出版社課長・秋吉の耳に届いた、上司の息子の突然の死の情報。
進行中の大きなプロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
現代社会の欺瞞を暴き希望のありかを探る、明日のサラリーマン・エンタメ!
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梶原局長の自宅は荻窪のマンションで、秋吉は何度も訪ねたことがあった。駅から徒歩十分。青梅街道からも環八通りからも離れているので、閑静な暮らしやすい立地と言えた。
だが目的地は局長のマンションではない。炎天下の住宅街を、秋吉は前島と並んで歩き回った。
「緒形さんの話からすると、現場はあそこみたいですね」
スマホで地図を見ながら前島が言う。彼女の指差した先には、ビルというより、団地のような建造物が聳えていた。外見は団地に似ていても、一棟だけであるから厳密には団地ではないと思われる。また遠目にも人が住んでいるようには見えなかった。
「とにかく行ってみよう」
その建造物を目指して進む。細い路地を抜けると、目の前に錆びついた鎖で厳重に施錠された鉄製の門が飛び込んできた。
五階建てで周囲は古いフェンスで囲まれており、褪色した「立入禁止」の看板が立て掛けられている。その横には、解体予定を記した工事確認表示板が掲げられていた。それによると、解体工事は来週から開始される予定になっている。建物の名称は『おぎくぼ昭和マンション』。おそらくは昭和の中期以降に建てられた民間の共同住宅だ。
当然ながら敷地内に入ることはできないが、フェンスの向こうはコンクリート敷きになっている。屋上から落ちたのならまず助からない。
「こんなものか」
秋吉は思ったままを口にした。
「何がです?」
「ここで人が死んだんだ。もっとこう、警察のブルーシートとか、黄色いテープとかが張り巡らされてるもんじゃないのか」
「幹夫君が発見されたのは二日も前なんですよ。もう撤去されたんじゃないですか」
「警察が調べてるって話だったじゃないか。これじゃ、通り一遍のことしかやってないように見える」
「通り一遍って、言い方は悪いですけど、やるだけのことはやったとも言えませんか。その上で事件性がなかったからこそ、警察は現場を保全する必要はないと判断した、とか」
前島の説の方が合理的であることは秋吉も認めざるを得なかった。
目の上に掌をかざして日光を遮りながら、廃墟を見上げる。やはり人の気配はない。
秋吉の子供時代、こういう団地タイプの物件はまだ各所に残っていた。最近では、バブルの時代に壊されず生き延びた団地をリフォームして暮らすスタイルが流行っていると聞いたことがある。しかしここはそんな対象にさえならなかったようだ。
「こちらからは見えませんが、ちょうどこの反対側が駐車場になっていて、幹夫君は屋上からそこへ転落したそうです」
見えなくて幸いだと思った。血痕が残っていたりしたらと想像すると、それだけでもう耐えられそうにない。
そんな秋吉の内心を見透かしたように、前島が皮肉めかして言う。
「現場検証に来たんじゃなかったんですか」
「俺は刑事じゃないぞ」
そう答えるのが精一杯だった。
ごまかすわけではなかったが、秋吉は目の前のフェンスを指でつつき、
「このフェンスを乗り越えて、幹夫君は中に入ったって言うんだな?」
「私に言われましても」
冷ややかに前島が応じる。当然の反応だ。
平静を保ちつつ次に屋上を指差して、
「そしてあそこから落ちた。鍵とかは掛かってなかったのか」
「掛かってたかもしれないし、掛かってなかったかもしれません。そもそも、敷地内には入れないようになってますから、どっちだってアリでしょう」
前島も頭上を見上げ、考え込むようにして答える。
「見ろ、屋上には転落防止の柵が巡らせてある。うっかり足を踏み外したなんてことはあり得ないぞ」
「それがそうでもないようなんです」
「どういうことだ」
「ちょっと回り込んでみましょう」
こちらの問いには答えず、前島はフェンスに沿って歩き出した。さすがに暑そうだが、すでに汗だくの秋吉ほどではない。こういうとき、若さとは実に得難いものであったのだと痛感する。四十前の秋吉も社の幹部の前ではまだまだ若手扱いされたりするが、娘の引きこもりの際に心身をすり減らしたせいだろうか、あれ以来体力の衰えを自覚することが多くなった。
半ばくらいまで雑草に覆われたフェンス沿いに歩いていると、間もなく反対側に出た。
「あっ、あれですよ、見て下さい」
前を歩いていた前島が足を止める。
生々しい血の痕、もしくは白いチョークの線で囲まれた人形が見えるかと想像し、秋吉は目を背けかけたが、幸か不幸か、敷地内の木立に隠されてそこまでは見通せなかった。
精神的な反動か、後ろを振り返ると、新しい低層マンションや民家が見えた。二階以上の部屋からは敷地内が丸見えのはずだ。現にマンションのベランダや民家の物干しには洗濯物が干されていた。ここ数日雨は降っていない。朝洗濯物を干そうとしたら、敷地内の墜死体に否応なく気づくだろう。
「どこ見てるんですか。そっちじゃありませんよ、あそこです」
前島が指差しているのは地上ではなく、屋上の方だった。
「ほら、あそこ、柵が一部途切れてるでしょう……あ、あっちもです、分かります?」
「ああ、見える」
彼女の指摘する通り、柵が途切れていたり、折れ曲がっていたりする箇所がいくつか見受けられる。
前島はスマホを向けて屋上部の写真を撮った。
「解体は何年も前から決まってたらしいんですが、相続のゴタゴタかなんかで、工事に取りかかれず長い間放置されていたんです。緒形さんの話では、勝手に入り込んだ高校生が柵を壊して警察に補導されたとか。なにしろ取り壊しが決まってる建物ですから、特に修理もされずそのままになっていたと」
「ちょっと待ってくれ」
前島の話を遮って、秋吉は背後のマンションの入口脇に設置されていた自販機に歩み寄り、ペットボトルの緑茶を二本買った。
言いたいことは何点かあったが、暑さのあまり舌が干涸らびたようになってうまく喋れそうにない。もしかしたら、舌の異変は単に暑さのせいだけではないのかもしれなかったが、あえて深く考えないように心掛けた。
一本を前島に渡してから、自分の分を開栓して三分の一ほど一気に飲む。ようやく舌に潤いが戻ってきた。頭の中で考えを整理しながら、さらに三分の一くらい飲む。
「仮に幹夫君がフェンスを乗り越え、無断で中に入ったとしよう。そして屋上まで上がった。落ちたのが夜だとしたら、足許は当然暗い。何かにつまずいて柵の切れ目から転落したって不思議じゃない。しかしだよ、なんのためにこんな所に入り込んだんだ。なんらかの目的がなきゃ、夜中にわざわざそんなことしたりするもんか」
ペットボトルを口から離した前島は、ゆっくりと蓋を閉めながら言った。
「なんらかの目的って、課長は一体なんだと思われますか」
「だから言ったろう、俺は刑事じゃないって」
「幹夫君のことをよく知っていた人として訊いてるんです」
前島の考えが読めてきた。秋吉は心の中で身構える。
「課長には申しわけないのですが、私には自殺くらいしか思いつかないんです、そんな理由なんて」
「確かにそれなら説明がつくかもしれない。だが俺にはどうしても……」
「分かってます。緒形さんに伺ったお話の核心もそこなんです」
飲みかけのペットボトルをバッグにしまい、前島は余裕に満ちた口調で続ける。
「このマンションには、以前幹夫君の幼馴染みの子供が住んでいたそうです」
「幼馴染み?」
「ええ、幼稚園からずっと一緒だった男の子で、幹夫君はよくこのマンションの屋上でその子と遊んでいたそうなんです。二人が小学校二年生のとき、ここの取り壊しが決まり、その子はどこかへ引っ越していきました。幹夫君はとても悲しんで、大声で泣いてたって、緒形さんの息子さんが」
「その息子さんも、二人と仲がよかったのか」
「いいえ、同学年というだけで、そこまで親しくはなかったそうです。幼稚園も違っていたということですし。ただ、二人がとても仲よしだったことだけは強く印象に残っていると」
「なんて名前?」
「緒形さんは実名は出されませんでした」
「その幼馴染みの子と幹夫君とはその後……」
「分かりません。緒形さんが息子さんに訊いてみたところ、少なくとも交流は途絶えているようだったということでした」
秋吉は黙って残りの茶を飲み干した。補給したばかりの水分が頭頂部からすぐに蒸発していくようで、どうにも考えがまとまらない。
「一旦引き上げよう。駅前のカフェにでも待避しないと、このまま焼け死んでしまいそうだ」
前島も素直に同意する。
「そうですね。事件の現場で長々立ち話してると、不審者と思われて通報されかねませんから」
「やめてくれ。そんなややこしい事態になったら目も当てられん」
現場はもう充分に見た。秋吉は自販機の横の回収箱にペットボトルを投げ入れ、もと来た道を引き返そうとして足を止める。
「どうかしたんですか」
「大事なことを忘れていた」
マンションに向かって両手を合わせ、瞑目する。
幹夫君――
最初に拝むつもりでいたのに、自分で思っている以上に動転しているようだ。フェンスの周囲を回ったとき、献花などが一つも目に入らなかったせいかもしれない。
すまない、幹夫君――どうか安らかに眠ってくれ――
目を開けると、隣で前島が同じように手を合わせていた。
秋吉は背後の自販機でオレンジジュースを買い、フェンスの側にそっと置いた。
「よし、行こうか」
前島を促して歩き出す。
荻窪駅前まで戻り、適当な店に入った。
メニューも見ずにアイスコーヒーを頼んでから、出された水を一気に呷る。それにしても暑い日だ。前島はアイスティーを注文していた。
ふう、と息をついてコップを置くと、前島はスマホで何やら検索しているようだった。自分に比べて涼しそうなその横顔が、なんとなく癪に障る。
「これ、杉並区のホームページなんですが、さっきのマンション、梶原局長のご自宅と同じ学区です」
差し出されたスマホの画面を一瞥して、
「それくらい、君なら昨夜のうちに調べたと思っていたけど」
「はい、調べました。でも直接ご確認したいだろうと思って」
「それはありがたいね」
言葉に自ずと皮肉が混じる。
ことあるごとに自分の有能さをアピールしたがるのが前島の特徴だが、少なくとも自分とは波長が合わないようになっているらしい。
それは前島の方でも察しているとは思う。しかし課長と課長補佐という関係上、お互い気づかぬふりをしている。それなのに、こんなときにまたしても表面化させてしまい、前島も間が悪そうだった。
言い過ぎたか――さすがに秋吉も後悔を覚える。何もかも暑さのせいだ。
「前島君、さっきの話だけどね」
ばつの悪さを強いて頭から払いのけ、おもむろに切り出す。
「論点を整理してみよう。要するに、昔仲のよかった幼馴染みを偲んで、幹夫君はあのマンションに行った可能性があるということだね」
「その通りです」
前島はこだわる素振りなど欠片も見せずに肯定した。それが演技なのかどうかまでは、冷ややかな――少なくとも自分にはそう見える――彼女の外見からは分からない。
「幹夫君は普段からあそこへよく行ってたのかな。例えば、何か嫌なことや、つらいこととかがあったりしたときに」
「そこまでは緒形さんも……だけど、あり得るとは思います。幼馴染みの子への思い入れがどの程度かにもよるでしょうけど」
そこへウエイトレスが注文したドリンクを運んできた。
秋吉はストローの包装紙を破きながら考える。
やはり、どう考えても――
(つづく)
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