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試し読み

東京で過酷なお受験に翻弄される家族の物語!『君の背中に見た夢は』試し読み

タワマン文学の先駆者・外山薫が贈る小学校受験小説『君の背中に見た夢は』が2024年1月30日(火)に発売!
刊行を記念し、プロローグ~第一章までを特別公開いたします。
仕事と家庭の両立、協力してくれない夫、かさんでいく教育費、思い通りにならない子供たち――。
幸せとは、家族とは何なのかを考える、東京で過酷なお受験に翻弄される人々の物語!



東京で過酷なお受験に翻弄される家族の物語!
外山薫『君の背中に見た夢は』試し読み

プロローグ

 夜通し降り続いていた雨がうそのように、秋晴れの空は青く澄んでいた。四ツ谷駅の赤坂口から外に出た瞬間、まぶしくて思わず目を閉じた。睡眠不足の体に太陽光が染みる。
 くたびれた表情で斜め下を向くスーツ姿のサラリーマン、スタバの紙カップ片手にヒールの音を鳴らす女性、イヤホンを耳につけてスマホを凝視しながら歩く大学生風の若者。道を行き交う大人たちに交じって、ひときわ小さい女の子が視界に入る。白いブラウスに濃紺のジャンパースカート、二つ折りのソックスにワンストラップシューズ。全身紺色のスーツに身を包んだ母親に手を引かれておずおずと歩く姿は、東京の朝の風景から浮いていた。
「あのこも、おなじがっこう、うけるのかな」
 左手をギュッと握るの声はかすかに震えていた。その服装は先ほどの女の子と同様、濃紺と白で上品にまとまっている。
「周りの子のことは気にしなくても大丈夫よ、結衣が一番頑張ってきたこと、ママ……お母さんが一番知ってるから」
 声に出しながら、自分の声も震えていることに気がつく。駄目だ、こんなときこそ、私がしっかりしなきゃ──。自分に言い聞かせるが、声はうわずったままだ。頭がズキズキと痛む。昨夜、眠れなかったせいだ。
 心配そうな表情でこちらの顔をのぞき込む結衣に向かって、精いっぱいの笑顔を作る。自分が上手うまく笑えているのかもわからぬまま。

 きまりが悪くなり、「じゃあ学校に向かおうか」と先導する。結衣のピカピカの靴が路面の水たまりでれないよう、細心の注意を払いながら。
「それじゃあ、リラックスして頑張ってくださいね」
 新宿通りの横断歩道を渡ると、年配の女性の声が耳に届く。幼児教室のお見送りだろうか。先生らしき女性の言葉に、子連れの母親と父親が緊張した面持ちで何度もうなずいていた。その一角だけ、空気が違う。そうだ、今日は本番なんだ。その緊迫した雰囲気に、胃のあたりが重くなる。
「きょうはパ……おとうさんもいっしょだし、うれしいな。さんにんのおでかけ、ひさしぶりだね」
 唐突に、結衣が明るい声を出した。自身の緊張を紛らわせるように。家族の間に漂う気まずい空気を断ち切るように。
「そうだね、試験が終わったら久々に三人でご飯でも行こっか!」
 急に話を振られたにもかかわらず、総介が百点満点の回答を爽やかに返すのを見て、ジトッとした黒いものが湧き上がる。そして、自己嫌悪に陥る。
「そっか。しけん、もうすぐ、おわるんだね」
 ポツリとつぶやく結衣の顔は今、どんな顔をしているんだろうか。直視できない。
 つたが絡まったフェンスに沿って歩いていると、目的地はあっという間だった。
おうよう女子学院小学校」
 入試に合わせて休みにしているのだろうか。あるじのいない小学校は、ただ静かだった。思わず体がこわばる。ここにたどり着くまでに、色々なことがあった。選んだ道の過酷さを、過ごしてきた月日の密度を思う。

「小学校受験で試されるのは子供ではありません。家族です」
 だいどう先生の声がよみがえる。ふと左を向くとそうすけと目が合った。バツが悪そうな表情。気まずくなってつい目をらす。

 ──家族。漆黒の海を航海するいちれんたくしょうの関係。私が、いや、私たちが進んできた航路は、果たして正しかったのだろうか。これからの数時間で、その答え合わせが始まる。もうここまで来たら、逃げることはできない。

 両親の躊躇ためらいを見透かしたように、結衣は繫いでいた手を静かに振りほどき、警備員に「おはようございます」と挨拶をすると、一歩目を踏み出した。軽やかな歩調に合わせて、背中まで届く三つ編みがふわりと宙を舞う。二つの髪の束は太陽光を浴び、キラキラと輝いて見えた。まだ何も始まっていないのに、熱いものが込み上げてくる。
 その小さな背中に、どこまでも飛んでいけそうな足どりに、私は望んでしまった。踏みとどまる機会は、引き返すタイミングは何度もあった。でも、私たちはそうしなかった。それはあまりにも甘美で、きらめいて、そして美しかったから。君の背中に見た夢は──。


第1章 遭遇

「中学受験? 思い出すだけでゾッとする。いやもう考えただけで無理、二度とやりたくない」
 喪服姿のさやかちゃんが深いため息とともに首を横に振ってこう吐き出すと、隣に座る夫のけんさんが渋い顔で頷いた。スマホでゲームに興じていた息子のみつるくんも、「中学受験」という言葉に反応して顔を上げる。
「え、結衣ちゃんもちゅうじゅすんの? あー、そいつはご愁傷さまです」
 火葬の真っ最中にその言葉はちょっと不謹慎なんじゃないの……と思わなくもなかったが、つい半年前に慶應中等部に合格した「二月の勝者」が心底同情を禁じえない、といった表情で話すのを見て、にっあかねは思わず身震いした。傍らにいる結衣は、自分が話題の中心になっていることも知らず、夢中で絵本を読んでいる。
「え、中学受験ってそんなに大変なの?」
 慌ててこう返すと、さやかちゃんは茜の目を見つめ、力を込めた。
「大変なんてもんじゃないよ、戦争だよ、戦争」
 そういえば、さやかちゃんの髪にはところどころ白髪が目立つ。私の六歳年上だから、今年で四十三歳のはず。前に会ったのはお祖父じいちゃんの七回忌だったから、一昨年おととしだ。あの頃はまだ黒々していた。中学受験とは、そこまで過酷なものなのか。
 お祖母ばあちゃんの遺体が火葬されるまでの待機時間、一人息子の充くんを中学から慶應に送り込んだ従姉妹いとこのさやかちゃんに最新の中学受験事情でも聞いてみようという軽い気持ちだったが、気がつけば戦火をくぐり抜けた従軍経験者への聞き取り取材のようになっている。
「でも結衣ちゃん、まだ五歳でしょ? なら間に合うんじゃない? しょうじゅ!」
 ついさっきまで戦争のトラウマに悩む兵士のような表情だったさやかちゃんだったが、名案を思いついたとばかりに声を弾ませる。
「茜ちゃんちは文京区だし、家の周りに名門小学校もいっぱいあるんでしょ? うちのマンションの高層階に住んでる知り合いも、娘さんを国立小学校に通わせてるよ。中受のことなんて気にせず、毎日ピアノに熱中してるって。理想的よねー」
「しょうじゅ」という言葉が小学校受験の略だとわかるまで、少し時間がかかった。ポカンとしている私を置いてけぼりにして、さやかちゃんは一人でうんうんと頷く。充くんは「まーた始まったよ」とばかりに肩をすくめ、再びスマホに目を落とした。
 小学校受験──。そんなもの、考えたこともなかった。確かに我が家の周辺には筑波大学附属小学校やらお茶の水女子大学附属小学校やら、仰々しい名前の名門小学校が点在し、紺色のスーツに身を包んだ母親の集団が我が物顔で大通りをかっしているのを見かけることもある。
「でもあれって、専業主婦の世界の話なんじゃないの? ほら、うち、共働きだし……」
 おずおずと口を挟むが、さやかちゃんは我が意を得たりとばかりに胸を張り、人さし指を左右に振る。
「それがね、最近はそうじゃないんだって。中受がこれだけ過熱してるから、ワーママの間でも中受を回避するための小受が流行ってるんだよ。私の会社の後輩も、こないだ息子さんをそうじつに入れたって。六歳の時点で早稲田大学が確定とか、超うらやましいよね」
 顔を紅潮させ、一方的にまくしたてるさやかちゃん。教育ママの本領発揮だ。
「確かにうちの会社でもボチボチいますね、お受験させてる人。去年の秋頃、上司が急に会社に来なくなったと思ったら、息子の慶應幼稚舎の受験があったとやらで。合格したらしいんですけど、政治部のデスクが選挙をほっぽり出してお受験に熱中するとか、どんだけだよって社内でも話題になってましたよ」
 さっきまで興味なさそうにお茶をすすっていた、夫の総介が会話に加わる。
「そっか、総介さんの勤務先、とよテレビだもんね。さっすがキー局! あ、そういえば茜ちゃんも総介さんも慶應じゃん! いいじゃん、慶應幼稚舎! 結衣ちゃんは絶対やったほうがいいよ、小受!」
 さやかちゃんの声がワンオクターブ上がる。我が子の受験が終わってもなお、尽きることのない学歴への情熱。この調子だと受験シーズンはさぞかし大変だっただろう。スマホゲームに熱中する充くんと、諦め顔の健太さんにこっそり同情する。
「総介さんはキー局の記者で、茜ちゃんはべにばなえんの総合職でしょ? バリバリのパワーカップルじゃん! 絶対いけるって!」
 ここが斎場で、今まさに私たちのお祖母ちゃんがに付されているということを忘れたかのように、さやかちゃんの瞳は輝いている。隣に座る健太さんが申し訳なさそうに目配せをするが、当の本人はまるで気づいていない。
 パワーカップル。はたから見れば、我々はそう見えるのだろう。慶應大学の同級生だった総介はキー局の一角である豊洲テレビの報道局で記者として働いている。テレビ局が斜陽産業に片足を突っ込んで久しいが、それでもかつての栄華の残り香で年収は千三百万円を超える。大手化粧品メーカーである紅華園の広報として働く私が七百五十万円。三十七歳で世帯年収二千万円を超えており、世間的にはかなり恵まれた立場だろう。
 でも、私たちは知っている。幼稚舎、つまり小学校から慶應に入るような子たちは住んでいる世界が違うのだ。大学時代、アパレルメーカーの御曹司が長期休暇のたび、小学校時代の同級生と連れ立ってビジネスクラスでハワイの別荘に遊びに行っているという話を聞いたときは開いた口がふさがらなかった。
 ゼミのグループワークのため、友人の家を訪れたときの衝撃も忘れられない。
「幼稚舎の中だとうちなんか全然大したことないよ」
 と謙遜するその子の家は南麻布の広々とした低層マンションで、玄関の前には警備員が立っていた。風のうわさで耳にしたが、親は広尾に商業ビルを何棟も持っていて、地元の名士枠で幼稚舎に入ったという。
 群馬県高崎市出身の茜にとって、東京の富裕層といえばギラギラしたタワーマンションに住んでいるイメージだったが、「本物」の世界を垣間見た経験は、その後の人生観に大きな影響を与えた。
 ちょっと年収が高いといっても、所詮は持たざる労働者。銀の匙をくわえてこの世に生を受けた資本家階級との間には、決して越えられない壁がある。群馬の屋の娘として育ち、からっ風に吹かれながら自転車をいで県立高校に通っていた茜は、その差を身に染みて実感していた。小学校受験なんて、とても実感が湧かない。
「まあ幼稚舎は我々じゃ厳しいですわ」
 空っぽになった湯呑みを眺めながら、総介も同意する。総介は中学校から慶應普通部に入学し、実家があるのはかつての高級住宅街である成城学園前駅。父親は全国紙である読日新聞で副社長まで上り詰めたこともあり、慶應に通うサラリーマン家庭の中では裕福だったほうだ。しかし、幼稚舎出身者の友人の異次元ぶりを身近に感じているが故に、現実が見えているんだろう。
「えー、もったいないよ、駄目元で試してみたらいいじゃん。てか幼稚舎以外にもいっぱい選択肢はあるんだし、チャレンジしてみなよ!」
 とさやかちゃん。こういう話が本当に好きなんだろう。
「お骨上げの準備ができましたので、皆さま、ご移動の準備をよろしくお願いいたします」
 さやかちゃんはしゃべり足りない雰囲気だったが、斎場の係員の声で、受験トークは強制終了となった。絵本を読んでいる結衣に「ほら、行くわよ」と声をかける。文句も言わず、本を閉じてすっと立ち上がる結衣。我が子ながら、聞き分けがよくて助かる。その頃、充くんは「ちょっと待って、いまボス戦!」とスマホを手放さず、健太さんに頭を小突かれていた。

「ねえ茜、しんろうくんまだ寝てるけど、どうする?」
 絵本をかばんにしまっていると、母がまだ二歳の進次郎を抱きかかえて小声で話しかけてきた。第二子である進次郎は午前中、告別式の異様な雰囲気に呑まれてずっと号泣していた。さすがに泣き疲れたのか、出棺後はずっと寝ている。
「このタイミングで起きられても面倒だし、私が抱っこするよ」
 抱っこひもを腰に装着し、母から進次郎を受け取る。つぶれた大福のような顔はまだ赤ちゃんらしく、あどけない。と思ったらよだれが喪服の肩の部分に垂れてきたので、慌ててハンカチでぬぐう。
 進次郎の対応でバタバタしてたら、ジャケットの袖を引っ張られる。
「ママ、おしっこいきたい」
 今度は結衣だ。総介に頼もうとあたりを見回すが、仕事の電話がかかってきたのか、社用携帯を片手に部屋から飛び出す後ろ姿が見えた。仕方ないので、進次郎を抱えたまま結衣の手を引いて女子トイレに向かう。個室に送り出し、ようやく小休止できた。子供二人の世話で手いっぱいな状況で小学校受験なんて、とても考えられない。
 一方で、中学受験に追われることなく、好きなことにのびのびと熱中できるというフレーズには少し心を動かされた。幼稚舎はさすがに場違いだが、探してみれば、穴場のような良い学校があるのかもしれない。今まで考えたことすらなかった選択肢を前に、胸が少し高鳴るのを感じる。女子トイレの窓から、せみの鳴き声が飛び込んでくる。もうすぐ八月だ。



「うちは小受させよっかなって思ってるよ。中受って、親の負担が大きいって聞くし」
 けんそうの中、がワイングラスを傾ける。赤みがかった紫色の液体がグラスの中で揺れ、するすると減っていく。
「いや、本当にそれ。うちの上の子、春からブリックスっていう中学受験用の塾に通い始めたんだけど、プリント多すぎて整理するだけでいっぱいいっぱい。あれ、暇な専業主婦とか一般職が前提だよ。小受のこと、もっと早く知ってれば絶対やったのに」
 グラスワインを飲み干したが大げさにあいづちを打って同調する。小受という単語が出てきて、思わずドキッとする。
 毎年夏に開催している、大学のダンスサークル同期の女子会。子供ができてからは昼にカフェで集まることが多くなっていたが、今年はメンバーの一人であるきょうが駐在でニューヨークに引っ越すため、送別会という形で夜の開催となった。茜を含め、参加者は夫や親に子供を預け、こうして六本木のワインバルで久々の自由を満喫している。
 学生時代や独身の頃は恋バナやいつ結婚するかで盛り上がってた思い出の店だが、三十七歳ともなれば、話題の中心は子供の教育ですっかり上書きされている。
「そういえば京子って、小学校からおうよう女子学院じゃなかったっけ?」
 里香が思い出したように口にすると、みんなの視線が京子に向かう。
「うん、そうだよ。実はうちも駐在決まらなかったら小受させるつもりではるかも幼児教室に通わせてたんだけどね。桜葉、楽しかったし」
 ガーリックシュリンプの殻をきながら、京子が応じる。長年バレエをやっていただけあって、相変わらず背筋がすっと伸びている。何気ない身振り手振りのひとつひとつに華があり、騒がしい店内でもひときわ目立つ。京子の娘の遥ちゃんは結衣と同学年で、何度か一緒に遊んだこともある。小受用の幼児教室に通わせているだなんて、全然知らなかった。
「桜葉って、御三家ってやつだよね? 入るの難しいんじゃないの?」
 がっついていると思われないないよう、さりげなく聞いてみる。お祖母ちゃんの葬式の後、密かに本屋で買った「完全版! 小学校受験解体新書」というムックには、女子のトップ校として桜葉女子学院の名前が挙がっていて、セーラー服の聡明そうな女の子たちの写真が載っていた。
 群馬出身の茜にとって、星の数ほどある東京の学校はどれがどれだかまったく区別がつかないが、さすがに御三家ぐらいは知っている。どの学校も偏差値は70を超え、進学実績も抜群と聞く。大学時代に御三家出身の友人は何人かいたが、みんな頭が抜群に切れた。
 目の前に座る京子もその一人だ。小学校から女子御三家の一角である桜葉女子学院に通い、大学から慶應に進学。交換留学でアメリカに一年間留学し、就職活動では総合商社最大手の五菱商事から総合職として内定を獲得した。入社後も第一線を走り続け、ロンドンへのトレーニーを経て、今度は一人娘を育てながらニューヨークに駐在するときた。これまでの人生で出会った人間の中でも、最も完璧に近い存在だ。
「でも京子んちって親、何やってたっけ? うちらの時代で小学校から私立なんて、実家が太くないと無理じゃない?」
 里香がズケズケと切り込む。気が置けない友人ならではの会話だが、実家の太さという概念が出てきてちょっと肩身が狭い気分になった。所詮、私は群馬の蕎麦屋の娘で、実家は細いですよ。里香みたいにロサンゼルス帰りの帰国子女で、実家が吉祥寺にあるような家とは違いますよ──。自分が聞かれたわけでもないのに、少し卑屈になる。社会人になってすっかり忘れていた、学生時代に感じていた劣等感が顔を出す。
 当の京子は笑いながら手を横に振り、里香の質問をさらりとあしらっていた。
「うちなんて全然。父さんは普通のサラリーマンだし、母さんはスーパーでパートしてるぐらいだよ。そもそも実家も日暮里だし。確かに同級生には『うちは一家三代桜葉です!』みたいな子もいたけど、割合としてはそんなに多くなかったかな。幼稚舎とは全然違うよ」
 幼稚舎という言葉が出て、テーブルの話題は学生時代に出会った幼稚舎出身者がどれだけ浮世離れしていたか、というものに移った。京子は昔からこうだ。どこを切り取っても完璧なのに、それを誇示することなくサラッとしているから全然嫌みじゃない。心の中で他人と比べて、すぐ引け目を感じてしまう自分とは大違いだ。
 それにしても、子供がいない外食は久しぶりだ。政治部記者の総介は土日も頻繁に仕事が入るので、新田家では子育てはもっぱら茜の役割になっている。今日は総介が久々のオフだからと子守を買って出てくれたが、いつもこうだったら助かるのにな。ワイングラスをくるくる回しながら、心地よい酔いに身を任せる。
 気がつけば、話題は里香の職場である広告代理店で最近発覚した、泥沼不倫の話題に移っていた。息を呑むような生々しさと、家庭を持つ大人が性欲に負けてキャリアを棒に振るというくだらなさに、腹を抱えて笑う。

 二次会が終わった頃には、午後十一時を過ぎていた。六本木通りには生ぬるい空気が漂っている。路上では昔と変わらず、国籍不詳の人たちが浮かれて騒いでいた。なんとなく、心がふわふわと弾む。これは、子育てを始めてから久しく忘れていた感覚だ。
「あー、楽しかった。来年はニューヨーク集合ね! みんなも来年の夏休みの予定、空けといてね。京子、幹事よろしく!」
 顔を真っ赤にした里香が本気だか冗談だかわからない様子ではしゃぐ。
「よーし、酔ったからタクっちゃお! 真由美んちは武蔵小山だよね、私、目黒だから一緒に帰ろ!」
 里香がタクシーを止め、有無を言わさぬ調子で真由美を車に押し込んで去っていく。感情がたかぶったのか、車の窓を開けて「京子ー、アメリカでも頑張ってね! つらいことあったら電話してねー!」と叫ぶ調子の良さは、大学時代とまったく変わらない。
「里香、相変わらずだったね」
 京子がおかしそうに笑う。結構飲んだはずだが、顔色ひとつ変わっていない。
「茜はどうする? うちも文京区だし、方向、一緒だよね?」
 一瞬迷ったが、この時間に六本木から文京区までタクれば、五千円じゃ済まないだろう。二人で割っても、決して安くはない額だ。一次会と二次会で既に一万五千円は使っている。
「うーん、私は電車で帰ろっかな」
 里香や真由美がいれば見栄でタクシーに乗っていたかもしれないが、京子の前では虚勢を張らなくても良い気がした。
「だよね、まだ全然電車あるもんね。里香がすぐタクるのって、広告代理店の文化なのかな」
 京子がおどけた様子で応じる。夫婦そろって五菱商事に勤める京子の家は小石川に立っている、駅直結のタワマンだ。世帯年収が三千万円を軽く超えているであろう京子にとって数千円のタクシー代くらいどうってことないはずだが、こちらに合わせてくれているのだろう。その気遣いがうれしかった。

 日比谷線のやけに堅い椅子に座りながら、二人でじっくり話す。ニューヨーク駐在は前から希望していたものの、夫にも仕事があって日本を離れられないから、娘の面倒を見てもらうために母親にも付いて来てもらうことにした。ビザの問題があるから、仕事をしながら米国大使館や法律事務所とのやりとりで毎日忙しい──。
 大変そうではあるが、イキイキとした様子の京子が正直うらやましかった。大学一年生の頃から「将来は国際的な仕事がしたい」と公言し、努力を重ねて昔からの夢をかなえた京子。かたや、群馬の女子高から東京生活に適応しようと必死でもがいているうちに就職となり、気がつけば産休と育休を繰り返してキャリアを積み重ねることができぬままアラフォーに突入している自分。

 京子と二人、霞ケ関駅で丸ノ内線に乗り換える。スマホの待ち受け画面に浮かぶ、結衣と進次郎の満面の笑顔。二人の子供に恵まれた今の人生に満足していないわけではない。でも、点数をつけるとしたら何点だろう。子供が生まれてから、仕事で達成感を得た記憶がない。私だって環境さえ違えば、京子のように、自分で選ぶ生き方ができたのかもしれない。
「京子って、なんでそこまで頑張れるの?」
 アルコールの力を借りて、長年の疑問をぶつけてみる。大学入学間もない頃、バイトまでの空き時間をつぶそうと図書館に足を運んだら、試験期間でもないのに自習用のテーブルでTOEFLの問題集を広げている京子の姿があった。どこに行くときも、京子の鞄にはレスポートサックの化粧ポーチと並んで、ボロボロになった英単語帳が放り込まれていた。交換留学のための勉強だと知ったのは後のことだが、受験勉強から解放されたばかりの大学一年生としては明らかに異質だった。京子が交換留学から帰国後、超人気企業である五菱商事から内定をもらったと聞いて、やっぱりな、と思った。
「何よ、急に」
 と笑う京子はこちらの真剣な気配を感じ取ったのか、少ししゅんじゅんした後、居ずまいを正して口を開いた。
「桜葉ってさ、『自分で考え、自分で判断して行動し、その結果に責任を持つことのできる人間を目指す』っていう教育理念があるんだよね。小学校から高校までずっとそう言われて育ってきたし、自分で決めたことは貫きたいなって」
 背筋を伸ばし、私の目を見て語る京子を見ながら、思った。私は京子のようにはなれなかった。でも娘の結衣には将来、京子のように育ってほしい。
「ねえ、小受って、大変だった? 遥ちゃんも幼児教室に通ってるって言ってたよね? 実は最近、調べ始めたんだけど」
 いつもだったらこんなに素直に尋ねることはできなかっただろう。でも、自分の質問に本気で応えてくれた親友に対し、取り繕っても仕方がない。小学校受験について調べるようになり、桜葉女子学院小学校の存在を知って以来、受験のことを考えるときに浮かんでくるのは常に京子の顔だった。
「実は小学校受験の記憶って、楽しかったことしか覚えてないんだよね。確かにペーパーテストの勉強もあったけど、休みのたびに家族でいろんな場所に行って、季節の行事を通じていろんな経験を積んで。そういえば餅つきとかやったなー、懐かしい」
 幼い頃の日々を振り返っているのか、遠くを見つめて話す京子。そこには、中学受験を経験した親や子供が持つ悲壮感は感じられなかった。
「もし茜が結衣ちゃんの受験を考えてるんだったら、遥が通ってる教室、紹介しようか? 茜の家からも近いよ。実は私が子供の頃に通ってたところなんだけど、名物の先生がいてさ」
 車内アナウンスが、後楽園駅への到着を告げる。あ、降りなきゃ、と京子。その所作が美しかった。別れ際、意味ありげに京子が微笑ほほえんだ。
「茜は向いてると思うよ、小学校受験」
 教室の件、あとで送るね。うん、ありがとう。ニューヨークに行っても頑張ってね。落ち着いたら遊びに来てね──。
「ドアが閉まります、ご注意ください」
 残された車内で一人、酔った頭で考える。小学校受験に向いているって、どういう意味だろう。

 みょうだに駅で降りて、家までは徒歩七分。国立大学の立派な門を通り過ぎて大通りから一本入ると、我が家はすぐそこだ。二十四坪、わずか七十四平方メートルの土地に控えめに立つ三階建ての狭小住宅。酔って帰るたび、家に着いたという安心感よりも「ちっちゃいな」という感想が先に出てくる。
 茜と総介が家を買ったのは結衣が一歳だった四年前。広々とした群馬で育った茜にとって、東京の住宅事情は調べれば調べるほど絶望的だった。共働きなので職場の近くに住みたいが、都心で四人家族が住める家となると、どこも目が飛び出るような値段だ。密かにタワマンに憧れていたものの、車は絶対に手放したくないと主張する総介に合わせると、駐車場代がかからない建て売りの狭小住宅しか選択肢はない。住宅購入にあたって総介の両親からも資金援助を受ける手前、茜の意見が通る余地はなかった。
 周囲には連続コピペしたかのごとく、同じようなこぢんまりとした家が並んでいる。総介の愛車であるSUBARUのインプレッサが置いてなければ、どれが自分の家だかパッとわからない。
 文京区という由緒正しい土地柄、もともとは立派な邸宅が立っていたのだろう。しかし相続税を払えなかったのか売却され、土地を四分割され、同じような狭小住宅を並べられるという憂き目にあったという流れだ。一軒あたりのコストを抑えられるとして近年流行している手法だし、こうでもしないと我々の所得では文京区の戸建てなんてとても買えないが、茜はどうにも好きになれない。
 ここが群馬だったら誰にも見向きもされないような、庭も個性もない貧相なマイホーム。それでも、文京区というだけで一億円を軽く超える値がつくのも事実。あと三十年以上、この家のために働き、住宅ローンを払い続ける必要があると思うだけで気が滅入る。

 日付が変わる寸前だったのでさすがに総介も寝ているかなと思っていたが、リビングやキッチンが位置する二階にはこうこうと明かりがついていた。玄関のドアを開けた瞬間、一瞬で酔いがめた。玄関に綺麗にそろえられた、自分のものではない女性物の靴。ゾワッとした感覚が全身を駆け巡る。慌てて二階のリビングに上がる。
「あら、おかえりなさい。随分遅かったのね」
 静かな、しかし微かに威圧感を含む声が出迎える。目の前には総介の母、つまり茜にとっては義母である新田づるがソファで雑誌を開いてくつろいでいた。
「総介、急に仕事が入ったみたいで、結衣ちゃんと進次郎くんの面倒見てくれって。私にも予定があるのに、困っちゃうわよねえ」
 ちっとも困っていなそうな表情で千鶴が茜にゆっくりと語りかける。総介、こういう連絡はちゃんとしてよ! 心の中で抗議するが、妻が久々の友人との飲み会で気兼ねなく楽しむために夫が気を利かせた結果だと思うと、文句も言えない。
 リビングに散らかっていた結衣の絵本や進次郎のおもちゃは綺麗に片付けられてあり、あとでまとめて食洗機で洗おうと思ってシンクにめておいた食器はコップ一つ残っていない。現状を分析すると、今ここに立っているのは家事もろくにやらず、幼い子供二人を放って夜遅くまで飲み歩いている嫁でしかない。じわじわとこみ上げてくる気まずさを愛想笑いで誤魔化す。
「遅くまでごめんなさい。まさか、お義母さんが来られているとは総介さんから聞いていなくて……」
 営業モードのスイッチを入れる。ていうかもう終電ないよね、まさか泊まっていくつもり? 来てもらっておいてなんだけど、この家、来客用の寝室なんてないし、パジャマも何も準備してないよ。ていうかゴミ箱にコアラのマーチの包み紙があるけど、まさか結衣にチョコ食べさせた? 私が言えた義理じゃないけど、親がいないからって好き放題甘やかさないでほしいんですけど──。頭をフル回転させるが、酔っている上に想定外の状況で思考が迷走する。
「総介も遅いみたいだし、もう帰ろうかしら。タクシー呼んでもらえる?」
 すみません! と頭を深々と下げながら、心の中でガッツポーズを作る。この気まずい空気から一刻も早く解放されたかった。文京区から総介の実家がある成城学園前までタクシーでいくらかかるか知らないが、大企業の役員夫人ともなれば全然問題ないのだろう。

「しかし結衣ちゃん、賢いわね。総介の小さい頃とは大違い」
 タクシーをアプリで呼んでいる途中、千鶴が唐突に語りかけてくる。意図がつかめずにどう回答すべきか悩んでいると、千鶴が畳みかける。
「まだ五歳なのに受け答えもしっかりしてるし、上手に本も読んで。保育園だから、教育に力を入れてるわけでもないんでしょ?」
 天井のシーリングライトの光を反射し、千鶴の眼鏡が鈍く光る。
「総介は幼稚園だったんだけど、あの子は小さい頃は出来が悪くて。幼稚舎だけじゃなくて暁星やら成城学園も受けさせたんだけど、箸にも棒にもかからなくて全落ちだったわ」
 はじめて聞く話だ。総介は中学校受験で慶應に入ったと聞いていたが、まさか小学校受験を経験していたとは。
『幼稚舎は我々じゃ厳しいですわ』
 一カ月前、お祖母ちゃんの火葬のときにこう呟いた総介の表情を思い出す。どう反応するのが正解かちゅうちょしていると、スマホが震えた。「もうすぐタクシーが到着します」。助かったような、もう少し話を聞きたかったような。マゴマゴしていると、千鶴がすっくと立ち上がる。
「茜さん、女性が働く時代だっていうのもわかるけど、子供にとって一番大事な時期でもあるんだからね。優先順位を間違えちゃ駄目よ」
 そう言うや否や、スタスタと階段を下りていく千鶴。総合職で働きながら子供二人を育てている自分を否定されたようで少しざわついたが、それ以上に、優先順位という言葉が頭の中で響く。仕事、家事、育児。いつも何かに追われて精いっぱいで、自ら考えて選ぶ余裕なんてどこにもない。
 考えがまとまらないうちに、「じゃあ、おやすみなさい。今度はうちにも遊びに来てね」とタクシーに乗り込む千鶴。茜にできることといえば、車を見送りながら、頭を深々と下げることだけだった。今の自分は、どんな表情をしているんだろう。

 疲れた足を引きずって階段をのぼり、ソファに飛び込む。なんとなくテレビをつけると、深夜のスポーツニュースがプロ野球の首位攻防戦の様子を伝えていた。大の大人がよくもまあ飽きもせず、毎日ボールとバットで遊んでいるものだ。ヤクルトが勝とうが巨人が勝とうが興味がないのでチャンネルを変えようとすると、電子音とともに「ニュース速報」という文字が表示される。
くにさだ首相、内閣改造の意向固める 支持率低迷で」
 ああ、総介の急な仕事ってこれか。官房長官担当だかなんだか知らないけど、また忙しくなるのは勘弁だな。今日は疲れたからシャワーだけ浴びて、髪は明日洗えばいっか。意識が混濁し、徐々に薄れていく。このまま寝ちゃ駄目だ、せめてメイクだけは落とさなきゃと眠気にあらがっていると、ソファのそばに置いてある「完全版! 小学校受験解体真書」が視界に入る。あれ、さっきまでお義母さんが読んでたのって、もしかして。小学校受験、仕事、ニューヨーク駐在、優先順位。私が本当にしたいことって、なんだったっけな──。



 もう九月だというのに、相変わらず日差しは暴力的で、歩くだけで汗が滴り落ちる。日傘を差したいが、右手はスマホの地図アプリ、左手は結衣の汗ばむ手でふさがっており、抱っこ紐の中の進次郎が発する熱が不快感を高める。やっぱりベビーカーにすれば良かった。
 見慣れぬ道を右往左往していると、目的地に到着したとスマホが通知する。顔を上げると、目の前には古くすすけた雑居ビルがそびえ立っていた。京子からのメッセージに書いてある住所と、建物の入り口に貼られたプレートの数字を見比べる。本当にここで合っているのだろうか。昭和時代から手入れされていないかのような、ひびが入ったコンクリートの建物。それは、小学校受験というキラキラしたイメージとあまりにもかけ離れていた。
 おそるおそる正面玄関の扉を開くと、薄暗い空間にたたずむ古めかしいエレベーターのそばに、入居するテナントの一覧が表示されていた。タイマッサージ、社交ダンス教室、謎の事務所。なんとも渋い並びの中に、目当ての文字を見つけた。
「三階 大道寺幼児教室」
 ホッとして腕時計を見る。九時五十八分。よし、ギリギリ間に合った。昭和の香りを漂わせるエレベーターがゴウンという大げさな音を立て、茜たち三人を運ぶ。結衣はちょっと緊張しているのか、左手を握る力が強くなった。「大丈夫、怖くないよ」と声をかける。少なくとも、京子はそう言っていた。「個性的な人だけどね」とも付け加えていたけど。
 三階に到着すると、灰色のさびついたドアのそばに「大道寺」と書かれた木製の看板が掛けてあった。堂々たる達筆で、未就学児のための教室というよりも、むしろドラマでよく見る極道のそれだ。子供の声もまったく聞こえない。でも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。こわごわとブザーを押す。あたりに響く、「ブー!」という音。子供の頃、群馬の団地に住んでいた友達の家のチャイムがこれだった。今は二十一世紀で、ここは東京都文京区のはずだけれど。
 何の反応もない。もう一度押そうかと手を伸ばした瞬間、ドアが勢いよく開いた。
「そんなに何度も呼び鈴を押さなくても大丈夫ですから」
 目の前に立っていたのは、極道の妻を思わせるような、和服姿で白髪の老婦人だった。アシスタントだろうか、三十歳くらいのジャージ姿の女性が脇に立っている。
「あなたが新田さんですね。聞いてます、入ってください」
 なるほど、これは個性的だ。ゴッドマザーという言葉が脳裏に浮かび上がる。恐縮しながらおそるおそる室内に足を踏み入れると、ビルの暗い雰囲気とは打って変わって、目の前には広々とした明るい空間が広がっていた。平均台やマット、ボールやカラーコーンが規則的に並んでいる。幼児教室というから、机が並んでいる塾のような場所を想像していたが、全然違う。
「ほら、そこに突っ立ってると邪魔ですよ」
 驚きのあまり固まってしまったが、ゴッドマザーの威圧感で我に返る。すみません、と謝りながら周囲を見回すと、思わずろうばいする。壁際には濃紺のワンピースとパンプス、黒いバッグで身を固めた女性がずらりと並んでいた。家から歩くし、と七分丈のレギンスにアディダスのTシャツ、ニューバランスのスニーカーでリュックを背負った私は明らかに浮いている。何もわかっていない進次郎が「楽しそうな場所だ、遊ばせろ」とばかりに抱っこ紐の中で手足をジタバタさせるが、とてもそんな雰囲気ではない。
 母親の集団の視線の先には、静かに体育座りをしている子供たち。みんな、あつらえたように白いシャツと黒いハーフパンツの体操服で揃えている。ピンクのシャツとデニムのショートパンツを着た結衣は少し不安そうな表情だ。ごめん、完全にママのせいだ。昨日、進次郎を寝かしつけながら寝落ちしちゃったけど、ちゃんと調べておけば良かった。
「新田さん、でしたっけ。レッスンは十時に始まるので、遅くとも五分前には準備万端にしておいてください。他のお子さんに迷惑ですので」
 ゴッドマザーが冷たく言い放つ。壁際の母親たちから集まる、値踏みするような視線。ひときわ目立つ、エルメスのバッグを持った若い茶髪の女性が笑いをこらえていた。
 やっぱ、来るんじゃなかったかも。早くも後悔の念にさいなまされるが、左手をギュッと握った結衣を見て、こんなところで負けてたまるか、と思い直す。セレブ教育ママがなんだ、どうせみんな専業主婦だろう。こっちは地方から予備校も通わず慶應に現役で受かって、コネもないのに就活人気企業ランキング上位の紅華園に総合職で入社して子供を二人育てながら働いてるんだ。
 折れそうな気持ちを奮い立たせ、結衣を子供たちの集団の一番後ろの列に座らせる。さて、ちまたで噂の幼児教室とはどんなものか、この目で見てやろうじゃないかと壁際の母親ゾーンに紛れ込む。
「それじゃあ、今日のレッスンを始めます」
 ゴッドマザーがこう宣言すると、母親たちは何も言わずにぞろぞろと扉へ向かう。あれ、参観はできないの? 残るのは子供だけ? 頭の中がクエスチョンマークで満たされるが、流されるがままに外に出される。
 教室の外に出ても、誰一人として会話を交わさないままゾロゾロと屋外の非常用階段を下りていく。エレベーターは使わないんだ、なんてことを考えても仕方がない。とりあえず後を付いていく。
 似たような濃紺のワンピを着た十人近い女性が古びた雑居ビルの非常用階段を黙って下りていく光景は、今までの人生でお目にかかったことのない異様なものだった。夏を思わせる気温の中、命を絞り出すような蟬の鳴き声に交じって、足元の階段からカンカンカンカンという乾いた音が響く。
 ようやく一階に着いたと思ったが、相変わらず誰も一言も発さない。この後どうするんだろう、レッスンは十二時までと聞いているけど、いつ教室に戻れば良いの? 茜の疑問に応えてくれそうな人はおらず、それぞれが散り散りに去っていく。
「あ、違う違う、すぐ動かすから! まだ切符切ってないよね?」
 困って途方にくれていると、女性の甲高い声が耳に入る。何かと思って振り向くと、雑居ビルの前に止めてある黒いカイエンの前に立っていた交通監視員に対し、茶髪の女性が駆け寄っていた。茜の地元である群馬によくいたタイプだが、その手が握っているエルメスのバーキンは、東京でしかお目にかからないものだ。
「いやー、危なかった。免許の点数ギリギリだったんだよねー」
 緑色の服を着た交通監視員のおじさん二人があっにとられている隙に、カイエンの運転席に乗り込んで去っていった。
 カイエンにバーキン。お金は持っているのだろう。ならば、有料駐車場くらい使えばいいのに。やっぱり、小学校受験をさせるような親って、ちょっと、いや、かなり変だ。今更ながら、あの紺ワンピ集団になじめる気がしない。
 何をしたら良いのかもわからないので、地図アプリで検索した近くの小さな公園に行き、進次郎を抱っこ紐から解き放つ。ようやく自由を得たとばかりに、張り切って縦横無尽に駆け回る進次郎。男児ということもあり、結衣の二歳の頃と比べて明らかに活発だ。幼児教室には男の子も多かったが、結衣は大丈夫だろうか。今更心配になってきた。
 走るのに飽きて、蟬の抜け殻をせっせと集める進次郎の背中を見ながらぼんやりと考えていると、視界の隅で濃紺の布がヒラヒラと宙を泳ぐ。ワンピの裾をたなびかせて木陰のベンチに座っていたのは、さっきまで教室にいた母親の一人だった。
 ロングの黒髪をハーフアップにしてバレッタでまとめて、耳には小ぶりなパールのピアス。公共放送のアナウンサーのような、清楚で上品な佇まいだ。同年代に見えるが、ボサボサの髪をゴムで束ねただけの、子供に振り回されている自分とは大違いだ。こちらに気づくことなく、真剣な表情でスマホを操作している。
 何時頃に教室に戻るべきかと悩んでいたが、これは助かる。彼女のタイミングに合わせよう。そうと決まれば、後は元気いっぱいの進次郎の体力を消耗させるだけだ。普段遊んでいる公園とは違う環境で大はしゃぎの二歳児に付き合っているうちに、自分も汗だくになっていた。やっぱり、この格好で正解だった。進次郎を追いかけ回している間、上品なお母さんはずっとスマホとにらめっこしていた。

 そろそろ進次郎がバテてきた頃、ようやく上品なお母さんが立ち上がった。こちらに気づく様子もなく、雑居ビルの方向へスタスタと歩いていく。真剣な表情でスマホを見ていたが、何か調べ物でもしていたんだろうか。
 少し距離を取って雑居ビルに戻ると、エンジン音とともに黒光りするカイエンがやってきた。当たり前のように路駐して、何事もなかったかのような表情で階段をのぼる茶髪の母親。交通監視員を思わず探してしまうが、あいにく周囲には量産型紺ワンピのお母さんたちしかいない。自分だけエレベーターを使うのもなんとなく気がひけるので、進次郎を抱きかかえ、カンカンカンと音を鳴らしながら階段を上る。
 三階の教室に着いた頃には、腕時計の針は十一時四十五分を指していた。呼吸を整えながら他の母親に倣ってそっと室内に入り、壁際に陣取る。子供たちは部屋を出ていったときと同じように、一カ所に固まってお行儀よく体育座りをしていた。
「皆さん、子供たちは今日もよく頑張りました」
 ゴッドマザーが口を開くと、場の雰囲気がピシッと締まるのがわかる。お寺の座禅よろしく、かつに音を出そうものなら肩を叩かれかねない雰囲気だ。
さわさん」
 ゴッドマザーがカイエンに乗っていた茶髪の母親をにらみつける。
「何度も言っていますが、大切なのは教室ではなく普段の生活です。甘やかすのは愛情ではなく、親の怠慢です。十回言ってもわからないのであれば、十一回言ってきかせなさい。それがあなたの務めであり、責任です」
 茶髪の母親はシュンとうなだれている。
まつしまさん」
 次は公園にいた上品な母親の番だ。何を言われるのかと緊張しているのが傍目にもわかる。
「おうちでの遊びも結構ですけれども、もっと外に連れて行ってあげなさい。さんも太陽の光をもっと浴びないと」
 はい、はい、と頭を下げるたび、バレッタでまとめた後ろ髪が揺れる。きちんと手入れしているのだろう、艶々としている。
 ──もしかしてこれ、全員にやるの? 左右を見回すと、みんな、真剣な表情で一言も聞き漏らすまいとメモを取っていた。もちろん、ペンもメモも何も持ってないのは茜だけだ。

 講評は順番に続く。ゴッドマザーは誰に対しても辛口だ。しかし、責められるのは子供ではなく、常に母親だった。お礼の気持ちは口に出すように、喋るときには子供と目を合わせろ、スマホやテレビではなく、自然と触れ合え──。どれをとっても奇抜なものはない。受験のためのテクニック的なことを教えるのかと想像していたので、意外だった。
「新田さん」
 私の番だ。ゴッドマザーと視線が合う。
「結衣さんはよくできています。家での過ごし方がいいのかしらね。この調子でいいんじゃないでしょうか」
 淡々とした口ぶりではあるものの、どうやら褒められているらしい。朝に遅刻したことを蒸し返されたり、服装のことを叱られたりしたらどうしようとビクビクしていたので、狐につままれたような気分だ。白と黒の体操服に囲まれ、一人ピンクのTシャツを着た結衣は得意気な顔をしている。
「皆さん」
 十人分にもわたる講評が終わり少し緩んだ空気を、ゴッドマザーが引き締める。
「何度も言いますが、小学校受験は普段の家の過ごし方で決まります。忙しいからと読み聞かせをサボっていませんか。お子さんはちゃんと家事のお手伝いができていますか。見る人が見れば、全部わかります」
 耳が痛い。朝はバタバタしたまま保育園に押し込み、夕方に子供たちを回収して慌ただしくご飯をかき込み、風呂に入れて寝かしつける日々。正直、生活を回すだけで手いっぱいだ。特に進次郎が生まれてからは、絵本の読み聞かせもちゃんとできていない。なんで結衣が褒められたのか、当の私が一番よくわかっていない。
「今週の宿題はスケッチです。公園に行って、葉っぱを三種類集めてそれぞれ描いてきてください。歌は「赤とんぼ」と「十五夜お月さん」を歌うので、覚えてくるように。プリントはできる範囲で結構です。数をこなせばいいというものではありません。とにかく子供と向き合ってください。それが親の務めです」
 みんなが必死でペンを走らせる中、スマホでメモをとるわけにもいかず、葉っぱ三種類、赤とんぼと十五夜お月さん、葉っぱ三種類、赤とんぼと十五夜お月さん……と頭の中で繰り返す。
「それでは、今日はここまで。また来週」
 ゴッドマザーがそう言うと、子供たちがわっと母親の元へ駆けだす。怖い先生の手前、大人しくしていたとはいえ、それでも四、五歳児。今日はじめて見る年齢相応の動きを見て、少しホッとする。
「ママー!」
 結衣も駆け寄ってくる。
「たのしかったよ! あのね、へいきんだいとかボールとかであそんだの!」
 顔を紅潮させ、息を弾ませながら報告する結衣。よほど楽しかったらしい、こんなに嬉しそうな姿を見るのは久々だ。
「新田さん、ちょっと」
 ピョンピョン跳ねる結衣の相手をしていると、ゴッドマザーが手招きする。
「さっきも言いましたが、結衣さんは筋がいいです。あなたが本気なら、うちの教室で受け入れても構いません」
 体験レッスンのつもりだったが、知らないうちに入室テストも兼ねていたらしい。京子に事前にもっと話を聞いておけば良かった。
「あの、うちは共働きなのですが本当に大丈夫でしょうか。恥ずかしながら、先生がおっしゃるような家庭での教育をきちんとできているとはとても思えず……」
 せっかくの機会だ、最大の疑問をぶつけてみる。カイエンに乗った茶髪のお母さんといい、バレッタで髪をまとめた上品なお母さんといい、フルタイムで働いているようには見えない。今日教室にいる母親の中で、朝夕、子供を乗せた電動自転車を必死で漕いで保育園まで送り迎えしているのは私だけなんじゃないんだろうか。
 そもそも小学校受験なんて専業主婦の道楽のようなもので、私は場違いな世界に足を突っ込もうとしているのではないか。漠然とした不安感は、レッスンを体験することで解消されるどころか、この二時間でむしろ色濃くなった。京子は本当にこんな所にいたんだろうか。
「今日の結衣さんは、慣れない環境の中でも周囲に付いていこうと一生懸命で、はじめての課題でも一度も投げ出しませんでした。あなたは自分を卑下することで楽になるかもしれないですけれど、その振る舞いは子供にとっても失礼ですよ」
 厳かに、よく通る声で言い放つゴッドマザー。レッスン後のざわめきに満ちた教室が少し静まる。
「あなたが小学校受験にどんなイメージを持っているのか存じ上げませんが、いまの時代、共働きだから駄目、なんて了見の狭い学校はありません。私立も国立も、時代に合わせて変わろうとしています。ここの教室でも、働きながら子育てをして、子供を希望の学校に入れたお母さんは数え切れないほどいます。共働きであろうと専業主婦であろうと、子供は親の背中を見て育ちます。あなただって、中途半端な気持ちで働いているわけではないでしょう。問われているのは、親であるあなたが本気かどうか、それだけです」
 和服と調和した、りんとした立ち姿。口調こそ冷淡だが、どこか優しさを含んでいる。この人の言葉に、噓は交じっていない。胸の奥のほうが熱くなる。気がつけば、深々と頭を下げていた。
「娘ともども、お世話になります、よろしくお願い致します」



「ごめん、明日、どうしても顔出さないと」
 総介が申し訳なさそうな顔とともに両手を合わせて頭を下げる。結婚以来、幾度となく繰り返された光景だ。少なくとも、先週の土曜日もまったく同じポーズで一言一句、同じことを言っていた。
 豊洲テレビの報道局政治部で働く総介の現在の担当は首相官邸キャップ。朝から晩まで官邸に張り付き、とり官房長官に集まる情報を集めるのが仕事だ。楫取官房長官が仕える国定首相の内閣改造が大詰めを迎えているとあって、ここ数週間は土日もなく家庭を放り出して永田町を駆け回っている。
「どうしてもって言うけど、総介以外にも記者っているんじゃないの? 独身の若い子とかにやらせればいいじゃん」
 塗ったばかりのジェルネイルをUVライトに当てながら軽く悪態をつく。最後にネイルサロンに行けたのはいつだっただろう。明日、日曜日の水泳教室の送り迎えは総介の順番だった。こっちは子供二人を連れて結衣の幼児教室に行き、慣れない環境と進次郎の相手でヘトヘトだ。
 そもそも、幼児教室がどんな様子だったか、父親として真っ先に聞くべきことはそこなんじゃないか。結衣は今日、友達が一人もいないアウェーの環境で頑張ったのだ。ゴッドマザーこと大道寺先生に触発されたのか、結衣は家に帰ってからも教室から配布された宿題のプリントにせっせと取り組んでいた。
「ゆいはおねえさんだから」
 食事の際、自らコップや食器を戸棚から出して机に並べ、食後は洗濯物を畳むのを手伝ってくれた。
「きょうはひとりでねる」
 と宣言し、うさぎのぬいぐるみを抱えて一人で寝室に入っていく結衣の後ろ姿を見て、こみ上げてくるものがあった。ついこの間まで手を握ってあげないと眠れなかった、甘えん坊だった私たちの娘は、知らないうちに着実に成長していたのだ。
 結衣が大道寺先生に褒められたこと、共働きでも大丈夫だと背中を押されたこと、今後の教育方針。夫婦で話し合いたいこと、議論すべきことはいくらでもある。

 それでも、総介の優先順位の先頭にはいつも仕事がある。
「内閣改造、もう少しで取れそうなんだよ。楫取さん、気難しい人だから、最後のひと押しは俺じゃないと」
 総介の頭の中は誰が閣僚に任命されるかを他社に先駆けて報じる、つまり「抜く」ことでいっぱいだ。どの派閥の誰が大臣に就任するのか、朝から晩までそんなことばかり追いかけている。総介いわく、新聞やテレビの並み居る記者の中で楫取官房長官に一番食い込んでいるのは自分だという自負があるらしい。
「楫取さんは将来、絶対に首相になるから」
 と目を輝かせる姿に、記者というか既に権力に取り込まれているんじゃないのと皮肉の一つも言いたくなる。
「放っておいても数時間後に発表されることに【独自】なんて仰々しい見出しつけるためだけに何週間も週末をつぶして、馬鹿なんじゃないの? どこの会社が最初に報じたかなんて気にしてるの、あなたたちだけだよ」
 喉元まで出てくる言葉をぐっとこらえる。傍から見れば意味不明だが、いまに始まったことではないし、何を言っても無駄だということはこれまでの結婚生活で身に染みてわかっている。新聞記者の父親を持ち、学生時代から記者志望だった総介と結婚した私が悪いのだ。それに、総介の高給はこうした長時間労働を前提としたもので、自分もその恩恵を少なからず受けている。
 仕事で頭がいっぱいの総介ではあるが、育児に消極的というわけではない。家にいるときは進次郎のオムツ替えも買って出るし、結衣のおままごとの相手も上手にこなしている。イクメンだとおだてておけば、自分から木に登るタイプだ。まだ九月。来年十一月の受験本番まで一年以上ある。膝を突き合わせて話すのは、総介の仕事が落ち着いてからでも遅くはない。
「この埋め合わせは絶対にどこかでしてよ」
 深いため息をつきながら、頭の中で「ひとつ貸しね」と付け加える。結婚生活も八年目、日常とはつまり打算と妥協の積み重ねだ。総介は何も知らず、ゆるしを得たとばかりに嬉しそうな顔で冷蔵庫に入っている缶ビールを取り出す。どうせ、酒を飲みながらダラダラとスマホを見て夜ふかしするんだろう。プシュッという音を聞きながら、ネイルが乾いたらさっさと寝ようと決めた。

 昨日とは打って変わって秋雨交じりの朝。子供二人を連れ、バスに揺られてスイミングスクールへと向かう。結衣も進次郎も保育園に通っているため、平日は習い事どころではない。せめて体力だけでもつけておこうということで、結衣は毎週日曜日の午前、近所のプールでレッスンを受けていた。
「きょうから、ひらおよぎのクラスなんだ!」
 プールバッグを斜めがけにして、嬉しそうな結衣。先週のレッスンで背泳ぎの合格を貰い、スイムキャップの色がこれまでの緑から青に変わった。今日からレッスンの開始時刻も一時間繰り下がる。始めるのが四歳からと周囲の子より遅かった割には、順調に級を駆け上がっている。日に日にできることが増えていくその若さが眩しく、いとおしい。進次郎も機嫌よく、「ぶーぶー」と言いながら車窓からの風景を楽しんでいた。
 午前九時三十分、スイミングスクール前のバス停に到着する。レッスンは十時からだが、十五分前に準備体操が始まるのであまり時間はない。歩くことを拒否する進次郎を抱っこし、受付で結衣を送り出す。本来ならば今頃家で一人、自由を満喫していたはずなのに。忘れていた総介への怒りがふつふつと湧いてくる。
 プールを見下ろす観覧席で一息つこうと、進次郎を地面に降ろして自販機に向かう。お茶にしようか、それともエネルギー補給で炭酸飲料にするか。
「あら、可愛かわいいわね〜。お散歩かな?」
 悩んでいると、女性の声が後方から聞こえる。足元にいたはずの進次郎は見知らぬ女性の所までトテトテと歩いていた。
「すみません、うちの子が……」
 恐縮しながら進次郎を抱きかかえようとすると、目の前の女性と目が合う。「いえいえ、お構いなく」と柔らかく微笑まれた。肩までかかるサラサラした黒髪と柔らかい雰囲気は、どこか見覚えがあるものだった。
「あれ、昨日、お教室でお会いしましたよね?」
 機先を制されて、はじめて気づく。昨日公園でスマホとにらめっこしていた、バレッタで髪をとめていた上品な母親だった。

「すごい印象に残ってたんですよ。お教室に入るには中途半端な時期だし、何より大道寺先生がみんなの前で褒めるなんて珍しくて。あの人、絶対にお世辞とか言わない人だし」
 まつしまれいと名乗るその女性は、なぜだか少し嬉しそうに、大道寺先生がどれだけすごい先生なのかを茜に教えてくれた。もともとは国立小学校の先生だったが出産を機に退職し、その後、幼児教室を開いて数十年。大道寺幼児教室は名門小学校に数多くの子供たちを送り込んだ実績を誇り、今では紹介がなければ入れない、界隈では知る人ぞ知る存在だという。なるほど、それでみんな気合の入った格好をしていたわけだ。
「遥ちゃんのお母さまとお友達だったんですね、すごい! あの人、桜葉出身だって噂で聞いたことあります」
 まるで重大ニュースを聞いたかのように、大げさに驚く麗佳。同年代だろうに、少女のようなリアクションだ。
「いや、紹介されたというだけで、私は桜葉出身でもない地方の公立高校卒です。何の準備もしないまま教室に突入しちゃって場違いじゃないかなって」
 必死で謙遜するが、麗佳には一切通じない。
「それならなおさらすごいじゃないですか! うちなんて、幼稚園受験の頃からお教室に通ってるのに、いっつも大道寺先生に叱られてばかりですよ」
 と返される。「幼稚園受験」や「お教室」という耳慣れぬ言葉が気になるが、その丁寧な言葉遣いも、慎みを感じさせる仕草も、いかにも良いところのお嬢さまがそのまま成長しましたという感じだ。このタイプの女性とは、これまでの人生であまり関わってこなかった。
 プールサイドでは子供たちがラジオ体操の音楽に合わせて可愛らしく体を動かしている。
「うちなんてプールも、ベイビースイミングの頃に始めたのに、まだ平泳ぎで止まっていて。え、娘さんは四歳から始めたのに、もう平泳ぎクラスなんですか? やっぱり優秀なんですね!」
 せんぼうまなしを向け、遠慮なく褒めてくる麗佳を前に、タジタジとなる。そのとき、後ろのほうで怒声が響いた。
「ほら、ルビー、ダイヤ、いつまでもけんしてないで、さっさと行ってきなさい! もう準備運動、始まっちゃってるじゃない!」
 あまりの剣幕に思わず後ろを振り向くと、昨日カイエンに乗っていた、若い茶髪のお母さんがいた。双子だろうか、背丈が同じ男児と女児をプールの受付へと追い立てていた。大道寺先生の教室にいた子供たちだ、見覚えがある。
「あ、ひろさんも来られたんですね!」
 と嬉しそうな麗佳。どうやら、顔なじみらしい。
「あーもう最悪。あいつら朝から喧嘩ばっかして、最悪っすよ」
 ため息とともに、ドスンと椅子に座る。昨日はエルメスのバーキンだったが、今日はルイ・ヴィトンのモノグラムが入ったバッグを持っている。確か、これも百万円を軽く超えるものだ。
「茜さん、せっかくだから紹介しますね。こちら、さわ寛子さん。瑠美偉ルビーちゃんも、大夜ダイヤくんも、大道寺先生のお教室に通ってるんですよ」
 郷に入れば郷に従えとやらで、麗佳の真似をしてにこやかに「よろしくおねがいします」と対応する。
「あ、昨日私服で来てた人か。Tシャツって、今思い出してもめっちゃウケる」
 と手を叩いて笑う寛子。まだ二十代後半だろうか、肌艶が違う。派手な茶髪といい、瑠美偉に大夜というネーミングセンスといい、「お教室」のお母さんたちの平均像とはかけ離れており、むしろ茜の出身地でもある群馬の匂いを感じる。
「寛子さんの旦那さんは凄いんですよ。カリスマ美容師で、今は美容院や飲食店のチェーン店を経営されてるんですよ!」
 麗佳が、これまた誇らしげに紹介する。その美容師の名前も、経営している美容院のことも、耳にしたことがある。男性ながら長く束ねた髪をポニーテールにまとめた風貌で、年商数十億円の破天荒カリスマ経営者としてテレビ番組に出ているのを見たことがある。なるほど、社長夫人か。それならカイエンもエルメスもヴィトンも納得だ。
「そんなこと言ったら麗佳さんのところは東大卒の弁護士先生で、超エリートじゃないすか」
 ほぼ初対面なのに、ここまであけすけに話すものなのだろうか。呆気にとられる。
 それにしても、さっきから夫の話ばかりだ。専業主婦の世界ではそれが当たり前なのかもしれないが、自分が夫の付属品扱いされているようであまり気分が良いものではない。
「で、茜さんでしたっけ、娘さんはどこの学校受けるんですか?」
 と寛子。あまりにも遠慮のない聞き方だが、表情から察するに、どうやら悪意はないらしい。
「まだ始めたばかりなので、学校までは全然追えてなくて。実は大道寺先生の教室も、子供の情操教育にいいって聞いて」
 あらかじめ用意してあった言葉を返す。本気で小学校受験に取り組むと宣言することに対して、未だに気恥ずかしさがある。
「そうなんすね、ウチなんて受験なかったらあんな大変なこと、絶対無理ですわ。昨日も大道寺先生に怒られたけど、言葉遣いとか、しつけとか、もう勘弁してよって感じで」
 寛子が足を組み替えながら気だるそうに話す。確かに、この口調と小学校受験はあまり相性が良くなさそうだ。
「でも瑠美偉ちゃんも大夜くんも、とっても活発でいい子じゃないですか。うちの穂乃果にもちょっと元気と積極性を分けてほしいくらい」
 おっとりした口調で麗佳がフォローする。物は言いようと言うが、この人は、誰にでもこうなんだろうか。お世辞ではなく心の底から褒めているというのが伝わってくる。目の前の寛子も、まんざらではなさそうだ。
 偶然とはいえ、小学校受験界の先輩から生の声を聞ける機会は大変助かる。調べ始めて知ったが、この業界はあまりにも情報が少なすぎる。偏差値のようなわかりやすい物差しがなく、本を読んでも人によって言うことがてんでばらばらなのだ。学校選びにしても、何から手をつければ良いのかわからない。どういう基準で選ぶものなのか、さり気なく聞いてみる。
「ウチは旦那が大学までエスカレーターの学校がいいって言ってるんすけど、ぶっちゃけよくわかんないんですよね。私も茨城出身だし、専門卒だし」
 あっけらかんと話す寛子。
「うちはお祖母ちゃまの代から学習院なんですよ。まだ決めてないんですけれど、やっぱり学習院がいいかなって」
 と麗佳。学習院といえば、皇族御用達の超名門校だ。「お祖母ちゃま」という言葉を実際に使っている人を生まれてはじめて見たが、高貴な血筋なのかもしれない。これまでの優雅な立ち振る舞いも納得がいった。
 一方、寛子のバックグラウンドも、想像通りだった。同じ北関東出身者として少し親近感が湧く。二人とも個性的ではあるものの、話してみると案外、とっつきやすい。
「てかせっかくだし、連絡先交換しておきましょうよ。大道寺先生、教室のまわりで母親同士でつるむなってうるさいから、みんな他人行儀でいつも気まずいんすよね」
 寛子のれ馴れしさも、こういう状況下ではありがたい。チャットアプリに三人のグループができた。結衣と進次郎が通う保育園では親同士の交流はないので、はじめてのママ友だ。
 気がついたら子供たちのレッスンは終わっていた。ほどなくして、髪の毛をらした結衣たちが観覧席に上がってくる。
「ねえねえママ、ほのかちゃんとルビーちゃんとダイヤくん、きのうもいっしょだったんだよ!」
 と息を弾ませる結衣。どうやら子供たちも打ち解けたようだ。
「みんなでおひるごはんたべたい! マックいこ!」
 素晴らしいアイデアを思いついたとばかりに、結衣が得意満面な表情で叫ぶ。新田家ではプールの後は外食となっており、最近はマクドナルドが定番だ。
 一方、他の子はみんな、キョトンとした表情だ。
「マック、しらないの? おいしいし、おもちゃもくれるんだよ!」
 結衣は胸を張るが、反応は芳しくない。
「茜さん、あのね、大道寺先生があまりファストフードはよくないって。ほら、食育とかあるし……」
 おずおずと麗佳が事情を説明する。なんだ、その謎のルールは。子供はみんなマックのハッピーセットを食べて育つものなんじゃないのか。寛子はツボにはまったのか、大爆笑していた。やっぱり、小学校受験界隈って、ちょっとどころじゃなく、かなり変だ。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



君の背中に見た夢は
著者 外山 薫
発売日:2024年01月30日

小学校受験で試されるのは子供ではありません。家族です。
「この子たちに選択肢を与えてあげられるのは世界で一人、私だけだ」 

大手化粧品メーカーで働く新田茜は、ある日従姉妹のさやかの影響で、中学受験回避のための小学校受験に興味を持つように。
テレビ局記者の夫を持ち、世間的にはパワーカップルと呼ばれる茜たちだが、お受験の世界はさらに上の富裕層との戦いだった。
仕事と家庭の両立、協力してくれない夫、かさんでいく教育費、思い通りにならない子供たち。
悩み葛藤しながらも、5歳の娘・結衣を名門小学校に合格させるため、茜はどんどん小学校受験にのめり込んでいく。
その先に見えるものとは――。

東京で過酷なお受験に翻弄される家族の物語!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322310000951/
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