開成中学校、海城中学、サレジオ学院中学校など、
2020年度の超名門校の入試問題に続々取り上げられた小説、『君たちは今が世界』。
「国語の入試問題は、学校の先生が入学する生徒に読んでほしい物語」とも言われます。
著者の朝比奈あすかさんが、小学校6年生の教室を舞台に
4人の主人公の目線で描き出す学校=世界とはどんな場所なのでしょう?
今回は特別に、各章の冒頭部分を試し読みいただけます。
>>第1章「みんなといたいみんな」
>>第2章「こんなものは、全部通り過ぎる」
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第三章
いつか、ドラゴン
町がまだ目を覚ましていない朝六時十五分。小学六年生の武市陽太は、歩きながら、半ズボンのポケットから手のひらサイズのデジタル温度計を取り出した。28・2度。ここまで歩いた十分間だけで、額にじんわり汗が
陽太の小学校では、夏休みのあいだ、地区ごとに分かれてラジオ体操を開催する。陽太のアパートがある地区には大学があるので、毎年その中庭を借りて開かれる。
「武市くん、今日も一番乗りだねえ」
大学の中庭に到着すると、麦わらさんに声をかけられた。
麦わらさんは小学校のPTA役員だ。誰のお母さんかを陽太は知らないが、向こうは陽太のことを知っていて、よく話しかけてくれる。いつもリボンのついた麦わら帽子をかぶっているから、ひそかに麦わらさんと名づけている。
やがて近所の小学生や、そのきょうだいや親たちが、少しずつ集まってきてラジオ体操が始まった。
~腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動。はい!
言われた通り、陽太は大きく腕を上げる。朝の空気を吸い込んで吐く。スピーカーの音量をぎりぎりまで上げているからか、音が時々割れる。さっぱりした青空が
二種類のラジオ体操を通しでやりおえると、陽太は二十人ほどいる子どもたちに混じって、スタンプをもらう行列に並ぶ。
自分の番がきたので、首から下げるホルダーの中に入っているスタンプカードを取り出した。
こくりと頭を下げると、カードを受け取った麦わらさんが目を細めて言う。
「武市くん、六年生なのにエライねえ。今日まで一日も休んでないもんね」
陽太は黙って
「わあ。全部出てるんですか」
麦わらさんの仲間のパーマさんがはしゃぐように声をかけてきた。子どもみたいに高い元気な声だったから少し驚いたけど、陽太に
「そうそう。去年も武市くん、皆勤したんだってね」
「エラーイ。うちの子なんか、まだぐうぐう寝てるよ」
「うちもそうよう。昨日、遅くまでテレビ見てたから、起きれなかった」
「母たちがこんなに頑張ってるのにねえ」
「ホント、ホント」
麦わらさんとパーマさんは朗らかに言い合いながら、陽太にスタンプカードを返した。スタンプカードには小さなカレンダーが印刷されていて、ラジオ体操に出席した日の欄にニコニコマークのスタンプが
大学の中庭を、小石を
今日も暑くなるだろう。このあとどうやって過ごそうかな。陽太はぼんやり考えた。
小学校が主催する水泳実習や補習講座は先週で前期のプログラムが終わってしまい、後期は八月最後の週だ。陽太はすでに、夏休みの宿題も、自由研究も、全部やってしまった。
おととい、図書館の帰りに火の見やぐらのある公園まで自転車を
去年までは児童館に行けば必ず誰か同級生の顔を見ることができた。けど、六年生になって、放課後に児童館に行ってみても、誰もいないということが多かった。一学期の終業式の翌日にも一人で行ってみたのだが、そこには低学年や中学年の子たちしかいなかった。遊び部屋の片隅で体育座りをして本を読んでいたら、わざとじゃないけどゴムボールをぶつけられた。ぜんぜん痛くなかったから、怒る気なんてなかったけど、ぶつけた子は陽太と目が合うと固まってしまい、泣き出しそうな顔をした。大人と同じくらいの身長の自分は、もうここに居ちゃいけないような気がして、以来児童館に行くのをやめた。
ひとまず家に帰ろうと思って、石ころを蹴りながら大学構内を歩いていたら、ふいに何かが、視界に入った気がした。その何かに、わくわくさせられる予感があった。陽太は立ち止まった。
看板だ。
本当は昨日から気づいていた。あの場所に何か気になるものがあるぞと頭のどこかで意識していたのだけど、大学の中の看板をじっと見ることが、なぜかいけないことのような気がして、ちゃんと見ないようにして、速足で通り過ぎていたのだった。
今日の陽太は何かに誰かに心を押されたような気がして、看板へと歩み寄り、立ち止まった。
そこには、見たこともない複雑な造形の、巨大な紙の作品の写真が、大きく引き伸ばされて印刷されていた。
「ドラゴンだ」
口をついて、出た。
魅力あふれる折り紙の世界へようこそ。
初歩から応用まで、一緒に折ってみよう。初心者大歓迎!
8月3日 午後1時から B棟105号室
主催 OLIエンタル・ファンタジー
八月三日。今日だ!
陽太は看板に印刷されている、大きなドラゴンを見つめる。
描かれた目はないのに、こちらを
これはいったい、何枚の紙で、作られているのだ。どうやって組み合わせているのだ。陽太は見入る。
昔、ばあちゃんと、折り鶴を折ったことがある。じいちゃんが癌で入院した時の病室で、いっしょに折った。あの時、陽太はひとりで四百を超える鶴を折った。それを全部
一時から、B棟105号室。一時から、B棟105号室。
忘れないように、何度もつぶやく。
温度計を確認すると、29・4度。じわじわ上がってきている。蹴った石が排水溝に落ちた。道の脇の栗林から夏の雑草のにおいがした。
あとで、行ってみよう。顔の奥がむずむずとくすぐったいような明るい気分になってきて、頰が自然と持ち上がってしまうようだった。行く場所があることがうれしい。
アパートの玄関ドアを開ける前、小さな声で「ただいま」と言う。
内側に「戸締まりして! 火の用心!」と、ピンクの丸文字で書かれた紙が貼られている重たいドアを、陽太は気をつけて開き、また気をつけて、そっと閉じた。
家の中はしんとしている。カーテンが閉めっぱなしだから、うす暗い。玄関を上がってすぐ横の台所へ行き、冷蔵庫のドアを開けて、しばらくその中の冷気を味わう。それから牛乳と食パンの袋を取り出し、牛乳をコップに注いで一気に飲んだ。
台所の横の小さなテーブルの上に、弁当箱が置いてある。母さんが作ってくれた。
弁当はお昼に取っておく。まだ朝だ。冷たいままの食パンにマーガリンをつけて二枚食べた。冷蔵庫のドアをまた開けて、魚肉ソーセージを取り出して、
最近、陽太はお腹が
「テレビの部屋」と呼んでいる居間へ行き、目の横に垂れてきた汗をぬぐって扇風機をつけた。
テレビの部屋だけど、テレビはつけない。ふすま一枚でさえぎられている隣の和室に今、母さんが寝ている。古いエアコンがたてるカタカタという音が聞こえてくる。ふすまの下からすうすう出てくる少しの冷風を味わおうと、陽太はふすまに寄りかかって座った。
しばらくぼーっとしていたが、やがて陽太は思い出し、汗をぬぐってから、隣の和室で寝ている母さんを起こさないように、すり足でテレビの横の
市民会館は朝九時に開く。市民図書館は九時半、児童館も九時半。市民コミュニティセンターは十時。
陽太はポケットから温度計を取り出して確認した。31・2度。温度計には小さな文字のデジタル時計もついている。まだ7:24だ。今日はどこまで上がるだろう。
陽太は手提げ袋を持って、母さんが書いた「戸締まりして! 火の用心!」という文字を見ながら玄関ドアをそっと開けた。
学校に行く途中に公団住宅が何棟も並んで立っていて、その中に広い公園がある。その公園の一角にアスレチックコーナーがあり、火の見やぐらを模した木造の建物があった。
体育座りでまるくなり、ゲーム機のスイッチを入れる。
ピコピコッと小さな音がして、
小さな怪獣キャラがあちこちでエネルギー源となるカラフルボールを食べて巨大化していくゲームだ。ステージが上がれば上がるほど、カラフルボールは入手しにくくなる。複雑なアドベンチャーをクリアし、じょじょに強くなってゆく敵をやっつけてゆく。
陽太はたくみに指先を動かして、あっという間にステージをクリアし、次のポイントを目指す。
このゲームのことなら知り尽くしている。すでに十四回クリアした。裏技やボーナスステージも自力で見つけた。新しいソフトを買ってもらえていないから、一年半のあいだ同じゲームをやり続けているのだ。
父さんと離婚してから、母さんが昼も夜も働かなければならなくなったことを、陽太は知っている。自分の家が、父さん言うところの、「もっと貧乏」になったのだから、新しいゲームソフトがほしいなんてとても言えない。それに、新しいゲームソフトをどうしてもほしいというわけではなく、同じゲームを何度となくやっていても、陽太は飽きないのだった。
二時間ほどゲームをやってから、陽太は火の見やぐらの横に設置されている
図書館のいいところは、涼しさだ。それから、本のにおい。
開館十分後なのに、夏休みだから朝から混んでいる。常連のお年寄りたちに加えて、自習をしに来ている若い学生も多いのだ。陽太はすぐに階段を上がって二階に行く。奥に児童書のコーナーがあり、そこだけじゅうたん敷きでぺたりと座れるように作られている。手前にヤングアダルトコーナーがある。昨日読み途中だった『紅のドラゴン使いの物語』を見つけて手に取ると、温度計で室内の気温を確認するのも忘れ、片隅の丸椅子に座って読み始めた。
陽太は、「マジック・ツリーハウス」シリーズ、「かいけつゾロリ」シリーズ、「ズッコケ三人組」シリーズなど挿絵があって、字も大きい本が好きだったが、この夏、文字しかない本でも、かぎかっこの中だけ読みつなげていけばいいというコツを見つけた。
「ダレン・シャン」「デルトラ・クエスト」「パーシー・ジャクソン」「ハリー・ポッター」など、ほとんど挿絵のない分厚い本も、かぎかっこの中の、文字が躍っているような部分を中心に読む。そうすれば、ストーリーを追えるし、登場人物の性格も分かる。
吸血鬼や古い神々や魔法使いがいる世界を想像すると、陽太の心は躍った。冒険をしてゆく主人公や、その仲間たちを、
今読んでいる『紅のドラゴン使いの物語』もファンタジー小説だ。主人公のアリーは陽太と同じ十二歳。アリーはほとんどの子どもがなくしてしまったドラゴンと喋る能力を持つ唯一の男の子だ。陽太は、かぎかっこの中だけ抜き取るようにして、アリーを追いかけ、ついにアリーは幻の黒いドラゴンに出会う。
──わたしの
伝説の存在とされていたドラゴンの言葉に、陽太はさきほど見た、「OLIエンタル・ファンタジー」の看板を思い出す。
黒光りする、あのドラゴン!
先へ先へと
どれだけ時間が経っただろう。はっと気づいて時計を見ると、もう12:52だ。陽太は慌てて本を閉じた。
▷次回は「第四章 泣かない子ども」をお届けします。
▼朝比奈あすか『君たちは今が世界』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321903000384/