美桜は100万回生きている。さまざまな人生を繰り返し、今は日本の女子高生。終わらぬ命に心が枯れたとき、彼と出会った――。
七月隆文さんの書き下ろし最新作『100万回生きたきみ』は、Twitterで1200万PVを記録した創作漫画を自ら小説化した一途な恋の物語です。若者の瑞々しい恋愛を描きつつ、その背後には大きな謎が――七月さんの本領が発揮された本書。発売を記念してその冒頭部分を特別に公開いたします。
『100万回生きたきみ』特別試し読み #3
彼はたたんだハンカチをポケットに入れた。
「体育のサッカーも教室から見てた。すごい動きをして、それからたぶんわざとパスを外してごまかしてた」
「見てたんだ」
「うん」
彼はそっか、というふうに前を向いたまま。横顔にあせりや深刻さはなく、いつものように軽く口角を上げている。
「普通じゃないよね」
したたる水の音が沈黙を埋め続ける。風もないのにこもった匂いが揺らぐ。
「実はさ」
彼は変わらぬ口調で言う。
「俺、英雄なんだ」
えいゆう。ふいの言葉で、変換に数秒かかる。
「……英雄?」
「みんなには内緒な」
どう受け止めようか迷ったあと、きっとそうなんだ、とありのまま信じることにした。彼はそういうもので、こっそりと世界を守っている。なんだかそれは、彼にとても似合っていると感じたのだ。
「わかった」
誰もいない雨の放課後。二人の立つ狭い踊り場だけが特別な場所であるかのように浮かんでいる。
「私ね」
美桜は彼に言ってみようかという気になった。
「実は100万回生きてるの」
隣にある肩から驚きが伝わってくる。
「どういうこと?」
う、にアクセントを置いた軽い調子で聞いてきた。
「そのままの意味だよ。生まれて死ぬのを100万回繰り返してるの。いろんな時代の、いろんな国で」
彼はひと息分の呼吸を置いて、ちょっと顎を上に向ける。
「なるほど」
どういう意味だろう、と美桜は振り向く。
「いや、安土さんって変じゃん」
笑顔で直接的なことを言われ、さすがに少し面食らってしまう。
「俺は好きだけど、けっこう」
嫌みなくフォローしてくる。
美桜は濡れた前髪を指で直しつつ、こんなふうだから彼はモテるのだろうと理解した。
「100万回かあ」
三善くんがつぶやきながら扉にもたれかかる。
「信じるの?」
「俺が英雄だって信じてくれただろ?」
口笛のように言う。
「それってどんな感じ?」
「退屈」
「やっぱそうなるんだ」
「うん」
「いろんなことしたのかな」
「ほとんど覚えてないけど」
「100万回だから?」
「そう。だからもう、どうでもいいの」
「……そういうことかぁ」
彼の耳にかかった髪から雫がふくらみ落ちようとしている。美桜は自分のハンカチを差し出した方がいいのだろうかと迷った。けれど今日、何度か使ってしまっている。
「たしかにきついよな。だるくてもういいやって気分になるかも」
「そうなの。とても疲れていて何もしたくないってことだけは、はっきりわかる」
「でも俺は、安土さんに生きててほしいよ」
さりげないようなのに、誠実な響き。なんだろう。変わらない表情からほんの一瞬、彼の素顔が見えた気がした。うまくは言えないけれど、そういうものが。「死んだらまた、ぜんぜん違うところに生まれ変わるかもしれないんだろ」
「たぶん」
「ならもう会えないじゃん。俺と安土さんがこうしてるのはさ、100万回に一回の出会いなんだよ」
「…………」
たしかにそうかもしれない。
三善くんがこちらを向いて、穏やかに笑む。
「だから、もうちょっと生きててくれないか」
どうしてだろう。
どうして彼の声はこんなにもあたたかいのだろう。
自分の中に小さな石があって、その音の響きでぼぉっと
「……三善くんは、誰かを好きになったことはある?」
気がつくと、そんなことを口にしている。
なぜだろう。
なんとなく。
「あるよ」
彼はあっさりと答えた。
「どんな人?」
「明るくて」
ゆっくりと雨に向く。まなざしが思い出す距離になる。
「世界で一番頭がよくて、人がいるとずっとしゃべってて、歌うのが好きだった」
話す横顔をみつめていると、本当にその子のことが好きだったのだということが伝わってきた。
「私とぜんぜん違うね」
「そうかな」
どうしてか、胸がほんの少し窮屈だ。
「安土さん」
彼がスマホを差し出す。
「連絡先、交換しようぜ」
交換した。
「なんかあったらいつでも話して」
画面に表示された彼のIDは、なんだか特別なものがここに入ったと感じさせた。
「うん」
コンクリートの庇からは水が伝い続けている。
けれど、雨はほとんどやんでいた。
3
よろしく、と短い挨拶を交わしたトーク画面を美桜はみつめていた。
ベッドにうつ伏せになり、置いたスマホを。ライトが暗くなるたび指で押して。
特に何も考えずに見続けている。逆に言えば、何も考えずにいられるほど没頭していた。
100万回生きていることを打ち明けた。
彼が英雄なのだという秘密を知った。
それを交換したお互いのつながりが、不思議とあたたかみをもっている。
安土さんに生きててほしいよ。100万回に一回の出会いなんだよ。そう言われたときのことを思い返すと、またぼぅっと灯るものがある。彼の好きな人はどんな顔だろうと考える。なぜか夜の森の
ライトが暗くなっていないのに、美桜は指で彼のメッセージにふれようとする。
そのとき、画面が着信に切り替わった。
告白してきた男からだった。
チキンナゲットはどこで食べても同じ味がする。
カラオケルームの薄暗い照明、しけったにおい、液晶が流すアイドルのトーク。
美桜の隣で、男がランチのカルボナーラを食べていた。歯でぶちぶちと
すごく行きたいとかランチ付きのクーポンを持ってるとか彼がいろいろ言って、次の日の放課後、カラオケに来た。
あからさまだなと思った。
段階を踏まなくていいと判断されているのだろう。
美桜はメニューからナゲットを選んだ。それが一番口に入れやすそうだったからだ。
食べている間、会話は生まれない。もそもそと間延びした時間が過ぎる。
美桜の人生そのものだ。
ここへ来るまで、かすかに血に
けれどいざこの状況に置かれてみると、奇妙な落ち着きがにじんでくる。ずっと、どうでもいいと過ごしてきた。だからこれでいい。自分はこういうものなのだと。
「とりあえず歌う?」
「私は聞いてる」
「……そ。ほな、ワイが一番得意なやつー」
彼が入力機を操作する。アイドルを映していた液晶が本人映像のMVに切り替わり、イントロが始まる。歌いだすまでの微妙な間。
彼が慣れたふうに歌う。アーティストに寄せて声を作っていることがわかる。サビに聞き覚えがあった。わからないけど流行った曲なのだろう。
「美桜ちゃん、マジで歌わないの」
「歌えるものがないから」
「なんかあるっしょ」
入力機を押しつけてきた。
美桜は仕方なくタッチペンでつつき、探すそぶりをする。なんとなく開いたアニメのジャンルをスクロールさせながら、ふと……三善くんはどんな歌が好きなんだろうと思った。
ぎゅしゅ。
ソファの人工革が
彼があのときのように密着してきた。
そして、後頭部に手をあてがわれる。
…………。
鈍くにぶく―――腕の表面が寒くなった。
美桜は戸惑う。なんだろう、この感覚は。
後頭部の手に力が入り、頭が固定される。同時に彼が体ごと覆い
なんともなかった。
はずのその行為に、全身が
背筋と上腕がこわばり、足の親指が曲がる。
前のときも。
前の前のときも。
何も思わないし、感じなかったのに。
上唇を挟んでついばんでくる薄い皮膚の肉と濡れた粘膜の感触が、気持ち悪くてたまらない。鼻息がぶつかる。整髪料のきつい香り。
胸を
刹那――頭の中でばちりと光が
彼を突き飛ばす。
ふいをつかれ、あっさりとのけぞる。
美桜は立ち上がり、ドアに向かう。
「おい!!」
飛び出した。
階段を駆け下り、開きかけの自動ドアをくぐり抜け、店の外へ。
大通りの往来にぶつかりそうになる。
彼は追ってきていない。
けれどどうしてだろう。
美桜は走り続けた。
どうしようもない衝動があって、止まらない。
まるで今すぐ行きたい場所があるかのように。
腰でばたばたと跳ねるバッグからスマホを取り出す。
久しぶりの疾走に息を切らせながら画面を見て、指を滑らせる。
耳にあて、呼び出し音が途切れる瞬間を待つ。
そうしながら、美桜はようやくわかった。なぜ自分が走っているのか。
つながった。
「三善くんっ」
たまらず叫んでいた。
「三善くん、今どこっ?」
激しく行き来する空気に喉を痛めながら、心よりも速く。
『どうした? 何があった?』
彼の声が緊迫する。
「何もない、何もないよ、けどっ」
けど、向かっているのだ。
たどり着こうとしているのだ。
「どうしてかわからないけど、今すぐ三善くんに会いたいの!」
口にしたとたん、えもいえない
脇腹がきりきり痛む。脚が重くなって思うように上がらない。呼吸の音で頭の中がいっぱいになる。
美桜は笑っていた。
体を感じる。
こんなの、いつぶりだろう。
(つづく)
『100万回生きたきみ』著者 七月 隆文(角川文庫)
100万回生きたきみ
著者 七月 隆文
定価: 726円(本体660円+税)
「私、100万回生きてるの」読後にわかる“きみ”の意味に涙が止まらない
美桜は100万回生きている。さまざまな人生を繰り返し、今は日本の女子高生。終わらぬ命に心が枯れ、何もかもがどうでもよくなっていた。あの日、学校の屋上から身を投げ、同級生の光太に救われた瞬間までは。「きみに生きててほしいんだ」そう笑う光太に美桜はなぜか強烈に惹かれ、2人は恋人に。だがそれは偶然ではない。遙かな時を超え、再び出逢えた運命だった──。100万の命で貫いた一途な恋の物語。
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