そうじゃ、拙僧じゃ。このわしじゃッ」
 円海はそう怒鳴った後、おうおう、とどうこくするような声を上げ、壁を叩き床を蹴って暴れていたが、やがて静かになった。
 さらさらと川の音がした。
 さめざめと雨の音もする。
 さわさわ山が鳴っている。
 しょき。
 しょき。
 しょき。
 小豆洗い。
「弥助ッ」
 円海はそう叫んだ後、おお、とえ、小屋の戸を蹴り外して外に飛び出した。大きな音に続いて、遮る戸を失ったため、さあさあという外の音がやけに大きく響いた。
「百物語──最後までにゃァまだ間があるに」
 御行の又市がそう言ったのを百介は聞き逃さなかった。
 円海の絶叫する声が、さあさあという雨の音だか川の音だかに混じって聞こえた。それは峡谷にこだましたのか、或は記憶の中で反復したのか、短く断続的に、百介の耳に残った。
 さ。
 さ。
 さ。
 さ。
 その後は口を利く者もなく、また濡れた蠟燭は二度とかず、戸口からしぶき込む雨を避けるようにして、小屋の中の一団は夜を明かした。
 翌日。
 雨はすっかり上がっていた。
 昨夜の出来事が悪夢のようである。それはその場に居たものは皆そう思っていただろう。尤も過ぎてしまえば殆どのことは夢のようなものである。百介はそんなことを思いながら小屋を出た。
 ──あの坊主は何だったのか。
 全く以て解らない。乱心していたのか。
 一足先に出た薬売りの裏返った声が聞こえた。
「おおい、大事だァ」
 お坊様が死んでいるぞ──とその声は告げた。百介は駆けた。
 小屋を出て岩場を少し下るとすぐに川である。水位は昨日に比べれば下がっているが、未だ流れは急である。
 ちゅんちゅんと山鳥か何かが啼いている。
 誰が死のうと山には無関係ということか。
 円海は小屋の外の川辺に、頭を水に突っ込むようにして死んでいた。小屋を出て、そのまま足を滑らせ、転落して石に頭を打ちつけたのであろう。禿とくとうが血に染まっている。
 眼を見開いたその顔は、驚いたような、泣き顔のような、実に奇妙な表情を作っていた。
 あの、小屋を出た後の絶叫は、断末魔だったことになる。
 百介はその場に屈んで手を合わせた。
「おや──だから気をつけなッて言ったのにサ」
 背後から山猫廻しの声がした。振り向くと御行も備中屋もそろって立っている。百姓や他の担ぎ屋も遠巻きにしてこちらを見ている。
 小屋の入口からは伍兵ヱ老人が覗いていた。
「小豆洗いの出た後は、水に落ッこちるッて。ねェご隠居?」
 おぎんがまゆひそめて徳右衛門に言う。商人は拝むようにした。
「御坊の法力も魔物には敵わなんだか。さてお気の毒に──」
 こりゃあその、小豆洗いの仕業だか──と、百姓が尋いた。
 御行が大きくうなずいた。
「どうもそうのようだなァ。こりゃあやつがれの思い違ェだった。そこの先生、お説の通り、小豆洗いは居るようですな──」
 百介は何と答えて善いやら、言葉に窮してただ立ち上がった。
「まあ──そうなのかな」
 足を滑らせただけといえばそれまでだ。だが、慥かにその時、小豆磨ぎの音は聞こえていたのだ。ならば。
 御行は何故か納得でもしたような顔で百介の方を見て、
「誰か、この御坊の行かれる筈だった寺を知ってる者は居ねえか」
 と大声で言った。担ぎ屋のひとりが知っていると言った。
「慥か、この川の向こうの、えんぎようと申します古いお寺だと思いますがな。一昨年お伺いしたことがありましてなァ、ご住職のにつけん様ァ、儂も存じ上げており申す」
「そうかい。そりゃあ都合がいいやィ。どうだね、そでり合うも他生の縁てェじゃねえか。お前さん、道が一緒なら、ひとっ走りその寺に行っちゃあくれまいか。そうしてお住師さんにことの次第を話しちゃあ貰えめえか。このままじゃァこの御坊も浮かばれまいし、ここに居るみンなの後生が悪いや。むくろは引き上げておくから──おお先生、手伝ってくだせえよ」
 御行はすたすたと死骸に近づき、その頭を持った。言われて百介は足の方に回った。頼まれた担ぎ屋は承知しました──と言った。
「小豆磨ぎの怪に見入られた──と申しましょうか」
 そう言うしかねえでしょう──と御行は善く通る声で言い、いいですかい先生──と百介に言葉を掛けてから、エイと力を入れて骸を水から揚げた。百介は冷え切った足を持ち、ぐにゃりとした濡れた塊を岩場に横たえた。
 御行は懐からりんを出し、りんと鳴らして、一言、
「御行奉為したてまつる──」
 と言った。
 それから御行は偈箱から札を出し、割れた額の上に置いた。
 申し合わせたように、全員がこうべを垂れた。
 山鳥が啼いた。
 その後。取り敢えず小屋の中に骸を運び込むことにした。
 百姓や担ぎ屋は三三五五に散り、おぎんと徳右衛門、そして御行と伍兵ヱ、百介が遺体を囲んで小屋の中に残った。
 伍兵ヱは円海の骸を無表情に見つめている。
 不思議な雰囲気だった。
 御行が言った。
「どうやら──ちげエはなかったようで。この結末は少少不本意だったが、これも何かの思し召しと思うよりねェ」
 伍兵ヱは低い声でへい、と言い、それから手を顔に押し当てて妙な声を出した。泣いているのだった。
 肩を震わせて、小さな老爺は号泣していた。
 おぎんが言った。
「悔しかったろうねェ、悲しかったろうねェ伍兵ヱさん。これこの通り、憎い辰五郎は死ンじまった。弥助さんが呼んだのサ」
 徳右衛門が続ける。
「まあてんもうかいかいにして漏らさずというのもあながち噓じゃない。この野郎も、今は真面目に修行していたらしいから、白状すれば許してもやろうと又さんとは話していたんだが」
「ちょ、一寸待ってください。あなた方は、その──」
 百介がげんな声を上げると、御行がおごそかに答えた。
「この円海という男は、出家する前は辰五郎という名の破落戸ごろつきで、この山を根城に雲助山賊の如き荒事を働いていたんでさぁ」
「辰五郎ってのは──その、こちらの、備中屋さんの──」
 百介は書きつけた帳面をめくる。昨夜ここで話された怪談話は凡てこと細かに記しておいたのである。その名は記されていた。
「──慥か番頭さんの名じゃあ」
 御行は笑った。
「備中屋──そんな店はねえんで。この親爺はね、ことれのへいという名の──そう、小悪党でさァ」
 小悪党に小悪党呼ばわりされたかねえなァ──と、昨夜徳右衛門と名乗った初老の男は言った。口調が違っている。
「こいつだってね、今でこそこンなまつこうくせなりをしているが、この間まではまたくぐりの又市と二つ名を取る名代の噓き、江戸一番のき男だったんじゃ」
 小股潜りとはかんげんろうして他人ひとたばかるというような意味である。
「ど──どういうことです?」
 百介は完全に混乱している。何が何だか解らない。
 御行──小股潜りの又市──は、複雑な表情で百介を見て、少し戸惑った末にこう言った。
「この辰五郎は丁度十年前、この伍兵ヱ父っつあんのまなむすめのおりくさんにね、横恋慕をしたンでさァ。だが、おりくさんは祝言が決まっていた。そこでこいつァ、無理にも懸想を遂げようと、こともあろうにおりくさんを婚礼の晩に拐して、この小屋に監禁しちゃァ、七日七晩、陵辱し続けたンだ」
「おりく──そりゃあおぎん殿の姉様──ああ、あなたも」
 おぎんは艶めかしく笑った。
「アタシは江戸の生まれで御座ンすよ。見りゃあ解るでしょうに。こンなあかけた田舎モンは居ませんのさ。そう、おりくさんってェのは、こちらの伍兵ヱさんの娘さんなのサね。まあ夕んべお話ししました通りの、そりゃあ綺麗な娘さんだったようですけれどね。山猫ならぬ山犬にまれちまッて──」
 おぎんが言葉を濁したので又市が先を続けた。
「この小屋で見つかった時にゃあ、おりくさんはもうすっかりいけなくなっていたンだそうでね。言葉も解らず、何も答えず、しろのまま──で、おりくさんはそのまま、この小屋を出ずに、ここで亡くなったンですよ」
「それでは昨夜の話は──」
 矢張り原典はなかった。
 しかしそれは実話でもなかった。
 それは実話を巧妙に作り替えた、ぐうなのであった。
「何と──まあ」
 つまり、おりくという娘が山猫に化かされた挙げ句に閉じこもった小屋というのは、本当はこの場所この小屋だったということになる。しかもそのおりくは山猫の魔力にたぶらかされたのではなく、ならず者にさらわれた末に監禁されていたというのである。
 百介は思わず小屋の中を見渡す。
 祝いの晩に奇禍に遭い、はずかしめを受けた娘は精神に変調を来してこの小屋に立て籠り、食事も摂らずに衰えて死んだのだ。又市は円海の死骸を見つめている。この、ここで死んでいる僧侶こそが──。
「下手人は解らなかったンでさァ。否、この辺の者ァこの辰五郎を下手人と疑ってはいた。でも証拠がねェ。ずるがしこいこの野郎は、足のつくような下手ァ売らなかったンだ。しかしね」
「しかし?」
「弟である弥助さんが、辰五郎を見ていた──そうでやすね?」
 又市の問い掛けに、伍兵ヱは下を向いたまま頷いた。
「弟──ですか。おお、弥助といえば」
 架空のおおだな備中屋の小僧の名である。
「そう。ただ弥助さんは、少しばかりその」
「ああ」
 今度は又市が言葉を濁した。
 多分、弥助というのは昨日徳右衛門──治平が話したような童だったのであろう。
 ならば幾ら目撃していてもらちが明かない。
「この伍兵ヱさんは、なンとしてもおりくさんの仇が討ちたかったんだ。でも弥助さんにはそンな、修羅の道を歩んで欲しくなかッたんでサぁ。そこでね、弥助さんが十八になった五年前に、近くの古寺──円業寺に入れたんですよ」
「円業寺──そりゃあ、あなた」
「そう。この円海──いや、辰五郎の居た寺でさァ」
「それじゃあ──」
 治平が円海の亡骸を見下ろすようにして言う。
「昨日儂が話した通りでな。和尚は朴訥で純真な弥助──出家して後はにちぞうというていたのだが、その日増をえらく可愛がっておったようだな。小豆の数を当てるてェ話も真実まことだったそうでなあ。その所為せいもあって中中重宝もされとったようだ。しかしな、何といっても驚いたのはこの円海──否、辰五郎よゥ」
「何だって──この男はまた寺になんか?」
 又市が答えた。
「辰五郎はね、おりくさんが死んじまッたもんで、流石さすがに己の仕出かしたことの重大さを知って、罪の意識にさいなまれたんでしょうよ。それで出家していたンでさァ。まァ、寺をほとぼりが冷めるまでの隠れみのに使ってただけかもしれねえンだが。そこに、目撃者である弥助がやって来た。こりゃあ──いつバレるかと気が気じゃアねェ」
「それで──」
 そうサ──とおぎんが言う。
「日増さんはねェ、ここの上流の、鬼の洗濯板のところで小豆を磨いでいるところを何者かに突き落とされて、頭を割って死んじまッたンですよ。本当に哀れな話サ。ねェ又さん」
「おうよ。その岩ってェのは、おりくさんと弥助さん姉弟の幼ェ頃からの遊び場だったんだそうでね。多分辰五郎はその場所でおりくさんを見初めたんだ。そして、同じ場所でね、弥助さんまで殺しちまった──」
 オウ、と伍兵ヱは声をあげた。
 又市は憂えの籠った視線を伍兵ヱに投げ掛けた。
「この円海という男は、この伍兵ヱ父っつぁんの子をふたりまで殺した男だ。父っつぁんは色色調べて、どうやらそうだと当たりをつけたはいいが、証しがねェ。そこでひと芝居打ったのよ。円海は先日寺の用で江戸に出た。その帰り道、何処かで罠を仕掛けようと、ずっと尾行つけて居たンだが、昨日の雨は──おあつらえ向きだったぜ」
 又市はそう言って立ち上がった。
「あの雨はおりくさんと弥助さんが降らせたんじゃろうて」
 治平も立ち上がる。おぎんもならった。
「それでは昨夜のことは凡てあなた達の──仕掛けた罠で」
 ならば何とこうな罠であろうか。
 婚礼の晩に消える。小屋に立て籠って死ぬ。小豆を正確に測る。同宿の者が小豆を磨いでいる最中に殺害する。まるで別の話なのに部品だけは同じだ。様相からして違う話なのに、多分固有名詞を含む細部は全く同一なのだ。
 円海は、おりくという名に反応し、弥助という名に震え、辰五郎という名にせんりつしたのだろう。
 事情を知らぬ者には一切脈絡がない。
 それは下手人以外には知り得ぬ共通項なのである。そして円海はそれら細部のことごとくに、いずれも反応したのだ。ならば。すると。
 ──おのれ、貴様達は何者だ、何の企みだ。
 ──そうじゃ、拙僧じゃ。この儂じゃッ。
 あの乱れよう。あの言葉、あの物腰。
 なる程、そうした意味であったのか。
 真実、下手人は円海だったのであろう。そうでなければああした態度は執るまい。おぎんが口を開いた。
「まァねえ。偶然を利用したンですけれど。でもこの円海がこの小屋に来るかどうかは賭けだったンですよ。それに、先生も含めて、あんなに大勢が路頭に迷ってるたァ──アタシが伍兵ヱさん連れてここに来た時ゃあ、雨宿りはもう四人も居ましたからねェ。これで又さんがを連れて来なけりゃあ、今回は見送りのはずだったのサ」
 おぎんは円海の骸を見ている。
 又市が言った。
却説さて。どうなさいますか考物の先生。俺達ゃこれで引き揚げる。まァお好きにされるが宜しいか。ただね、円業寺の日顕という坊様は何も御存知ねえんで。だから伍兵ヱ父っつぁんも何かと累が及ぶことを嫌っていたんだが──その」
 解っていますよ──と百介は答える。
「凡ては小豆洗いの所為で良いのでしょう」
「そう。小豆磨ごうか人獲って喰おか──」
 又市はそう言って優しく手を差し延べて伍兵ヱを立たせた。
 それから、川を渡るなら上流に丸木橋がありやすから、そこを行くのが安全ですぜ──と言って、にこやかに笑った。

はくぞう




    


 の国にゆめやまという名の山がある。
 紅葉もみじあかと松の緑と、影と光とかすみと雲と、とりどりのいろこんぜんいつたいとなり、山だか夢だか、まこともうろうとして、あおぐ者見る者は、一様に夢夢くらくらがんを感得し、分け入る者歩く者は、ただくらくらとするうちに、生きながくまいざなわれたが如き心持ちになる。昼尚くらき闇こそないが、うつしかくりの境がとろけていて、故に夢山と呼ぶのである。
 そのふもと
 ただうつそうと繁茂するもりがある。
 おおきなものではない。とはいえ、林と呼ぶには密である。しかして森とするにはせま過ぎる。
 名をきつねのもりという。中程には小振りな塚があり、何をまつったものであるやら、矢張り小さきほこらが建っている。
 さくはその塚に腰を下ろしている。
 急ぎ旅の途中である。二日間ろくに休まずに歩き通し歩いて、あししんから丸太棒の如くに固まって、ようやく休んだところである。
 みちのりは残すところわずかだから勢いに任せて突っ切ってしまおうかとも思ったが、たなかった。
 杜は湿っていた。
 しかし弥作は乾いていた。
 かさかさに、かわいていた。
 却説さてのどでも潤そうかいと竹筒を取り出だし、口に当ててはみたものの、ふとてのひらが汚れているのに気付き、弥作はまずぬぐいで両の手を拭った。
 汚れは落ちなかった。
 ひとたび腰を下ろしてうと、立ち上がることが大層おつくうに思えた。弥作はこんぱいしていたのだ。しりの下は草だか土だか、堅いような柔らかいような、じわりと湿った感触で、普段であれば不快な筈のそのひんやりとした感触が、やけに心地良かった。
 そして弥作は投げ遣りな気分になる。もうへも行きたくなかった。ここに居たかった。
 弥作は五年前までこの杜にんでいた。
 ──何が。何が、何処で──。
 何が何処で違ってしまったか。
 ──この手で。
 あの女を。
 視線まなざしを上げる。えていた。
 細かな葉先に草露を蓄えた歯朶である。
 葉先がしなってしずくが一粒こぼれた。
 干からびた弥作の乾いたまなこの奥に、ほんの少しだけ潤いがよみがえる。
 ──きつこう
 くさむらの蔭に一匹のきつねがちんまりとたたずんでいた。
 ──怨んでいやがるか。
 狐は止まっている。その黒き眼はらくに開いた穴の如く、何も映してはいない。当然のことである。最初はなから畜生けだものに怨む念などある訳がなく、そう見えたならそれは弥作にやましい想いがあるからである。
 弥作は狐釣りの名人だった。
 は熊のあぶらねずみきつねわな
 それは、面白いように釣れた。
 釣っては殺す。釣っては殺す。
 喰いもした。だが喰うため釣るのではない。
 売るためである。狐は、死ねば銭に化けた。
 皮をいで市に出せば面白いように売れた。
 だから。
 この杜の狐は、弥作があらかたってしまった。
 雄も牝もなく親も子もなく、この杜の、狐という狐は弥作が殺した。そう思っていた。
 狐はしばらく弥作を視ていた。
 正しくは弥作の居る方に鼻先を向けて止まっていた──というべきか。弥作もまた、動きを止め、のみならず息を殺し、皮膚はだをぴんと張って止まっていた。
 ──あれは。
 弥作が杜を離れた五年のうちに、何処からか渡って来た狐か。それとも獲り残した狐のすえなのか。
 ──ほふった狐の亡霊かもしれぬ。
 畜生に魂などあるものかどうか、弥作はそんなことは知らないけれど。きっとそんなモノはないとも思うのだけれど──。
 いずれにしろ弥作は、狐公に忌み嫌われる覚えならあるが、好かれる因縁はない。
 狐はまだ弥作を見つめている。
 弥作も狐から視線を外せない。
 ──むくいか。
 この有様は、狐を殺した報いか。
 ──何を気弱な。
 だが。
 ──そうか。この場所か。
 弥作は思い出した。
 あの時も、弥作はこうして祠を背にして弧座すわっていたのだ。そして、あの坊主は──。
 丁度狐の居る辺りに倒れていた。
 仰向けに。額からは、どくどくと。
 血が。
 お願いじゃ。もうお止めくだされ──。
 生業なりわいが立たぬのは承知しております──。
 銭一貫目でその狐罠を売ってくだされ──。
 拙僧に出来ることならば、何なりと致す故──。
 畜生といえども、親子の情愛はろうて──。
 殺生の罪は来世のさわりと相なり申す──。
 お願いじゃ。もうお止めくだされ──。
 狐を──。
 ──殺さないで──か。
 狐は漆黒の瞳で弥作を視続けている。
 否、視ているように弥作には思える。
 その瞳に映るのは、弥作の救い難い罪業である。
 ──殺生。
 ──親子の情愛。
 歯朶の雫が零れた。
 音などするはずもないのに、ぴちゃりという水音が頭の奥で聞こえた。一瞬のことである。
 狐は、居なくなっていた。
だんさん、江戸から来なさったね」
 突如。声が響いた。
 わあ、と声を上げ、前倒しに突いた手を軸にして半身を返し、声の方向──背後を見る。祠の蔭に何やら白いものが居る。ずくずくと心の臓がわなないて、弥作は両手を地べたに突いたまま身構える。
 ──狐。
 祠の後ろからとがった耳が覗いた。
 すう、と狐の顔が出る。
 腰が抜けた。
 突然あハハハと脳天を抜くような笑い声がした。
 ──狐だ。神使みさきがみのお狐か。
 ──この祠は──もしや。
「アア可笑おかしい。こりゃ、なンとも気の弱い──」
 弥作は声が出ない。
「──まあ、本当にたまたてェご面相で御座ンすねェ。やれ、あたしにしちゃァ趣向がだった」
 狐の顔がぽとりと落ちた。
 ──面だ。
 それは張り子の狐面だった。
 祠堂の横から、今度は女の顔が覗いた。
 けるような白面のほそおもてである。
 切れ長の、縁がほんのりと赤いまなこげんの月の如き形にし、鮮やかな紅をした朱唇くちびるほころばせて、女は笑っている。
 ──人か。
 弥作は気付かなかったのだが、荒れた祠の丁度真後ろに、女がしなれて横座りになっていたらしい。驚かせちまったねェ──そう言いながら、女は身軽に立ち上がり、祠の横手に出でて総身をあらわにした。
 派手なむらさきの着物に、草色のはんてん
 切って貼った如く景色にんでいない。
 近在の者とは思えないし、旅仕度とも思えない。
 ──ならば矢張り。
 ぞっとする。そんな訳はない。狐でも狸でもある訳がない。
 きんじゆうが人様を化かすなど、弥作はそんな妄言は信じていない。それでも──。
 否、それは。
 独り切りだと思うていたに、突如いきなり人の声がしたために怯気びくりとしただけだ。そうなのだ。
 判っても尚、未だ声は出なかった。
「何だい何だい。狐につままれたみたいなご面相じゃないかさ。あたしの顔はそんな怖いかえ」
 女はそう言うと、少し滑るようにして塚を下り、一度跳ねるようにして石をまたぐと、弥作の目の前まで来て止まった。仕草が狐染みている。
「嫌だねェ。さかおまえ様ァ、このあたしを、本当に狐公か何かと思うておいでじゃあるまいね──」
 ──透けるような白い顔だ。
「──おっと旦那さん、顔で御座ンすね。幾らここが狐杜だからッて、それじゃあどうにも笑わせる。見下げたきもの細さじゃないかえ──」
 女は再び笑った。
 そして愛想良く微笑み乍ら右手を差し延べ、サアサア立っておくんなよゥ──と言った。
 弥作は何故か両手を懐に仕舞った。
 見られたくなかった。
 汚れているからだ。
 弥作は取り立てて可笑しくもなかったから付き合い笑いはせず、無言で立ち上がった。
「──まァ、場所が場所だから仕方が御座ンせんよ。気を悪くなさったンなら謝りましょう。ナニね、あたしァ江戸からずっと、おまえ様の少し後ろを歩いていたのさね。別に道連れ気取った訳じゃァないンですけどね、ずっと前に居られちゃァ、急ぎの脚にも見慣れちまうでしょう。後ろ姿を目が覚えちまった。それが山道に差し掛かると何処で如何どうはぐれたか、姿が見えないンです。まァ行く先が違ったのさとそう思い、そこの祠の裏で休んでましたらね、見慣れたおまえ様がひょいと現れたって寸法さ」
 江戸から──。
 真実ほんとうか──弥作はいぶかしむ。弥作は相当に足早だった。果たして女の足で追い越せるものだろうか。
 そのご面相ァまだ信用してないッて面で御座ンすねェ──と、女は細長いまゆを歪ませた。
「別に獲って喰おうッて了見じゃありませんよ。あたしは御覧の通りのかいらい、しがないやまねこまわしで御座ンすよ。鬼でも蛇でも御座ンせんよゥ」
 それはそうだろう。しかし。
 ──何の魂胆が──もしや。
 弥作は一層に訝しむ。たしかに奉行所や八州回りの手の者ではあるまい。しかし火盗改めの同心は子飼いのに町下の者を召し抱え、密偵にしていると聞く。女だからといって安心は出来ぬ。
 ──だが。
 よもや追手がかかったとも思えなかった。あの女は心中の片割れとして始末されている筈である。弥作を疑う者は誰ひとり居ない筈だ。
 あの女──。
 ──
 三月追い掛けた。そして。
 三日前。
 ぬし様はあたしを──真逆この妾を──。
 妾は誰にも、何も言っておりませぬ──。
 許して。命だけは。子供が、子供が──。
 ずぶり。
 血。
 人間の血。
 手が。手が汚れて。
 ──いやだ。厭だ厭だ。
 どうしたんです旦那さん──と女が呼んだ。
「尋常な顔色じゃあ御座ンせんよ。おまえ様、江戸から歩き詰めで御座ンしょう。大分疲れておいででしょうに。この寒空にその汗は──」
「否──」
 本当に眩暈めまいがした。
 女が手を差し出す。
「いやじゃア御座ンせんよ。こンなところでこのまんま、行き倒れておぶつじゃあ、こっちの後生が悪ゥ御座ンすよ。ざらしンなッちまってから後で怨まれたって、あたしが嫌で御座ンすよ。さアこっちへ」
 女は塚の方へ弥作をさそった。
 いざなわれるままに塚に歩み寄り、女の手を借りて弥作は腰を下ろす。女は放り投げてあった竹筒を拾い、まあ水でもお飲みな──と言って寄越した。
 手渡す際に女はおぎんと名乗った。弥作は名乗らなかった。
 名乗る義理などなかったからだ。
 筒の水はこぼれてしまっていて、める程しか残っていなかった。放った折りに栓が外れたのだろう。
 それでもひと心地はついた。
 元元座っていた場所だ。歯朶が見える。
 歯朶の向こうに、先程は狐が居たのだ。
 弥作は思い直す。何を慌てることがあろうか。
 こ奴はたかが旅芸人である。怖れることなどないではないか。何を知っている訳でもあるまいし、何か知っていたところでどうということはないのである。
 仮令たとえこの女が火盗の犬であったとしても、あるい強請ゆすたかりのたぐいであったとしても、もしそうならば──。
 ──殺してしまえば良いのだ。
 嫌ですよォ──と、おぎんは言った。
「──そんな及び腰であたしに悪さしようったってそう上手くは行きませんからねェ」
 殺意を見透かされたような気がして、弥作は急激にえた。
 どうもいけない。女の立ち居振る舞いに乗せられて調子が狂ってしまっている。
 むしろ適当にあしらった方が良いのかもしれぬ。それに──。
 ──本当に狐だったら。
「モウ、狐じゃあ御座ンせんッてば──」
 弥作は息をんだ。
 心を読まれている。
 ──これが世にいうの怪か。
 ならば──。
 おぎんは再び笑った。
「オヤまあ。どうやら図星だったようで御座ンすねェ。どうせまだ疑ってたンでしょうよ。何ですよそのトンマな顔は」
「あ──あんた」
「ハテ──もしやおまえ様、あたしがおまえ様の心中を読み取ったとでも思うていなさるのかえ。嫌ですよォ。あたしは魔物じゃァないって、何遍言えば信じて貰えるンでしょうね」
「しかし──あんたは──」
 ──これはただの旅の女だ。
 相手にするな。気にするな──。
 弥作はどんどんと乱れる。目がくらむ。
 弥作の動揺した様子を見て取ったのだろう、おぎんは愉快そうに塚に足をかけた。
「旦那もとんだ腰抜けだ。強情を捨て、却説さてはと疑う一念も持っていなきゃァ、鬼神と雖もその心持ちを察することなんザ出来ゃしないでしょうよ。ましてやあたしゃア御覧の通りの半端者。おまえ様のご様子から、ヤマを掛けての知ったり振りさ。たったとしたッてまぐれ当たりさァね」
 おぎんは二歩三歩塚に登る。
 弥作は視線で後を追う。
「──殿方相手にして生意気なこと言うようで御座ンすがね、あやかしなンてのは、有りはせぬかと疑う時には必ずあらわれるし、ないと思えば決して出ますまい。恐いと思えばふるがさだって舌出して手招きしましょうし、枯れ木に掛けたふる草鞋わらじだって笠のうちを覗きましょう。世に奇ッ怪ととなえるもンは、全て人がみずから呼び寄せるもンなんで御座ンすから、おのずかはらい落とせるものでも御座ンしょうよ──」
 それはそうだろう。そんなことは十分に解っている。だが弥作には──嫌という程に──疑う理由わけも怖がる子細わけもあるのである。仕方があるまい。
 疑心暗鬼とはこのことである。
 そうでしょう──と笑顔で振り向くおぎんのその顔は、やけに人懐こくて、眼にもよこしまな光りはなかった。それもその筈、すべては先程の狐と同じことである。相手の瞳に何かあやかしが映るなら、それは己の疾しさ故である。この女はそう言っている。
 弥作は観念した。
「これは──あんたの言う通りだ。折角気に掛けて貰うたに、すまぬことをした。あんたの言う通り、わしはあんたを狐かと疑っておった。それもこれも儂が疾しい気持ちを持っていたからだ」
「疾しい──気持ち」
「そうよな。何を隠そう──儂は元猟人かりゆうどでな。この辺りの狐公どもは皆儂が殺した。久し振りに通りかかって、親の怨敵かたきよ子供のあだよと、狐の奴が化けて出たかと、そう思うたのじゃ」
 それは真実だ。しかし──。
 そいつァ慥かに背徳うしろめたいねェ──と女は言った。
「まあねェ。いずれ殺生ってのは後味が良くないものさァね。しかし生業なりわいとなりゃ話は別で御座ンしょう。猟人が獣獲るのは世の習い。釣られる狐も観念してるで御座ンしょうよ。いちいち化けて出るよな無粋なお狐は居りませんでしょうに」
「そうかもしれぬ。まあ、儂が臆病なのだろうよ」
 いけねぇな──と弥作は己をあざわらった。
 情け容赦なく。
 殺した。
 何人も。
「否、そうじゃあねぇなぁ」
 ──何が臆病なものか。
 はらの底で弥作は再び己をあざけり笑う。
「儂はその昔──狐の生皮を剝ぐ時に、哀れじゃなどと思うたことはただの一度もなかったわい。これで幾価いくらじゃ、やれ儲かったと、そう思うておった。親狐子狐、情け容赦なく釣っちゃァ殺し、釣っちゃァ殺ししていたもンでなァ。だから臆病というより──非道が過ぎたということなんじゃろうな」
 非道が──過ぎた。
「でも辞めちまったンだろ」
 おぎんはほこらを見上げていた。
「哀れだと思うたから辞めたんじゃァないのかえ。可哀想だと思うたからしたんだ。そうなんだろ」
 ──そうじゃあねェ。
「何のこたァねェ。儂の乱獲をとがめた、さる御坊に戒められてな。殺生の罪は来世の障りとなると、そう申されて──まあ、その気になった──」
 ──噓だ。
 それは噓だ。弥作はそんな殊勝な男ではない。
 それは弥作自身が一番く知っている。
 猟師を辞めたのは──それは。
 ──坊主。
 げん和尚。
 お願いじゃ。もうお止めくだされ──。
 生業が立たぬのは承知しております──。
 畜生と雖も、親子の情愛は御座ろうて──。
 拙僧に出来ることならば、何なりと致す故──。
 狐を──。
「──とうとうと説かれてな。言われてみりゃあ非道だったと──まあそう思うた。言われなくちゃァ気がつかねえような男だった」
「言われて解りゃ上等サ」
「そうかもしれねェがな」
 ──解っちゃいねェ。何にも解っちゃいねえ。
「だから狐は──一寸ちよいとな」
 いいかえ旦那ァ──と改まって言って、おぎんはその白い顔を弥作に向けた。
「──獣てェものは隙を狙うもの。隙のない者に魔が差すこたァないンで御座ンすよ。そんな隙を見せちゃァ、ホントに化かされ兼ねないよゥ」
「そうかもしれねェが」
 ご用心なさいな──そう言ってからおぎんは腰のいんろうより丸薬を取り出だして弥作の手に摑ませた。
「これはね、精のつく薬さ。こいつを飲んで、少し休んでからおちなさいな。何処まで行くのか知りませんけどね。そうすりゃ少しは」
「これは──何とも──何、儂はその、儂をさとした御坊の御座る、この夢山のすぐ裏手の寺まで行くだけだ。道行きは残り僅かな──」
「裏手の寺ってなァほうとうかい?」
 そりゃいけないよォ旦那さん──と、おぎんはひと際通る声でそう言った。
「ほ、宝塔寺に──何か」
「今、宝塔寺の辺りは大騒ぎサ。代官所だか何だかが大勢出張ってて、とても行けたもんじゃァないってサ」
 ──代官所。
「何だって──代官所が」
「捕物だッてさァ」
「捕物とは──何の」
「何のって、そりゃあ悪党だよゥ。盗賊だか山賊だか──この辺を通る旅人を取っ捕まえちゃ身包みぐるみ剝いで、それで殺して──おいはぎよりたちが悪い奴サ」
 ──殺して。
「そ──それが宝塔寺の──ふ」
 普賢和尚。
 ──ぬかったか。
 殺す前に──登和が口を割っていたのか。
 どうしたのサ、大丈夫かえ──とおぎんはまゆを寄せる。
 ねぎらう声が遠くなる。
 普賢和尚。あの男が。
 あの、あの男が。捕まったのか──。
「何故──」
「何故って──おかしなことを尋く人だねェ。何でも五年ばかり前まで江戸おおざかを荒らし回ってたぞうとかいう盗賊の頭目が、そのお寺にいたんだとかいう話サね。オオ、くわばらくわばら。まだ手下が捕まってないっていうし、近づかない方が身のためサ」
 ──荼枳尼の伊蔵。
 まだまだ俺の運も地に落ちちゃいねェなぁ──。
 こりゃいいものを見させて貰ったぜ──。
 却説さてどうしたものかのう──。
 役に立って貰おうか──。
 狐と同じよ──。
 おい猟師──。
 猟師──。
「どうしたのサ。旦那さん。ホラ、薬を──」
 口に含む。
 苦い。
 弥作は夢夢くらくらと夢山の夢に飲まれて、狐杜の祠の前で、露に濡れた歯朶に囲まれ、静かに己を失った。

    


 気がつくと板間に寝ていた。
 眼を開けると太い、真っ黒いはりが、のったりと、すすけた微昏うすぐらい天井に浮かんでいた。どこもかしこも煤けている。ぼうと煤けて、かすんでいる。
 己の眼にも、霞がかかったようだった。
 横を向く。黒光りした床が続いている。
 どうやら百姓家のようだった。
 男が弧座すわっている。
 おや気がついた──とその男が言った。
 弥作は身を起こし二度三度頭を振る。
 首の付け根から頭の芯の方に向けて刺すような痛みが走る。
 まだ起きちゃいけませんよ──男はそう言って弥作の肩に手を掛ける。若い男である。田舎者ではあるまい。侍ではないがなりはきちんとしていた。
 弥作はからだを返して、うつせになった。
 へいさん治平さん、お水を持ってきて下されと、男は大きな声を出した。
 その声が耳から侵入はいって頭をき回した。ひどあたまやみである。そのうち、小柄な老人がちやわんを持ってって来た。ほれ水じゃ──と茶碗を差し出す。欠けた粗末な器である。
 ──あの女。
 おぎんか。おぎんは。
 茶碗を受け取る。
「気分は如何いかがかな」
 老人が言った。
「儂は──」
 口を開いたものの上手くしやべれなかった。あごを動かすと耳の付け根がるように痛かった。水を口に含み、顔をしかめてのみくだして、弥作は突っ伏した。
 はんときはそうしていた。
 若い男と老人は、ずっと顔を伏せた弥作のかたわらに弧座すわっていたようだった。
 ──ここは何処だ。
 やおら顔を起こして弥作は尋いた。
 おらの家だと老人が言った。若い男が続けた。
「あなたは狐杜のはくぞう神社の前に倒れていたのですよ。そこを私がたまたま通り掛かって」
「偶偶──」
 偶偶通る場所とも思えない。
 弥作は何も言わなかったのだが、多分かなりげんな顔をしたのだろう。若い男は独り合点で弁明をし始めた。
「否、私は怪しい者じゃないのです。私は江戸は京橋のやまおかももすけという者ですが──と、いっても御存じあるまいなあ。まあ駆け出しの草双紙書きとでも思うてくだされ。今でこそ子供のなぐさみ、かんがえものなど作っております故、考物の百介などと呼ばれておりますがね。まあそのうちいずれは──」
「百物語かね」
 横の老人がからかうような口調で言った。
「そんなモノぁすぐにすたれるわい。お前さんが一人前になる頃ァ、もう流行はやっちゃァいねェだろうて」
 百介は露骨に嫌な顔をした。
「治平さんはそうおつしやるが、いつの世にも怪談ばなしはあるもンだ。こればッかりはなくなりませぬぞ。私なんぞは怪談こそが読み本かたりものの王道だと考えておる程です。で──ああ、その──そんな訳で私は、諸国をあんぎやして、まじない迷信、怪しきうわさ珍しき話をしゆうしゆうしておるのですよ。それでその──狐杜の古い祠にも足をば伸ばした、と──」
「昔の話じゃわい。今更行って何とする」
 小柄な老人はすぐに茶茶を入れる。
「何とする──とな。お蔭でこの人を見つけた」
「それもお狐様のお導きじゃと言いてェか。馬鹿にしておる。あの杜の言い伝えてなァこの治平が生まれる前のこったわい」
 ──杜の言い伝え。
 弥作は知らなかった。
 弥作は元元上州の生まれである。
 甲州に流れて来たのは十年ばかり前のことだ。だから昔の話は知らぬ。狐杜にみ着いた頃にはもうあの堂は朽ちていたし、参る者も居なかった。ただ狐だけはうじゃうじゃと居た。
「それは──」
「おお。すまぬ。で──」
「いや、そうじゃねェ。儂は」
 お前さん猟師だろ──治平と呼ばれた老人が素っ気なく言った。
「慥か四五年前まであの杜に小屋を建てて棲んでおったな。いつの間にか居らんようになってしもうたようだが──お蔭で最近狐が増えて迷惑しておる」
「儂を──知っていなさるか」
 弥作がそう問うと老人は口をとがらせて、知らいでか──と言った。そして弥作の手から茶碗を取り返して、おらァもう五十年からこの土地に棲んでおるんだ──と結んだ。
 そう言われても弥作には見覚えのない顔だった。
 もつとも土地の者との付き合いはほとんどなかったのだが。
「あの杜の──あの祠はいったい」
 弥作が尋ね終わる前に、治平はあいに答えた。
「そりゃお狐様を祀っておるのよ」
「狐──を」
 知らなかった。
 ──ならばあの女は。
「ではありゃあ稲荷いなりの社──」
 違う違う、と言って治平は手を振った。
「あの塚はなァ、白蔵主というて、としを重ねし古狐の墓なのだそうじゃ。あの杜のぬしじゃな。あそこに狐が多く居るのもそのご加護のお蔭なのだそうじゃ。だからあの杜で狐釣るなァ、本来はごはつよ」
「そんな──」
 弥作はその杜で狐を獲り続けていたのだ。
 祠の前でも何匹も狐を殺した。
 ──罰当たり──か。
 治平はしょぼくれた眼で弥作を注視みつめている。
こえェか」
「──え」
「怖ェかよ。狐杜のこたァ、お前さん知らなんだのじゃろうて。知らいで狐獲っておったのじゃろう。白蔵主のたたりやら怨みやら──」
 ──そんなものは。
 そんなものは怖くはない。ただ。
「お前さん、何であんなところに寝ていた」
「それは──」
んじゃァねェのかね」
 ──化かされた。
 あの女──おぎんは──。
 矢張り──いや、しかし。
 ──そんな馬鹿な。
「お、女が──」
「白蔵主ってなァ実は牝だ。ぎつねよゥ」
 ──牝狐。
 じゃあ、あの女が──。
「で、でも、儂は──」
 治平は急に、底が抜けた如くに笑った。
「お前さんも肝のこまけェ猟人だなぁ。なアに、心配ご無用だわい。畜生は畜生だ。人に祟るかよ。あんなモノにたぶらかされるのはせいぜい臆病な女子供か、余程のおろかものじゃ。じようの道を知る者ならば狐狸の類は手出しは出来ぬ」
 五常の道。
 仁。義。礼。智。信。
 ──儂にはあるか。
「それに何度も言うがな、白蔵主の話ァ大昔の話じゃわい。この百介は何でもかんでもに受けるこつ者の腰抜けだが、俺ァ違うぞ。この夢山のふもとに五十年棲んでおるがな、化かされたことなどただの一度もないわい。大体あの狐どもァ畑ェ荒らしよるからな。お前さんが来て、貴奴らを皆殺しにしてくれたお蔭で、俺ァ随分と助かった」
 ──皆殺し。
 弥作はけいれんを起こしたようにおのが掌を確認した。
 ──汚ェ。
 泥と、枯れ草と、汗と──血。
「矢張り儂ァ、化かされたのかも──しれやせん」
 弥作はそう言った。それを聞くと治平は困ったような顔をした。当然だろうと思う。弥作とて今日の今日まで狐が化かすなどという馬鹿げた話を真に受けるような男ではなかったから、これが人ごとだったら同じような顔をしていただろう。
「──へえ。まあ儂だって狐が化かすたァ思わねえです。ただ儂ァ、治平さんとやらのおおせの通り、五年めえまであの杜で、狐を釣っちゃァ生皮剝いでた男だ。ですからね、そう、今のお言葉ァ借りるなら、儂には五常が欠けていた。だからあそこで、あの杜で、昼間ッから夢幻を見たんでしょうよ。凡ては儂の──」
「まあ待ちなィ」
 治平が止めた。
「お前さんがどんな目に遭うたかァ知らねェがな。そう何でもでも夢よ幻よと決めつけちゃァ目も曇ろうぞ。その女だってもしや生身で、何か魂胆でもあったかもしれんじゃろう。追剝とかな──」
 ──追剝。
 代官所の手入れ。おかしら──。
「そう、あの──宝塔寺──」
「宝塔寺──宝塔寺が何じゃ」
「いや──その」
「あなた、宝塔寺と縁がおありなさるか」
 百介が驚いたようにまなこを丸くして問うた。問われても、真実ほんとうのことなど言えぬ。だから弥作は答えを濁し、逆に尋ねた。宝塔寺がどうしたというのか。
「いやあ、ですからその、白蔵主ですよ」
「狐──が何か」
「オウ。その古狐がな、五十年から住職を勤めたというじゃよ。そんな馬鹿な話ァねえじゃろうが、まあ昔昔の夜語りじゃ」
「狐が──宝塔寺の住職に──なりすまして」
 坊主なら安全よ──。
「そ、それは──」
 だから昔話じゃ──と治平は顔を歪めた。
 ご興味がおありかな──と百介が尋いた。
「まあ──それは」
 ──どうなっている。何故宝塔寺が。
 そんな昔話聞いても詮ないぞ──と治平は憎らしそうに言った。百介は苦笑した。
「この治平さんは作り話と簡単に小馬鹿にするが、まあ諸国を巡り歩けば類似の説話は沢山ある訳ですし」
「だから余計に噓なんじゃろう」
「すぐ腰を折る。ではつまんでお話ししますとね、その昔──どのくらい昔なのかは明確に伝わっていないのですが、まあ治平さんの生まれる前だそうだから、五十年百年前のことでしょうな。あの杜に、矢張り猟師が居た。それが狐を獲る」
「猟師なんだから当たり前じゃ」
「まあまあ。で、その猟人も、あなたと同じようにその、まあ乱獲をした。それで、杜のぬしとしりし古狐の生んだ多くの子狐を、ことごとく獲ってしまったというんですな。古狐は大いに悲しんで、それで宝塔寺の住職に化けて、猟師の許に赴いた──と」
「何故──その宝塔寺の」
「宝塔寺の住職、これは猟師の叔父おじだった。この僧がそもそも白蔵主という名だったらしいのですが」
「ああ──」
「その白蔵主に化けた狐は猟師に会うと、何処からくすねて来たものか僅かばかりの銭を与え殺生を戒めたのだそうですな。殺生の罪業は来世でそのほうさいなむであろう、と説教をした──」
 お願いじゃ。もうお止めくだされ──。
 銭一貫目でその狐罠を売ってくだされ──。
 畜生と雖も、親子の情愛は御座ろうて──。
 殺生の罪は来世の障りと相なり申す──。
 狐を──。
 ──あの御坊は──。
 普賢和尚。真逆、あの御坊も。
 そんな馬鹿なそんな馬鹿なそんな馬鹿な。
 弥作は背筋が冷える。
「しかし猟師も狐釣りを止して仕舞っては生計たずきが成り立たぬ。貰った銭などすぐに尽きてしまった。そこで宝塔寺に出向き、叔父の白蔵主に会って、再び狐を獲る許可を得るか、さもなくばより多くの銭をせしめようと思い至った。狐は困った訳です」
 百介はそこで懐から帳面を出して眺めた。
「そこで古狐は、宝塔寺に先回りをして本物の白蔵主をたばかおびき出して──喰い殺してしまった」
「浅ましい──」
 畜生のすることじゃわい──と治平は面白くなさそうに言った。しかし浅ましいというならば、それは猟師の方である。猟師の方がはるかに多くの命を奪っている。否、何より浅ましいのは──。
 ──儂じゃ。
 百介は帳面をめくった。
「狐は再び白蔵主に化けて猟師を追い返し、その後五十年間、宝塔寺の住職として暮らしたという訳です。五十年の後、まきで鹿狩りが行われ、それを見物に行った際に、ええと──わらとうろうという郷士の飼い犬であるおにたけおにつぐの二匹に正体を見破られ、喰い殺されたと伝えられる。白銀の針の如き剛毛に覆われた、真っ白い老狐だったといいます」
「真っ白な──」
 ──あの女。山猫廻し。
「そのむくろを埋めたのがあなたの居たあの塚なんだそうで。白蔵主は祀り上げられて杜の鎮守となった。それ以来あの杜で狐を獲る者はいなくなった──」
「お前さんが来るまではな」
 治平はしわがれた声でそう結んだ。
 狐を獲ってはならぬ杜──。
 狐の数が多かった道理である。弥作はだからこそあの杜に棲み着いたようなものなのだ。
 百介が再び帳面を捲り、続けた。
らい、狐が法師に化けるのを白蔵主といい、狐の如き愚かな振る舞いをする法師のこともまた白蔵主と呼ぶと──私はそう聞いている。能狂言の『釣狐』はこの話が元になっているという説もある」
 弥作はかなり混乱している。否、錯乱といってもいい。
 水で少少潤った喉を震わせて漸く声を出す。
「そ、その話は──」
 出来過ぎている。その昔話の猟師はまるで弥作にそっくりだ。
 それが昔から伝わる話なら──弥作の半生などないに等しい。
 昔話をなぞったような人生など、笑わせるではないか。
「──真実まことか」
 百介がまた帳面を捲る。
「はあ。どこまで実話かは、もちろん確認出来ぬのですが──ただ宝塔寺にもこの話は伝わっておるのですよ。事実あの塚と祠は十年ばかり前までは宝塔寺が管理していた。私はお亡くなりになったご住職にもお会いして、お話をお伺いしたが──」
「なんですと」
 ──この男は伊蔵に。
「あんた、あ、あの住職に──会ったのか」
 百介はろうばいした弥作の顔を不思議そうに見た。
「会いましたよ。もう少し遅ければ、間に合わぬところでしたけれど──」
「間に合わぬ──とは」
 ──代官所の──手入れか。
「間に合ったてェなら、いつ、いつお会いに」
「はあ、十日ばかり前ですが。この治平さんの家にご厄介になってすぐでしたから──」
 ──十日前。
「で──それで、それで何を」
「はい。何でも、何代か前に白蔵という名のお坊様は実際にいらしたんだそうで、寺伝にも記されているのだそうですね。その御坊は片足の狐を可愛かわいがっていたのだそうで、それがその話の元ではないのかと、そう仰っていましたが」
「そうじゃァなくッて、その──」
 百介は一層不可解な顔になった。
「はあ、この独脚の狐というのはですね、からくにに類似の伝承が残っていましてね。片足で博学の老狸が──こちらは狸なのですが」
「そうじゃァねェ」
 心の臓が脈打った。
「いや、すまねェ。そ──そうじゃねェんで。儂の尋いておりますのは──その」
 ああ、と百介は手を打った。
「お尋ねは宝塔寺のことですか。あのお寺は、その昔は栄えていたようですが、御存知かどうか、今はご住職が独りいらっしゃるだけで──まあさびれておりました。ご住職はええと、慥かはくげん様──通称普賢和尚、普賢さつの生まれ変わりとまでいわれたお方ですが──はあ、もしやお知り合いで」
 弥作は下を向いて、まあ──と答えた。百介はやや神妙な顔つきになった。
「いやァ、私がお話をお伺いに参った折には、ま、かくしやくとしてお元気でいらしたのに、真逆、あんなことになろうとは──ねえ、治平さん」
 治平はつまらなさそうにうなずいて、脇に置いてあった鉄瓶から先程の茶碗に水を注いだ。
「あんなこととは──手入れですか」
「はあ?」
 百介は口を開けた。
「捕まったンでやしょう。和尚は」
「亡くなったんですよ」
「死罪──いや、その場で──手打ち」
「はあ。どうも話が嚙み合わないなァ」
 百介は頭を搔いた。
「私はですね、その唐土もろこしの伝説と宝塔寺の話が善く似ているものでね、是非詳しく知りたいと申し上げたんです。何でも文書が残っているとかいうことなので、えつらんを願い出た。和尚さんは快く承知して下さって、きようぞうか、探しておくからと」
「あの──和尚が」
 ──そんな馬鹿な。
「和尚さん三日後においで、と申されて。それから三日経って──ですから、そう、丁度六日前ですか。行きましたらね、呼べど叫べど出て来ない。ってみれば、本堂で──亡くなっていた」
「六日前──」
「はい。私はもう、吃驚びつくりしたの驚いたの、こけつまろびつ大急ぎでこちらにせ戻り、治平さんに頼んで近在の村の衆に報せて貰うて」
「本山が何処だか宗旨が何だかもよう知らんのでなあ。葬式も難儀じゃったわい。まあ隣村の寺から坊さん呼んで来て形ばかりはなア」
 ──伊蔵が死んだ。
 否、そんな筈はない。昨日か今日か、代官所が手入れに入ってそれは大変だと──。
 ──儂は。
「儂はいったい──」
 儂はいったい何日寝ていたのだ──喉がからからに乾いて声が嗄れた。
「どうしなすった。酷ェ青ッ面じゃ」
 治平が背をさすり、茶碗を差し出す。弥作はそれを一気に飲み干して、それからあの女──山猫廻しのおぎん──の話したことをふたりに告げた。
「あ──あの寺には、盗賊の頭がいて──」
 寺てぇなァ良いかくみのにならァ──。
「この夢山辺りを通る旅人を──」
 追剝より質が悪いッて──。
「捕らえては殺し──」
 殺して──。
 治平は半ばあきれたように、そりゃあお前さん本当に化かされたンじゃなァ──と言った。そんな女ァ居る訳がねェやな、そりゃ狐だ──治平の言葉が遠くで聞こえている。何を言いやがる、お前達ふたりこそ狐なんじゃねェのか、そうでねェとは。
 そして弥作は──ゆっくりと気を失った。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



巷説百物語
著者 京極 夏彦
発売日:2003年06月25日

闇の江戸、跳梁跋扈する怪、そして、妖しを斬る影――傑作妖怪時代小説。
江戸時代。曲者ぞろいの悪党一味が、公に裁けぬ事件を金で請け負う。そこここに滲む闇の中に立ち上るあやかしの姿を使い、毎度仕掛ける幻術、目眩、からくりの数々。幻惑に彩られた、巧緻な傑作妖怪時代小説

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/200301000369/
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