ついに、「いじめ保険」なるものが発売されたという。いじめ問題はそれだけ深刻なのだろうし、人生経験の浅い子どもにとっては、いじめと言えるほど明確ではないからかい程度でも、そこに小さな悪意があれば、苦しみの元凶になるのだなと『君たちは今が世界』を読んでリアルに感じた。
朝比奈あすかは、これまでも友人の死をめぐり罪の意識にさいなまれる幼心を追った『BANG! BANG! BANG!』(文庫時『ばんちゃんがいた』に改題)や、同性同士のグループ意識や思春期のコンプレックスなどを描いた『少女は花の肌をむく』といった子ども視点の作品で読者の心を揺さぶってきたが、本書でも初手からぐいと、ひりひりした世界に引き込む。
舞台は、首都圏のどこにでもありそうな小学校の六年三組。最初の章で語り手を務める尾辻文也は、ある時期まで〈いつも、他の子たちの添え物だった〉。高学年になってクラスでも目立つ小磯利久雄や瀬野敏とつるむようになれた文也は、ふたりにいじられ、はしゃいでいると〈自分が輪の真ん中にいる気分を味わえて〉、自尊心をくすぐられる。雨を浴びるふざけっこに見せかけて、いちばんずぶ濡れにさせられたとしても。そのせいで熱を出し、学校を休んだ日のテレビは、〈「富美也くん」のニュース〉で持ちきりだった。中学一年の少年が、同級生たちのいじめによって溺死したのだ。文也は、こんなのは別世界の出来事だと思うことで安心する一方、母親や教師の決めつけや無理解、クラスのパワーバランスにもやもやする。けれどその正体を言葉にできるほど、いや、自分の居場所を確保するための同調圧力をはねのけられるほど、大人ではない。
そして決定的な出来事が起きるのだ。調理実習の日、六年三組はパンケーキのタネに洗剤を入れようという思いつきを実行してしまう。犯人捜しをする教員側、すべてを正直に話そうとしない生徒側。その波紋が、文也や三組の子どもたちの心にどう届いたかを、二章以降も視点人物を変えて追っていく。
二章では、勉強が得意で、クラスの他の子に密かな優越感を抱く川島杏美、三章では発達障害で他者とコミュニケーションがうまくとれない武市陽太、四章では女子グループの上位にいる前田香奈枝の「親友」としてしかクラスに居場所がない見村めぐ美。みな崖っぷちにいて、どうすれば毎日をなるべく平和に過ごせるかに心を砕いている。そんな姿を見るにつけ、そうだった、と気づく。子どもには教室という狭い世界がすべて。抜け出したいと思っても、踏み出す一歩までが遠い。その切実な心理描写に、胸を締め付けられる。
一方で、いまどきの子どもたちは、大人たちのふるまいや都合にも、相当かき回されているのだなと同情を禁じ得なかった。文也の母親は、我が子が問題を起こしはしないか、理不尽な目に遭わないかと心配する、平均的な母親だろう。だがそれゆえに、学校に苦情の電話を入れたり、武市を差別的に見たりと、文也の気持ちを間接的に傷つけている。シングルマザーでダブルワークせざるを得ない武市の母親は、物理的に子どもに時間を割くことができないし、めぐ美の母親は父親が単身赴任なのをいいことに奔放に出歩き、家事もほったらかし。どちらもネグレクト気味の状況にある。教師だって五十歩百歩。怖くてめんどうくさい教師と見られていた山形先生は、子どもの傷つきやすさへの配慮などなかった。三組の最初の担任だった幾田先生は、パンケーキ事件のときに怒りのあまり、〈皆さんは、どうせ、たいした大人にはなれない〉という言葉をぶつけた。
だが、本書は、たいした大人になれなかったその先に、なお生きる意味を提示してくれる物語だ。エピローグでは、三組にいたひとりが成長し、大人として語り出す。あのときに受けた傷によって、〈たいした大人〉になることより大切なことを見つけた語り手は、あるひとつの真理を胸に刻み、生きている。その思いの中には、人と人とが関わるときに忘れてはいけないものが詰まっていた。
ご購入&試し読みはこちら▷朝比奈 あすか『君たちは今が世界』
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