角野栄子さんの『イコ トラベリング 1948-』が第33回紫式部文学賞を受賞!
本書の受賞を記念して、作品の一部を試し読み公開します!
1948年、終戦後の日本。中学2年になったイコの周囲には、やけどを負った同級生や傷痍軍人の物乞いなど、今だ戦争の傷跡が多く残されていた。母を早くに亡くしいつも心のどこかに不安を抱えるイコだったが、英語の「現在進行形」と出合い、強く心を揺さぶられる。「現在進行形、いまを生きるということ!」そして大学を卒業したイコに、大きなチャンスが巡ってくる……! 人生を前向きに生きたいあなたに読んでほしい!
『魔女の宅急便』の著者・世界的児童文学作家、角野栄子の『トンネルの森 1945』に続く自伝的物語。
角野栄子『イコ トラベリング 1948-』
試し読み#2 大学受験のイコ
大変なことになった。絶対、受からなければならない。イコに二度はないのだ。
手探りの勉強が始まった。叔父のコウゾウさんが言ってたことを思いだした。
「西田家はな、伝統的に
イコが誕生日を間違えて、『おめでとう』って言ったものだから、そう返事がきた。
また、「
イコにはコウゾウさんのこの言葉がとっても気になる。受験勉強には記憶力は一番大事だ。イコは声を出して読みながら、紙に書いて憶えるようにした。これは案外いい方法に思えた。英語と、国語と、歴史には。ところが、記憶力だけでは勝負できない科目がある。数学、物理!! 国立を目指すなら、この二科目は外せない。
でもこの二つをイコは煙みたいにつかめない。その煙さえ、どこにあるのかも分からないという、
思いあまって、またコウゾウさんに相談してみた。
「教えて、数学。コサインというの……ところで、三角関数ってなあに?」
「おい、おい、そこから始めなきゃならないのか! いったい学校で何してたんだ。あ~あ、西田家は伝統的に、思考力も弱いんだな」
イコのわからなさに、あきれてこう言った。
もうイコには時間がなかった。あと四ヶ月しかない。この二科目とは、さよならするしかない。イコはまたしても、出来ないことから逃げる方法を探し始めた。
私立の大学なら、三科目のところがある。英語と国語と歴史。イコは大学探しを始めた。まず女子大はやめよう。五年間も女学校だったから、今度は男女共学の
またしても叔父のコウゾウさんが言った。
「落ちるときは落ちる。絶対受かると思っていても、落ちることもある。目指すなら、受かりそうもないところがいい。受かったら
ずいぶんな言い方だった。
受かりそうもないとこ? みんな受かりそうもないよ。
「絶対に受かるんだね」と言ったセイゾウさんの言葉が、頭の上に重く載ってる。イコはその重たさを無視することにした。そうしないと、重さで身長が縮む。
受験料のこともあって、イコはいくつも大学は受けられない。どこか一つに
まず、受験科目に数学のないところを探す。いくら探しても二科目の学校はなかった。最低で三科目。国語、英語、歴史だ。今のところ、一番興味があるのは外国の文学。ちょっと前に読んだ、チャールズ・ディケンズの「二都物語」の面白さに引きずられていた。でも英語文学よりも、
イコは机に向かった。机での勉強はあまり好きではなかった。気持ちが
イコが選んだのは、
英語で点を取らないと、まず合格は望めない。英語一点集中でいこう。そこは迷わないようにしよう。遅まきながらイコは本格的に勉強を始めた。
入学試験が始まった。最初が、なんと英語。
配られた答案用紙を見て、知らない単語がないことにまずはほっとした。いつも持ち歩いている自家製の単語帳さまさま。誤りを正せというような文法の問題が続いて、その後は質問形式で、答えを書く問題だった。出来そうなものから手をつけていくこと。試験の前日コウゾウ叔父さんから、そう忠告されていた。
「シェイクスピアは何をしましたか?」
まず目に入ったのがこの質問だった。
イコはほっとした。これなら知ってる。いつか本で読んだことがある。
イコの答え。
「彼は、イギリスのストラトフォード・アポン・エイボンに生まれた。少年のころから、劇場の馬係の手伝いをしているうちに芝居に興味を持ち、やがて、芝居を書くようになる。代表作には、『ロミオとジュリエット』がある」
書く面積が小さく、全部読めるように書くのに苦労した。下手かもしれないけど、読んでかろうじて分かる英語が書けた、とイコはほっとした。
英語の試験が終わり、次の科目を待っていると、後ろから男の受験生の会話が聞こえてきた。
「おい、シェイクスピアの答えは、『彼は芝居を書きました』(He wrote plays)でいいんだよね」
「うん、ぼくも、同じに書いたよ」
がーん、イコのあたまが大岩にぶつかったように、鳴り響いた。
そんな簡単な答えでよかったの?
イコはどの質問も、知ってる限りの事を全部、答案用紙に
イコはもうだめだと思った。落ち込んだ。次の歴史の試験なんて、どんな問題が出たのか憶えてない。
イコの答えを読んだ試験官は、どう思うだろう。
(こんなばかな子は問題にならない。答えがしつっこ過ぎる。あたまの整理が出来てない)
こんな言葉を呟くに違いない。
帰りの電車の中で、イコはどん底の気持ちだった。
「どうだった? これだね」
セイゾウさんが合格を示すように、右手をさっと挙げた。イコは黙って首を横に振った。
ところが、イコは受かった。
(試し読み♯3へ)
作品紹介
イコ トラベリング 1948-
著者:角野 栄子 カバーイラスト制作:今日 マチ子
発売日:2022年09月28日
さっ、行こう、ひとりで。 そして、力いっぱい世界を抱きしめよう!
1948年、終戦後の日本。中学2年になったイコの周囲には、やけどを負った同級生や傷痍軍人の物乞いなど、今だ戦争の傷跡が多く残されていた。母を早くに亡くしいつも心のどこかに不安を抱えるイコだったが、英語の授業で習った【~ing=現在進行形】にがぜん夢中になる。「現在進行形、今を進むという事!」急展開で変わっていく価値観に戸惑いながら、イコは必死に時代をつかもうとする。そして「いつかどこかへ行きたい。私ひとりで」そう強く願うようになる。でもまだ、日本からの海外渡航が許されない時代。手段も理由も見つからないまま大学を卒業したイコに、ある日大きなチャンスが巡ってくる……。「魔女の宅急便」の著者・世界的児童文学作家、角野栄子の『トンネルの森 1945』に続く自伝的物語。戦後の日本を舞台に、懸命に自分の路を探す少女の成長をエスプリとユーモア溢れるタッチで描く著者の原点ともいうべき作品。87歳、角野栄子は今も現在進行形だ!
詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/321804000159/
amazonページはこちら