浅倉秋成さんの最新作『家族解散まで千キロメートル』(略称:家族千キロ)が3/26に刊行されます。
『教室が、ひとりになるまで』では高校のクラスに隠された〈嘘〉を暴き、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動の〈嘘〉に切り込んだ浅倉さん。最新作は、「高校」「就活」に続く人生の転換期「家族」を題材とし、そこに埋め込まれた〈嘘〉の謎を解き明かします。
発売に先駆けて、衝撃の1行で終わる95ページまでを特別公開!
二度読み必至の仕掛けが潜む、驚愕と共感のどんでん返しミステリをお楽しみください。
浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』試し読み【5/6】
残り937キロメートル
くるま
「つまるところ、そのボールをフィールドの端にある籠に運べた数で勝敗が決まるんです」
広崎さんは心底納得したように相槌を打つと、ETCゲートを通過するためにぐっとブレーキを踏み込んだ。ゲートが開くと再加速。母、惣太郎、賢人さん、僕、そして広崎さん夫妻の計六人と、十和田白山神社のご神体を乗せたハイエースは、都留インターから中央自動車道へと進んでいく。
「そりゃあ、ずいぶんと大変そうじゃないですか」
「仰るとおりです」と賢人さんは頷いた。「大変に難度の高い競技と言えます」
ニューイヤーロボットコンテストという架空の大会をでっち上げたはいいが、その詳細を訊かれると僕は言葉に詰まった。ルールが少々複雑で。適当な言葉で間を繋ぎながら視線で家族に助けを求めると、賢人さんが笑顔で話を引き取ってくれた。
ニューイヤーロボットコンテスト(通称ニューイヤーロボコン)は、一般的な理系専攻の学生によるロボコンとは異なり、家族単位での出場が義務づけられている特殊な大会。それぞれの家族がレギュレーションの中で思い思いのロボットを作り上げ、全国優勝を目指して毎年火花を散らしている。基本的にはボールをフィールドにあるA地点から、B地点にいくつ運べたかを競うシンプルな競技なのだが、相手チームへの妨害行為も認められているため戦略が大変に重要になってくる。移動、攻撃、防御。すべてを一台のロボットでまかなわなくてはならず、なおかつ参加している家族のメンバー全員がコントローラーを握らなければいけないというのも今大会の特徴。腕を動かす係、足を動かす係、攻撃用のロケットを動かす係。全員の息が合わないと、勝利を掴むことはおろか、ただロボットを動かすことさえままならない。
僕は最初こそ賢人さんの如才ない即興劇に戦慄していたのだが、途中からなるほど、本当にこういう競技がどこかにあるのだろうと理解できた。あまりに説明が滑らかにすぎる。少なくともモチーフにした何かが存在しているのだ。
「義紀さんは、メンバーから外したんだ?」
「はい?」
「コンテストのメンバー」
広崎さんは振り返ると、こちらに向かって白い歯を見せた。
運転席には広崎さん、助手席にはマイカさん。二列目に僕と賢人さんが座り、三列目に母と惣太郎が座る配置になっている関係で、どうしたってこの質問には僕が答えなければならなかった。僕はルームミラー越しに苦笑いを見せつけ、そうしましたとだけ答えておく。
「まぁ、そうなるわね。義紀さんはほら、家族の和を乱す側の人だろうし」
そのとおりであったのだが、外部の人間から言われると居心地の悪い胸騒ぎが走った。羞恥心と痛みが胸にずしんとのしかかり、反論を試みたくなる疼きが刹那、胃袋の上辺りを駆け抜ける。しかし反論できる材料などまったくないものだから、曖昧な苦笑いに逃げることしかできない。そうして当たり障りのないリアクションをしている自分に気づいたとき、やっぱり僕は心の底から父のことが許せないのだなと再認識する。
本当に、恥ずかしい人だ、と。
悲しいことに父がかつて浮気をしてしまったことは、狭い町内では周知の事実となっている。噂はたった一人の力で広まるものではないが、拡散にあたって八面六臂の活躍を見せたのは他でもない広崎さんだ。なぁ、知ってるかい、義紀さんとショップ栗田の娘さんの話。もちろん僕らに彼を責める権利はない。ただ、広崎さんとの関わり方には細心の注意が必要であるということを、あの一件から大いに学んだ。
だから今回も、可能ならこの人の力は借りたくなかった。万が一にも積み荷が盗品であるとバレてしまった日には、お金を二兆円包もうが絶対に口を塞ぐことはできない。
「あの、あすなちゃんの旦那さんの……」
「賢人です」
「賢人さん。あなた色男だからモテそうだけど、男はやっぱりね、浮気は絶対にいけないよ」
僕は気まずさに顔を顰め、小さく後ろを振り返った。車内が広かったこと、そして高速道路を走行していたためロードノイズが大きかったことが奏功し、広崎さんの言葉は母の耳には届いていなかった。母は車が道路の継ぎ目で揺れる度に、不安げに木箱の様子を窺っている。
「浮気をしない、そんで、奥さんを抱き倒す。これに尽きるよ」
「情熱的ですね」
「そのとおり、すべてはパッションですよ。家庭円満はそこに集約される」
「勉強になります」
賢人さんが大人の対応で返すと、広崎さんは助手席に座るマイカさんの太ももをむにゅりと撫でた。マイカさんは表情を変化させることなくあっさり手を払いのけると、スマートフォンの画面を広崎さんに見せつける。おそらくはティファニーの商品紹介ページ。車に乗り込んだときから、彼女は銀座で買ってもらうべき商品の選定に忙しい。これという商品を見つけると広崎さんに見せつけ、広崎さんはちらりと脇見すると機械的にいいねぇと唸る。すでに三度ほど繰り返されていた光景だ。
「あれ、周くんも結婚だって話だよね」
「あ、そうなんですよ」
「情熱だよ情熱。まっすぐな情熱で抱き倒す」
「頑張らないとですね」
「違う違う、頑張るんじゃないよ。自ずとむくむくっと湧き上がってくるもんなんだよ。いい夫婦っていうのは、情熱がね」
「あはは」
「冗談言ってるんじゃないからね。夫婦ってのはそれで成り立つんだから」
いたく感心している表情だけを整え、確かにそうかもしれないですねと、僕は心にもない言葉を返した。
何とも単純で、この上なく下品な人だ。
僕は意識を窓の外へと向ける。帰省ラッシュとUターンラッシュの間に挟まれた一月一日の中央道は、想定していたよりずっと快調に走った。現在時刻は十三時十五分。藤野パーキングエリアまで残り三キロの看板を通過すると、車はまもなく神奈川県へと入る。
後席に座る惣太郎からLINEでメッセージが送られてきたのは、そこからさらに三十分ほどが経過した頃だった。車は順調に距離を稼ぎ、東京都は青梅市に到達。首都圏中央連絡自動車道に乗り換え、もうまもなくで埼玉県入間市というところまで来ている。
惣太郎が直接話しかけてこないことに意図を感じた僕は、一度運転席の広崎夫妻を覗き見た。こちらに注意を払っている様子はなかったが、念のためネットニュースでも見ているような何気なさを装い、メッセージに目を通す。
[珠利から来た写真を転送する。家の倉庫から出てきたらしい]
添付された画像をタップすると、一枚の紙切れが表示される。判読できるように拡大すると、僕は平静を装うのも忘れて画面に釘づけになる。
喜佐様
ひとまず五万円失礼いたします。残りの四十万円については、また後日、正式にご神体の引き渡しが済んだ際にお願いできればと思います。くれぐれも内密に、そして厳重に保管をお願いします。
このメモから正しい考察を積み上げていくためにはいくらかの時間と、何より事実だけを見極める冷静さが必要だった。僕は深い呼吸を続けながら、文章を三度ほど通読する。
ご神体という文言が明記されていることからして、この手紙があの木箱の中身について語っているのは間違いなさそうであった。今さらではあるが、やはりあれはれっきとした十和田白山神社のご神体なのだ。
[珠利とあすなは、窃盗団とのやりとりを疑ってる]
追加で送られてきた惣太郎からのメッセージにはいくらかの飛躍を感じたが、よく噛みしめてみれば存外的外れでもない推論かと思えてきた。木箱をただ持ち上げるだけでも大人三人の力が必要なのだ。神社からの盗難、山梨への輸送、自宅倉庫への収容。すべての作業を一人でやったと考えるのはあまりにも非現実的だ。父には協力者がいたと言われたほうが、むしろしっくりとくる。
窃盗団という響きはずいぶん安っぽかったが、考え得る限りもっともリアリティのある仮説であった。思い出したくもない悪夢だが、二十年前のマスコット窃盗事件。あのとき、父と「おもちゃん」との間には明確な関係性があった。しかし今回、父とあのご神体とを結びつけるものは何一つとして見つけられない。ご神体を欲したのは父ではなく外部の人間であり、父の目当てはあくまで金銭。妥当な推測だ。
父はいつものようにふらりと家を出ると、青森へと向かった。青森に行くことに特別な意味があったのかはわからないが、個人的には、何となくだろうと推測する。何においても強い願望や執着のない人間だ。流されてよい状況のときはどこまでも流される。選択肢を提示されたとしても自身が選ばなくてもよいのだと判断すればとことん何も選ばない。そんな父は旅先の青森で、ご神体の窃盗を企てている人物と出会ってしまう。
手付金五万円、成功報酬四十万円。
少なくない金額を提示され、父はご神体の窃盗に力を貸すことを決めた。喜佐家の倉庫を保管場所として提供し、犯人たちから謝礼金を受け取る。
所詮は現状見えている景色から組み上げた仮のストーリー。後になって事態を詳らかにしていけば、いくらかは父に対して同情できる背景が見えてくるのかもしれない。しかしそれでも、手元にある情報だけで、僕はすでに十分に失望することができていた。
後席の母を確認すると、涙を隠すように両手で顔を覆っていた。先のメモを確認したのだろう。少し取り乱しすぎていることを注意しようかとも思ったが、体を丸めていたのでルームミラーには映らない角度であった。広崎さんに異変を悟られることはあるまい。朝からあまりに多くのことが起こりすぎていた。母にも心を落ち着かせる時間が必要だった。
解体を目前にして、またも父の持ち込んだトラブルがこの家族を苦しめる。
僕はこれまでの人生でこういった局面に遭遇する度に、毎回判で押したように同じ思考に囚われた。まずは父を恨み、父を許してしまう母に呆れ、家族の問題に無関心である惣太郎とあすなに憤る。そして最後には、自分はこんな家族は築くまいという強い使命感に駆られる。
家族はこうあるべきではない。間違ってもこんな父親に、僕はなるまい、と。
「このまましばらく真っ直ぐで、オートバックスが見えたら右折で」
惣太郎が道案内を始めたということは、彼の家が近づいているということだった。緊張で時間感覚が乱されていたが、車に乗ってからもう間もなく二時間が経過しようとしている。
「大会、間に合いそうかい?」
振り返った広崎さんに対して誰よりも最初に返事をしたのは、意外にも母であった。
「本当にありがとうございます。広崎さんの分も頑張ります」
先ほどまで涙を流していた人間とは思えないほど、澄み切った瞳をしていた。焦りもあって表情に余裕はないが、声は一切掠れていない。一瞬にして何かを切り捨て、新たなものに希望を見出し、前を向く。逞しさと悲しみがちょうど同量ずつ含有されている、いつもの母の表情だ。
わずかでも時間を惜しみたかったが、惣太郎の家の前に車を横づけし、ここがニューイヤーロボコンの会場ですと嘯くわけにはいかなかった。一応のところロボコンの会場らしきところへ向かう必要がある。そこで広崎さんには、惣太郎の家から歩いて五分ほどの位置にある公民館を目指してもらっていた。
「え、ここ?」
ナビが到着を告げた瞬間、広崎さんは想像以上にこぢんまりとした公民館の外観に驚いた。実物の画像を確認していなかった僕らも驚いた。建物は小さな図書館くらいの大きさしかなく、全部で六台止められる駐車場は二台しか埋まっていない。しかしうだうだと言い訳を並べる時間も、もう少し大きな会場を指定しておけばよかったと後悔する時間もない。
「中は、意外に広いんです」僕が言い切ると、
「狭いフィールドの中をいかにスムーズに移動していくかというのも、この競技の醍醐味の一つなんで」と賢人さんも補足してくれる。
車を降りると、すぐさまリアゲートを開けてもらう。先に台車を地面に降ろし、続いて木箱に手を伸ばす。右サイドからは僕が、左サイドからは賢人さんが引っ張ろうとしたのだが、慌てていた僕らは呼吸を合わせることを忘れていた。
持ち上げる準備を整えるタイミングが、ほんのコンマ数秒、遅れた。
虚を突かれた僕はつるりとした表面に手を滑らせ、木箱を掴み損ねる。すっ、と、氷のような絶望感が体を走ると、容赦ない衝撃音が走る。木箱は台車を弾いて地面に落下。運悪く締め方の甘かった留め具も外れ、弾かれた蓋が開いてしまう。
日の光に照らされたご神体と目が合ったのは、ほんの一瞬。中身は見られていないだろうと信じてすぐさま留め具を嵌めたのだが、ぞっとするほど耳の近くで、
「今の何」
恐る恐る振り返れば、そこには広崎さんの疑いの眼差しがあった。
惣太郎も母も、そしておそらくはこの僕も、取り繕えないほどの動揺を顔一面に浮かべていた。運の悪いことに、見えてしまったのはご神体の上半身。誰がどう見ても、ロボットコンテスト用のロボットには見えない。
「逆に広崎さん─」賢人さんはすぐさま転がっていった台車をもとの位置へと戻しながら、「今見えたこの箱の中身、何だと思われましたか?」
「何か、仏像みたいなのが─」
「それです」賢人さんは言い切ると、人差し指を立てた。「どう見ても仏像にしか見えない。なのにどのチームよりも高性能なマシーン。相手を油断させるこのギャップこそが我々を勝利に導くんです。よく見てください、この箱だって見るからにロボットが入っているそれではない。すべての小さな配慮が勝利に繋がる我々の─」
「いやいや、さすがにこれは仏ぞ─」
「今はこうなんですって、広崎さん!」
力強く言い放ったのは母だった。
「時代が変わったの。固定観念に縛られちゃ駄目なんですって。このほうがずっと速いの」
なぜだか年長者に言われると説得力も増すようで、広崎さんは首を傾げながらも黙り込んだ。しかし組んでいた腕を解いて首筋を丁寧に揉みしだくと、やはりそんなはずがないと思い直したのか、徐々に懐疑の色を濃くしていく。バレてしまう。もはやここまでかといっそ死を覚悟した僕らを救った一声は、
「三十万!」
マイカさんは力強く叫ぶと、公民館の入口を指差した。
「三十万! 急いで!」
マイカさんの鬼気迫る一声に、広崎さんも山梨から一路埼玉県を目指した理由を思い出す。これではいけないと引き留めたことを詫び、三十万三十万と叫びながら握り拳で僕らを鼓舞してくれる。僕らもまた合い言葉のように三十万三十万と唱和し、木箱を載せた台車を押しながら公民館の入口へと走る。
言うまでもなく公民館に用事など何もない。そのまま一直線に裏口まで駆け抜け、惣太郎の家を目指して台車を押す。歩道の上を転がる車輪の音は相当に耳障りであったが、一月一日の住宅街は幸運なことに通行人も少なかった。誰に見咎められることもなく惣太郎の家に辿り着く。
3LDK、庭つきのマイホーム。二年ほど前に建てたという話は聞いていたが、母も僕も訪問するのは初めてであった。敷地面積は想定を下回っていたが、建物自体の造りは大変にモダンでいかにも惣太郎が好みそうな高級感を醸していた。しかし中に入って少しお茶をというわけにもいかず、僕らは駐車場に止まっている黒塗りの高級ミニバンに向かって一目散に走る。三列目のシートを側面に上げ、賢人さんと協力して木箱をラゲッジスペースに押し込む。
しかし、入りきらない。
押せども押せども、木箱の端がリアゲートより外側に飛び出してしまう。せっかくここまで来たのに、こんなオチはあんまりだ。絶望に天を仰ごうかと思ったとき、惣太郎が二列目の背部に工具箱が挟まっていたのを発見する。工具箱を横にずらしてやるとするり、木箱の全体がラゲッジスペースに収まった。僕らはその場に倒れ込みそうなほどに安堵したが、これを笑い話にできるかどうかはこれからの僕らに懸かっていた。
スライドドアを閉め終える前に、発進。
このまま十和田白山神社に向かいたいのが偽りのない本心ではあったが、さすがに不義理がすぎた。理由はどうあれ、広崎さんは貴重な元日に百キロもの距離を走破してくれたのだ。惣太郎が近くのコンビニに車を止めた意味を、この場にいる誰もが深く理解していた。
「言っとくけど、俺一人じゃ三十万なんて出せねぇからな」
惣太郎はシートベルトを外しながら言うと、まず金額を勝手に決定してしまった母を批難してから、
「周、半分出せ」
「は、半分?」僕は目が点になる。スポーツカーと高級ミニバンを乗り回す経営者相手に、公務員の僕が折半。「……出せるわけないだろ。こっちは結婚前だよ」
「だから、結婚式のために金貯めてんだろ」
「いや、それは、結婚式用に貯めてるんであって、優勝賞金のために貯めてたわけじゃ─」
「俺だってニューイヤーロボコンのために金貯めてねぇよ! どうせ結婚式はご祝儀で利益出るんだから、ここでケチるなよ!」
「利益なんて出ないよ!」
「出るよ!」
「出ないって!」
「俺は出したよ!」惣太郎は運転席横の小物入れを拳で叩きながら、「メシのランク下げて、引き出物ケチって、顔見知りレベルのヤツ全員呼べばどうとでもなるんだよ!」
こうなったときの惣太郎は絶対に引かない。僕は唖然としながらも、ひとまず車を降りてしまうことに決めた。母や賢人さんが気を遣い始める展開は避けたい。母はパート勤め。賢人さんの正確な収入はわからないが、同僚であるあすなの薄給具合は十二分に承知していた。あらゆる意味で気軽に頼っていい相手ではない。
コンビニATMへの道すがら激しい価格交渉を繰り広げ、どうにか僕の出資額は九万円ということで決着がつく。ATMから吐き出された九枚の万札を抱きしめながら、僕は心の中で婚約者に詫びた。
一方の惣太郎は、残念ながら準優勝だったので賞金は十万円だった、予想外の大敗を喫して賞金は出なかった等の言い訳を直前まで考えていたが、最後には文句を垂れながら二十一万円をATMからおろした。相手は広崎さんだ。何かしら味噌がついてしまえば、喜佐家にとって大きな厄災に繋がってしまうとも限らない。
「袋とかは、お前が買え」
捨て台詞のように言われたので熨斗袋と筆ペンを購入し、この中では最も字がうまい母に車内で一筆したためてもらう。祝優勝。ピン札は用意できなかったが、さすがにそれで勘ぐられるようなことはあるまい。三十万を包んだところで公民館の裏手に回り、今度は裏口から入って表に出る。
「やりましたぁ!」
何もめでたくないのに優勝したふりなどできるのだろうか。試合をしてきたと言い張るにはあまりにも戻ってくるのが早すぎるのではないか。駐車場脇のベンチに座る広崎さんの姿を見てもまだ心は固まりきっていなかったのだが、先頭に立った賢人さんのガッツポーズがすべての不安を吹き飛ばしてくれた。
力強く、爽やかで、それでいて確かな喜びが感じられる質量のある笑みと所作。あまりに自然に喜ぶので、不思議と賢人さんを祝いたい気持ちが僕らの頬にも笑みとなって浮かんでくる。熨斗袋を手渡す瞬間はあまりに意味のない出費に目頭が熱くなるも、それもいっそ歓喜の落涙といった雰囲気に映ったらしい。広崎夫妻は僕らを大いに讃え、埼玉まで行きたいと言われたときはどうしようかと思ったけど、やれやれ本当に優勝してくれるとは─というような思い出話を始めたので、僕らは慌ててその場を後にする。
「ありがとうございました!」
手を振って広崎さんに別れを告げ、路上に止めていた惣太郎のミニバンに飛び乗る。
乗り込んだ瞬間にナビを十和田白山神社に設定すると、到着予想は八時間三十分後と表示される。現在の時刻は午後三時二分なので到着予定は、
午後十一時三十二分。
間に合う。
惣太郎は必要以上に力強くアクセルを踏み込むと、ほとんど赤であった黄色信号を三つほどぶち抜いて国道463号を進み、ナビの指示に従って新見沼大橋有料道路へと入った。乱暴な運転のおかげで到着予定時刻が二分ほど早まったことを確認すると、惣太郎はようやく前のめり気味だった姿勢を正し、深呼吸をしながら背もたれに体を預けた。
もう広崎さんもマイカさんもいない。意味のわからない演技をする必要もなく、後はひたすら事故なく車を走らせるだけでいい。もちろん八時間以上のロングドライブの経験など誰にもない。今後もドライバーの交代や給油、渋滞回避など、いくつかの懸念事項は想定されたが、車内の空気は劇的なまでに弛緩した。
惣太郎は進行方向を見つめたまま今一度、優勝賞金を三十万円に設定した母に対して苦言を呈した。そしてそのままの流れで九万円しか拠出できなかった僕を責め、そもそも金で広崎さんを釣ろうとした賢人さんにも批難の矛を向け、しかし最終的には思い直したようにハンドルの縁を拳でひとつ叩いてから、
「ったく……全部あのバカ親父のせいだよ」
悲しいほどに、そのとおりであった。
まったく、何てことをしてくれたんだ。叫んで父を糾弾したい気持ちはあったが、荒れている惣太郎を見るといくらか怒りを吸い取られた。のたうち回っても状況は変わらないし、感情を剥き出しにしている人間はシンプルに見苦しい。
母が助手席を選んだので、僕と賢人さんが後席に並んでいた。ご神体盗難のニュースを見たときから一瞬たりとて心の休まる瞬間はなかったが、ここにきてようやく少しばかり落ち着ける状況になった。僕は深く息を吐くとここまでの一連の出来事を振り返り、
「賢人さん、すごいですね」
「何がですか?」
「いやなんか、広崎さんの説得から何からあまりに堂々としすぎてて」
「はは、ならよかったです。あれで結構緊張してたんですけどね。コートの内側は汗でびっしょりでした」賢人さんは笑いながら胸を叩くと、「意外に僕らの仕事って、イマジネーションと度胸が鍛えられるんです」
「そんなお仕事なんですか?」
「あすなさんから詳しくは聞いていませんか?」
「何となく美術系だとは」
「僕らの仕事は舞台美術。『大道具さん』などと呼ばれる領域の仕事になります」
あすなと賢人さんが勤める会社はイサイ美工という名の美術会社で、本社は山梨県甲府市にある。テレビ番組や、イベント、演劇などの舞台美術を手がけているそうだ。基本的に映画のスタジオやテレビ局にはお抱えの美術スタッフがいるのだが、イサイ美工は独立した法人だそうで、様々な仕事を多方面から請け負っている。
クライアントの要望に対してどのようなデザインがいいかを考える作業はまさしくイマジネーションを求められ、それでいて答えのない世界の中で生きていくには度胸も必要。思い切ってアイデアを捨ててしまおう、いや、やはりこれでいい、我々の案のほうが絶対にいいのでこちらでいかせてください。よもやこんな形で役に立つとは思わなかったと笑いながら、賢人さんは自身の仕事を説明してくれた。
「そんな職場で、あすなさんとも巡り会えました」
「姉、気難しくないですか?」
「神経質で個性的なのはこの業界、全員お互い様です。四日前まで熊本の現場に泊まり込みで三泊の出張をしてたんですけど、誰も彼もわがまま言いたい放題でしたよ。何だったら、我々はいくらか寛容な部類です」
「寛容ですか」と僕は笑ってしまう。
「まあ、あすなさんも、湯船のない部屋はNGだと少々ゴネてはいましたけど」
堪らず噴き出してしまうと、惣太郎が乱暴に車線変更をした影響で体がぐっと右に持って行かれる。車は東北道を仙台方面に向かって北上していた。
「姉が普通に結婚して家族を作るなんて、思いもしませんでした」
「普通に結婚して家族、ですか」
「まあ、何というか─」僕は少し言葉を選び直し、「だいぶ世間の感覚とはズレてる感じの人だったんで。前衛的というか、進歩的というか」
「結婚って何なんでしょうね」
僕に質問しているようにも聞こえたし、自身に問いかけているようにも聞こえた。思えば僕ら二人は、互いに結婚を間近に控えた男同士であった。結婚とは何なのだ。父に端を発するトラブルに巻き込まれている最中ということもあって、賢人さんの言葉は必要以上の意味を纏い、僕ら二人の間をもやもやと漂った。てっきりこの話題はこのまま抽象的な感慨とともに沈黙の中に溶けていくのだろうと思っていたのだが、賢人さんが続けた言葉は予想外にぐっと本質に踏み込み、
「最近の若者は、非婚化、晩婚化が進んでるなんて言うじゃないですか」
僕は声を上ずらせながら、はいと答える。
「でも実はね、概ね大体の人が結婚をする『皆婚社会』のほうが特殊なんです。歴史的に見ても一九五〇年代から七〇年代の間くらいしか達成されていません。そういう意味では、ですよ。普通に結婚するほうが実は変、と言えるかもしれない」
「……お詳しいんですね」
大学で文化人類学を齧っていたんですと語ると、車がまた急な車線変更に揺れる。賢人さんはドア上部についている持ち手を握り、
「男は外で仕事。女は家で家事。多くの人は古くさい家族像ですねと言うのでしょうけど、これも実は歴史的に見るとかなりモダンです。アメリカでは一九五〇年代くらいから始まり、日本ではもう少し遅れて一九七〇年代くらいにピークを迎える。それまで家族の形は実に様々な要因によって大いに揺さぶられ、めまぐるしく形を変化させてきました。歴史的に母子の関係は強固であることが多いですが、母が子供の父親が誰であるかに関心を持たない時代もありました。チンパンジーの群れなんかと同じで、共同体みんなで子供を育てるから、夫が誰であるのかはあまり重要ではないんです。大昔は夫が妻のもとへと通う妻問婚が採用されていた時期もあり、このとき夫婦は必ずしも一緒に住んでいません。僕らがごく自然にそこにあると信じている家や家族は、律令制度が始まった頃、政治的、経済的理由で作られた人工的な産物です。今はたぶん、昭和に固着した家族像の残り香の中で、新たな形を探している過渡期。果たしてそんな中、結婚という制度はどんな意味を持っているんでしょうね」
「男女が子供を儲けるために必要とされる行政的なシステムなんじゃないですか」
「お子さんのいないご夫婦も結婚はされますよ」
「それはそうか」
たった一手で論破された僕だったが、特にそれ以上言葉を重ねることはしなかった。正直、あまりこの手の話題には興味がない。深く追究していけば少しだけ賢くなった気になれるのかもしれないが、結局のところ賢くなった気分になるだけだ。市役所勤めの僕に言わせれば、結婚は戸籍を一緒にするための法的手続きでしかない。それ以上の意味は、結婚する各々が勝手に考えればいい。
歴史的に見ようが文化人類学的に見ようが、今の普通が僕らにとっての普通なのだ。普通を逸脱する人を責める気は毛頭ないが、普通のレールに無理なく乗れる人間は普通のまま過ごすのが一番いい。
僕は結婚する。父になれるかどうかはわからないが、将来的には子供ができたらいいなと思う。どんな旦那、どんな父でありたいかという理想はうまく持つことができていないが、反面教師だけは常に明確であった。
家族を蔑ろにして、こちらのことを見つめようともしない自身の父、喜佐義紀のようには、死んでもなりたくない。
「何か複雑な事情があったんでしょう」
気づくとラゲッジスペースの木箱を睨みつけていた僕に、賢人さんは優しく語りかける。
「家族だからこそ共有できるものがあるように、家族だからこそどうしても伝えづらいことがある。伝えるために信じられないほど遠回りなことをしてしまうこともある。きっと、何かしら思うところがあってこういうことになってしまったんです」
「同情できるような理由だといいんですけど」
「信じましょう。信じて、とにかく今日中に返すことだけを考えま─」
と言ったところで、これまでで一番大きく車が揺れる。またも強引な車線変更だ。賢人さんは小さく驚きながら、持ち手を強く握り直す。さすがに運転が荒すぎる。一分一秒でも早く着きたい気持ちはわかるが、派手な運転で警察に目をつけられればここまでの道のりが水泡に帰する。堪らずもう少し安全に運転しなさいと母が注意すると、
「違うんだよ」
惣太郎はサイドミラーを見つめながら舌打ちを放った。
「気のせいじゃねぇ……最悪だ」
「何、どうしたの」
「うしろ」
僕と賢人さんは即座に後ろを振り向く。しかし一メートルほどの高さがある木箱のせいで、後方の視界はほとんど遮られていた。よく見えない。何が起きているのだと尋ねると、惣太郎はサイドミラーを見つめ続けたまま、あぁ、と唸る。そして毟るよう乱暴に頭をくと、ひとしきり恨み言を並べてから、
「変な車に、ずっとつけられてる」
(つづく)
作品紹介
家族解散まで千キロメートル
著者 浅倉 秋成
発売日:2024年03月26日
〈家族の嘘〉が暴かれる時、本当の人生が始まる。どんでん返し家族ミステリ
実家に暮らす29歳の喜佐周(きさ・めぐる)。古びた実家を取り壊して、両親は住みやすいマンションへ転居、姉は結婚し、周は独立することに。引っ越し3日前、いつも通りいない父を除いた家族全員で片づけをしていたところ、不審な箱が見つかる。中にはニュースで流れた【青森の神社から盗まれたご神体】にそっくりのものが。「いっつも親父のせいでこういう馬鹿なことが起こるんだ!」理由は不明だが、父が神社から持ってきてしまったらしい。返却して許しを請うため、ご神体を車に乗せて青森へ出発する一同。しかし道中、周はいくつかの違和感に気づく。なぜ父はご神体など持ち帰ったのか。そもそも父は本当に犯人なのか――?
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322309001298/
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特設サイト:https://kadobun.jp/special/asakura-akinari/kazoku1000km/