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試し読み

第33回紫式部文学賞受賞記念! 「魔女の宅急便」の著者・角野栄子さんの自叙伝的物語『イコ トラベリング 1948-』試し読み#3 社会人のイコ

角野栄子さんの『イコ トラベリング 1948-』が第33回紫式部文学賞を受賞!
本書の受賞を記念して、作品の一部を試し読み公開します!

1948年、終戦後の日本。中学2年になったイコの周囲には、やけどを負った同級生や傷痍軍人の物乞いなど、今だ戦争の傷跡が多く残されていた。母を早くに亡くしいつも心のどこかに不安を抱えるイコだったが、英語の「現在進行形」と出合い、強く心を揺さぶられる。「現在進行形、いまを生きるということ!」そして大学を卒業したイコに、大きなチャンスが巡ってくる……! 人生を前向きに生きたいあなたに読んでほしい!
魔女の宅急便』の著者・世界的児童文学作家、角野栄子の『トンネルの森 1945』に続く自伝的物語。



角野栄子『イコ トラベリング 1948-』
試し読み#3 社会人のイコ

イコは紀伊國屋書店で働き出した。
 たった一人の新人だから、文字通り何でもやらなければならない。朝一番に机の上をぞうきんく事から始まって、えんぴつけずるのから、電話を受けるのから……エトセトラ、エトセトラ……じっくり座っているひまなんてない。いつも走って社屋の階段を上り下りしていた。
 パリたいざいの留学生から送られてくる、フランス文学のほんやくげん稿こうがあった。航空郵便代を節約して、ごまより小さな字で、ぎっしりと書かれているのを、原稿用紙に移しえるのは、意外と時間のかかる仕事だった。いずれは本に姿を変えるのだろうけど、今は読書とはほど遠い、文字を移し替えるだけ。
「雑用」という言葉が、身にしみる。本当に『雑の用』だ。
「雑にはいろいろまざってる」と、工房の沢田さんは言った。
「綺麗なとこから、綺麗なものは見つからない」と、山崎さんも言っていた。
 そう、初めから目が覚めるようなことが起きるはずがないわよね、とイコは自分に言い聞かせている。
 ところが、この大きな書店にはそれがときどき起きたりするのだった。
「編集長、いますか? 今、喫茶に、おかもとろう先生が見えてます。おしらせしておきます」
 電話のこうかんだいから、こんな言葉が飛び出してくる。それを聞くと、編集長のさんは、「オウ!」とかなんとか叫びながら、上着を着て、飛び出していく。
 紀伊國屋書店の前には小さな庭があって、そこに、紀伊國屋書店が経営しているしゃれた喫茶店がある。ときどき、有名な作家が本を買いに来て、そこで一休みすることがあった。するとそのニュースは直ちに、編集に伝えられる。編集長としたら、黙って見過ごすわけにはいかない。ご挨拶に出かけていく。ところがもう一人見過ごさない人がいた。それはイコ。
(岡本太郎! 岡本かの子の息子! パリから帰国したばかりの画家って、何処かで読んだ! まだ独身!)
 イコの頭の中に、びっくりマークの情報がめぐる。そして、編集長の後から、何食わぬ顔して喫茶に入っていく。もとより言葉をわすわけではない。誰かを探している振りをして、横目で岡本太郎先生をながめて、もどってくるだけなのだ。
(私って、ミーハー)イコは自分でも認めてる。
(でも、見ると、見ないのとは大違い)
 イコはそう思っている。見るって事は、読むって事と同じぐらい、イコには重要な事だった。形になって、一つの絵画のようにイコの中に残る。つかまえたって感じがするのだ。
 編集部に「黒の詩人」って、イコがひそかに呼んでいる人が、一ヶ月に二、三回、現れる。黒のソフトぼう、黒のとっくりのセーター、黒の上着、黒のコート、もちろんカバンも靴も黒、全く全身黒。せた身体は揺れるかげのように見えた。
「ほう、あなたが新人さんですか」
 初めて会った時、イコに言った。
「何をせんこうなさったのですか?」
 とってもていねいな言葉だった。
「は、はい。えいご……アメリカ……ぶんがく……」
 イコの声は、ぐっと小さくしどろもどろに。
「ほーそうですか。では、エミリー・ディキンソンはいかがですか?」
 分厚くふくらんだかわのカバンから、どさっと紙の束を取り出しながら言った。
 イコの身体は、ぎゅーっと縮まった。
「いえ……まだ……」
 ますます、声が小さくなる。
「いい詩ですよ」
 黒の詩人は顔を上げてイコを見た。彼の名前はきたそのかつ
 イコはその名前のひびきが気に入った。口にするたびに、一段階段を上がったような気分になる。
 イコはさつそく洋書売り場に行って、エミリー・ディキンソンの本を探した。目についたものを開いてみる。美しい言葉が並んでいる。しかも英語も案外、分かりやすそうだ。
 読んでみようか……でもイコは本を買うのをためらった。
(人にすすめられて、すぐ飛びつくなんて。頼り過ぎるんじゃない)
 いつも他人に扉を開けてもらうなんて……、どうして自分で開けて、満足を得ようとしないの。イコはそんな自分がつまらなく思えた。
 北園さんは、紀伊國屋で定期的に出している雑誌の編集を特別にらいされているようだった。表紙の絵、構成をふくめ、けいさいするのは彼が依頼した作家の作品。もちろん彼自身の作品も掲載される。
 イコは助手のような立場で、雑用を手伝っているうちに、だんだんと彼のすごさを感じていった。
 表紙の絵(それは大方ちゆうしようてきなものだったが)でも、彼の書く詩といつかんしたものがいつもそこにあった。姿勢が動かない。書くものはそのときどきで違っても、そのどことなくやわらかく、でもこうしつな感じは変わらなかった。
 どうしたらああいう人になれるのだろう。揺るぎなく自分を表現できる人に。
 戦争は無理矢理に同じ考えを持つ人を作っていった。ラジオから流れてくること、新聞に書かれていること、学校で教えられること、それらすべてが一つの目的を持った言葉だった。
「日本は勝つ」
 イコもこの簡単な言葉を元に作られた子どもだった。
 一人一人が納得して、一人一人が自分らしく自分を作り上げていく方が、時間が掛かるし難しいかもしれない。でも、そこには自分で運転できる自由があるはずだ。
 イコはまず、自由な人になることから始めなければならない。自分の中に自由を作っていかなければならないと思う。それはきっと貯金箱にぜにを入れるように、こつこつめていくようなことかもしれない。
 イコは、エミリー・ディキンソンを読み始めた。この詩人は一生、家からあまり外に出ることなく詩を書き続け、生前に発表されたのはごくわずかで、死後、ぼうだいな数の作品が残されていたという。
(すごい!)
(私とは人間の質が全く違う。内側にものすごく豊かなものを持っていた人に違いない。それに心の強い人だ。じゃなければ、世の中の人とも会わず、家にこもって一人っきりで、美しい詩を書き続けることなんかできない)
 イコは自分が情けなくなった。あまりにも、心がぐらぐらと弱い。持っているものがうすっぺらだ。
(でもよ、わたしは、彼女とは違う人なんだから……残念だけどもともとあんな力は持ってないんだもの……、私は外に出ていきたい人なのだ。もっといろいろなことを、自分の目で見てみたい人なのだ。じかに感じてみたいのだ。ミーハーだとしても)
(じゃ、どうするつもり?)
(動くのよ)
(おもしろがるのよ)
(その気持ちならあるわ。あきれるくらい、いっぱい)
(もうちょっと、たくさんおもしろがるのよ)
(なにを?)
(歩くのよ。進むのよ。出会うのよ。見るのよ。わくわくするのよ。十三歳の時、『現在進行形』そう決めたんでしょ)
(そろそろ自由に向かって、運転の速度を上げなきゃね)
 イコはかえし、自分とこんな会話を交わした。

(『イコ トラベリング 1948-』イコの他の時代は本書でお楽しみください)

作品紹介



イコ トラベリング 1948-
著者:角野 栄子 カバーイラスト制作:今日 マチ子
発売日:2022年09月28日

さっ、行こう、ひとりで。 そして、力いっぱい世界を抱きしめよう!
1948年、終戦後の日本。中学2年になったイコの周囲には、やけどを負った同級生や傷痍軍人の物乞いなど、今だ戦争の傷跡が多く残されていた。母を早くに亡くしいつも心のどこかに不安を抱えるイコだったが、英語の授業で習った【~ing=現在進行形】にがぜん夢中になる。「現在進行形、今を進むという事!」急展開で変わっていく価値観に戸惑いながら、イコは必死に時代をつかもうとする。そして「いつかどこかへ行きたい。私ひとりで」そう強く願うようになる。でもまだ、日本からの海外渡航が許されない時代。手段も理由も見つからないまま大学を卒業したイコに、ある日大きなチャンスが巡ってくる……。「魔女の宅急便」の著者・世界的児童文学作家、角野栄子の『トンネルの森 1945』に続く自伝的物語。戦後の日本を舞台に、懸命に自分の路を探す少女の成長をエスプリとユーモア溢れるタッチで描く著者の原点ともいうべき作品。87歳、角野栄子は今も現在進行形だ!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/321804000159/
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