出版社課長・秋吉の耳に届いた、上司の息子の突然の死の情報。
進行中の大きなプロジェクトは一時中止、噂が社内で広まり、会社上層部は隠蔽に動く。
信頼できない上司、暴走する部下、情報戦の様相を呈す社内派閥抗争……。もはや社内に信用できる者はいない――。
志を持って教育事業を推進してきた秋吉の運命は? 少年の死の真相とは?
現代社会の欺瞞を暴き希望のありかを探る、明日のサラリーマン・エンタメ!
第10回山田風太郎賞受賞作家の会心作! 11月10日の刊行を前に特別試し読みをスタート!
>>試し読み第5回へ
「幹夫君は責任感の強い少年だった。今どき珍しいくらいのな。仮に彼がなんらかの理由で自殺しようと考えたとき、家族や隣人に迷惑のかかる自宅マンションからの飛び降りは絶対に避けるだろう。他のマンションやビルも論外だ。では学校はどうだろうか。これもダメだ。級友達に与えるショックが大きすぎる」
ストローに口を付けようとしていた前島が顔を上げる。
「課長が幹夫君に感謝していたことは知っています。故人を貶めるつもりはありませんが、幹夫君のこと、過大に評価しすぎなんじゃないでしょうか。死を意識した人間、それもまだ中学生の子が、人の迷惑をそこまで考えたりするなんて、私にはとても……」
彼女の顔に、軽侮の色がわずかに覗いた。さすがにそれは当然だと自覚する。
「君がそう言うのももっともだ。だけどね、幹夫君は本当にそういう子だったんだ」
「じゃあ、幹夫君がいじめられていた可能性は? 当てつけとか、告発とかの意味で自殺するケースはよくあります」
秋吉はゆっくりと首を左右に振る。
「それも考えられない。幹夫君はクラスの学級委員でね、常に周囲を気遣っていた。いじめられているクラスメイトを助けることがあっても、彼がいじめられるなんて――」
「全部課長の思い込みじゃないですか」
前島が呆れたように声を上げた。
「まるで昔の少年漫画みたい。いえ、私が子供の頃だって、そんなパーフェクトな優等生が出てくる漫画なんてありませんでしたよ」
反論はない。自分でも話していて信じられないくらいだ。
しかし――実在したのだ、梶原幹夫は。
「何をおっしゃりたいんですか」
アイスコーヒーのグラスを見つめたまま黙っている秋吉に、前島が問う。
「いやね、辻褄が合うような気がしたんだ。幹夫君みたいな少年が自ら死のうと思ったとき、あそこなら誰にも迷惑をかけることはない。なにしろ取り壊しの決まっている廃墟だからね。小学校二年のときに別れた友達のことをどこまで想っていたかは知らないよ。だけど、死ぬのに最適な場所としてあそこを思いつくきっかけにはなったと思う」
「それって、幹夫君は自殺だと考えてるように聞こえるんですけど」
「だがあの子が自殺するとは思えないのも確かなんだ」
「一体どっちなんですか」
「それが分かれば苦労はしないよ」
「でも、引きこもっていたのは事実なんですよ」
「そうは言ってもたった一週間じゃないか。夏休みが始まって以降は家にこもっていたって不思議じゃない」
我ながら無責任でいいかげんな言い草だと思った。しかし、ほかに言いようはない。
結局は推論ばかりで、具体的な根拠は何一つない。現場周辺の様子は分かったが、それだけだ。
「自殺じゃないと言いながら、お話を聞いてるといよいよ自殺に思えてきます。課長だって、本当は自殺だと思ってるんじゃないですか」
そう指摘され、秋吉は言葉を失った。
違う、俺は――いや、もしかしたら俺は――
冷房の効いた店内で、前島は静かにアイスティーを飲んでいる。どこまでも冷静に。そしてこの上なく涼しげに。
だからこそ自分は彼女とは合わないのかもしれない。
秋吉は目の前のグラスをつかみ上げると、ストローは使わず、アイスコーヒーをブラックのまま二口で飲み干した。グラスを必要以上に満たした氷のため、量はごく少なかった。消費税が上がって以降、世間は世知辛くなる一方だ。
「社に戻ろう。午後に外せない用が入っている」
「私もです」
二人同時に立ち上がる。秋吉は伝票をつかんでレジに向かった。
千日出版の本社ビルに入った途端、秋吉のスマホが振動した。
「はい、秋吉です」
すぐに応答すると、小此木部長の声が飛び込んできた。
〈ああ、秋吉君、今どこにいるんだい〉
「申しわけありません、ちょうど帰ってきたところです。今、一階のエントランスに――」
質問しておきながらこちらの返答には興味がないと言わんばかりに、小此木は一方的に喋り出した。
〈さっき梶原さんから連絡があってね、警察から報告があったそうだよ〉
「それで、警察はなんと?」
目礼して先に行こうとしていた前島が、足を止めてこちらを見る。
〈それがねえ、どうにもはっきりしないそうだ〉
「はっきりしない、とは?」
〈現場に争った形跡はなかったから事件性はないみたい。そこに関しちゃウチとしてはホッとしたって言ったら言葉は悪いけど、まあそういうことだ。家庭にも学校にも問題なし、遺書とかそういうのもないし、自殺する理由はないっていうから事故なんだろうが、警察もはっきりとは言わないらしい〉
スマホを耳に当てたままエントランスホールの隅に移動する。前島も電話の内容が気になるようで一緒に寄ってきた。
「問題がなかったというのは本当ですか」
〈え、どこのこと?〉
「家庭にも学校にも、のところです」
〈ああ、そこは梶原さんも認めてるから本当だろう。幹夫君が自殺なんてするような子じゃないってことは、君もよく知ってる通りだよ〉
思いもかけず、さっき自ら前島に語ったばかりのことを言われた。
「ええ、それは……」
〈あ、それから、ご子息が亡くなったのはやっぱり夜中だったみたい。正確な時刻は聞いてないけど、幹夫君が家を抜け出したことはご家族の誰も気づかなかったって〉
「そうですか……」
〈ともかく、警察はもう少し調べてからまた連絡するって言ってるそうだから、我々としては、それを待つしかないんじゃないかなあ〉
心配そうに小此木は言っているが、何を心配しているのかは分からない。
〈秋吉君、君もいろいろ気になるだろうとは思うけど、もうちょっとだけ我慢してくれ。梶原さんも、警察から連絡があり次第連絡するって約束してくれてるんだ〉
分かりました、と答えて電話を切った。
「部長からですか」
早速訊いてきた前島に、その場で通話の内容を説明する。
「それって、なんだか変じゃないですか」
「君もそう思うかい」
「だって、なんのために夜中に抜け出してあんなとこへ行ったんです?」
「何か考え事がしたくて、思い出の場所へ行った……というのはどうかな」
「やっぱり変ですよ。昼間ならともかく、夜中になんて」
「そうだよなあ」
「それに、たとえ一週間とは言え、不登校の時期があるのに、父親である局長がそのことに触れないなんて」
前島の指摘する通りだと思った。
最寄り駅の九段下から歩いてくる間に噴き出した汗が、急速に引いていくのを感じる。
「警察はなんて言ってるんですか、その点について」
「部長は何も言ってなかった」
「自殺の理由がなかったって、警察はちゃんと調べてくれてるんでしょうか」
「夏休み中だからな。クラスメイト全員を個別に当たったとも思えない。旅行中の生徒だっているだろうし」
「課長……」
「分かってる。後で部長にもう一度確認してみるよ。とにかく戻ろう」
エレベーターホールに向かい、ドアが開いていた一台に乗り込んで六階へ上がる。
第一課のフロアに向かって歩いているとき、側面の通路から声をかけられた。
「おお、秋吉」
驚いて振り向いた。
管理統括本部人事課の飴屋三津稔課長であった。
(つづく)
▼月村了衛『白日』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322005000382/